俺だけにウマ娘のステータス画面が見えている 作:酒池肉林太郎
まず近くの一級河川を軽く探したが、トウカイテイオーの姿はどこにもなかった。当たり前だ。流石に雨の日にわざわざここに来るほど考え無しではない。
残る選択肢は公園だ。
あの日見かけて以来、トウカイテイオーは森林公園をちょくちょく走っているのを見かける。
いるとすればそこのランニングコースだが、よくよく考えればこれだけ探してもいないんだ。つまりあいつは今連絡が付かないだけで、どこかで遊び歩いている可能性が高い。最近のハードすぎる練習を省みて、身体を休めている。そんなとこだろう。
そもそも雨の日に外で練習する必要はない。
室内の練習場にはいなかった。
それだけで楽観視してもいい状況だ。
やはり買い物にでも出かけているのだろう。
案外もう寮に帰っているかも知れない。
〝最近『無理するな』って言われることが多くてさ〟
〝変な話だよね。ボクは全然へっちゃらなのに〟
ハンドルを握る手が強張る。
注意されないよう、学園で練習することを避けて公園に来ていたのか?
なら遅くまでレース場を走っていたのはなんだ。
全員練習を終えた後にフラッと帰って来て、一人でゆっくりターフの感覚を確かめていたとでもいうのか。
何故こうも焦っている。
俺はあいつのトレーナーでもなんでもない。
ましてや、今後辞めようと考えている奴が何を偉そうに生徒の身を案じている。
「くそっ…!」
俄かに混み始めた車道に苛立ちを覚える。
これを単なる雨の日の交通量だと割り切れない。
おおよそ日常生活では感じたことのない怒りだ。
別にトウカイテイオーが濡れた地面を転倒する訳でもないだろうに。
公園の駐車場は閑散としていた。
この雨だ。
今日ここに用がある奴は俺ぐらいだろう。
広場を抜けてランニングコースへと向かう。
ここを確認し終えたら一度ルドルフと連絡を取ろう。
ぼんやりとそんなことを考えながらコースのスタート地点辺りで立っていると、合羽を纏った小柄な人影がこちらに向かって来ているのが見えた。
すぐにトウカイテイオーだと分かった。
「トウカイテイオー!」
彼女の名を呼び、同時に安堵した。
無事だ。
その事実を確認出来たことに対して気分が軽くなった自分がいた。
「あ、トレーナー」
「こんなとこにいたのか」
既にかなり走りこんでいたのか、雨の中でも汗がはっきりと視認出来る。授業が終わってからそれほど経っていない筈だ。
「なになに?今日も練習見に来てくれたの〜?」
「違う。ルドルフから探すよう頼まれたんだ。みんな心配してるから今日はもう帰るぞ」
「あ、そうなんだ」
トウカイテイオーは至極つまらなそうに目を逸らした。
「ごめん。まだメニュー終わってないから帰れないよ」
「お前、まだ続けるつもりなのか…」
視える範囲では体力的にギリギリだ。
これ以上続ければどこかが軽く故障してもなんら不思議ではない。
実際、膝関節辺りが軽く炎症を起こしている。
そしてそれを本人が把握していないとは思えない。何故ここまで肉体を追い込めるんだ。
「…そっか。キミも止めるんだ」
不意に、トウカイテイオーの表情が一気に冷めた。
不満気な顔を隠そうともせず、あからさまに落胆した様子で俺から目を逸らす。
「キミなら応援してくれると思ってたのに…」
「応援はしている。今日は別だ」
トウカイテイオーは「そう」とだけ呟いて、
「今練習中だからさ、見る気ないならあっちに行ってよ」
「いいから今日はもうやめろ。自分でも無理してる自覚あるだろ」
「…別に、無理なんてしてないよ。足だってまだまだ動くし」
そう答えるトウカイテイオーだが、その足は小刻みに震えていた。
やはりルドルフ関連で何かあったのだろう。今までのこいつから鑑みるに、ちょっと普通の精神状態とは言い難い態度だ。叱りつけた方がいいんだろうが、取り敢えず今だけは優しく接しておこう。宥めるのが先決だ。
情けない話だが、こいつが走り出したら俺の力では止められない。常人とウマ娘にはそれだけの筋力差がある。
「何かあったのか?」
