悪魔は一度限りの奇跡を与えた。
自分以外の全てを救って消えた色鮮やかな光に、やり直しの機会を。
代償は彼を彼たらしめた『男』としての生。だからもう彼は男ではない。
錆兎は男だったことも、やり直したことも覚えていない。
***
錆兎は奇抜な髪色の少女だった。少女は気にしていなかった。髪の色など気にせずに愛してくれた両親がいたから。幸福は継承されていく。そのはずだった。
平穏は一瞬のうちに崩れ去った。
視界を埋めつくす赤色。ニタニタと笑いながら近づいてくる異形。
「お前の家族は今日ここで死んだ。それが正しいからなあ」
黙れ。そんな『正しさ』あってたまるか。
迫り来る爪を回避……しきれず一撃目は顔に受けた。
「そしてお前も」
二振り目。しかし異形の言葉が続く事はなかった。
女が流れるように鬼の頸を落としたからだ。
「生き残りは一人だけか」
女は錆兎に問いかける。
「行く宛はあるかい」
否定。
「あの化物が憎いかい」
肯定。
「君も剣を取るかい」
最後の問いに肯定する。
水柱の
数年後。
鬼に誰かを奪われた子供がまた一人。ここに来る者は多かれ少なかれ皆そうだ。自分とさほど年も変わらないであろう少年。
その顔にはほとんど表情が見えなかった。鬼に遭ってこうなる者は少なくない。身体ではなく心をズタズタに引き裂かれて。
初めて出会った日、その少年―冨岡義勇は泣きながら抱き着いてきた。
「う……ひっく……生きてる……?」
誰かと間違えているのか?
「泣くな」
軽く背中に触れてやる。
「鬼を斬ると決めたのなら」
「……」
「進む以外に道はない」
「分かっている。俺はもう悲劇を繰り返したくない」
***
机に向かう義勇が何をしているのかと見ると、すらすらと左手で筆を動かしていた。
「左利き?」
「違う」
即座に右手に持ち替える。
「何書いてるんだ」
「昔の事。思い出せる限り。あまり覚えていないが」
「あ……俺は退散しておくか」
誰にでも覗かれたくない過去はあるはずだ。鬼を殺そうとする者には尚更の事。仲良くなったからって配慮が欠けていた。
「出ていく必要はない」
「そうか」
ならばと錆兎は義勇に背を向けて座る。
筆を動かす音。しばらく無言で書き連ねていた義勇が口を開いた。
「失うのが怖いよ」
理解できる。ここには何かを失った者ばかり。鬼狩りになると旅立った兄弟子達は次々と消えていった。
「強くなるしかない。鬼に土下座は通用しない」
「錆兎は錆兎だな」
義勇はため息をつく。
「俺がもっと早く気付いていたら守れたのだろうか」
「悪いのは鬼だ」
「……だけど、俺が」
パシッ。思わず振り向いて両手で頬を張ってしまった。
「うじうじするな叩くぞ」
「叩いた後じゃないか錆兎!」
手のひらで頬をぐりぐりしてから元の定位置に向き直る。
「あまり塞ぎ込むなよ」
背中合わせ。
「錆兎、約束してくれないか」
「言ってみろ」
まあ義勇なら無茶な事は言わないだろう。
「二度と死なないでくれ」
予想通りの言葉。死ぬなと言われた時の答えは決めている。
「お前も誓うならな」
「約束する。あと自分を守ってほしい」
過小評価だと錆兎は感じた。
「心配性だな、義勇は。大丈夫だって」
自分に自信がないようだけど、義勇ならわざわざ俺が守らなくたって生き残れるさ。
「分かっているのか?」
「安心しろ」
「皆消えた。危ない」
「危険程度で足踏みするなら今頃ここにいないだろう」
「知っている。俺は錆兎と一緒に生きたい」
***
錆兎と義勇は鬼狩りを目指す為の過酷な修行を続けていた。この程度を耐えられずに鬼の頸を落とせるはずもない。
