「あんぎゃー! ちったぁ手加減しろや猿ー!」
大猿が真っ青な空を舞う。その手に持つ昆を地面に叩きつけると、衝撃で大地がめくれあがった。
発生した余波。爆風によって男──横島忠夫は紙のように吹っ飛んだ。
「うきゃっ! うき、きききぃぃ!」
「人語でしゃべれや!」
吹き飛ばされた、その先。地面にへばりつきながらも、しっかりとツッコミを入れる横島には確かに関西の血が入っているのだろう。
横島と猿……失礼、斉天大聖孫悟空が闘っているのには理由があった。
「横島、お前はかの魔神を討った訳だが……お前を危険視する神魔達に不穏な動きがある。お前を排斥しようとな」
猿が横島へとそう警告した。
ここ、横島の生きる世界には、神や悪魔など超常の存在が人に見える形で存在しており、古来から神側と魔神側とで争ってきた背景があった。
「マジっすか。でもあれは俺だけで成し得たことじゃないっすよ?」
「アシュタロスを倒した事には違いあるまい? 例え人の手を借りていたとしても、お前が成した事は通常ではあり得んことじゃ」
横島は眉間を寄せ、苦い表情。
彼は大戦の英雄だった。
かつて世界を巻き込んだ大事件と認知されており、神界、魔界、そしてここ人間界の三界に渡って大きな衝撃を与えた出来事。
アシュタロス大戦――
「う〜ん、今からやっぱり違いましたとか」
「できるわけなかろう」
「はぁ……」
心底嫌そうな顔をする横島。
彼の表情には隠しきれない影があった。
男は疲れていた──大戦であまりにも大切なモノをなくしてしまったから。精神が疲弊していた。
アシュタロス大戦――最上級神魔であるアシュタロスと、かつてはその娘であった美神玲子との因縁に始まり、横島たちはその渦に巻き込まれていったのだ。
本来、神と魔は表裏一体であり、聖書にも登場する著名なアシュタロスも起源を辿ればメソポタミア文明におけるイシュタル、ギリシャ神話におけるアプロディーテと由来を同じくする豊穣の神であった。
しかし、神と魔はコインの裏と表のようなもの。時代と人の信仰によっては裏となったり、表となったりするもの。神がいれば、また悪魔と呼ばれる存在もいるのだから。
それら存在のどちらが正しく、どちらが邪悪であるのか。
神魔の戦いとはコインの裏と表をかけて、また世界の主導権を握るための争いといってもよかった。
アシュタロスはそんな不毛な争いに耐えられなかったのだろう。
神魔の表裏を決定するのは、人の想いである信仰の形。
悪魔達がかつての姿を取り戻し、コインの表へと戻るには一度人間の信仰の形を破壊し、再構築する必要があった。
しかし、現代の高度に発達した人間の文明を破壊するには、神も魔もその恩恵を受けすぎていたため、その文明を破壊しつくことも惜しい。
結局のところ、神魔の争いも、現状をひっくり返すことなどできない茶番劇と化しているとしか言い様がなかった。
いつ終わるとも知れない、永遠を思わせる茶番劇の繰り返しに何を思っただろうか。
アシュタロスは……自身の消滅を願った。
だが、彼の身は最上位階の魔族であり、魔神である。彼の消滅は即ち、現状で安定している神魔のパワーバランスの不均衡を招き、争いが激化することにも繋がりかねない。
まして、存在自体が悪という概念を孕み、世界の楔としてシステムに組み込まれてしまっている。
当然、その身の消滅が許されるわけもなく、消滅することもできない世界の有り様に絶望し、アシュタロスは世界の改変、新たな世界の創造を夢見たのだ。
そうして引き起こされたのが、アシュタロス大戦だった。
「じゃから、儂はいつ起こるかもわからん反デタントの襲撃に備え、お前を鍛えなければならん」
反デタント。つまりは、現在の馴れ合いじみた神魔の関係に不満を持つ者達のことだ。
その中には新たな魔神の卵と成りうる横島を危険視する神や魔の者達も含まれている。
「うへぇ」
「今のお前はあまりにも未熟」
横島は渋面を作り、一方の猿は事実を突き付けた。
確かに現状、横島は人間としては屈指の霊能を持つ実力者ではある。だがしかし、永き時を経た神魔にすらその力が通じるとしても、横島は1人。数の暴力には敵う訳もない。
「だからって今すぐじゃなくても……」
「また、いつか辛い思いをすることになるぞ」
「……」
思い出すのは戦争。初めて想いを通じ合わせた彼女と出会ったのは戦争の最中だった。
彼女は蛍の化身であり、アシュタロスの娘であったが、心優しかった。
横島は彼女と一緒に見た、夕日をずっと覚えている。あの、寂しくも温かい光を。その夕日を見つめる彼女の横顔を――
二人が出会った後も、魔神との戦いは止むことなく、むしろ激化してゆき、戦闘は熾烈を極めた。
だが当時、横島は身に類い稀な霊能力の才を宿してはいたが、彼はまだまだ未熟で弱かった。
そのせいで、大切な彼女が未熟な彼の身代わりになったのだ。
それでも……彼は戦い続けることを決めた。
その時は、アシュタロスが用いようとした世界を改変するという方法がまだ残っており──それによって、彼女を救うという希望があったから。
だが、横島は結局、彼女を救うことはできなかった。
現実は甘くなどなく、彼女の復活を代価として、世界の改変という術を投げ捨て、世界を救うことを選択したから。
今でもあの時の言葉が胸に突き刺さっている。
『恋人を犠牲にするのか。寝覚めが悪いぞ!』