「もう、しつこいなぁ…。大体、ボクのトレーナーでもない癖に偉そうなこと言わないでよ」
「そう言うな。とにかく、怪我する前に引き上げるぞ。これ以上は本当に────」
「────うるさいなぁ!ボクは休んでる暇なんてないの!!」
遂に痺れを切らしたのか、トウカイテイオーは堪え切れないと言った様子で叫んだ。
「別にちょっとくらい怪我したっていいじゃん!キミには何の関係もないんだからさぁ!」
そこでトウカイテイオーは初めて俺の顔を正面から見た。一瞬俺を睨んで────そしてすぐ、その顔を青く染めた。
「ちょっとくらいの怪我だと」
軽率と言えば軽率だ。
ただ、看過出来ない言葉だったのも事実だった。
「ふざけてんのか、お前」
自分でも驚く程冷たい声が出て、
「取り返しのつかないことになったらどうするつもりだッ!!」
そこからはもう、堰を切ったように感情が弾けた。
「お前らウマ娘の選手生命なんてその一回の怪我でどうとでもなるんだ!自分が自動車並みの速度で走ってる自覚あるのか!?」
「そんなに疲労するまで走って何考えてんだ!?どこまでやれば自分の身体が壊れるかも分からないのか!?」
「もし怪我して運動機能が下がったらどうする!?二度と走れなくなったらどうする!?その時お前の周りの人間が何を思うか考えたことあるのか!?」
「何よりお前はどうなるッ!?ここで大怪我して身体が駄目になって、そんな人生でお前は本当に満足なのかッ!?」
「大体なぁ!こんな雨の日に────」
そこでようやく、トウカイテイオーが震えながら涙を滲ませていることに気付いた。
「…ご、ごめっ…ごめん、なさ…」
明らかに怯えている。
言い過ぎだ。
馬鹿か俺は。
事情はまだ知らないが、思い悩んでいるであろう子供を前に大人気なく喚き散らすなんて、愚の骨頂だ。
「あ、謝る…謝るから、お、怒らないで…」
「すまん…。言い過ぎた」
「…ひぐっ…お、怒らない、でよぉ…」
「大丈夫だ。もう怒ってない」
なんだこの間抜けな台詞は。
本当に慰める気があるのか俺は。
「…ぼ、ボクは、ただ、カイチョーに…ひぐっ…か、勝ちたいだけなのに…!うぅ…な、なんでみんな止めるんだよぉ…!」
…ああ、なるほど。
こいつがムキになって練習している理由が朧げながら理解出来た。そういうことか。
「取り敢えず帰ろう。みんなお前を心配してる」
「ぐすっ…う、うぅ…」
特に抵抗することもなくなったトウカイテイオーを、俺は車に乗せて帰路に着いた。
学園に戻るまでの道程。
彼女はずっと静かに嗚咽を堪えていた。
○
〝帰りたくない〟
学園の駐車場に戻って早々、ポツリとそう伝えられた。泣き腫らした目を他の生徒に見られたくなかったのだろう。こいつはそれなりにプライドも高い。
仕方ないのでルドルフに無事だけ報告して、部室で一旦話を聞くことにした。雨の影響で服が少し濡れていたので後日が好ましかったが、この際しょうがない。フォローしてやらないと後々引き摺りそうだ。
しかし、あれだけ俺に怒鳴られた上でまだ一緒の空間にいたいとは、案外こいつも物好きな奴だ。
部室の鍵を開け、まず長時間雨に晒されたジャケットをハンガーにかける。トウカイテイオーは何を言うでもなく、いつものようにソファーに腰を下ろした。
「誰に負けた?」
カップを差し出しながら問うと、それまで俯いていたトウカイテイオーがそっと顔を上げる。まだ恐怖の色は消えていない。
「…どうしてそう思うの?」
「何となくだ」
付き合いは浅いが、こいつは意外と考えて動くタイプだ。そいつがここまでやけになって練習するってことはそれ以外ピンと来ない。
「……カイチョーに勝てない」
「模擬戦でもしたのか?」
トウカイテイオーは本当に小さく頷いて続けた。
「この前勝負して、生まれて初めて負けた。そのあと、何回やっても勝てない。勝てる気がしない」
なんとなく察してはいたが、やはりルドルフに負けたのがショックだったのか。
あいつがデビュー以来逃したレースは3度だ。
今の盤石なルドルフに四度目の黒星を与えられるウマ娘は今はほんの数人。間違いなく最強の壁だ。
