脱出防止用の格子の付いた窓。
四畳ほどしかない小さな部屋は薄暗く、机に置かれた味気ないデスクライトだけが部屋に明かりを灯している。
「もう一度聞く。組織の情報を吐け。規模、構成員、繋がりのある有力者。なにか有用な情報があれば今後の貴様の処遇にも影響があるだろう」
途切れ気味の眉毛と吊り上がった眦、太い黒ぶちの眼鏡をかけた男性が詰問する。
見た目通り神経質そうに目をほそめ、威圧的な印象を与えている男性の名は風見裕也。警察庁警備局警備企画課――通称公安警察だ。
対するは鍛え抜かれた大男。黒の組織の一員、コードネーム・アイリッシュ。
「チッ、同じことを何度も何度も。いいか、テメーらに話すことは何もない。もし俺が話すとしたら、それはあのガキ以外に他はない。テメーらみてえなハイエナに渡す情報なんざ何一つねえんだよ」
「これは温情で言っているんだ。今話せば五体満足でいられるとな。今更貴様が司法のもとで公正に処されるとでも思っているのか? こちらは貴様が喋りたくて仕方がなくなるまで待ってもいいんだぞ」
「はっ、やれるもんならやってみな。順当に指を潰すか? 眼をくり抜くか? 古式ゆかしく磔にでもしてみるか? 吐かせられる自信があるなら思う存分やるがいい」
「貴様……」
人を小馬鹿にするように半笑いでアイリッシュは吐き捨てた。
繋がれたままの手錠が重たい金属音を揺らしている。
パイプ椅子が軋んだ音を立てた。
万が一にも被疑者が暴れださないようにと両側で控える屈強な警官二名が、軽蔑の色をにじませてアイリッシュを見下ろしている。
「もういい、風見」
「……降谷さん。ですが」
「俺が話す」
風見裕也の後方で腕を組んで事の次第を見守っていた優男――降谷零が風見の言葉をさえぎって進み出た。
ダークグレーのスーツに身を包み硬質な雰囲気を隠さない彼は、「安室透」であったことなどみじんも感じさせない冷たさに満ちている。
「バーボン、まさかテメェがNOCだったとはな。組織に胡散臭い奴なんかゴマンといるが、特にテメェは一級品だ。警察ってガラじゃねえんじゃねえのか?」
「無駄口はいい。あの夜のグラスホッパーの動きが知りたい」
「はぁ?」
「東都タワー内のカメラ映像を押収した。不自然に映像が乱れた監視カメラ。あれは現場にグラスホッパーがいたということを明確に示している。……グラスホッパーが居ながら何故組織の任務に失敗した。あそこでいったい何があった?」
「…………」
静寂。
アイリッシュはニマニマとした笑いを引っ込めて、感情を読めない瞳を降谷に向けた。
「知ってどうする」
「それは我々が決めることだ。貴様には関係ない」
「関係ないだと? テメェらに話した次の日には俺が死体で発見されてもか?」
「そうだ」
アイリッシュの威圧に依然として降谷は態度を変えない。
無機質なまでに淡々とした姿に、隣の風見の方がうろたえているほどだ。
アイリッシュが深く息を吐いた。
イスに深くもたれかかり、両足を机の上に放り出す。
風見が気色ばんで立ち上がろうとしたが、それは降谷に制止された。
「……アレは化け物だ。正真正銘のな」
風見が「どういうことだ」とアイリッシュに問いかけたが、アイリッシュは明確な返答をしなかった。
ただ、悪夢を振り返るようにぽつりぽつりと語っていく。
「この時代に刀をマジの武器に使うなんて、サムライ気取りの
「…………なにを馬鹿な……いや、降谷さん、現場で見つかった鉛の粉末はまさか本当に、」
「殺気もなにもありゃしねえ。そこに立ってんのに気配がしねえ。目の前にいるってのに、それが映像かなんかに思えるくらいにな。その状態でふっと掻き消えて、次の瞬間には俺はトラックに跳ねられたみてぇに吹っ飛んでた」
「……」
「気づいたら全身血まみれだ。包丁風呂にでも入ってたみてぇに切り傷だらけ。いつ斬られたのかも分からなかった。アレが本当に殺る気なら銃を撃つ前に俺は挽き肉になってただろうよ」
それは現実の被害の話をしているとはとても思えない、カートゥーンじみた話だった。
銃弾を刀で切断する。
それはかの国際指名手配犯、ルパン三世の仲間の一人である石川五ェ門の絶技だ。
