「比企谷先輩に話があるんですが」
体育祭が終わり、通常の日常に戻った。
そんな通常の昼休み、俺は一人ベストプレイスで昼飯を食べていると、目の前に石上がやって来た。
「…お、おう。急にどうした」
「伊井野のことで少し。隣良いですか?」
「…おう」
石上が俺の隣に腰掛ける。
どうやら、石上は伊井野のことで話があるらしい。
確かこいつら、だいぶ仲悪かった筈なんだが。石上の性格上、伊井野と仲良くなりたいってことはないだろうし。
「比企谷先輩、伊井野と結構仲良いですよね。というより、伊井野が懐いてるって言うか」
「…まぁ付き合いの長さで言えば多分、白銀達より長いからな」
「実は僕、時々思ってたんです。伊井野がなんで比企谷先輩に懐いてるのかって」
何故懐いてるのか、と言われたら答えにくい。
というのも、懐いたきっかけが分からないからだ。交通事故の件で懐いたのか、ただ単純に時間を経て懐いたのか。
個人的に懐かれて嫌な気分はしないが、途中途中闇を出すところが少し怖いこともある。
とはいえ、石上同様、伊井野も後輩として放っておけない存在ではある。
「伊井野は正義を好んで悪を嫌う。伊井野の言う悪は、おそらく風紀やルール、校則を守らない存在のこと。比企谷先輩は校則を思いっきり破るタイプではないですけど、かと言って全部守るってタイプではないじゃないですか」
「…まぁ、確かにな」
「そんな人間に、伊井野が懐く部分があるわけない。にも関わらず、伊井野は比企谷先輩に懐いてる。それはおそらく、人間性なんだと思います」
「人間性、か」
「比企谷先輩、自分の周りを傷付ける存在に対しては敵意を向けるじゃないですか。僕の時も、伊井野の時も」
言われて確かに心当たりはある。
石上の件では、真実を知らない大友京子が石上を傷付けるのが許せなかった。伊井野の生徒会選挙の時は、伊井野が恥を晒した途端強気になって揶揄う連中が気に入らなかった。
「比企谷先輩のそういうところは嫌いじゃないです。むしろ好きです」
「え」
ちょっと待って石上まさかそっち系?まさかのホモぉなの?やだ何それ怖いんですけど。
「なんか思いっきり引いてますけど比企谷先輩が考えてるようなことはないですので安心してください」
それは良かった。石上にそっちの気があったんなら、俺は今後どう接すれば良いのか分からなくなるところだった。
「…でも伊井野は違う。あいつはそういう次元じゃない」
「?どういうことだよ」
「実はこの間、あいつとんでもないものを聴いてたんです」
「とんでもないもの…?」
石上のその言葉から、すぐさまフラッシュバックした。夏休みの時、サイゼで見せた伊井野の闇が。
『ンエエエヴアアアア!!ンンエエヴアアアァァアア!!』
『ああ……君は偉いよ。とても頑張ってる。そのままの君でいいんだ。君はいい子だ……。大丈夫……大丈夫だから……。辛いよね…?泣きたい時には泣いていいんだよ…。…大丈夫。僕は君の味方だよ』
「…お前も聴いたのか?あの狂気の作業音声を」
「はい。まさかあれで癒された顔するとは思いませんでした」
人の癒しはそれぞれとはいえ、ラクダや象の雄叫び、知らぬ男の愛が込められた声を癒しにするやつは早々いない。
「というか、伊井野がわざわざお前に聴かせたのか?」
嫌いな石上にあんな音声を聴かせるとは思えないが…。
「いえ。伊井野のやつ、イヤホンジャックがスマホに繋がっていないことに気づいてなかったんです」
つまり、スマホから直に音声が出てしまっていたと。
まぁ確かに、イヤホンを使うやつのありがちなミスではあるな。流れた音声がただの音楽とかなら良かったのに。
「ただ、とんでもないのはこれだけじゃないんです。あいつ、比企谷先輩の声を録音した音声まで聴いてたんです」
えっ何してんのあいつマジで何してんの?俺の声を録音したやつってあれだよね?半強制的に詩を作らされたやつだよね?
俺のあれを石上に聴かれたの?嘘でしょ?黒歴史とか言うレベルじゃないじゃん。これ完全に自殺案件だろこれ。
「しかも伊井野がそれを聴いた途端、その日一番癒された顔をしてたんです」
確かにあの時もちょっと悦に入ってたけど。せめて江○拓也のヒーリングボイスにしない?何も俺じゃなくて良くない?