「カイチョーはボクの憧れで大好きなはずなのに、なんかよく分かんないけど、負けてからずっと胸がザワザワする」
「今あいつに負けたからってそんなに焦るな。お前なら普通に練習すればいつか勝てるようになる」
「そんなの、誰にも分からないじゃん…」
確かに未来の結果を誰かが保証してくれる訳ではない。今のこいつにとって、練習の邪魔をする者は有害な存在なのかも知れない。
「どうやったら勝てるか昼も夜も考えてて、気がついたら最近ずっと走ってた」
「そうか」
なら尚更早くトレーナーを見つければいいだろうに。
そうすれば練習効率も上がるし事故も減る。
だが、ルドルフが言っていたことも大体分かった。
確かに負かした本人がフォローするのは違う。
「分かった。ちょっと待ってろ」
立ち上がり、デスクからファイルを取り出す。
トウカイテイオーの脚が脆いと判断した時点で、かねてより考えていたものがある。
関節部を極力痛めずに走行能力を高める練習メニューだ。
これはタキオンが作った『ウマ娘の骨と筋の構造体の解析図』をもとに練られている。まだ学会に発表前ではあるが、学生の頃俺も手伝わされたので正否の判断ぐらいは出来る。少なくとも荒唐無稽な内容ではない。
こいつは間違いなく逸材だ。
それこそルドルフに届き得るレベルの。
接点が薄いとは言え、これぐらいしてやるのが学園への貢献というものだ。
「取り敢えずしばらくこれ通りに練習しろ。今度また別の練習メニューを渡す。お前なら2年ぐらいあればシンボリルドルフに勝てる可能性は0じゃない」
トウカイテイオーは俺が渡したファイルを食い入るように見詰めていた。
「今勝ちたくて無茶する気持ちも分かるが、計画に寄り添ってそれ通りに動くことも大切だ」
「…キミ、スズカの専属なんでしょ?何でここまでしてくれるの?」
「お前の才能を腐らせたくない」
こうやって特定の生徒に強く肩入れすることは、あんまり大っぴらにやっていいことではない。しかしまだトレーナーがついていないのなら話は別だ。
俺が少し働いたくらいでこいつの未来が変わるならそれで良い。
「…キミは、ボクがカイチョーに勝てると思う?」
「お前は自主的に動けるタイプの選手だ。そのレベルまで絶対に行ける」
逆に何がそんなに不安なんだ。
確かにルドルフは強い。
だが雲の上の存在という訳でもない。
少なくとも、トウカイテイオーにとっては。
「練習での負けなんて普通はそこまで重くは考えない。大抵は一晩寝れば忘れる。そこまで悔しいと思えるということは、お前がこれまでずっと真摯にレースと向き合って来た証拠だ」
トウカイテイオーはただじっと俺の話を静聴していた。
「それに敗北から自分に足りない能力を正確に割り出して、自ら勝ち筋を探そうとしている。度が過ぎてはいたが、モチベーションが冷めないうちに根を詰めるのは間違いじゃない」
こいつに足りないものは持久力だった。
これまでの練習はそれを補うためのものだったのだろう。
「ここで無理しなくてもお前はちゃんと報われる。この才能の潰し合いみたいな時代に生まれて尚、トップに立てる資質がある。それは俺が保証……なんだ?」
気がつくと、何故かトウカイテイオーの顔は真っ赤に染まっていた。
「い、いや、そんな面と向かって、真顔で褒め千切るからさ…。ぼ、ボクってそんなにすごい?」
「すごい」
「え、えへへ…」
…まあいい。
言いたいことはそこではない。
「だが怪我すればそれで終わりだ」
トウカイテイオーの顔が瞬時に引き締まった。
「今まで黙っていたが、お前の足は脆い」
「…やっぱりそうなんだ」
この反応。
どうやらこいつ自身、薄々気付いていたらしい。
「だからもう無闇に走るな。お前は、お前が思ってるほど頑丈じゃないんだ」
「…………うん」
トウカイテイオーは静かに、だがしっかりと頷いた。
当分無茶はしないだろう。
お役御免だ。
これでスズカのレースに集中出来る。
「約束破って、ごめん」
「誰にでもそういう時はある」
「トレーナーにも?」
「ああ。俺もサブトレの時、メンバーのウマ娘と大切な約束を破ったことがある」
