「......朝か」
冷たい机の上で目を覚ましたことを自覚しながら、軽く毛伸びをする。ここ最近は忙しかったし、最近ろくすっぽベッドで寝られていない気がする。担当のレースがひと段落でもすれば温泉旅行にでも行ってリフレッシュでもできるんだけど、いつになることやら。
深呼吸をしようとした私はむせかえるような埃っぽい空気を吸い込んで思わず咳き込んだ。
「ゔえっほっ!? えっふ、うええ! 換気換気!」
チームルームのプレハブ小屋の空気を入れ替えようと窓枠に手を伸ばす。妙に錆びついてガタつく窓を開け切ってひとつ大きな息を吐いたところで、せっかくのおろしたての一張羅が埃まみれになってしまった事実に思わず悪態をつきたくなる。せっかくのスーツがクリーニングに出したばかりだというのにこれじゃあ台無しだ。
「昨日はそんなに空気悪くなかったはずなんだけどな。誰だ、ダートコースから帰ってくる前に砂を落とさなかったのは」
あたりを見渡しながらぼやきたくもなる。確か昨日の練習メニューは、と思い出そうとしたところで、何かチームルームの内装に違和感を感じた。
棚の上にあったはずのトロフィーがない。本やらグッズやら何やらで埋まっていた棚が空っぽ。机の上には埃がびっりしと積もっていて、ロッカーの名札が消えている。
まるで、何年もこの場所が使われていないような──
「なにかが、おかしい」
とりあえず外にでなければ、と私はこの場所から飛び出した。
そして知り合いを探してしばらく学園を走り回った結果、一つの結論に辿り着いた。
「......なにもおかしくないな」
学園内の風景は、至って私の知るものと変わりなかった。
友人と会話に花を咲かせる学生達や、何か問題を起こしたのかすごい速度で逃げていく生徒と、それを追いかける生徒会らしきウマ娘。時折変わり者が変なことをしていて、大半の生徒が青春を満喫し、練習に精を出すいつもの放課後の光景だった。知り合いに会うことができなかったのは残念だが、2000人もいる以上走り回って会えるはずもないことを今更ながらに思い出す始末だ。
少しばかり学生たちがこちらを見てなにやらヒソヒソと話していることは多いものの、埃まみれのスーツで出歩いていれば注目の一つや二つくらいは買うものだろう、と気にしなかった。
時間を確認しようと時計を見たところで、ふと首を傾げる。
「夜の2時? 妙だな」
デジタル時計がこうも狂うことがあるだろうか。しかもこれは耐水仕様の頑丈な時計で落としたりぶつけるだけじゃびくともしないようなものだ。
「じゃあ、ウマホは?」
こちらも取り出して電源をつけてみれば、時計は同じように2時を示している。どうにも壊れているわけではないらしい。
「どうしたことやら」
「見つけました、こっちです駿川さん!」
「あら、たづなさんじゃないですか、ご無沙汰です」
悩んでいると向こうから解決策が歩いてきた。何か私を指差す黒鹿毛の生徒に腕を引かれながらバタバタと駆け寄ってくる緑色の制服姿は、この学園の頼れる理事長秘書のたづなさんだ。チーム運営関連でも何かとお世話になっている。
「実は時計が壊れちゃいまして、何か電波障害でも起きてるんですか?」
「あなたですね! 不法侵入した不審ウマ娘というのは!」
「はい?」
「何度も生徒から報告が上がっています! 校内中をそんな格好で練り歩いて、見つからないとでも思ったんですか!」
「あの、たづなさん?」
まるで部外者と話しているような口ぶりに思わず聞き返す。
話がまるで噛み合わない。まるで私のことを知らない誰かだと思い込んでいるようだ。もしかしたら徹夜明けの酷い顔に汚れでもついていて人相がわからないのかもしれない。一回チームルームで寝てたら不審者と間違われたこともあるから、きっと今回もそうだろう。あの時の慌てふためく大騒動はとても大変だった。
私はいつも持ち歩く財布から、更新したばかりのトレーナーライセンスを取り出して見せる。
「あー、すみません。私鏑木、じゃなかった、カツラギエースなんですけど。酷い顔ですみませんね、徹夜明けでして」
「カツラギエース?」
「あー、鏑木の方がよかったですか? それだったらこっちに運転免許証が......」
「コイツ偽物だ!」
「おわっと、危ないでしょ、ふぅ」
生徒に払い除けられたライセンスカードをギリギリでキャッチして胸を撫で下ろす。これはないことには私は身分証明不可能な無職の不審者だ、無くしでもしたら一大事なんだぞ。
ライセンスをしっかりとしまってから、私とちょうど同じくらいのその身長のウマ娘を睨みつけた。
「ライセンスはトレーナーにとっちゃ命の次に大切なもんなの。だからもうちょっと大切に扱ってほしいね」
「ライセンスだか何だかを偽造するにしたって下手が過ぎるだろ、なんだカツラギエースって、ふざけたことしやがって」
「人の名前にケチつけないでよ」
「あたしの名前だよ!」
「なんだって?」
「だーかーらー! あたしが