罠だらけの山を駆け巡り刀を振るう。何度倒れたかわからない。それでも諦める事だけは決してない。
「俺は鬼を斬る!」
日常を理不尽に奪った者への怒り。悲劇を繰り返させないという使命感。
錆兎はそれらを全て刀に乗せて。
地面に叩きつけられる。師に素手でいなされたのだ。肌が地面と擦れて痛むが構わず立ち上がる。義勇はそれをじっと見つめていた。
体重の流れを意識して踏み込む。流水の如き切先がまた届かない。
もう一回。何度倒れても立ち上がってみせる。もう一回だ。
延々と転がされ続けた後に交代を指示された。
先ほどまで稽古を見ていた義勇と入れ替わる。
今度は錆兎が観察する番だ。全てをものにしてやるとばかりの眼光で睨みつける。
義勇の型は綺麗だ。一撃の威力なら錆兎の方が上だが、基本への忠実性は義勇が上回る。この年で(といっても錆兎と同じではあるのだけれど)お手本のような型を見せる義勇を、錆兎は素直に美しいと思った。
同時に、負けられないとも。
軽やかな足音。
「やってるね」
少女の声が聞こえた。
「真菰! 怪我は治ったのか?」
二人の姉弟子、真菰は不思議な雰囲気の少女だった。
「今回の選別には間に合わないかな」
本来、真菰は二人より先に向かう予定だった。彼女がまだここにいるのは義勇が血走った目で引き留めてきたからである。ただならぬものを感じて一度遅らせたら、怪我でもう一度遅くなってしまった。
「あのときは『まだ早い』って必死に引き留めてきたんだよね。普通なら気にしても仕方ないことなんだけど、義勇のカンはよく当たるから」
「本当にな。守護霊でも憑いているんじゃないか?」
義勇は『こうすべきだ』とは言うが理由を説明できずに黙り込んでしまう事が多い。結果的には大抵良い事になるのだが、過程が分からないのだ。
「違う。いる」
「否定なのか肯定なのかはっきりしろ」
やはり彼の言葉はわかりにくい。
(俺に憑いているのではない。守護霊ならここにいる)
***
最終選別に行くための最後の条件を聞かされて錆兎は困惑した。
「これを……刀で?」
鱗滝さんは何を言っているんだ? 『岩を斬れ』って正気か? などと戸惑っている間に行ってしまった。
「斬れるのか?」
出来る気がしない。しばらく考え込んだ錆兎は一つの可能性に思い当たった。
まさか。
――鱗滝さんは俺達を行かせるつもりがない?
一瞬息が止まる。ただただ苦しかった。
俺達を信じてくれたのは噓だったのか。閉じ込め続けでもするつもりだったのか? そんなのって。
なんて絶望さえしかけたのに義勇は。
「やるしかないだろう」
できると疑わない表情で刀を振り下ろした。
今日斬れなかった事は問題じゃない。『いつか出来る様になる』と信じるあの顔だけで充分だった。
「鱗滝さんはどうして岩を斬れなんて言ったんだろうな」
答えてくれないので義勇にも聞いてみる。前に真菰に聞いた時は「自分なりの答えを見つけてごらん」とはぐらかされてしまった。
「単純な話だ。わからないのか?」
補足、見下しているわけではない。義勇の発言に悪意はない。ないから厄介ともいう。
「教えてくれ」
素直に教えを乞う。親友の対応にも慣れてきた。
「鬼の頸は岩より硬い」
親友が答えたのは案外単純な理由だった。
呼吸を整え、型を繰り返す。幾度となく心が折れそうになる。
しかしついに、その時は訪れた。呼吸術で強化された剣技が岩を真っ二つに切断する。
「やったな錆兎!」
出会った時には感情を失っていた義勇が、今ではこんな風に笑うようになった。
「これで最終選別に行ける」
運命の歯車が、動き出す。