あのレースからもうすぐ1年が経とうとしている。
アレからのスピカは、少しだけ、いや、大きく変わった。
あの激動の秋の思い残すために、少しだけ思い出に浸ろうと思う。
サイレンススズカ。
OPクラスとはいえ、彼女が最後尾からあの秋を思い出すスピードで先頭まで駆け抜けていったことは記憶に新しい。そのまま彼女は海の向こう、アメリカの地へ駆け抜けていった。今ではアメリカですら『音速のプリンセス』と彼女を呼ぶ。現在は実績作りのためにG3、G2から挑戦しているがいずれにせよ彼女がアメリカのG1を取る日もそう遠くはないだろう。
スペシャルウィークもまた完全復活を遂げた。秋初戦の京都大賞典の惨敗からスズカの悪夢を振り払うような秋天勝利、エルコンドルパサーを下した凱旋門賞覇者モンジューを倒して日本総大将の名を轟かせたジャパンカップ、グラスワンダーと死闘を演じハナ差決着となった有馬記念。勝利と敗北を味わい、ファンを愛し、ファンに愛され、ライバルとの死闘を演じた彼女は間違いなく伝説になった。もう既にDT移籍書を提出しており、私は夏からはスペと矛を交えていくことになる。
メジロマックイーンは出遅れるも無事にデビュー日も決定、トウカイテイオーも来年のデビューを見据えているという。ウオッカとダイワスカーレットもデビューは近い。
そして喜ばしい話だが、少しずつ入部希望者も増えている。今は断ってはいるが、そのうちトレーナーが新しいウマ娘をスカウトしてくる事だろう。
だが、明るいニュースばかりでもない。
エアシャカールは三冠ウマ娘の夢が絶たれる計算結果を上回れなかった。デビュー戦が5着と足踏みしたものの、続くレースを1着、2着と好成績をマーク。年末ホープフルS1着ではチームG1獲得最速を記録したものの彼女の計算した結果そのままだと喜びの表情を浮かべることはなかった。
そして皐月賞を予定通り勝利し迎えた日本ダービー。
最終直線、彼女らしくない計算できない「感情」に身を任せ、非科学的だと批判してきた勝負根性に任せて最終直線、彼女の隣を走るウマ娘に身体を寄せる。
その結果彼女は、6cmのハナ差で敗北した。彼女の計算結果、予測を1cmだけ上回るその結果に敗北という突きつけられた予定調和通りになったとしても......彼女は呆然として、そして涙を流すほどに笑っていた。
でもまだ彼女のレースは終わらない。菊花賞、ジャパンカップ、有馬記念。彼女の証明の場でもあるレースをまだ積み残している。それに彼女には新しい夢ができたという。夏は海外で走ると聞いた時は驚いたが何かやりたいことができたらしく、少しだけ吹っ切れたように爽やかで、晴れやかな表情をしていた。
最近よくつるむようになったアイルランドからの留学生がその原因だろうか。
そして今日。今日は春の集大成、『宝塚記念』。
そして、あの子の。
マチカネフクキタルの、引退する日だ。
『内ラスカルスズカ外からテイエムオペラオー。テイエムオペラオーとジョービックバンが上がってくる、グラスワンダーは伸びない現在3番手集団の中だ!
テイエムオペラオーだテイエムオペラオー! 内からメイショウドトウ、内ジョービックバン、ステイゴールド追い込んでくるが! テイエムオペラオーですテイエムオペラオーゴールイン! わずかにテイエムオペラオー、2番手争いは接戦ですがわずかにメイショウドトウでしょうか?!』
見せ場であるはずの最終直線で実況に名前も呼ばれず、ずるずるとバ群の中に沈んでいったフクキタル。グラスワンダーもまた後方に沈み何故か4着に突っ込んできていたステイゴールドを除けば時代の移り変わり、世代交代を暗に示しているようなレースだった。
「あはは、有終の美を飾るとは行きませんでしたね」
「そんなことないさ。いい走りだったよフクキタル」
「そんなことありませんよう。中盤しっかりとオペラオーさんの後につけて隙を窺ったのは良かったのですが、最後4コーナーで突き放されてしまいましたし」
「フクキタル」
「はいっ、なんでしょうトレーナー?」
地下バ道、いつもの調子て照れ臭そうに笑って控え室に引っ込もうとするフクキタルを引き止めた。いつもの調子と変わらない感じだが、私に遠慮して気を張っているだけなんだろう?
