後悔はない。恨みもない。全てがどうでもいい。皮肉ではあるが、そんな自分にふさわしい幕引きであったように思う。
暗く、深く、落ちていく意識の中で見えた薄く光る青色に何も思う所はなかった。
何かあるとするなら、捨てた筈のくだらない矜持が決定的な敗因になってしまった事に我ながら呆れた、ただそれだけだ。
だから、最後の最後に頭をよぎったその光景を未練と呼ぶにはいささか薄すぎる感傷であった。
何もかもを捨ててきた男は、なぜそんな事を口走ったのか自分自身でもあまり理解しないまま、青い目の死神にそれを託した。
生まれ落ちてこの方呪力などと全く縁のなかった猿が、何も残さず呪術界最強と成った男に殺された。だから、全てがそこで終わりのはずであった。
──────
深く、深く、沈んだはずの意識が段々と開けていく、男が最初に感じ取ったのは死臭であった。聞こえてくるのは、赤子の鳴き声。音、光、匂い、それらが情報として男が置かれた状況を伝えて来る。
「…………どういう事だ。」
禪院甚爾は、間違いなく人生で最も絶望に暮れたと言える瞬間に戻ってきていた。
最強になった化け物に吹き飛ばされた左半身は異常を伝えない。代わりに左の腕の中で小さな温もりが懸命に声を上げている。
天の縛りを与えられたその身体は、どうしようもなくそれを現実として認識してしまっていた。
目の前で横たわり、白い布を顔にかぶせられた女が事切れているのを、甚爾の鋭すぎる五感が訴えて来る。しばらく呆然としながら、ただ立ち尽くす事しかできなかった。
甚爾は死んだはずだ、人としての生の終わりを感じたのは嘘ではなかった。だが、現在進行形で自身の心臓は脈を打っているし、身体自体は嫌味なくらい元気に稼働している。
何かの術中に嵌まったのかと一瞬考えたが、そんな気配はない。何より、自身の対峙していた相手はこのような真似をせずとも甚爾を殺せる。感情とは別に働く冷静な頭が、死んだ後過去に意識が戻ったのだと認識していた。
戻って来たのがよりにもよってこの瞬間なのか、一瞬でもいいから生きている姿を見せてくれても良かったのにと、甚爾は信じてもない神を恨むような気持ちになった。
だが、目の前の彼女から白い布を取る気にはなれない、自分にはその資格がないと思ったからだ。
そうして彼女に触れる事すらできず、ただ無表情で人形のように動けずに徒らに時間が過ぎる。すると、しびれを切らしたのか涙目の看護師が怒鳴ってきた。最後まで甚爾たちの様子を見守ってくれていた若い看護師だ。
「しっかりしてくださいよ!お父さんなんでしょ?」
「…誰が……」
「恵ちゃんの事、お願いって言われたの忘れたんですか?貴方がそんなんじゃ恵ちゃんも泣き止んでくれないですよ。」
「そういえば、そうだったな。」
「はあ!?ほんっとあり得ない!一番大事な事でしょ!!!!」
「思い出さないようにしたんだよ。だが、今度はそうもいかねぇみたいだな。」
「奥さんとの大切な約束ですよね?守るのが当たり前です!」
「……約束か。そうか、それで俺は呪われたって訳だ。」
「何すっとぼけた事を言ってるんですか?呪い?そんな恐ろしい物じゃなくて、アイでしょ、アイ。」
看護師の言葉に甚爾は何か返答を寄越す事はなかった、心がそれ以上何かを思い出す事を拒否したからだ。
だから、何も考えずに腕の中の温もりを甚爾は見つめてみた。不器用な手付きで頭を軽く撫でてやると、泣き疲れたのか穏やかな寝息が聞こえてきた。
「お父さんの手で安心したのかな、寝ちゃいましたね。」
「アホだな、コイツ。」
「阿呆は貴方ですよ、お父さん。貴方はどうしようもない人みたいですけど、恵ちゃんが支えてくれますよ。だからきっと大丈夫。」
「根拠もねぇのに楽観的な事だな。」
「根拠ならありますよ。だって今、ちょっとだけど貴方も笑ってましたよ。約束、忘れないようにね!」
「………世話になった。」
「お安い御用です!」
「クソ親父何してやがったんだ!?」
「あーーーーうるせえ。パチンコだパチンコ。」
「2週間もパチンコで消えるか!」
「何だ、寂しかったのか?恵。」
「そんな訳ねえだろ、津美紀が不安そうだったんだよ。大人の癖に心配かけんなクズ。」
「へいへい。」
「たまには話くらいまともに聞きやがれ!!!」
あれから何か前回と変わった事があるとすれば、時折帰る場所ができた、それだけであった。
