「作戦は頭にしっかり入ってるな」
「しっかりと。逃げて溜めて、差す」
作戦の最終確認を口頭で軽く済ませて、勝負服のシューズのつま先をしっかりと叩いて整え、ひとつふたつと深呼吸。
昨日は9時に寝た8時間しっかりと寝た。栄養補給も消化のいいうどんとバナナ、糖分もタンパク質もバッチリ、水分も申し分なし。
他人のデータを入れるなとは言われたけど、三ハロンのベストタイムは全員分頭に入れてきた。目指すべきタイムはこれと同じか少し下で構わないと考えると気が楽になるしね。あとは、あとは、あとはなんだ? 他にやるべきことは、やり残したことはないかと鏡の前でくるくると回る。靴紐は解けないほどしっかり結んだ。蹄鉄も5回走って靴に慣らしたし、打ち込みも100回走っても取れないくらいにはしっかりと打ち込んだ。勝負服もほつれも汚れもない。爪もしっかり手入れしたし、お肌もしっかりと保湿した。あとは、何かないだろうか。
ソワソワと控室を歩き回っていたらしく、進路を塞ぐように立っていたトレーナーにぶつかってやっと意識を取り戻した。またかよと言わんばかりの呆れ顔を隠さないまま、やれやれと肩をすくめるトレーナーが言う。
「相変わらず悪い癖だな。また考え事か?」
「不安で不安で仕方なくて。何か見落としがないかと思うとどうにも落ち着くなんてできませんよ」
「考えすぎだよ。っと、ひとつ忘れものがるにはあるな」
ほれ、とトレーナーちゃんから手渡されたのは真っ白な耳カバーと白地のサンバイザー。周りを気にしすぎるウマ娘がつけるような矯正用の衣装をなんで今?
「周りが見えるのはお前のいいところだが周りを気にしすぎて集中力が削がれちゃ本末転倒だ。今回は大逃げ、後ろを気にする必要はあんまりねえしな」
「そ、そうですかね?」
「一回つけてみろ、手伝ってやるから」
「トレーナーちゃんがいうならつけるけども」
厚地で音が届きにくくなる耳カバーに、視界を狭め周囲へ注意が散るのを防ぐサンバイザー。普段着けていないものをつけるとやはり違和感は否めない。耳も動かしにくいし、周りも少し見辛い。強いて言うなら前はしっかりと見えるが、大逃げでどれだけ効果があることやら。
「どうだ?」
「やっぱり、ちょっと違和感あります」
「......走れそうか? 気になるならとってもいいぞ」
「そこまでは」
「ならよし」
「だとしても色をせめて青一色とか黒とかピンクとか白以外になかったんです?」
「直前で用意したんだから文句言うな!」
◇◇◇
「よっ」
「よっ」
手を上げればあげ返して挨拶するツーカーの仲、それが私とシービーの関係性だ。特に今回はジャパンカップ、パドックでも外国語や通訳スタッフなどがいて普段よりも肩身が狭い。だから同じ日本語が通じるというだけでありがたいくらい。
「壮観かな壮観かな、楽しそうな人ばっかり」
「調子は?」
「正直あんまり。呼ばれなきゃ走るつもりもなかったしね」
「三冠バ様は大変だな。1番人気だし」
「好き勝手にやってるだけなんだけどへんに祭り上げられちゃって。騒がしいのも好きなんだけれどね」
「騒がれるだけ羨ましいってもんよ」
周りを見渡してもシービーシービーと、私には見向きもされてない。パドックに登場したところだって実況にはカバーもサンバイザーもノータッチだし、覚悟はしていたし経験もあるけど人気薄は辛いね。
「あれ、帽子。つけてなかったよね」
「サンバイザー。ついさっき1番のファンからもらった、的な?」
「1番のファン? フゥン? へーえ、ほーう」
「トレーナーだけど」
「全く色恋沙汰に関係なさそうでつまんないなと思っただけ」
「しょーじきウチのトレーナーちゃんはトレーナーとしては一生ついていきたいけど人としてはダメ一歩手前だから結婚は無理だね全くもって」
「あの人すぐ
「それなんだけど最近蹴っ飛ばされても復帰が早いから耐性ついてきたんだと思うよ。二重の意味で面の皮が厚くなってる」
「じゃあ今度蹴飛ばしにいくよ」
「やめてよ」
「冗談冗談」
本当に冗談で済むんだろうか。トレーナーちゃんの今後の冥福を先に祈っておこう。
「さて、本調子じゃないんだけど」
「あ、もう行くの?」
「静かな方が集中できるからね。今日は調子でないし念入りにやっとかないと」
瞑想めいた彼女独特のルーティーンだろう。聞けばイメージの中でレースを走っているようで、要はレースのシュミレーションをしているらしい。んー、と手を組んで身体を伸ばす様はいつも朝方に見るような光景だけど今この場じゃ意味合いは違う。これは彼女のスイッチ切り替えの合図だ。
ただの同級生から、競争相手へ。
愛すべき友人から、倒すべき敵へ。
「勝ちに行くから」
何気ない言葉にすら乗った怖気すら伴う威圧感。同じレースを走るたびに背中に感じて、追い抜かれてきた恐怖感そのものに彼女の存在が作り変わっていく。地面を抉り、弾むように走る力溢れる走法に私は何度屈してきたことだろう。いつもは震えて萎縮するばかりだったが、今日だけは一歩も引かず堂々と胸を張って見せて言い放った。
「私が勝つ。今日はとっておきのやつがあるんだ」
「ふふ、期待してる」
挨拶した時と同じように彼女は軽く手を振ってそれだけ。1人になる場所を探すようにそのままフラフラと行ってしまった。
あと顔見知りはもう1人いる。場慣れしてるだろうけどこの状況はほとんどアウェイなんだし声くらいはかけておくべきだろう。深い緑の軍服モチーフデザインの勝負服と3つの勲章のようなペンダント、その特徴的な勝負服はそういないからはすぐに見つかった。
「やっほルドルフ」
「君か」
「三冠達成おめっとさん。まさかあんなのが一つ下からも出てくるとは凄いばかりだ」
「努力と
ひとつ下であるにもかかわらず堂々とした佇まいは威厳を感じさせる。クラシック級は彼女と数合わせのもう1人だというのに他の出走ウマ娘にも体格も雰囲気も劣らない。
彼女は私に向き直ると、どういうわけか軽く頭を下げた。
「あの時、相談に乗ってくれてありがとうございました」
「後輩の相談に乗ってやるのは先輩の務めだからね」
「お陰で随分と気が楽になりました、ですが」
ふわりと冬の風が彼女の髪を靡かせる。静電気か、幻覚か、私はそこに稲妻が走るのを見た。
「ですが日本総大将として、無敗の三冠ウマ娘として、全て背負わせてもらいます」
「......修羅の道だね」
「私の夢のためには軽いものです」
「なるほど。初めて黒星を味わった感想は後で聞かせてもらうからね」
シービーと同じかそれ以上の迫力。彼女もまたきっと歴史に名を刻むことになる名バになるに違いない。誰にも屈せず、負けず、王としてターフに君臨することだろう。けど今だけ、まだクラシックで経験不足の今だけは出し抜ける。
私は黙って走るだけだ。
最初っから最後まで、先頭を駆け抜けてみせる。
好きなものを書き散らしてたら年を越してしまいました。
これからもどうぞよろしくお願いします