俺だけにウマ娘のステータス画面が見えている 作:酒池肉林太郎
サイレンススズカと出会った翌日。
昼下がりに、自宅のマンションの呼び鈴が鳴った。
戸を開けると、そこには金髪の少女と緑色の事務服を来た大人の女性が並んでいた。
二人ともトレセン学園の関係者だ。
少女の方が秋川理事長で事務員の方が秘書の駿川たづなさんだ。
なんでこの人達が俺の部屋に来る。アポイントなんて取ってなかったはずだ。
「お久しぶりです。いきなり申し訳ありません。少し、お時間よろしいでしょうか?」
「突然ッ!!すまない!!少し折り入って話がある。悪いがこれは────」
理事長は扇子で手のひらをパンと叩いて宣言するように言った。
「強制ッ!!今から君の緊急面談を取り行わせてもらう!」
○
二人をリビングに招いてお茶を出し、挨拶や軽い雑談もそこそこに、早速理事長が本題に入った。
「結論ッ!!から言わせてもらおう!君が内定辞退を考えているという噂を耳にした!真実か否か!?」
心臓が跳ねる。
なるほどサイレンススズカか。
馬鹿か俺は。
なぜ会ったばかりの相手に不要なことまでベラベラと喋った。
「事実です。本当に申し訳ありません」
深く頭を下げる。
理事長こそ表情は変わらなかったが、駿川さんはショックを受けたようで軽く掌で口元を押さえた。
「
「俺は────」
「矛盾ッ!ウマ娘のトレーナーになることは、君にとっても大きな目標であり、その為の研鑽だった筈だ!」
「はい。ですが俺にはもう────」
「損失ッ!!君がウマ娘のトレーナーを辞するのはこの学園にとって、ひいては業界にとっての大きな損失である!!つまり────」
「あの────」
「再考ッ!!考えを改めて欲しいッ!」
よく喋る人だな。
言い返す隙間が見当たらない。
小柄な体躯に似合わず随分と声が大きい。
いや、興奮するのも当たり前だ。
無茶苦茶言ってるのはこっちの方だ。
「少し早いですが、貴方に支払われる予定の初任給の明細です。ご査収下さい」
駿川さんが手元に差し出した書類には、大卒のそれよりも倍近い基本給が記されていた。いくら中央の給料が高いとはいえ新卒一年目に支払われるような額じゃない。恐らく同期より盛っている。
「更にッ!教務員には無料で社宅を用意してある!光熱費も食費もある程度は負担し!その他福利厚生も手厚い!一流企業並みの待遇を約束しようッ!」
そうだ。
この学園の労働条件は政府が公表するホワイト企業ランキングに乗るレベルの白さだ。それに釣られて就職を希望する者もごまんといる。
だが今の俺にとっては何の魅力もない。
「………大変ありがたいお話ですが、私の考えは…」
「不服ッ!!なら更に出そう!!」
「いえ…お金の問題では…」
それに俺みたいな奴に特別高い報酬が支払われては同期に申し訳が立たない。
「苦悩ッ!!しているのであれば私が話を聴き、力になろう!!」
「面接の時と比べて随分とやつれているのは私でも分かります。何か、とてもお辛いことがあったのでしょう…?」
駿川さんが憂慮するように俺の顔を覗き込んで来る。
だがどうしろと言うのだ。
恋人が死んだからやっぱ入るの辞めますなんておおよそ共感できるようなことではない。
もういい。
二人とも帰ってくれ。
俺はもうトレーナーとしての責任を負えるような精神状態ではない。
あんたらの学園の貴重な人材を使い潰すのがオチだ。
そう、はっきりと言えない自分が恨めしい。
「…別に、何もありません。ただやる気の問題です」
「
…この人の妙な迫力は何なんだ。
いつもはもっと舌が回るはずなのに、いつの間にか彼女のペースに呑まれている。
「慧眼ッ!君のウマ娘を観る眼は誰にも真似出来ない唯一無二の才能!まさしく麒麟児と呼ぶに相応しい逸材ッ!ここで無為に腐らせては私は教育者として一生後悔してしまう!」
「………何故私にそこまで…」
「愚問ッッ!!!!!」
理事長は目を見開かせて、耳を聾さんばかりの声で言い放った。