人間はそう簡単に変わらない。意識が過去に戻って来た瞬間が、甚爾の唯一の死の直後というのもいただけなかった。
特に生き方を変える必要性も感じず、甚爾は相も変わらずヒモと後ろ暗い仕事を本業とし、ギャンブル三昧、再婚だってした。
過去に戻った理由を考慮し、恵を禪院に売る事こそしなかったが、客観的に見ても甚爾は決していい父親とは言えない。三つ子の魂百まで。甚爾の場合、死んでもどうしようもない部分は治らなかった。
その挙句、そもそも甚爾が今回より荒れていた前回ですら恵と津美紀はちゃんと勝手に育った。基本的に放任しておいていいだろうという安心感もある。
ただ、孔時雨が高専関係の仕事を斡旋してきた際には断った。甚爾は、化け物に殺されると分かっていてわざわざ喧嘩を売りに行くような馬鹿ではない。例えどんな好条件で、高額の金を積まれようと、何か作為を感じる程執拗に頼まれようと、それに関しては退けてきた。五条悟と敵対すれば死ぬのは甚爾だ、呪われ過去に戻った甚爾はその選択肢は取り得ない。
だから、無駄な自尊心によって幕を閉じた前回の教訓から、一度負けて悔しいからリベンジ、などとは考えないようにした。
五条悟と仕事で関わるのは一切ごめん被る、と仲介役の彼には伝えてある。五条悟と関わらない、つまりそれは東京の高専関係の人間と真っ向から敵対するような仕事を避けるというのと同義で、前回よりも稼ぎは減ったがギャンブルに溶かす金が減っただけで特に困ってはいなかった。
そして、その影響はひょんなことに出てきた。かつて術師殺しとして名を馳せた甚爾であったが、今回ついぞその二つ名を聞かなくなった。戻ってからというものの、呪霊、一般人、呪詛師、呪術師、五条悟関係でなければ特にえり好みせずに依頼を受けていた甚爾は術師殺しというよりただの始末屋という方が性質が近い。
生にしがみつく理由もないが、特に死ぬ理由もない。これといったこだわりもなく、金さえ手に入ればそれでいい甚爾は楽に稼いで暮らしていた。人の悪意は世から消えない、おかげで甚爾のような人間が食いっぱぐれる事はなかった。
「お父さーん帰ってたの?ちょうどいいや、見て!!これ!!」
「いつになくご機嫌だな、津美紀。何かあったのか?」
「お買い物してガラガラ回したらあたったの!」
「見せてみろ」
家で寝ころんでテレビを見ていたら、津美紀が腹に飛び込んできた。甚爾がいない間も周囲の助けを借りながらではあるが、立派に二人で暮らす彼女は小学校の帰りに買い物をしてきたらしい。
スーパーのレシートと引き換えに抽選をして当ててきたのは何と沖縄への旅行券であった。甚爾が回せばほぼ確実にティッシュしか当たらない所を、津美紀は見事特賞を当ててきた。
「はぁ?これ沖縄じゃねえか。」
「それじゃあ、おきなわ?に行けるの?いつ??」
「行かねえよ。」
「せっかく当たったのに……」
そういって沈んだ様子で冷蔵庫へ向かう津美紀は、その後3人で食卓を囲むまでしょぼくれていた。余程楽しみにしていたのだろう、それに気づいた恵に盛大にキレられた甚爾は子ども二人に騒がれ続けられる方がよほど面倒だと思い承諾の旨を示した。
どうせ、自分が居なければ子ども2人で飛行機に乗って旅行など不可能なのだ。ひとまず、要求を聞き入れておいて予定自体は流せばいいだろうと考えていた。
そんな話をした2週間後、いつものように適当に依頼をこなしそのまま近くの競馬場で馬券を無駄にしていた時であった。
甚爾の携帯が鳴った。内容は恵からのヘルプコールで、ただ場所と「助けて」の一言で電話が切れた。
小学校に上がった恵は、禪院相伝の術式を持っている事が判明していた。多少の使い方は覚えさせたが、戦い方も身の守り方も何も教えていない。恵の術式を狙った誘拐か、甚爾に恨みを持つ人間からの襲撃かと考えたが、恵の声音からは怯えや焦りを感じられなかった。
──恵をお願いね
あの様子では、おそらく大丈夫であろうが万が一という場合もある。甚爾は電話が切れてすぐに競馬場を発った。
何もかもがどうでもいい、伏黒甚爾はこの世で一番大事な物を失った。
だが、今は彼女との約束が甚爾を縛る。そのせいで、勝手にわが物顔で甚爾の傍をうろちょろする子どもたちを失いたくないとほんの少し考えてしまうようになってしまった。
