水柱、瀬尾葉子。上弦の弐と遭遇。
上弦の弐は扇を手にした優雅な好青年だった。その男が張り付けた表情はどこか空虚だ。
「君はお酒って好き? 良ければ一緒に」
なんだこいつは。挑発してくる鬼とは幾らでも出会ってきたが酒の席に誘われたのは初めてだ。
「お断りだ。黙って飲みな」
「あ、駄目だ。俺は鬼だから人間しか食えないんだった」
「そうかい。黙って死にな」
「酒の味がする人間とか知らない?」
「黙ってなと言ってるんだがね」
うちの子と真逆だ。無表情の裏に深い愛情を隠す義勇と対照的に、上弦の弐は張り付けた表情の裏に何もない。
「寂しいなあ、もっとお話ししようじゃないか」
そんな事欠片も思っていないくせに。
―血鬼術 粉凍り
両手の扇から放たれるのは月明かりに照らされた粒。出会った中で間違いなく最強の敵。
瀬尾は最も得意な技、我流の玖ノ型を放つ。
―水の呼吸 玖ノ型 水流飛沫・乱 『
ギラギラと輝く氷の粒を避けつつの連撃。一、二……これで九回だ。並みの鬼ならまともに反応できない魅惑の剣戟。
「わあ速いねえ。流石は柱だ。俺ほどじゃないけど」
惜しむらくは相手が『並みの鬼』ではない事だ。もう一度と型を放とうとして。瀬尾は吐血した。
「ぁ……がっ……!」
棘を飲み込んだような痛みが走る。息をするだけで喉がヒリヒリと焼け付いた。
「吸っちゃったんだ」
口元で扇をひらひら揺らして男は笑う。極小の氷をばら撒き吸い込んだ人間の呼吸を阻害する。鬼狩りの剣士への特攻とも言える肺に効く術だ。
瀬尾は心の中で呟く。ほんっと性格悪いねぇ、鬼って奴はどいつもこいつも。
一旦後ろに飛びのいてから深く息を吸い込んだ。範囲外で呼吸し取り込んだ息だけで戦う算段。一度ついた傷が呼吸を阻害するのは変わらずだが少しはマシなはず。
「なるほど離れるのか。それで保つかな?」
一撃離脱を繰り返す。発想自体は間違いではなかった。しかし圧倒的に足りない。相手が上弦の弐でさえなければ機能したはずの戦術。相手の動きが少しずつ速くなっている。追い付けない。
上弦の弐が放った氷の蔓を受け流す。何本斬ってもキリがない。
息継ぎなしで撃てるのはあと一回。この一回は離脱に使わなければ。問題は相手がそれを許してくれるかだが。
***
瀬尾葉子の物語は至ってありふれた冒頭から始まった。
両親と妹と暮らしていた平凡な日々を鬼に奪われる。
母親の上半身が一瞬で消えた。化物の口には血と父の着物がへばりついていた。瀬尾は現実を受け入れられないまま残された妹の手を引いて窓から飛び出す。
―葉子はお姉ちゃんだから。
両親亡き今、私が守らなければ。
瀬尾の決意も虚しく追い付かれる。腕に衝撃が走る。駄目だ。一度離れてしまった手は空を切った。
転んだ妹の足が鬼の口に飲み込まれ瀬尾は発狂した。
母さんはまだいい。即死だったからきっと苦しまずに逝けた。でもあの子は違う。今まさに齧られ苦悶の声をあげている。
瀬尾は必死に妹を引っ張り出そうとする。しかし鬼は意に介していないのかわざと甚振っているのか変わらぬ様子で咀嚼を続ける。
「にげて」
「一緒に逃げるんだよ」
「だめ、お姉ちゃん、あっち」
足を嚙み千切られながらも瀬尾を押し返そうとする妹。その胴体は鬼に掴まれている。叩き落そうと殴りつけるがびくともしない。
妹の意識が途絶えた後の事は、何も覚えていない。
***
一回分の呼吸を離脱の為に使う。迫りくる氷を振り払え。私は攻撃力も防御力も速度も特段抜けているわけではない。十三歳の私が二人いても『無欠の神童』にはなれなかった。それでもやるしかない。
何とか後方に飛びのく。
これで終わりじゃないでしょとでも言いたげに上弦の弐は虹色の瞳で見つめてくる。
氷の範囲外で吸えるだけ吸い込んで再度突っ込む。やはり速い。瀬尾の攻撃はひらりひらりと回避され扇の一撃を返される。
瀬尾の左腕が切り裂かれ鮮血が飛び散る。ほんの少し遅ければ切断されていた。
確かに上弦の弐は速い。だが違和感。鬼とはこんなに短い期間で成長するものか?
「落とせたと思ったのにな」
黙りな本当に。
何度も剣を振るうちに違和感の正体に気づく。
「……そうか」
相手が速いんじゃない。私が遅くなってるのか?
