誰もいなくなったと思ったところで私はやっと帽子のツバをあげることができた。ハンカチなんて持ち歩くほど気を遣ってるわけでもないからジャージの袖口で目を擦って頬をはたく。
気持ちを切り替えないといけない。私にはまだやるべきことがもう一つある。
トレーナー寮の入り口、壁に寄りかかって誰かを待っている制服姿の人物を認めたが私は声をかけなかった。そうでなくとも足音から私のことを察してくれているだろう。
「お待ちしていましたよ。トレーナーさん」
耳が2、3度動いたかと思うと今まで目を瞑り腕を組んで待っていた彼女が右目だけを開く。彼女の夕焼けに似た琥珀色の瞳の中にいつもの星型の虹彩はなく、あるのは渦を巻く何も映さぬ漆黒の目。
となればそこにいるのは彼女ではない。
彼女と会ったのはもう1年以上も前の話だがよく覚えている。
それだけ鮮烈に記憶に残る、オカルティックな出来事だった。
「お久しぶりですね、『シラオキ様』」
「ええ。あの時以来でしょうか」
彼女は未だ片目を閉じたままこちらを向くでもなく淡々と答えた。彼女は身を揺すって壁に預けていた身体を立たせると、私の方へと歩みよって、目の前で立ち止まる。
「弁明、釈明を聞く前に私からひとつ言いたいことがあるの」
「なんでしょう」
返事を言い切る間も無く視界が揺れ、遅れて走った頬の痛みを自覚してから一発頬を張られたらしいということを理解した。
「まずはこれだけ。あとの話は人に聞かれない場所にしましょうか」
彼女は振り向き、私を待つでもなく寮の方へと向かっていく。迷いのなさから私の部屋は知っているだろうが間違えてはことだ。痛む頬を少し気にしながら私は彼女の後を追った。
階段付近で案内のために前に出てからは無言が続く。お互いが互いの距離を測っているのだろう、初対面同士の他人がやるような空気感を感じる。私はそのまま彼女を部屋に案内し備え付けのテーブルの反対側に正座し彼女が反対側に座るのを待つ。彼女がゆっくりと背筋を伸ばして正座をして座ったところで、なにからどう話したものかと思案する暇もなく先手を切ったのは彼女だった。
「じゃああなたがなぜ中央を離れたのか、理由を聞かせてもらえるかしら」
「......そこから?」
「そこから、です」
「不祥事にスピカの面子を巻き込みたくなかったんだ。
あの秋天スズカの負傷だけならまだいいけどレース上不法侵入はこと、とりわけG1、さらには天皇賞ともなれば事態が重すぎる。そうなる前に自分から離れるべきだと思ったんだよ」
「随分と身勝手ですね」
「私はみんなのことを思いやって離れた。そこに後悔はもちろんあるけど、間違ったことはしていない」
「......思いやって、間違った事はしていない。
冗談を。間違っていますよ、あなたは」
彼女がテーブルをたたいて怒りを露わにするように語気を強めた。怒鳴ったり耳を絞って怒りを全面に見せる様子はないが、言葉の端々から怒りが伝わってくる。
「フクキタルのことを、見捨てるようなことをして間違っていないはずがないでしょう。あの子が、どれだけ、どれだけのことを思ったなどと想像もできないでしょうに」
「確かにフクキタルのそばから離れたのは事実。けど、私が居続けるわけにはいかなかった。槍玉に上がるとすれば私の他じゃフクキタルか沖野トレーナーだ。トレーナーは私の恩人、フクキタルも大切な担当。どっちにも迷惑はかけられない」
「そう言って逃げているだけではありませんか、臆病者」
彼女はそう言い切った。
片目を未だ閉じたまま、不気味な瞳が問いかける。
「責務から、他人から逃げ出しているだけではありませんか」
「逃げているつもりはない」
「サイレンススズカを正視できなかったからでしょう。悲しむスペシャルウィークにどのような言葉をかければいいのかわからなかったなのでしょう。わからないことから逃げないでください。人の心はわからずとも、理解する努力はできるはずです」
「私は問題解決のためのベストを取っただけ。一番傷つかないのは、あの方法だった」
「
怒りを露わにするようにまた耳を絞る。
彼女は私の胸元を掴み叫んだ。
「あなたが居なくなってから、フクキタルが心の底から笑顔になったことなどないというのに!」
「......」
「ずっと寂しがって、悲しんでいるんですよ、あの子は! 私にはわかる! アレからずっと作り笑顔で気を張って、空元気を見ていて痛々しいんですよ! それがあなたが望んだ結末ですか、トレーナー! あなたがのぞんだ一番傷つかない結果ですか! だとしたらあなたは最悪のトレーナーですよ!」
ギリギリと手に力を込め私を釣り上げると、壁に叩きつけるように私のことを突きとばした。肩で息をする彼女の表情をここからは窺い知る事は難しいがその怒りは当然のものだ。
「......ああ。最低だよ。私は最低のトレーナーだ。それは認めたことだ」
悪いけどもう私の中じゃ済んだ話、私は次に行くことを決めている。過去をウジウジ掘り返して気分を落とすのはもうやめだ。私は今自分にできることをし続ける。
「私と契約解除するかい?」
「また逃げるつもりですか!」
「最低なトレーナーと付き合う覚悟があるかと聞いているんだ、
「っ!」
「アンタの出る幕じゃない。私は担当ウマ娘とサシで話に来たんだ、帰ってくれ」