彼の存在は機関銃の連射すら刀で防ぐ生きた伝説。一秒間で15発の弾丸を切り落としている計算になるそれは、とても人間とは思えない実在する伝説である。
しかし今回のこれは次元が違う。
現場から採取された鉛の粉末は微量なものだ。しかし、それを顕微鏡で見ると寸分たがわず正確な正六面体だったのだ。
一辺5マイクロメートルの正六面体は人の目にはただの粉末にしか見えない。
文字通り「粉になるまで斬る」……それを機械のごとき正確さで、銃弾の飛翔する一瞬の間に行う。
それはまさに化け物の業である。
人間の眼の角速度を超えて動く人外の速度、トラックに形容されるほど不可解なまでに重い打撃。
どれも現実に起こるには奇妙に過ぎる。
アクション映画ならばそんなこともあるかもしれない。そういうたぐいの話だ。
しかし否定しきるには証拠が揃いすぎている。
東都タワーの大展望台に残る、足跡の形をしたくぼみ。弄ばれたとしか思えないアイリッシュに刻まれた無数の切り傷。
それは人型のナニカが理不尽なまでの暴威を振るった跡だった。
黙って話を聞いていた降谷は、ここにきてようやく再び口を開いた。
「貴様は何故グラスホッパーの攻撃対象になった? 組織経由で情報は得ている。貴様がグラスホッパーを雇ってメモリーカードの回収と件の犯人の殺害を依頼したと。それだけならば貴様にはあの場で攻撃される理由がない」
「あー……そいつはあのガキに聞きな」
「あのガキ……コナン君のことか」
降谷の色の無い瞳に少しだけ感情が顔を覗かせた。
江戸川コナン。
小学一年生の民間人。
類まれなる頭脳と規格外の行動力、恵まれた天運と善良な精神。その全てを兼ね備えた驚異的なギフテッドの子供。
アイリッシュの話の核は再びかの優秀すぎる少年へと移ったようだ。
「あいつなら全部知ってるだろうよ。グラスホッパーのことも、あの夜何があったのかも、今回の顛末も」
「……たしかにあの場に毛利蘭が居たのはコナン君の目撃情報があったからだと聞いている。スタッフもそれらしい子供が東都タワーに登っているのを見たと証言していた。だが、完全に東都タワー周辺を封鎖した状態で中を調べてもコナン君は見つからなかった」
「そりゃそうだろうよ。グラスホッパーが付いてて見つけられる筈がねぇからな」
アイリッシュの言葉に降谷の肩がわずかに動いた。
「付いている……? どういうことだ」
「どうもこうも、そのままの意味だ。あのバケモンなら封鎖を気付かれずに突破することくらいわけねぇ。テメェらが上についた頃にゃ、とっくにあのガキをつれてトンズラしてただろうさ」
「江戸川コナンを連れてグラスホッパーが逃走した」。
その情報に降谷の顔に険しさが深まっていく。
一国の首都のランドマークが何所の所属とも知れない戦闘ヘリに銃撃されるという大事件。
その現場であの稀有なる知性を持つ少年が目撃された。
部下から情報を聞いた降谷は、それが偶然や見間違いなどではないことぐらい百も承知だ。
降谷ですら読み切れないその頭脳でもって今回の事件を解き明かし、一人で現場に乗り込んでいったのだろう。
あの夜あの場に江戸川コナンがいたことはほぼ間違いない。
では何故現場に踏み込んだ警察官が江戸川コナンを見つけられなかったのか。
アイリッシュの言葉を信じるなら、グラスホッパーが何らかの事情で江戸川コナンを連れて逃走した事になる。
降谷の脳裏に様々な可能性が駆け巡る。
誘拐、利害の一致、取引。
もし江戸川コナンがグラスホッパーに誘拐されたとしたなら。
優秀な彼を組織に勧誘するため。何らかの重大な情報を吐かせるため。彼の背後にいる何者かへの人質として用いるため。
可能性は数限りない。
だが、どちらにしろ江戸川コナンとグラスホッパーの間に何かあったことは確実だ。
降谷は険しい表情のままパイプ椅子から立ち上がった。
デスクライトが小さく明滅する。
風見が部屋から出ていこうとする降谷を困惑したまま見上げる。
「風見、俺は出る。お前は引き続き尋問を続けろ」
「ふ、降谷さん、どちらに」
「コナン君のところだ。民間人をこの件に巻き込むのは気が引けるが、やはり彼から情報を得るのが一番早い」
それだけ言って降谷は急ぎ足で尋問室を後にした。