現在、恵の身に起きている事の可能性を予測し、勝ち筋のパターンを頭に落とし込んでいった。伏黒甚爾の強みはその圧倒的な身体能力と冷徹冷静な思考にある。らしくもなくはやる気持ちを押さえつけ、全速力で空港へと向かった。
「……謀ったな、ガキども」
「いえーい、大成功!」
「本当に来るとは思わなかった……」
「何だかんだでお父さんは来てくれるよ。恵もそう思ったから電話したんでしょ」
「うるさい、津美紀。」
恵に言われた場所に着くなり、匂いや音で子ども達を探した。何か変わった様子もなく、通常通り混雑している国内線ターミナルのベンチの上に、大きな荷物と共に二人は座って居た。
笑顔で話をしている様子から、何もない事はうかがえたのでため息をつきながらゆっくりと甚爾は近づいた。そして麦わら帽子を被りやたら薄着をしている子どもたちの姿から甚爾は全てを察した。
「何で来た」
「テメエが来いつったんだろうが、クソガキ。」
「だってアンタ耳いいだろ?騙せると思わなかった。」
「………」
「何だっていいじゃない。これでみんなで沖縄旅行にいけるね!」
「ここまでお前ら2人で来れたんだ、俺は来なくても良かっただろ。」
「私は家族みんなで行きたかったの!お父さんもいないとだめ」
「俺はアンタなんてどうでもよかったけど。」
「…まあ飛行機は子どもだけじゃ乗れねえけどな」
「そうなんだ。でも、お父さんが来なかったら帰るつもりだったから関係ないよ。恵もそんなツンツンしないで!本当は楽しみにしてたくせに。」
「お前はいい加減黙ってろ!」
甚爾は恵に図星をつかれた事で内心混乱していた。そうだ、恵の言う通り二人が無事なのはほぼ確信していた。
恵のヘルプコールの背後からは、人の雑踏とアナウンス、飛行機の音が聞こえていた。悲鳴や攻撃音などは聞こえず、何か事件が起きている気配はなかった。
子供たちが二人、飛行場でただ待っているだけだったのは、普通に考えれば分かる事だ。その挙句、公衆電話からの着信であったし、恵の様子も普段と変わりはなかった。
それなのに焦って最悪を想定し、全力でここに向かってくるなんて、普段の自分ではあり得ないミスだ。伏黒甚爾は自分でも気が付かないうちに、共に暮らしている子ども二人に絆されてしまっていたらしい。
素直な津美紀はまだしも、恵まで来るかどうか分からない自分を待っているだなんて甚爾は考えもしなかった。自分がどう思われていようがどうでもいい、だが想定していたよりもかなり信頼されているのではないかと甚爾は思った。
自分の子供ながら人を見る目が無いなと哀れに思った。だが、福引で当てた紙切れと甚爾さえいればすぐにでも沖縄に行けるものだと考え、浮かれきっている小学校に最近あがったばかりの二人の様子が面白く笑えたので、仕方なくそのまま流されてやることにした。
「沖縄、な。今回だけだぞ」
「!!やった!」
「!!」
「手続きしてくるからジュースでも飲んで待ってろ。」
ここで家まで連れ帰ってへそを曲げられるより、大人しく沖縄に連れて行った方が面倒が少ない。
それに、ちょうど一仕事終えた後でしばらく暇で特に予定が決まっている訳ではない。行動力は無駄にあるガキどもの、めったに聞かない我儘を聞いてやろうという気分になった。
二人分の小さなリュックと、それよりも大きいバッグが一つ置いてあるベンチを横目に甚爾はカウンターへと向かった。
パンパンになったボストンバッグに何が入っているかは、聞くまでもなく分かっている。閉じきれなかったファスナーの端からは甚爾のスラックスが飛び出ていた。
「海だーーーー!!!」
「広いんだな…」
「この辺で適当に遊んでろ。海にはまだ入るなよ。じゃあ、俺は向こうの売店に用があるから」
そう言い残し甚爾は夏真っ盛りで繁盛している屋台に向かった。子どもが荷物を用意しただけあって、絶妙に真夏のビーチに必要な物が足りない。靴に砂が入るのは嫌なのでサンダルを買い、ついでに昼飯にちょうど良さげな焼きそばも買って、二人がいる方へと意識を向けた。
「………は?」
いけ好かない男の気配が、自分の息子と娘の近くにある事に気が付いた甚爾は驚いて目を見開いた。気取られないよう、注意を払いながらそちらに視線を向ける。
やはり、そこに居たのは白銀の髪の、嫌味なくらい美しい青い目を持つ男であった。
それ以外に共に居るのは、少女と女が一人ずつ。甚爾の記憶が正しければ、星漿体とその世話係である。