『……今おまえを倒すにはこれしかねぇ。どうせ後悔するなら、てめぇがくたばってからだ! アシュタロス!』
『や……やめろォォォー!!!』
戦争は残酷で、容赦なく大切なモノを奪って行く。
世界の命運か、それとも大切な存在か。
はたして男は世界の命運を選びとったが、彼の心はいかばかりだったか、
確かなのは、横島の心には癒せぬ大きな傷が残っているということ。
世界のあり方を左右しかねない大戦の果て──そうして彼は英雄となったのだ。
「……」
そうした過去が横島の心に拭いきれぬ暗い影を落としている。
「……強くなれば、ハーレムも夢ではないやもしれぬぞ?」
「うっす! 老師、よろしくお願いします!」
はぁ、と溜息を溢す猿。
変わり身の早い、横島は普段の巫山戯た調子ではあるが、横島の過去を知っている分、その様子は空元気にも見えた。
まるで、涙を笑顔の仮面で隠した道化師のようだ。
結局――今の世界を改変し、世界を新たに創造しようとした魔神アシュタロスは討伐された。
世界の仕組みの改変は、果たして彼と彼女の犠牲により食い止められたのだ。
しかしなんの因果か……戦いの果て、彼の魂には身代わりとなった魔神アシュタロスの娘である彼女の魂が混じり合い、彼の死後には魔へと転生することが運命づけられてしまっている。
アシュタロスすら打倒した大戦の英雄が、魔へと転生することが決まっている。その事実は神側にとっては到底看過出来ないものだった。
「わしらも、デタント反対派の連中をなんとか抑えられんか動いている。神魔のトップも乗り気だ」
「うげ、そんな大事になってるんすか」
「当たり前であろう。お前は魔神を倒したのだぞ。言わば、魔神の新たな後継と見られても可笑しくはないのじゃ」
故に、横島が危険視されているのも当然だった。
消滅したアシュタロス。
現状、神側に傾いたままのパワーバランス。
今後、傾いたパワーバランスを元に戻すのか、それともそのままにするかは神魔トップの意向にかかってはいるが……
「お前には一旦、ここではない世界に退避してもらうかもしれん。ほとぼりが覚めるまでな」
だが、反デタントの神魔を完全に抑えるには時間が圧倒的に足りなかった。
パワーバランスを整えるための鍵の候補である横島が今、亡き者にされては議論すら意味がなくなる。
転生が早まり、魔神となった直後に再び世界を揺るがす戦争が起きる可能性だってあるかもしれなかった。
「それまで、お前がどこでもやっていけるよう、鍛え上げなければならん。これは旅立つであろうお前への餞別でもある」
だから、横島の師である斉天大聖孫悟空は、彼を鍛え上げる必要があったのだ。
「嬉しくねぇ餞別だなぁ」
最早、自分の意志では、どうしようもならない現実。
きっと、魔神になるのも、身を守るための修行も、嫌だと言っても神さまたちは聞いちゃくれねーんだろうな、と横島は呟いた。
「何か言ったか?」
「なんでもないっす」
神様とは何て身勝手な連中なんだろうか、と横島には諦観の念が強かった。
□
『異』『世』『界』『転』『移』
横島の持つ文殊に文字が浮かび上がり──
そして、その日、横島忠夫は世界から消失した。
崩壊した神魔のパワーバランスを再び乱しかねない彼を危険視する神魔からの襲撃。
ある者は自身の保身のため、ある者は自身の地位を守るために。
そして、またある者は再び起こるかもしれない世界の変革を止めるため。
横島は襲撃に抵抗しなかった。
襲撃がエスカレートし、身近な存在たちに危害が及ぶことを恐れたからだ。
ただし、彼もただでやられるつもりはなかったらしい。
世界から消す一撃が彼を飲み込む瞬間、彼は老師から言われた通り、ここではないどこかへと旅立ったのだから。
はたして、神魔トップの企ては思い通りに進んだ。
排斥を望む神魔には、彼が滅んだと思わせることができた。
一方で、神魔のトップ達は、安堵した。これで影から場を整えることができる、と。
そう……いつか再び魔神の後継をこの世界に招くために。
しかし、ここで重要なのは神魔のいざこざや、その後の世界の有り様などではなく、その世界から排斥された横島の視点。
彼の物語は世界を変えて、続いていくのだ。
□
鬱蒼と茂る森。
むせ返るような濃い緑と水気を含んだ土の匂い。
一陣の風が吹き抜け、ザァザァとざわめきをあげる葉の擦れる音。
木々の隙間から伸びる幾つもの光の筋。
人気のない、苔生した参道。
参拝者の途絶えた古びた社。
そして、留まることなく山を巡る、神秘を秘めた清冽な水。
この、人の立ち入らない山では原初の自然の風景の名残を残しており、日本の古くからの伝統と文化を垣間見ることができるだろう。
──日上山。
ここ、「日上山」はかつて霊場として崇められ、その周辺には特異な信仰が伝えられていた。
この山では、「水」を御神体とし、「人は水から生まれ、水へ還る」という、輪廻の教えがあった。
その為、この山には「死を迎える者」が訪れ、この山の水に触れて最期を迎えることで、正しく命を終えることができると信じられていた。
また、この地域を中心として特異な儀式や風習が現代まで残っているとされ、 それら風習の名残を彷彿とされる陰惨な事件や不思議な出来事があったことも現在までに多数報告されているという……
この物語は──霊山と呼ばれる「日上山」を舞台に不来方夕莉、放生蓮、雛咲深羽、そして横島忠夫の4人によって織り成される怪異幻想異譚である。