第79話 皇帝のはじまり
「やあ、待たせたかな」
「全然まってないよ。というか窓とか植木とかショートカットしてきたんじゃないだろうね?」
「君の真似をするのは楽しいね」
「したんだな?!」
数分後に走ってきて落ち葉を頭から払うルドルフを見て私は胃を痛めずにはいられなかった。息ひとつ切れてないながらもかなり乱れた着衣でローファーをボロボロにしているあたり何も隠せてはいないんだよ今更取り繕っても無理でしょうに。
それほどまでに、ルドルフは私と積もる話がしたいらしい。
「それで──あの、有馬の話だったかな?」
「ああ。グラスにあの時の話をしてほしい」
「後輩に道を示すのは先達の務めだ。それに、同じチームメンバーともなれば協力するのも当然のことだろう?」
「むしろ協力的すぎて気持ち悪いくらいなんだけど」
「そうですか。では、
言葉をスイッチに、彼女の気配が入れ替わる。
『トレセン学園生徒会長』として演じてきた『理想のウマ娘』の殻を捨て、当時の『シンボリルドルフ』という『等身大のウマ娘』、あの時みたいに重苦しい空気と他を圧倒する気配を隠さないまさに『皇帝』に相応しい雰囲気をところ構わず撒き散らす傍迷惑で暴力的なウマ娘に入れ替わる。
「っ......!?」
「おうおう、後輩をいじめてやるなよルドルフ」
「そう、でしたね。すまなかった、グラスワンダー」
グラスがいることをすっかり忘れていたらしい。一瞬でその威圧感をうちに押し込めたルドルフは、申し訳なかったと軽く頭を下げた。あまりの変わりように目を白黒させるグラスの肩を軽く叩いて正気に戻す。
「んじゃ、あの時のジャパンカップのあとから状況を振り返るところかな? 背景まで説明した方がわかりやすいでしょ。軽くことの顛末は知ってるだろうしね」
「はい、ジャパンカップではトレーナーが、有馬記念ではルドルフ会長がそれぞれ勝利したと」
「うん。その通り。んで、私のジャパンカップの後なんだけど当然、次の有馬はどうしようかなって話になるよね」
「その時に話したことは、今でも覚えています」
「あんまり覚えててほしくないんだけどなぁ......」
「それで、どんな話をしたんです?」
「いやまあ。普通の話でね」
あの時は本当にどうかしていた。初めてG1の大舞台でシービーを出し抜いてやった達成感で頭がおかしくなってたんだ。本当に正気を疑う話なんだけど、あの時は漠然とそう思っていたんだ。
「ジャパンカップで引退しようかなー、って話をしただけなのよ」
「......まあ」
「ええ。ジャパンカップを機に引退をしたい、と、私が会いに行った時に話されたんです」
「有馬に出るつもりはなかったんだよね最初は。レースのあとはハイになってたから有馬も勝つ! なんて言ってたけど、いざ時が経ってみると出なくていいかなぁって思ってたんだよね。適性外で特に熱意もなかったし」
私は2000前後しか走れないから2400以上走るレースは避けてきた。そして2500mの有馬記念は適性の外にあるレース、勝てる見込みはあまりないから、本当に最初は出るつもりなかった。
理由は他にもある。
「だって私の目標ってそこで達成されてたんだよね。
私の目標はG1に、シービーのいるG1レースに勝つこと。
散々苦渋を舐めさせられてきて、前哨戦では勝てるのに本番になるとずっと負け続けてきた相手に2年間使ってやっと1勝できた。私の目標で一方的にライバル視してきたのは良くも悪くもシービーだけだったんだ」
「良くも悪くも......?」
「お陰でいつのまにかライバル視される側になってるとは当時全く思わなかったんだ」
「ええ、本当に。私のことなど眼中になかったでしょう?」
「そうだね、その通りだ」
当時のことを思い出したのか瞳孔の開き始めたルドルフの圧が現役時代に戻りつつある。正直怖くてたまらないがちゃんと向き合いたいと決めたんだ。唾を飲み込み、少し心を落ち着かせる。大丈夫だ、自分の過去から逃げない。ちゃんと向き合う。あの当時の自分を思い出せ。