後に残されてしまった風見はしばらく彼が出ていった扉を見つめていたが、背後から聞こえる忍び笑いに眉間にしわを寄せて振り返った。
「……何を笑っている」
「いや、なに。バーボンの今後が見物だと思っただけさ」
不穏な言いまわしだ。
風見は己の上司に降りかかる何かを警戒し、油断なくアイリッシュを睨みつけた。
「どういう意味だ」
「あの様子じゃバーボンの野郎はあの小さな名探偵に完全に信用はされてないようだな」
「……貴様は何故あの少年にそこまで執心している? 彼にいったい何があると言うんだ」
風見の問いかけに、アイリッシュは遠い思い出を振り返るような、輝かしい日々を懐かしむような、そんな憧憬に彩られた目で笑みを作った。
彼の少年が脳裏で振り返る。
死ぬな、死ぬな、絶対に生きてここから出られる。
純粋に命を尊く得難いものと大切にする心。
彼の善性は、闇深いところに住む人間ほど心惹かれることだろう。
「あいつはグラスホッパーも惚れる色男さ。テメェらもせいぜい気を付けるこった。下手に手を出して護衛の化け物を叩き起こさないようにな」
―――――
むしゃあ、と醤油バター味ポップコーンの最後の一口を飲み込んで私は背伸びした。
ちょっとした体育館程度の広さはあるだろうか。
部屋の前面には巨大な特注のハイブリッドスクリーンが埋め込まれており、後ろのプロジェクターから映されるスタッフロールを淡々と流している。
両側には黒く縦長のトールボーイスピーカーが四機。
立体音響から台詞を聞き取りやすくするための専用スピーカーまで完備しており、防音・音響設備も合わせれば玄人も納得の出来だ。
そう、ここはみんなの憧れシアタールームならぬシアターハウス。
金と努力を詰め込んだ空中庭園の最新施設である。
……魔が差したんだ。
たまたま買ってきた映画のDVDが面白すぎてね。ちょっとね、映画館みたいな建物が家にあるといいなって、ね。
よくある。そういうことはよくあるから。無駄遣いではない。
現にスコッチさんは喜んでた。大丈夫。
北欧製の最高級リクライニングチェアから降りて、後ろに設置されたブルーレイディスクプレイヤーへ向かう。
今回見ていたのは「イコライザー」という映画である。
元暗殺者の主人公が今はホームセンターで働いているとか、そういうアクション映画だ。
普通の人に見えるかもしれないが実は最強、みたいなテンプレを踏襲していて実に良い。テンプレとは王道であり、それだけ人に愛されているということだ。
わ、私も引退したらホームセンターで働こうかな。同僚に絡むヤンキーとかを軽く〆て見せてすげーって言われたい。何かやってたんですかって聞かれて「昔のことさ」って切なそうな顔をして答えたい。
煩悩煩悩。
ブルーレイディスクを取り出して机に置きっぱなしのパッケージにしまい、隣室のDVD・ブルーレイ保管室へと返しに行く。
DVD・ブルーレイ保管室内部は五階建てになっており、それぞれアニメ、映画、ドラマなど分類されて各国の映像物が収納されている。
一般に販売されているものならほぼすべて揃っているだろう。
ハリウッドの人気作から発展途上国の国営放送まで網羅し、正直なところいつだれが見るんだという品揃えだ。
金があるヲタクというのも厄介なもので、ひとつ極めようとすると度を越してしまうらしい。
カッとなって買ったはいいものの少々やりすぎた感は否めない。
利用率の高い1階の有名映画コーナーに入り、ふと見覚えのない棚が増えていることに気が付く。
小ぶりの手作りラックであるそれは優しい色合いのニスで塗装されており、その上から大きなトトロ柄の布がかけられている。
すみっこではコダマの置物が首を振り、カオナシのカレンダーがこちらをじっと見つめている。
中央にはジブリの各種DVD ・CDが並び、それぞれに手書きのポップアップが添えられている。
どれどれ。
[『ハウルの動く城』の根底は「女の子」と「ハート」のおとぎ話! ハウルと心臓の関係に注目してご覧ください。原作小説もごいっしょに。]
[『千と千尋の神隠し』では日本神話の世界を感じてください。独特な神様たちの理不尽だけどどこか愛嬌のある事件の数々。言葉とは力である!]
