3月に入りめでたく私の卒業式の準備もつつがなく進みと、なればよかったのだが担任の先生から告げられた言葉は実に衝撃的な一言だった。
「単位足りないね」
「へあっ?!」
「補習頑張ろうか」
カツラギエース留年、とはならずとも優等生にはなれなかった。成績表を見るのが怖い。
「という事があってねグラスワンダーちゃーん、慰めておくれよう。せっかくの春シーズンなのに授業がたくさん!」
「自業自得では?」
「辛辣」
と軽口をかわしながらグラウンドで準備体操をして身体を暖めていく。週末に控える中山記念にて春レースが始動。そしてレースでは黄金世代の一角キングヘイローとの対決になる。実績のあるマイルで感覚を取り戻しつつ、宝塚に向け中距離専用に身体も心もチューンナップしていかなければ。
そんな決意を心の中で宣言しながらグラスワンダーのランニングを見ているところで少し気になるところを見つけた。少し右脚を庇うようなバランスの悪い走り方で、足が痛むのを気にするような仕草をしている。パッと見わからないほどだが、よく見れば身体の軸が若干おかしいんだ。
「どうしたの、足のどこか痛めた?」
「いえ、ただの筋肉痛だと思うんです。ですが2日前から治らなくて」
「ふむ、ちょっと見せてみなさいな」
彼女を斜面に座らせ気にしていた右脚を触ってみる。流石にズボンを脱がせて目視でとはこの場でやったらまずいので触診くらいしかできないが、やらないよりマシだ。
「痛いのはふくらはぎ、それとも関節、それとも太腿?」
「付け根あたり、太腿でしょうか」
「ふむふむ。痛いならちゃんと言ってね」
太ももに手を伸ばし、軽く押したり揉んだりしてみる。うーん、もちもちだが引き締まってるいい筋肉だなんて余計なことを考えつつ、マッサージも兼ねて揉みしだく。
「少し......痛いです......」
「太腿の裏......うーん?」
グラスワンダーが痛いと言った太腿の裏、そこの感触がいつもと少し違って硬いような気がする。自分の脚の同じ部位を揉みつつ比べてみると、ほんの些細な違いを感じるほどだが周りと比べて明らかに硬い部位がある。十中八九筋肉の炎症、軽度であれば筋肉痛と言われるモノだろう。別に日常生活に影響のある怪我でもないし、充分レースにもケガを押して出場できるくらいのものだ。
「よし、中山記念の出走はやめよう」
「えっ」
驚くグラスワンダーに諭すようにゆっくりと話すように心がけながら話す。
「気持ちはわかるが怪我なく宝塚記念に出場する事が今の目標だ。クラシックのステップレースでもなし、これに出られなかったといって宝塚記念出走ができなくなるわけじゃない。君には怪我歴もあるし、中山記念は見送ろうと思う」
「そ、う、ですか」
不満げであるが、一応納得してくれた......と言えるだろうが、私だったら納得はしない。グラスワンダーの経験不足は致命的な弱点でそれは私もグラスワンダーもよくわかっている。 人によっては勝てなくても構わないと怪我を押して強硬出走やむなしと判断するトレーナーもいるだろう。
「出場しても構わないと思ってる?」
「いえ、そんなことは」
「正直に」
「......軽度なものですし、出たいです」
「だよねえ。私だって出たいって言うさ」
他のライバルたちはもう動き出してるなら、自分も遅れをとるわけにはいかないと思うのは当然だ。スペシャルウィークは1月末の
「みんな成績残してるし焦る気持ちもよくわかる。だから頑張りすぎちゃうんじゃないかなって思っちゃうと、無理はさせられんのよ」
「......」
「決戦は宝塚記念、そこに向けてじっくり仕上げていけばいいさ。誰かと勝負したいなら、私と並走すればいい。いつでも付き合うよ」
「......はい」
「長く待つことの辛さはよくわかる。だが、堪えてくれ。
今日は着替えてミーティングだね。1週間は座学にしよう」
「わかりました」