「最初、声優の江○拓也のヒーリングボイスだと思ってたんです。けど、あの気怠げで低音で、何より毎日聞き覚えのある声色で僕は気付きました。えっこれ比企谷先輩じゃね?と」
気付かないで欲しかった。本当に。聴かないで欲しかった。
「なんであんな録音が…というのは今の比企谷先輩の反応でなんとなく察したので聞かないでおきます」
「ありがと」
石上優しい。けど心の中ではなんか蔑んでそう。藤原を馬鹿にするみたいに。
「それだけじゃないんです。この間…」
と、石上は過去を振り返りながらその場面を話し始めた。
『ねぇ、比企谷先輩どこにいるか知らない?』
『比企谷先輩?…あぁ、さっき金髪のサイドテールの人と一緒にいたぞ。名前知らないけど、多分比企谷先輩と同じクラスメイトなんじゃないか?』
『…やっぱり。やっぱりあの女は比企谷先輩に今以上に悪影響を与える。比企谷先輩の隣にあんな人はいらない』
『お、おい。伊井野?』
『というか比企谷先輩も比企谷先輩よ。突き放せば良いのに。優しくする必要なんてないのに』
一部始終を石上から聞かされたのだが。
えっ怖い。確かに伊井野ってメンヘラ気質なところはあったけど、これメンヘラってよりヤンデレじゃね?
「多分、伊井野は比企谷先輩に依存しています。僕が知ってる限りじゃ、伊井野は周りから疎まれていたんですよ。本当に伊井野のそばにいたのは大仏くらいで。ほとんどの人間は伊井野の存在を煙たがってた」
「…そうだな」
「だから、優しくされた人間には心を開くタイプなんでしょう。比企谷先輩は身内に優しいですし、伊井野が依存するのも分からなくはないです」
…確かに、最近の伊井野は様子が変ではあった。
毎日毎日夜に電話を掛けてくるし、少しラインを放置してたら相当な数の通知が送られて来ているし。
目を逸らしていた。そんなことはないんじゃないか。あり得ないんじゃないかって。でも、第三者に突き付けられたら否が応でも理解しなければならない。
伊井野は、俺に依存している。
「別に伊井野と仲良くなったり、恋人になったりすることをやめた方が良いとは言いません。ただ伊井野と向き合うなら、それ相応の覚悟がいると思います」
「覚悟、か…」
「伊井野のことです。付き合ったらとりあえずそれなりに自由がないと思ってください。あの手の女は相当束縛が激しいです。男友達と遊びに行こうにも、女の影が潜んでるんじゃないかって思って癇癪起こして止めると思います」
典型的なメンヘラじゃねぇか。
いやまぁ、俺もそんな人に誇れるような正常な精神をしてるわけじゃないけどさ。
「もし比企谷先輩がそんな伊井野に嫌気が差したのなら、僕は手を貸します。先輩には恩義がある。恩のある先輩には、僕は傷付いて欲しくない」
「お前ちょいちょいカッコいいよな。主人公かよ」
「ははは。僕が主人公になったらその作品は秒で駄作になりますよ。ヒロインに嫌われて仲間に嫌われて世界にまで嫌われる。そんな鬱になりそうな作品多分誰も見たがりませんよ」
あっ良かった。いつもの石上だったわ。
「…まぁ大丈夫だ。自分のことは自分でなんとかする」
「…だったら良いんですけど。それじゃ僕、そろそろ教室に戻りますんで」
「おう。また後でな」
石上は腰を上げて軽く頭を下げ、自分の教室へと戻って行く。
石上が去ってから、今までの伊井野の言動を思い返す。
『なんでいつもの場所にいなかったんですか!今日も昨日も一昨日も!』
『轢かれそうなところを助けてもらったり、私の悩みの相談にも乗ってくれたり……。ふふ……本当、どこかのロマンチックなドラマの出会いみたい』
『先輩のヒーリングボイスも欲しいな…』
『頑張ったら…ま、また撫でてくれるんですか…?』
伊井野が依存したのは、優しくし過ぎたのが原因なのか。
別に伊井野に厳しくする理由も必要もないしな。優しくしたって自覚はあったり無かったり五分五分なところがあるが。
とはいえ、伊井野は危なっかしい。だから手を貸してしまうのかも知れない。その結果、伊井野を依存させたわけなんだが。
仮に。仮にだ。伊井野を突き放すような言い方をしたら、あいつはどういう反応をするんだろうか。
『…比企谷先輩に嫌われた……嫌……嫌……嫌われたくない……比企谷先輩に嫌われたら私……どうしたら…』
うっわ容易に想像出来て怖いんだけど。
伊井野の中で、俺の存在が大き過ぎるのかも知れない。それはそれで、別に嫌なことじゃないのだが、限度ってものがある。
「あ、比企谷先輩!」
すると、伊井野本人が俺の目の前に現れた。隣には、久しく見る大仏も。
「またパンですか!?ちゃんと栄養を摂らないと!パンばっかりじゃ身体によくありません!」
普段の伊井野だ。風紀委員として、今日も平常運転を心掛けているようだ。今の伊井野に闇深いところは一切垣間見えない。
もし石上の言うことが正しければ、そのうち伊井野と本気で向き合わなければならない時が来るのかも知れない。
それが、比企谷八幡の責任だから。