「......実は秋天の後、ルドルフの菊花賞の前に悩みを聞いてやったことがあったんだ。当時ルドルフも難しい立場に立たされて、具体的にいうと菊花のすぐ後にあるジャパンカップの出走要請が来てたんだよね」
「はい。無敗三冠を狙える私なら、海外勢にも勝つことができる、とURAから直々に」
「あの時はジャパンカップで日本勢も未だ勝利なし。去年だとシービーは体調不良で菊花賞からまるっと休養して出てないから当然として、もう1人くらいは勝てそうなウマ娘を招集したかったのだろうさ。んで、ルドルフに白羽の矢が立ったわけ」
「今では考えられないようなことですね」
「全くだよ。だが、それほどまでにジャパンカップの勝利を日本は望んでたってこともある。それをこのルドルフがなんでも背負い込もうとしていたんだからつい張り切っちゃって......本番はなんとか勝てたんだ。
問題はそこからだったわけ、でしょう?」
「はい」
私が語るべきことはここまでだ。これからはルドルフが思っていたこと、私に伝えたかったことを語る番。
彼女の思いを、受け止めなくてはならない。
「あれはジャパンカップも終わり、有馬記念の出走登録が始まった頃でした」
◇◇◇
「ルドルフ、有馬記念はどうするのかしら」
「もちろん出走します。身体のどこにも不調はありません。ジャパンカップのような遅れを取ることもないはずです」
「そう。なら、出走登録をしておくわ」
「ありがとうございます。もし他に現時点で出走しているウマ娘がわかっていれば聞きたいのですが」
「......残念だけど現状では何もいえないわね。それにしてもルドルフがそんなことを聞くなんて珍しいわね。負けてから何か色々変わったのかしら」
「ええ。思う所はいくつかあります。わかったら知らせてください。では」
リギルのトレーニングルームの扉を後ろ手で閉めながら、私は天井を見上げた。
はじめて、ゴール板を踏み越える前に誰かがいた。
はじめて、私の先に誰かがいた。
はじめて、わたしは敗北した。
私は生まれた感情を、まず困惑をもって受け入れた。
今までの経験の中で敗北がなかったわけではない。幼い頃は同級生や一つ上の先輩ウマ娘にレースで負けたことはいくつかある。その度に努力して雪辱を果たしてきたが......当時感じていた義務感はまるでなかった。
負けたから、次は勝たなければならない。
幼いながらにレースを学んできた私は、勝負とは勝者ではならなければならないと思ってきた。
私の夢を果たすためには発言力が必要だ。私は政治家の娘でもなければ、権力者、大金持ちの家に生まれたわけではない。『シンボリ家』という名門家に生まれたことを否定はしないが、あくまで名門ウマ娘を多く輩出する家系であるのみだ。ウマ娘の組織の中で発言力はあるかもしれないが、人間全体で見れば微々たるものに過ぎない。
多くの人に注目されるにはどうすれば良いのか、多くの人に自分を見てもらえるにはどうすれば良いのか。
その問いに私は『前人未到の記録を樹立する』ことで答えようとした。多くのウマ娘と人が挑み、倒れてきた不朽の記録......『無敗の三冠ウマ娘』。
これを獲得すれば、私の名は皆に届くようになる。信じて駆け抜けた栄光の先には名誉があった。
目標を達成し、私は次の目標を見失った。無敗であり続ける......その曖昧な目標を携えた不安定な足場のままで、私は舞台に上がりレースでの敗北というものを初めて知ることになったのだ。
「わからない」
胸に沸き立つこの感情をどう表現すればいいのか、適切な語彙を見出せなかった。また、私は道に迷ってしまったのか。
「......先輩に会いに行こう」
この気持ちを誰かに吐き出したくなった。自然、一度道を示してくれた相手にもう一度縋ろうとした。放課後の今ならまだ教室にいるかもしれない。
私は足早に廊下を駆けた。何度も角を曲がり、階段を登って、すぐに辿り着いた。扉越しの話し声の中に聞き慣れた声があるのはすぐにわかった。