立ち上がり更衣室に向かう、明らかに落ち込んでいるグラスワンダーの背中を見送った。今度は間違えない。フクキタルの二の舞に、彼女をさせてなるものか。
『1着はキングヘイロー! 三冠路線では惜しくも届かなかった1位をマイルで掴み取って見せました!』
『おーっほっほっほ! キングはどんな場所でも走れるんだから!』
「これはなかなか仕上げてきてるな。まさかキングにそっちの方の才能があったとは、シャカールの目は正しかったわけだ」
それから数日後の中山記念当日、テレビ越しに私たちは出走するはずだったレースを観戦していた。展開は逃げるサイレントハンターを前につけていたキングヘイローが捉えきって1着、坂をものともしないパワーとキレる末脚を見せつけ当然の結果だったと言えるだろう。
「このままマイル路線となれば安田記念はあたるかもな」
「そうですね。ですが彼女も宝塚記念を目指すと思います」
「ふぅん?」
「キングさんは、何よりG1が欲しいと言っていましたから」
「なるほど」
キングヘイローの対策案を作るタスクを頭に入れておく。例年であれば皐月は取れたであろう素質を持つキングヘイロー、こればかりは時代が悪かったと言い訳すればそれまでだ。しかし腐らず、距離変更にも柔軟に対応できる才能と根性には脱帽する。それを提案して対応する南坂先輩も大概だが、ついて来れる方も大概だ。
「......さて」
目標を書いた紙に一本線を引いて、中山記念を消す。
「次は4月4日大阪杯、G1だ。メンバーは誰かな、っと」
「トレーナーさん?」
まだ仮登録になっているメンバー表を見て思わず顔を顰める。それを不思議に思ったかグラスワンダーが覗き込んできてつぶやいた。
「何かあったんですか?」
「あんまり、見たくない名前がね」
いつかは向き合わなければならない問題、だけど心の準備が出来ているわけじゃない。
「サイレントハンター先輩に、マチカネフクキタル先輩? 10人いないのはG1にしては少ないですね」
「スペシャルウィーク、セイウンスカイは春天調整で阪神大賞典、日経賞に出てるから大阪杯には来ないだろう。キングヘイローはマイルレース1挟むかして安田記念に行くらしいしライバルは少ない。出走すれば多分勝つのはそこまで難しくはないはずなんだけど」
「だけど?」
「......フクキタルに顔を合わせたくなくてなぁ」
「それは自分の行いのせいでは」
「辛辣だねえ、前も言わなかった?」
「直さない方が悪いのではないでしょうか」
にっこりと目を細めて軽く笑うおとしやかな大和撫子。よく見れば目がうっすらと開いてるし、口角はほんのり上がっているが笑っているとは到底言えない雰囲気をしている。
もしまだ逃げ回るつもりなら、わかっていますよね? 彼女の背後に薙刀を振りかざす般若面の女武者を幻視した私にできることは首を縦に振ることだけだ。
「どっかで向き合わんといかんかぁ」
「ええ、そうするべきかと。スピカのトレーナーにはもう連絡しておいたので」
「......し、仕事が早いねぇ?」
「鉄は熱いうちに打て、ですよ」
逃げるなと言わんばかりの行動力の高さと迅速さはまさしく逃げを牽制するにはもってこいの性格、というより他人を思うように動かさせないことに長けているというべきか。この他ウマ娘との距離感覚と末脚、組み合わせればなるほど彼女にはアレが使えるかもしれないな。
「マーク戦法思いついてみたんだけど、次の大阪杯で試して」
「明日の18時、トレーニング予定時間で他の予定はありませんね?」
「......あ、はい」
にこやかな顔をしたまま、彼女はそう言った。
本当に君高等部の生徒かい? 20歳くらい年齢上積みして社会の荒波に揉まれて生きてましたって言われた方が納得できるくらいの立ち回りなんだけど。
「そんなことありませんよ。私はただ、目標達成のために行動しているだけですから」
「サラッと心読まないでもらえます?」
感想、高評価、よろしくお願いします。泣いて喜びますし鏑木さんの単位も出ます