この字はスコッチさんだ……。
いったいいつの間にこんな凝ったスペースを作ったんだ。
リアル天空の城だって騒いでいたのは記憶にあるし、巡回の竜牙兵をデコってロボット兵にしてしまったこともあったが、ついに抑えられなくなってきたようだな。
空中庭園の施設を紹介するついでに「
「
今作っている飛行石のペンダントの完成を急がねば。
首にかけていれば空中に浮けるし、エーテル操作によるバルス機能も搭載予定。
これを日頃の感謝を込めてスコッチに渡し、空中庭園のラピュタ化を思いとどまってもらうのだ。
ひっそりと脳内で対ジブリ運動を構想しながら出口へ向かっていると、ちょうど宮野さんもシアターハウスに入ってくるところだった。
Vネックのブラウスに赤いカジュアルなスタジアムジャンパーを羽織った普段着で、地上から持ってきたらしいCDを山ほど抱えている。
ビートルズにジョン・レノンにビリー・ジョエル。
まだ若いのになかなか古いセンスの持ち主だな。それって日本で水俣病とかが起こった時期に流行った曲だった気がするのだが。
CDに紛れて一つ、どうやらDVDと思しきものも混ざっている。
「あら、グラちゃん。何を見てたの?」
「『イコライザー』という映画。名作であり、薦められる。それとグラちゃんではない」
「へー、次に見てみようかしら。グラちゃんのことだからまたアサシン映画でしょう」
「是。しかしグラちゃんではない」
「グラちゃんもたまには違うのも見たら? アラビアのロレンスとか名作よ」
「……」
だからグラちゃんはやめてくれ! 野ねずみになってしまうだろう!
「ぐりとぐら」。子供向け絵本として小さいころお世話になりました。あれは優しい良い話だった。
そして古いセンスである。アラビアのロレンス。1960年代の映画だろうに。
私がつっこみが追い付けなくなりながらも、宮野さんは優しくマイペースに笑っている。
彼女がここに来て1か月。
元々以前から交流はあったが、ここに住み始めたのはつい最近のことだ。
そこに至る交々はあったが、見たところそこまで気落ちしている様子はない。
彼女生来の強さか、一か月という時間か、彼女はこんな異郷でも落ち着いてすごせているようだった。
「ああ、そうだ。次に私がここのシアターを使いたいんだけど、大丈夫かしら?」
「是。何を見る予定だろうか」
「これよ」
CDの山から取り出したのは荒い印刷のパッケージだ。
発行元もなにもなく、どうやら個人か劇場単位の製作物だろう。
「オペラ座の怪人。急に見たくなっちゃって、昔の持ち物を漁ってたら出てきたの」
「…………問う。もしや見ていたか」
宮野さんは愛らしい仕草でウインクを一つ。
若く美人な女性である彼女には良く似合う、お茶目さを感じさせるキュートな仕草だ。
私はその様子で彼女が見ていた事を悟り、脳内で絶叫した。
ああああああああああああああ見られてた見られてた見られてた見られてた見られてた見られてた見られてた見られてたみられてたミラレテタ!!
