第91話 ドリームトロフィーへ向けて
「トレーナーさんって
「ん?」
合宿も終わり、全員がトレセンに戻ってしばらく。自分の部屋ではウオッカがうるさくて捗らないから、と夏休みの宿題をチームルームに持ってきて勉強していたスカーレットの質問に、思わず作業の手が止まる。首を傾げていると、スカーレットが続けた。
「選手に戻るのかトレーナーを続けるのかって話よ。ルドルフ会長やブライアン先輩、エアグルーヴ先輩みたいにドリームトロフィー選手になりたいのかって聞いてるの」
「なんだ、私にトレーナーやめて欲しいのかスカーレット」
「そんなわけないじゃない。けど、トレーナーがそう言うなら止めはしないわよ。引き止めたら申し訳ないじゃない」
「スカーレットは真面目だなぁ」
「なによ」
自分のことより他人の心配が先に立つ、なんだかんだ気配りができるいい子だ。その気配りの1割でもウオッカに向けてやればああも時々険悪な仲になったりすることもないんだけどライバル視してる以上無理な話か。
「して、選手に戻りたいか、か」
質問を改めて口に出してみるが、
「ないない。レースが終わったらトレーナーに戻るよ」
思ったよりあっさりと否定の言葉が口をついた。
「ターフに未練はないわけ?」
「ないわけないさ。今からでもすぐに走ってみたいくらいにはやる気だってある」
「じゃあなんで?」
「これでいいのさ。未練があるくらいでちょうどいい」
「意味わかんない」
「きっとスカーレットには一生かかってもわからんさ」
「バカにしてるようでムカつくんですけど」
不満そうに頬を膨らませるスカーレットを見て私は思わず笑っていた。負けず嫌いを凝縮したようなスカーレットのことだから最後の最後自分が納得できるまで走り続けるんだろう。だが私は納得しない方がいい。未練と諦めを残しておいたほうが多分トレーナーとして長続きできる気がするんだ。私の原点は現役最後の敗北にこそ詰まっている、だからあそこの結果は変えない。リターンマッチは1度きりで十分だ。
「それにこんくらいの覚悟がなきゃルドルフの足元にも齧り付けない。わざと自分を追い込んでるんだよ。これでやっと勝負の土俵に上がれる」
「勝てるの?」
「勝ちたいが、勝てるかどうかはわからない」
「そうなの?」
「現役時代よりは周りも衰えてるけどそれ以上に私が弱すぎるんだ。2日前には2000m計ったら現役時代から3秒くらいタイム落ちてる」
「3秒って......大差以上じゃない」
「そうなんだよ。本調子じゃなかったとはいえ酷すぎる。しかもレース時のベストと比較してなんだからこれが本番になったら目も当てられないよ」
勝つ負けるの話でもなく、私の衰えが酷すぎて最初から最後までしんがりを走って終わるような事態になりかねないのだ。夏合宿の時にスペとスズカをこき下ろしておいて自分の走りも人のことは言えないくらいにお粗末極まりない。
「でも私ってのは本番に強いタイプだし、やるだけ策を練るしかないね」
「楽観的すぎない? もっと深刻そうに悩みなさいよ」
「たまには私だって楽観的にはなりたいのさ。悲観的すぎても勝てないからね」
距離はギリギリ適性の2500m、そして前有利になりやすい中山開催。距離は向かい風だが場所はこちらに風が吹いている。
「一度走っているコースで、タイムの刻みも理想的なものは身体でわかってる。あとは他人がどう出るかに重点を置けばなんとかいける、ハズ」
シービーは現役終盤には先行策を何度か試しているけど、本来は追い込み、なら追い込みだろう。ルドルフは逃げたり差したり自在だが、基本的にはおハナさんが好む好位抜け出しをとることが多いし得意だ。前有利な中山なら、先行集団につけるってのはわかってる。現に2回出ている有馬記念をはじめとして日経賞を除けば中山開催レースは先行策。抜け出す位置はバラバラだが、4コーナーが多く、展開的に強い。
「お得意のデータ分析でどうにかならないの? いつも熱心にやってるじゃない」
「今回ばかりはデータも分析時間もないんだ。できないよ」
「大逃げは?」
「ルドルフに潰されるのがオチ」
「先行策」
「ルドルフの方がうまいし強い」
「普通に逃げれば?」
「シービーがカッ飛んできて終わる気がする」
スカーレットの提案ををひとつひとつ潰していく。というか前門のルドルフ、後門のシービーって感じで何してもあの2人に差されて抜かされるビジョンが消えないのは現役時代のトラウマがバッチリ身体にまで刻まれている証拠だ、まったくもって嬉しくない。
「勝つ気あるの?」
「それを言われると耳が痛い」
スカーレットの耳が痛くなる言葉に思わず帽子を深く被り直した。勝ちたいけど勝ち方がどうしても想像できないのは自分が心の底では勝てるはずがないと思い込んでいるからだ。こればかりはどうしようもない、なんせ現役時代からもそれに目を背けて逃げ出したんだから今更どう向き合えばいいのか。
深刻そうな悩みが顔に出ていたのか、フンとスカーレットが鼻を鳴らして言った。
「バカねトレーナー、1人で考えてもどうしようもないなら自分以外を頼りなさいよ」
スカーレットの言葉に思わず目を見開く。まさかスカーレットから他人を頼るなんて言葉が出てくるとは思わなかったんだ。1番の負けず嫌いで独りよがりだった、昔の自分とよく似たスカーレットから、だ。
「アタシだって成長するんだから」
「あ、よかった。スカーレットだ」
「なによ!」