***
瀬尾葉子は飢えない程度には裕福だった。両親と妹と一緒に幸せに生きてきたと自認している。
幸せだった。その夜が訪れるまでは。
戸を叩く音がする。父が帰って来たのかと母が開けた瞬間。
「……っ!?」
母が消えた。半分だけ。明らかに即死と分かる状態を受け入れられず時間が止まる。
来訪者は父ではなかった。化物だった。その口元に見えた布。これ知ってる。父さんが着ていたのと同じものだ。
「逃げるよ」
窓から強引に妹の手を引いて走り出すのが精一杯だった。
振り向いたら殺される。手を離したら死ぬ。繋いだ手だけは離さぬようにと強く握りしめる。
「お前の家族はみーんな今日死ぬ。俺に食われて。それが『正しい』んだからなあ」
息が止まっていた。吸え。走れなくなるぞ。
私はこの悪夢を知っている気がする。
「この手だけは二度と離さない」
瀬尾は決意を固めひたすら駆け続ける。
奴の腕が横薙ぎに通り過ぎる。当たらなかったらしい。助かった。心なしか足も軽くなった気がする。
逃げ切れるか、
「振り向け」
黙れ。
「いいのか」
奴の目を欺ける所まで駆け抜けろ。
「残念だな」
妹の手を握りながら。
「可哀想に」
少しずつ小さくなる声。
「さようならだ」
おさらばしてやるよ化物。
「これでおしまい」
大丈夫。私が手を握っててやるから。
曲がり角をいくつも越えた。もう奴の声は聞こえない。繋いだ手を強く握る。もう温度も質量も何もかも感知できない。それでも無我夢中で走る。この手だけは離してたまるものかと想いながら。
空が明るくなる。何の根拠もないけど助かった気がして振り返る。
振り返って。
悪夢を見てしまった。
「……え?」
そこに何もなかった。
「いやああああああ!!!!!」
本当に『何もなかった』のだ。
繋いだ手の先には、冷たくなった 腕 だ け が残されていた。
***
鉄扇が滑らかに迫る。受け流そうと刀を振るうが一手間に合わない。切り裂かれる。
狂いそうな激痛。何かがボタリと落ちる音。左腕が両断された。
「大丈夫?」
自分で落としておいて奴は言う。全く気が狂っているとしか言いようがない。即座に腕を縛って止血するも意識が朦朧とする。
「俺がちゃんと食べてあげる」
視界がぼやけ始める。鬼の姿も鮮やかな色合いしか視界に入ってこない。
「救ってあげるから」
瀬尾は右腕一本で抵抗を試みる。せめて夜が明けるまでは生き残ってやる。
「……食糧になるのだけはお断りだよ」
柱である瀬尾が単純に殺されるのと鬼に喰われるのとでは違う。鬼は人を喰って力を増す。鍛え上げられた肉体を持つ者は通常の人間より栄養価が高い。
「神童に負の遺産は残させない!」
夜明けまであと少し。ここで上弦の弐を倒す事はもう出来ないだろう。だが時間を稼ぐだけなら?
瀬尾は一か八か。……義勇の型を真似た。凪のようなものが上弦の弐が放つ氷を叩き落とす。ただでさえ再現できなかったものを無理やり片腕用にしたそれは、もはや型ですらなかった。しかし少しは上弦の弐の気を引くことができたらしい。それが運命を分けた。
最期の執念が、夜明けまでの時間を繋ぐ。
「時間切れかあ」
と退散していく姿を見る。
***
その直後だった。継子三人が瀬尾の元に辿り着けたのは。
「瀬尾さん!」
声の方向に振り向く。ぼんやりと色合いが見える。やはり錆兎は色だけでもわかりやすいな、なんて事を考えたりもして。
「……良かった」
瀬尾の言葉に頷く者はいない。左腕は失われ、他の怪我も深い。もう長くないのは明らかだったから。
「良くないです瀬尾さん」
安心した瀬尾がふらりと倒れ込む。錆兎が慌てて駆け寄り抱き留めた。
「私ね、最後に話したい事があるんだよ」
「黙ってくれ」
「義勇その言い方は!」
錆兎の怒りも最もだがと瀬尾は制止する。
「良いんだ。『無理して喋るな』だろう。伝わった上でそれは聞けないね」
瀬尾が最期に伝えたのは上弦の弐への対抗策だった。全くふざけた男だ。氷の術を使い、吸っただけで肺を凍らせる。全部伝えなければ。酒の味がする人間はいないかなんて聞いてきたんだよ。いるはずないし、いたとして伝えるわけないのにねえ。
そして最後に。
「真菰が前に語っていた夢、きっとなれるよ。私の後に続いてくれると聞いて嬉しかった」
「こんなに早く変わるなんて聞いてないよ! もっとずっと後の話でしょ!」
「錆兎、義勇、二人は放っておくと勝手に飛び出しそうだから支えてあげて。お互いに」
目を離すと死にそうなんて。今死にそうなのは瀬尾の方だというのに。
ぽろぽろと涙をこぼしながら瀬尾に泣きつく真菰。
俺はどうして予感できなかったんだと嘆く義勇。
瀬尾の温もりを確かめる錆兎。
弱々しい息遣いで、腕と口元から血を垂れ流しながら。それでも瀬尾は凛として。
「三人に柱として最後の命令を下します。自分の限界を見極めて死ぬ前に撤退しなさい。くれぐれも一人で勝手に突っ走ってはいけないよ」
「……瀬尾さん!」
それから瀬尾は目を閉じて三人の声を聞く。目を開けてと叫ぶ声が遠く聞こえるけれど。なんだかとても眠くて抗えなかったから。
その日、瀬尾葉子は死んだ。