「大切な約束?」
「詳しくは省くが、2時間ぐらい罵倒されて最後に死ねって言われた。それ以来まともに会話していない」
「そ、そうなんだ」
いや、あれ以降も一回だけ会話したことあったな。
その時も小声で死ねって言われたが。
とにかくあの時は本当にヤバかった。
全員からダメ出しされるしタキオンは俺のコーヒーに妙な薬混ぜてくるし。
グラスの奴、あの件をまだ少しも許してない感じだった。
そろそろ真面目に謝った方がいいんだろうがタイミングが掴めない。
かなり露骨に俺を避けている。
「ねえ、トレーナー」
「なんだ」
「ボクのこと、そんなに気にかけてくれるなら、その…」
トウカイテイオーはどこか落ち着かない様子で切り出した。
「す、スカウトとか、しないのかなあ、って…」
確かにこの流れだとそういう話になる。
ここまでしておいて結局面倒見ないってのは酷な話だ。
「ま、前から思ってたんだ。キミの指導で走ってみたいって。ほらキミ、すごい優秀なんでしょ?カイチョーが言ってた」
「…俺は理事長との約束で10月まではスズカ一人しか指導出来ない契約になってる。他を見つけた方がいい」
トウカイテイオーは「ふうん」と呟いて、
「じゃあ10月まで待てばいいの?」
「それはそうだが…」
逆に言えばそれまでずっとレースに出られないということだ。URAでは個人での出場は認められていない。面倒な話だとは思うが、これは競技全体の質の向上と怪我を予防する上で必要不可欠な条件だった。
「…お前なら、中央の有名な人から幾らでもスカウトが来てるだろ」
「全部断るよ」
「デビューがその分遅くなるぞ」
「キミがトレーナーになってくれるならいいよ」
そこまで言うなら俺としても断る理由がない。
こいつのトレーナーになりたいやつはそれこそ掃いて捨てるほどいるはずだ。
しかしそれはあくまで表面上の話だ。
この仕事を続けられるかどうかも分からない奴が受けていい話ではない。
だが、色々考えたがトウカイテイオーには俺が必要なのも事実だ。
普通に走ればいずれこいつの足は折れる。
恐らく幾度の骨折とリハビリを繰り返す筈だ。
骨は折れる度に脆くなり、いずれ選手としての機能を失う。
そこまでならまだいい。
問題は後遺症が残った場合だ。
もし歩けなくなる程の怪我が生じた時、こいつはどうなる。それでも前を向いて、今みたいに明るく笑えるのか。
それとも、
「────………」
過去の記憶が脳を過って、小さな嘔吐感が胸をじくじくと蝕む。
「ねえ、お願い。だめ?」
トウカイテイオーはいつの間にか俺の隣に立っていて、服の袖を揺らしていた。まるで欲しいものを強請る子供のように。
「ねえ」
「…分かった、検討する。だが俺も都合があるからあまり期待はするな」
「うん、分かった」
なんで問題を先送りにしているんだ俺は。
仮にこの話を請けて最後までやり切れるのか。
スズカの状況とは訳が違うんだぞ。
しかしこいつの脚のことを知った以上、無責任に放り出す訳にもいかない。トウカイテイオーをあいつと同じ目には絶対に遭わせられない。
俺は至って健康だ。
たまに来るフラッシュバックと嘔吐感を我慢するだけの話なんじゃないのか。
そうだ。
それでトウカイテイオーの選手生命が救われるなら本望だ。
スズカだって俺が見てやった方が絶対に強くなるし、俺の指導に対して全幅の信頼を寄せてくれている。
思い出に怯えるとかどうとか言っている場合じゃない。
もう引き返せない。
ここで覚悟を決めるしかない。
俺が。
「ねえ、トレーナー」
ふと名前を呼ばれて我に返る。
妙に距離が近くなったテイオーが、顔を赤くしながら小さな声で囁くように言った。
「どうした」
「どうせならテイオーって呼んでよ。ほ、ほら。みんな呼んでるしさ」
「…そうだな。テイオーでいいか」
その方が呼び易い。
だから俺は気安くその名を呼んだ。
そうするとテイオーは和やかに微笑んだ。
取り敢えずは丸く収まった。
誰も困っていないし、誰も損をしていない。
だからこれは、胸を張って正解と言える選択だったのだろう。