「私は信じている!!君が!!君こそが!!この世界史における歴代最強のウマ娘を育て上げるとッ!!」
息を呑む。
そうだ。
それこそが俺の夢だった。
彼女を日本一、いや世界一のウマ娘にすることが。
学生時代に体験したサブトレーナーの日々はただひたすらに楽しかった。俺はやはりトレーナーとしての仕事が好きなんだ。
だがこれからずっとあのことを思い出しながら日々を過ごせというのか。冗談じゃない。
これ以上、俺を焚き付けるな。
「……………分かりました。辞退の話は一旦取り消します」
自分でも予想しなかった言葉を吐く。
何を、言ってるんだ俺は。
すぐに訂正しなければいけない。
取り返しがつかないことになる。
例え恥をかいてでも。
「しかし、私は────」
「無用ッ!!今はその返事だけで良いッ!!」
業務のクオリティが著しく下がるという話から切り崩そうと考えたが、素早くハードルを下げられた。
駄目だ。見た目に反して完全に社会人として完成している。
機を逸した。
俺にはもう辞める建前を繕うだけの材料がない。
この対話の中ではもうどうしようも出来ない。
それにこれだけ俺のことを信じてくれる人を易々とは裏切れない。
もう、そういう気持ちになってしまった。
そんな俺の諦念を悟ったのか、理事長は「うむ」と力強く頷いて、また扇子で手のひらを叩いた。
「だが君のモチベーションが著しく欠けているのは事実ッ!流石に今の君に何人ものウマ娘の面倒を見させる訳にはいかないッ!」
まあ、そりゃそうだ。
誰かの下につけてサブトレーナーになるのが落ちだろう。
「特例ッ!君は向こう半年間一人のウマ娘を集中して指導してもらう!彼女もまた、才媛と呼ばれながらも大きな悩みを抱えた者だ!」
サブじゃないのか。
まあ、その方が気楽にやれるか。
「………その生徒の名前は?」
「サイレンススズカです」
駿川さんの言葉に身体が強張る。
冗談だろ。
なんでそうなる。
どういう理屈で俺があいつの世話をするんだ。
これじゃ俺があの逸材を掠め取ったみたいじゃないか。
「元々の担当は何と仰っているのですか?確か、有名なSトレーナーだった筈…」
「杞憂ッ!何も心配することはない!これは担当トレーナーたっての申し出でもある!スズカもまた二つ返事でこの件を承諾した!私はこの二人の希望を────」
理事長はそう次いで、軽やかな動作で扇子をバシッと広げた。
「承認ッ!!君とスズカはこれから二人三脚でトゥインクルシリーズに出場し、大いに活躍して貰う!」
○
校舎の桜が舞い散る光景を眺めながら、俺はスーツ姿で一人佇んでいた。
取り敢えず、一年間は務める。
そういうつもりで、理事長の話を承諾した。
勢いに流されたと言えばそれまでだ。
だがもう肚を決めるしかない。
俺は彼女のいないこの学園でトレーナーとして業務にあたらなければいけない。
正直既に胃が痛いが、周囲の人間を惑わせた贖罪と思えば、ほんの少しだけ心が軽くなる。
あの日、サイレンススズカに安易な事を言わなければ、こんなことにならなかったのかもしれない。
それももう、踏ん切りがついた。
「あ、あのっ…」
黄昏ていると、ゆっくりと歩み寄ってくる人影が目の端に映った。
栗毛の長髪。
サイレンススズカは髪色が派手なので一度見ればその顔を忘れることはない。
「お久しぶりです。その節はありがとうございました」
顔色が多少良くなっている。
あの時よりも幾分か調子が戻っているな。
俺に向けられる眼差しは明らかに期待を孕んでいた。
「私、サイレンススズカって言います。この度は専属トレーナーの話、お受けして頂き、ありがとうございました」
「あ、ああ…」
「ご迷惑おかけするかも知れませんが、精一杯頑張りますので、これから宜しくお願いします、トレーナーさん」
俺のぎこちない応答も意に介さず────それとも単純に気付かないだけか────サイレンススズカは白百合のように上品な笑みを浮かべた。
少し緊張しているのか、ほんのりと顔が赤い。
「こちらこそ、宜しく頼む」
辞めたい。