「痛いって」
胸を張ってフフンと鼻を鳴らすいつもの仕草で安心したら、照れ隠しなのかノートが飛んで顔面に突き刺さった。背表紙が思いの外痛かったそれを返そうとそばによると立ち上がって私の目に指を突きささんばかりに指差してスカーレットは言った。その表情は怒っているようだが、どこか優しげに目元は下がっている。
「アタシのトレーナーなんだから1番をとって当、然、でしょ。やってもらわないとこっちから契約解除するわよ」
「そいつは手厳しいな。うん、元気が出たよ、ありがとう」
「バカね。1人じゃどうしようもないってアタシに最初に教えてくれたのはトレーナーじゃない。ちゃんと思い出せた?」
「うん。そうだね、じゃあちょっと行ってくるかな」
「どこに?」
「トレーナーに会いに」
「そ、行ってらっしゃい。今日はトレーナー室の方にいるわよ」
荷物をあらかた鞄に放り込んで走ってチームルームを後にして向かうは本館、3階のトレーナー室。
ウマ娘の脚力をフルに飛ばして植木や生垣をまたぎ跳び、階段なんかは5段も飛ばして、廊下はもちろん全力疾走。
「うわっと!?」
「おおっとごめんよう! あと初勝利おめっとレッド!」
「ありがとうございまって、トレーナーさんッスか?!」
「今急いでるから後で!」
「な、なんなんスか! いくら元担当だからってつっけんどんすぎッスよ!」
すれ違った懐かしい顔には軽く声をかける。レッドはあれから障害で少しだけ足踏みをしたけれど無事に勝ち上がり障害オープンウマ娘になったという。今年度末にはG1に挑むことだろう、頑張ってね。
「って、なんで追っかけてくるのさ?!」
「せめて挨拶はちゃんとして欲しいッスよ、っていうか次のレース出るんだったら力になりたいッス!」
「今それやってるからちょっと待っててもらっていい?」
「今暇なんで今がいいっす!」
「なーに器用な事やってんだアイツら......」
「シャカールどうしたの?」
「ンでもねえ」
廊下の荷物を蹴り越え飛び越え、通るウマ娘にぶつかりそうになればくるりとターンしてかわし、階段を5段飛ばしで登り降りる時には全段飛ばし、そうして辿り着いた頃には綺麗に隣に並ばれていた。
「......強くなったね」
「障害で足腰だけは鍛えられたんで!」
「元気そうで何より」
「もっと褒めてもいいんですよ」
ムフー、と子供っぽく胸を張る様は記憶とそこまで差異はない。赤いメッシュに子供っぽい顔付き、黒っぽい髪色は同じだが私の記憶より体つき、特に下半身ががっしりとふとましくなっていた。思わずしゃがみ込んで脚、特にトモではなく太もも部分を触りながら呟く。
「ゴツくなったな」
「そうでしょうそうでしょう。筋トレの成果ッス!」
「あと、すごい絆創膏が貼ってあるけど大丈夫なの?」
「名誉の負傷です! 打ち身擦り傷切り傷はどうしてもできちゃうんスけど先輩は少ないんで私はまだまだ精進が足りないッス!」
「......して、なんで全身鍛えなきゃいけないの? 3,4000mあるんだからこうガッチリと鍛えたら逆効果だと思うんけど。ステイヤーは筋力を必要以上につけずに体を絞るが鉄則なのに」
「飛越に必要なのは1にも2にもフィジカルってトレーナーが言ってました。障害を飛ぶのに必要なのはパワーっす!飛ぶにも、突っ込むにも、着地するにも必要なのは脚力ッスからね。障害に突っ込んだはいいものの出られずに何度笑われたか思い出せないくらいッス」
たははと笑うレッド。なるほど、あちらにはあちらの流儀があるという事らしい。せっかくならシャカールのレースがひと段落したところで障害ライセンスの勉強もしてみようか。
「ところでトレーナーは鍛えてないんスか? マッスルは大事ですよ、マッスル!」
「もちのろん。お腹はそれなりに割ってんだから、ほーれ」
ジャージの裾を捲り上げれば2つに割れた綺麗な腹筋がお目見えだ。レース前だからきっちり仕上げてきたんだ。6つに割るのは見栄えもあるがそこまで筋トレすると筋肉のつけすぎで走りに影響が出かねない、割れ目がうっすら見えるくらいでいいのだ。
「おおっ、指が沈むっス、でもしっかり奥は硬いっすね」
「現役時代より絞るのが大変だったよ。若いと筋肉も脂肪もつきやすいけど、もう筋肉のつき方が悪くなっててさ」
「トレーナーも苦労してるッスね」
モチモチと私の腹筋をレッドが撫で回したし押したりしてると、トレーナー室の扉が開いた。
「あ、お久しぶりッス沖野トレーナー!」
「トレーナーちゃんちょっと話あるんだけど時間あります?」
「......何してんだお前ら」
「レッドと再会したのでちょっと」
半ば顔を引き攣らせたトレーナーと目が合う。元とは言えチームメイトと親交を深めるのの何がいけないのか。トレーナーちゃんだって飛び上がるほど嬉しかろうに。
「とりあえずその腹をしまえ。話があるならそれからだ」
「あー、ごめんレッド。これからは個人的な話だからさ」
「わかったっす。レース、頑張ってください!」
「おう、任せい」
「応援行きますから!」
拳を付き合わせると、レッドは嬉しげにまた跳ね回るように走ってその場を後にした。ここしばらくバタついてたからな、レッドとの再会でやっと一つケジメをつけられたような達成感がある。
「んで、話ってのは」
「次のレース、勝ちに行きたいです。なんかいいアイデアありません?」
「......ま、とりあえず中に入れ。長くなりそうだからな」