前回、請け負った任務のせいで甚爾が青い死神に殺された日時はとうに過ぎている。だが、甚爾が干渉しなかったせいか前回のターゲットもそのお付きの女も甚爾も生きている。
状況が全く呑み込めないまま、しかし、そこに近づかないという選択肢が存在しない甚爾は頭を掻き、苦虫を嚙み潰したような顔をしながら恵と津美紀の方へと向かった。
「何やってんだ、恵、津美紀。」
「砂遊び。」
「そういう事を聞いてるんじゃねえ。」
「ちゃんと挨拶しないとダメだよお父さん!」
「それは後でもいいだろ。とにかく、どういう状況だ?」
「理子ちゃんと悟くんと遊んでるの!」
「あーーもうそれでいい。」
このままでは埒が明かないと思い、遊んでいる子供たちを見守っているまだ話が通じそうな世話係に甚爾は話を聞くことにした。
いわく、2人だけで遊んでいる恵達を心配し、天内理子が一緒に遊ぶように声をかけたようだ。甚爾が目を離し、買い物に行って帰ってくるまで15分ほどしかなかったと思うが、一体全体なぜそれほど仲良くなっているのかと疑問が湧くほど楽しそうにはしゃいでいる。
そして甚爾が恵達の方へ帰ってくるまで誰よりも乗り気で砂山を作っていたデカいガキが、甚爾を穴が開きそうなほど見つめてくる。
話の最中こそ割って入ってくる事は無かったが、黒井との会話が終わった瞬間に興味津々といった様子で甚爾の方へと近づいてきた。
「アンタ、どっかで会ったか?」
「…気にすんな、俺も苦手だ。男の名前覚えんのは」
「五条悟。オトウサンは?」
「伏黒甚爾だ。テメエにそんな風に呼ばれる謂れはねぇ。二度と言うな、ぶっ殺す」
「はぁ?できる訳ねえだろ。」
「どうだかな、次は分かんねえぞ」
「意味分かんねぇ」
「おい、ところで連れはお前ら三人だけか?」
「?そうだけど」
「ふぅん、そうか……。」
「え?何、おっさん何かキモイ事でも考えてる?」
「マジでムカつくクソ餓鬼だな、テメエ。いいからあいつらと遊んでろ。俺は忙しいんだよ、どっか行け。」
「そう言って寝るだけじゃねえか、ふっざけんなクズ。言われなくとも帰りますよーーっと。アンタなんかと話しても時間のムダ。」
五条悟を追い払ってから、甚爾は過去の事を思い出していた。確かあの時は、星漿体と世話係、それと護衛役に五条悟と呪霊操術の使い手が居たはずだ。
呪霊操術の使い手の名や顔などは思い出せないが、取り込んだ呪霊に暴走されても面倒なので殺しはしなかった事だけは覚えている。
なぜ、彼一人だけ此処にいないのか、少し頭をひねってみたがそれ以上考える事はやめた。そもそも状況も日時も違うのだ、呪霊操術の使い手が居ても居なくても些末な事だろう。
甚爾は全てが面倒に思えて、パラソルの下に寝転がった。
なぜ遠路はるばる沖縄のリゾート地までやってきて、甚爾が殺し、殺された連中と再会しなければならないのか。何の因果か、それとも呪いか、自分の運の無さを恨みながら目を閉じた。
「……で?何があった。」
「お父さんが寝こけている間に、黒井さんと恵が攫われたの!はやくどうにかしないと!!」
「そこの坊ちゃんは何してたんだ?」
「俺は津美紀ちゃんと天内と居た。黒井さんと恵君は飲み物を買いに行ってたんだ。多分そこを狙われた。」
「あっそ。誘拐される覚えでもあんのか?詳しく話せ、五条の坊。」
「……アンタこっち側の人間か?呪力は全くの0だけど……うわぁ、初めて見たこんな人間。いや、前に一度会ったことがあるような…」
「さあな。そんな事はどうでもいいだろ。はやく言え、じゃねぇと無理矢理吐かせるぞ。今俺は猛烈にイラついてんだ。」
殺害ではなく誘拐という事は、誘拐犯はこちらに何かしらの要求をしてくる可能性が高い。突然害されることも無いだろう。相手が禪院だった場合はなおさらだ。だから、ここは焦らずに待つのが最善である。
だが、そう考える頭の冷静な部分とは別で、どうしようもない怒りが湧いてくる。その感情に任せて海面を殴ろうと思ったが、何かを感じ取って怯え、甚爾の足にしがみついてくる津美紀の顔を見てやめた。
五条悟が近くに居て、何かが起こるとは考えていなかった。
前回、最期の瞬間に曲がりなりにも好きにしろと自分の息子を任せた相手で、自分を殺せた化け物である。
そこで甚爾は、自分の油断とケシ粒ほどではあるが目の前のクソ餓鬼を信用してしまっていた事に気づいた。
アホらしい、子供たちが突拍子もない行動をとり始めてから甚爾の「普段通り」は崩れっぱなしだ。