睨み返す私と同じ名前を名乗るウマ娘。喧嘩腰の態度からしてまともな話し合いは望めそうにない。何より同じ名前のウマ娘がいるなんてわけのわからない感覚に頭がおかしくなりそうだ。
「とにかく、一緒に来てもらえますか」
「洗いざらいキリキリ吐いてもらうぜ」
そうでなくともこの状況は不味い。2人がジリジリと詰め寄る中、私は咄嗟に2人の後ろに生えている木の上を見上げて叫んだ。
「おいシービー! 木の上で昼寝すると落ちるぞ!」
「えっ」
「あのバカっ!」
「......まじか」
「ってああっ、待ちなさい!」
驚いた顔で振り向く2人、現役時代ちょくちょく使った手に綺麗に引っかかってくれるのかと驚きながら私はその隙をついてスタコラサッサと逃げ出した。
「おいシービー! どこで寝てんだ、起きろバカ!」
「アタシがどうかした?」
「......木の上で寝てたんじゃないのか?」
「さっきまで散歩してたけど」
「なななんなーっ! あのヤロー! 騙しやがったな! とっちめてやるからなぁ!」
「なんか面白そうだね、混ぜてよ」
「おういいぜ、さっきふとどきにもカツラギエースの名前を騙った不届なヤツがいてだな」
「どんな顔してたの?」
「黒鹿毛でスーツでやつれてて、あーっ、思い出すほどムカつく! しかもトレーナーなんて言ってたぜ!」
「なるほど、それで?」
「そんでなんかよぉって、シービーが化粧でもしてるなんて珍しいな。トレーナーとデートかよ?」
「大人になればわかるよ」
「あたし達は同い年だよ!」
「?」
◇◇◇
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』
「一体全体どーなってんだ」
携帯の電源を落としながら、私がガックリと肩を落とした。
たづなさんを首尾よく撒いて行き着いたのは校舎の屋上。だいたい空いているここは隠れ場所にはぴったりなのは昔から変わらない。給水塔の影ならなおいい。
ここでチームメイトや沖野トレーナーあたりにどうにか連絡を、と電話をかけているがどれもつながらない。しまいのはてには110番すら番号がないと突き返される始末で、本格的に私の頭がおかしくなった方を疑わざるを得ない。
「タイムスリップ? にしては110番は繋がらないのはおかしいだろ。というか知り合いを探すにしたってなぁ、あんなふうになったら洒落にもならん、どうしたらいいんだ」
普段の日常風景なのに感じる気味悪さは悪夢と同じだ。全く徹夜なんてするんじゃなかった。
「どうしたの?」
「ああシービーか、聞いてくれよ......お?」
「アタシがどうかした?」
後ろからかけられた親友の声に思わず振り向くと、そこにはミスターシービーがいた。
彼女はすこし垢抜けて、背がすこしだけ低くて、そして、トレセン学園の制服を着ていた。
つまるところ私の知るミスターシービーではない。
「アタシの知る限り、アタシにそう気軽に声をかけてくるトレーナーはいないんだけれど」
まずい。
「君は──」
まずいまずいまずいまずいまずい! このままだと非常にまずい!
「もしかして──」
何がまずいってミスターシービーなことだ。あの気分屋の欠点は何をしてくるかわからないところ。気まぐれかと思いきや急に素面に戻ることだってある、特に学生時代はネジの外れ方は尋常ではない、とにかくどうにか、どうにかしないと!
「私をスカウトにきたの?」
「金輪際チームになんか入れねえよ胃に穴が空いて死ぬんだよだいたい練習メニュー守らねえわ練習前に併走でヘロヘロになってるわ何も言わんで練習はふけるわいい年こいた大人が気が乗らないからで予定に穴を開けんじゃねーっ!」
中指を突き立てながら一通り捲し立ててしまったところで、正気に戻った。
日頃から積もるものはあったとはいえちょいと言い過ぎだ。
思わず帽子の鍔を下げて目を合わせないようにしようとして、指が空を切る。この格好にしてから帽子はかぶってないんだった。スーツに合うスポーツキャップやサンバイザーがどこを探しても見つからんのが悪いのだ。
シービーはぽかんとした表情をしばらくしていたと思えば、私のポカを見てゲラゲラと腹を抱えて笑い出した。
「あっははは! へんなの! 面白いね、というか、なんで私のこと知ってるの?」
「色々。ところで今西暦でいくつ?」
「ん? 20XX年だけど」
「マジかよ」
20XX年は今年なのは間違いないんだが、それが問題だ。
なんでもうすぐアラサーになろうとしてるはずなのに、シービーは学生をしてるのか。そして私と同じで顔が違うウマ娘が学生やってるのか。
なんとなく予想がついた。突拍子のないことだが、大体のことは納得がいく仮説がひとつだけある。
まさか、アニメやドラマみたいなことが自分の身に起きるとは思わなかった。
「あー、バカな話だと思うが聞いてくれ」
「聞くよ?」
「私の名前はカツラギエース。ミスターシービーとは同期のウマ娘で、親友で、多分ライバルだ。
......私は多分、別の世界からやってきたらしい」
「なにそれ詳しく!」
「あーうん。お前はそういう奴だった」