担当ウマ娘の背中を押すのは、トレーナーの仕事だ。
「これで、最後だったんだぞ」
「ええ。そう、決めていましたね。もう少し走れますけど、もう脚が限界な気がするんです」
「無理しなくてもいいんだぞ? いつもの調子なら騒がしくしてるだろうに、私の前だからって気張るな」
「無理なんてそんな、ここ2年負け続きで慣れてしまいましたよ。涙なんて残念ですけど少しも......」
ぽたり、と水滴が地面に落ちる。
「あれ、あれ、おかしいですね?」
何度も何度も、涙を手で拭う。その度に溢れて、ポタポタと水滴が地面に落ちていく。
「悲しくなんか、ないはずなんですけどね。勝てないと思っていたはずなのに、なんでなんでしょうね?」
「......すまない」
フクキタルを抱きしめる。優しく、覆い隠すように彼女を胸元に抱き寄せた。私もフクキタルに顔なんて見せられない。なんせ、みっともなく泣いているのは私も同じだ。
「最後、勝たせてやれなくて、すまない......!」
「......うう、勝ちたかった。勝ちたかったのに! 最後だけでも、トレーナーに勝利を、幸運を、プレゼントしたかったのに!」
うわああああん、とみっともなく、きっと顔面をぐずぐずに崩して泣いているフクキタルを一層強く抱きしめた。もう彼女にはこの悔しさを糧にして挑める次なんてないのだ。彼女の競走ウマ娘の道はここで終わったんだ。
「お疲れ様。いいレースだったよ、フク」
私の最初にレースに挑んだウマ娘のレースはここで終わった。
でもトレーナーとしての私の道はまだ長く果てしなく続いていく。涙ははやく拭いて前を向いて歩き出さなくてはいけないはずなんだ。
でもせめて、今だけは。
この時だけはフクキタルのそばにいるべきだと思ったんだ。
◇◇◇
「いままで、お世話になりました」
それから私は、チーム退部届を改めてトレーナーちゃんに提出した。前のは破いてゴルシが焼きにんじんの焚き付けに使ったらしいから改めて書いたやつだ。両手でしっかりと頭を下げながら出したそれを、トレーナーちゃんは今度は受け取ってくれた。
「ん、たしかに受け取った」
「いいのかよ。今度は引き止めなくて」
「ああ? 気にするなよゴルシ。今度は引き止めなくても大丈夫なんだよ。私とスカーレットとシャカールが抜けてもチーム存続するだけの人数はいるんだしさ!」
「そうは言ってもよぉ、寂しいじゃねえか」
「......」
「な、なんだよぉ」
寂しいなんて言葉が出るのがゴルシからなんて、と思って思わず目を見開いたまま固まってしまう。ゴルシは少しだけ恥ずかしいのか顔を赤くして、プイと後ろを向いてしまった。
「チームメイトがいなくなるのが寂しいのさ」
「い、言うなよ!」
「だっはっは、悪い悪い」
忘れていた、とでも言うようにわざとらしく笑うトレーナーちゃんとポカポカとトレーナーちゃんを叩くゴルシ。なんだかんだこの2人がスピカの中では1番付き合った時間は長いことになる。
未熟な私を支えてくれた経験豊富なトレーナーと、チームの仲を取り持ち、影からチームを支えたチームリーダー。
その2人の助けなしで新しい場所でやっていけるのだろうか。
だが諦めなければどうとでもなる。そう言って前を向いていいことを私は知っている。
「では、次からはライバルですから」
「おう。期待してるぜ。
「......ええ。リーディングの座はいずれ貰いますよ、
どちらが言うでもなしにお互いが差し出した手を握り合う。
元トレーナーと担当ウマ娘、チームのトレーナーとサブトレーナーの関係はもうこれでおしまい。これからはお互いが鎬を削るライバル、互いの教え子がどちらが優れているかを競わせる競争相手だ。
「......チームは変わっても、俺の夢は変わらないからな?」
「わかっていますよ。夢の舞台で、会いましょう」
しかし、チームは違えどスピカの名簿から私たちの名前は消えないのだろう。一度は同じ星に集った仲間たちを沖野トレーナーが忘れられないように、私もまたスピカで過ごした日々を忘れられないように、
「チームスピカは、不滅だ!」
「はいっ!」
今度は握手ではなく、昔のように拳を突き合わせる。