「......そうですか」
負け惜しみのように吐き捨てて目を閉じたフクキタル。そして再び彼女が目を開けると、十字星のハイライトが戻ってきていた。少し伸びをするように深呼吸したあと、彼女が口を開く。
「......あはは、心配かけましたね。お久しぶりです、トレーナーさん」
「うん、久しぶり」
恥ずかしそうに頬をかく様がなんだか昔に戻ったようで、こちらも思わず表情も綻んだ。
「有馬記念見てたよ。良い走りだった」
「なんとっ! いやあお恥ずかしい走りを見せてしまいました。ない頭を絞ってなんとか導いた作戦でしたが、内ラチが思ったより荒れていたもので」
「できるベストだったさ。3年間の集大成、しっかり見させて貰ったよ」
「あはは......」
そう、3年間。
一般的な競争ウマ娘がトゥインクルシリーズの所属する年数。 3年間の一区切りは、昨年の有マ記念で終わった筈だ。だがそれでも彼女はまだ走ることを辞めずに2月、3月と重賞レースを走り、大阪杯にも登録している。
つまるところまだ勝てると、勝ちたいと思っている。
私にはできなかったことを彼女はやっているんだ。
その理由がわからなかった。だから聞きたかった。
「......なんでまだ走るんだ?」
「それは、まだ私に出来ることがあるからですよ!」
「出来ること?」
「後輩たちへ夢を託すことです! 実はメイショウドトウさん、学園祭でお手伝いしてくれた子が今年の冬にメイクデビューしまして!」
「ほう?」
「けど彼女がとかく卑屈で健気で自分に自信がないのです。同期にテイエムオペラオーさんやアドマイヤベガさんなどがいるのが理由なのですが、私の目と占いによればオペラオーさんにも負けず劣らずの素質と才能がある! はずなのです。彼女のトレーナーさんに話をお伺いする機会があったのですが、なにぶんそのトレーナーさんも困っているようで。
『もっと自分に自信があれば』と言っていました」
確か猫背で前髪に流星があった子だな、と記憶を掘り返す。フクキタルの言う彼女、メイショウドトウの気持ちもよくわかる。同期に輝かしい才能と実績のある者がいればいやでも卑屈にもなるし、自分の実力を下に見てしまうものだ。
「私は彼女に自信を持って欲しいんですよ。なんたって可愛い後輩ですからね。学園祭の時だけでなく、最近私生活でもお世話になることもありました。仲が良ければ情も深まっていくものです」
「んで、結局何が言いたいのさ。前置きが長いよ」
「彼女には、私を超えて自信を持って欲しいのです。それまでは走り続けますよ」
「......越えるべき壁になりたい、と」
「最近とみに勝ちには見放されていますが、まだ私は勝ちを諦めるつもりはありませんよ。後輩に恥ずかしい姿を見せるわけにもいかないですし、例え負けても誰かに勇気を与える事は不可能ではないと信じていますから。
実際、勇気貰ったでしょう?」
「いや別に」
「なんとっ!?」
「冗談。いっぱい貰った。だからここに戻って来られた。あなたに大切なことを私は教えてもらった」
からかってアワアワしていたフクキタルの身体を私は無言で抱きしめた。
「トレーナーさん?」
「......また、一緒に走ってもいいかな」
「勿論。一度挫折したもの同士、もう一度はじめから」
「うん。けど、もう少しだけ待っててね。先約があるんだ」
「ええ、グラスワンダーさんでしょう?」
「知ってたか」
「当然。この間乗り込んで釘を刺しに来ましたからね。『私のトレーナーに何かしたら、無事では済ませませんから』と」
「おおこわ、通りで最近来ないわけだ」
「そういうことでした。スペシャルウィークさんに大切なことを教えるのでしょう?」
「ああ」
「そのあとで。チームスピカで、待っていますよ」
「ああ」
彼女がゆっくりと私の身体を押し退けて一歩後ろへ下がる。
「大阪杯グラスワンダーさんには負けませんからね!」
「グラスは強敵だぞ、勝てるかねぇ〜?」
「むむっ、言いましたね! その鼻明かして見せましょう!」
「出来るもんならやってみなさいな! はっはっは!」
「それでは! 次はレース場で!」
「大阪杯のパドックで」
「では!っと左右が逆でしたーっ!?」
宣戦布告を笑い飛ばして、お互い笑顔で手を振った。
部屋をドタバタといつもの調子で慌ただしくフクキタルが部屋を後にしたところで、やっと息をつくことができた。
......後輩のために、か。
「私も走り続けていれば、そんな道もあったのかもしれないね」
例えばルドルフやルドルフに挑んだ誰か、ルドルフの次の世代の誰かの目標になれたのかもしれないが、今考えてもどうにもならない話か。
道を示す、か。ルドルフがそんなようなことを言ってたっけか。彼女も後輩のためにまだ走り続けてるってことなのか、それとも......
「次はルドルフに会わないとな」
また会わなきゃいけないのができた。トレーナー業ってのは忙しいもんだけど、走れるようになるともっと大変だ。
「んじゃ早速電話すっか。もしもしルドルフ?」
『生徒会直通電話を私用に使うなたわけ! 会長は今不在だ!』
「......SDT終わったらでいっか」
シラオキ様「そうやって先延ばしにするところがダメなのでは?」