先輩が居る。はやる気持ちに任せて私は扉に手をかけて──
「そういえばエース、次はどうするの?」
「んートレーナーさんとは相談してるけど、もう引退しようかなと思ってる」
彼女の一言に、凍りついた。
何故、どうして。
有馬記念は走らないのか。
あの舞台でもう一度私と勝負したいと思わないのか。質問の答えに同じように驚きをあらわにする誰かが、私の代わりに疑問を彼女にぶつけていた。
「えーもったいない! 有馬記念も走ればいいのに!」
「だってシービーに勝てただけでお腹いっぱいなんだもの。レースでのやりたいことは終わっちゃったんだ」
「ルドルフに慕われてるじゃん。目標になんなくていいの?」
「そこはシービーに任せるよ。同じ三冠でしょ」
「私とルドルフじゃあタイプが違うよ。キミの方がきっと波長が合う」
「そうかなぁ。私はあんな堅物じゃない。それに、あんなに何もかもに真剣にもなりきれないさ」
「それはどうだろうね」
他にも何か言っていたことは覚えているが内容までは思い出せない。返事を待つ前に、私はその場から走り去ったからだ。
無敗の三冠ですら、あの人には価値がない。
ウマ娘1人を振り向かせられない称号など不要だ。
必要なものは勝利。
私が勝てば、きっとあの人は私を見てくれる。
「そうか、この感情が──」
◇◇◇
「一瞥さえされなかった当時の経験がこの
キミの
領域とは、自身の心の奥底にある力を引き出すことだ。キッカケに必要なのは練習や偶然ではなくレースに対する強い感情だ。勝利への渇望、ライバルに対して抱く競争心......レースに対して向ける感情を強くかき立てることで、この力をものにすることができる」
「だが、同時に危険を伴うものでもある」
ルドルフの言葉に私はあえて横から口を挟んだ。領域とはそんな簡単に入れてノーリスクなゲームの強化アイテムみたいなものじゃあない。話を遮られたルドルフは少し口をつぐんで、悲しそうな目で私を見て呟いた。
「そうか、キミの教え子はそちら側だったな」
「グラスワンダーもこっち側だ。心より先に、身体の限界が来るだろう」
「身体の限界、ですか」
「領域は科学的に見れば脳のリミッターを意図的に外して、肉体パフォーマンスを上げる行為だ。当然普段の走りより身体にかかる負担は大きく、精神もまた同じ。
グラスの身体は決して頑丈とはいえない。領域を使い続けるなら、いつか間違いなく身体を壊す。いやたった一度使うだけでも怪我をするかもしれない」
領域とは諸刃の剣。極度の集中状態で身体操作の精度が高まっていたり、周囲に意識を割けるようになる人間のゾーンと同じようでまるで違う。身体と筋力がアンバランスなウマ娘にとってフルに力を発揮し続けることは身体を徐々に壊していると等しい行為だ。ウマ娘が一般にトゥインクルシリーズで走る期間の目安を3年間にするのは、ただ3年間走るだけで身体がボロボロになるからでもある。長く走るには領域など使えない方がいい。怪我なく、後悔なくレース生を終えるなら縁がない方がいい劇薬だ。
しかし彼女は、即答した。
「使います。使わなくてはスペちゃんには勝てません」
「......わかった。ルドルフ、頼めるかな」
「私もあまり助言を出来る方ではないよ。だが、君が思いを募らせるほど本番に領域に入れる確率は高まるとは言っておこう。自分の思いを曖昧模糊なものに留めるのではなく明文化することをすすめる。例えば紙に書いたり、口に出すだけでいい」
「わかりました」
「んじゃ、今日はここまで。勉強の方もちゃんとやってね」
「文武両道。走りも勉学も怠ることのないようにな」
「はい、それでは失礼します」
「気をつけてね」
すぐに助言を実行に移そうとしているのか、少し考え事をしながらその場を後にしたグラスワンダーを見えなくなるまで見送った。
本題を切り出すのは、彼女のいないところでないと。
「ところで助言って実際にやってたこと?」
「その通りだが」
「......引くわ」
「何故!?」