「ごめんなさい。私、そのとき奥の小ホールで昼寝してて、あなたが入ってきたことに気が付かなかったの。でも凄いわ。あなたが演じてたのってやっぱり『オペラ座の怪人』よね」
「………………是」
「本当に凄くて驚いちゃったんだから! 天性の才能っていうのかしら。透き通ってて、綺麗で、心にしみわたるようで。自分の語彙が無いのが悲しいわ。今まで聞いてきたどんな歌より素晴らしかったのに!」
そりゃあそうだろう。
この身はファントム・オブ・ジ・オペラ――オペラ座の怪人そのものなんだもの。
彼が持つ指導力・実力は、有名舞台オペラ座でトップを張ることができるほどのものだ。
それをそのまま与えられた私が、下手に歌えるわけがない。
その上、「魅惑の美声」は女神のスキルによりBからワンランク上がりAとなっている。
前世がどれほどの音痴だろうと、ここまでやられて上手に歌えないやつはいない。
歌がうまくなったのだから、ひとつ試しに歌ってみようか。
そんなちょっとした出来心とストレス発散を兼ねてオペラを歌ってみたのだが、まさか見られていたとは。
彼女が寝ていたのと庭園に登録してある人間だったことを差し引いても、私は気を抜きすぎである。
ああ、見られた、見られてしまった……。
言うなれば、自転車で通勤中に鼻歌を歌っていたのをたまたま知り合いに聞かれてしまったようなもの。
恥ずかしすぎて墓穴を掘りたい……。
あっ、ちょうど「
「あなた、歌手でも十分やっていける、いや、世界でトップを狙える逸材よ! ねえ、一緒にウィーン国立歌劇場を目指さない?」
「否。私はアサシンである。私はアサシン以外の何者でもない。あと、この件はスコッチには内密に願う」
「ふふふ、彼も熱心だものね。前回は獣医師だったかしら。この件を聞いたらオーディションに引っ張っていかれかねないものね。いろいろ薦められて鬱陶しく思うのも仕方がないかもしれないけど、彼もあなたのことが心配なのよ」
「是、是、是。彼は優しくまっとうな良心を持つ善人である。だが……」
世の中に職業は星の数ほどある。
プログラマー、会計士、事務員、デザイナー、教師、医者。
私が第二の人生を歩む理由は、そうした職業の中からたった一つ、
彼に何を言われても転職はできないのだ。
「スコッチがいろいろ薦めたくなる気持ちも分かるわ。あなた、なんでもできるんだもの。この施設を作ったのも、館内をつなぐネットワークを構築したのも、私が急病の時薬を作ったのも、全部あなた。多才なんて言葉じゃ表現しきれないわ」
彼女の私を見る目は優しさと慈しみに満ちている。
彼女は本心でそう思っているのだろう。
惜しい、その全てを捨てて暗殺だけに専念するのは惜しいと。
「グラちゃんはさ、どこであんなにたくさんの事を教わったの?」
「このスキルは暗殺のために賜ったものである」
「あん、さつ……」
「そう。暗殺者の持つ全ての技術を、私は与えられた」
サーヴァント・アサシンの持つ全ての力。
それを与えられた私は暗殺に属するありとあらゆる事を完璧に行うことができる。
辻斬り、毒殺、諜報、処刑。まっとうな暗殺から果ては快楽殺人まで。
宮野さんの顔が陰る。
これら特殊技能はどんな職業にでも応用できるだろうに、その技術が生産性のない私の趣味嗜好で浪費されるのだから、彼女が悲しむのも無理はない。
ハーバード大卒ニートみたいなものか。そりゃ怒るはずだ。
「……ねえ、聞いていいかしら」
「是」
「私があなたについて知ってることって、全部暗殺についてだけなの。好きなことも、苦手なことも、暗殺が関わらない事はない」
「……」
「名前だってそう。山の翁はフリー時代のあなたの通称。グラスホッパーはコードネーム。ハサン・サッバーハは暗殺教団の頭領の名前から借りた偽名でしょう? 」
彼女は目を伏せて静かに私を語っていく。
暗殺、暗殺、暗殺。振り返ってみればたしかに私の開示した情報は暗殺に関わるものばかりだ。
別に意図したものではないのだが、この世界のキャラクターに開示しても恥ずかしくない個性を求めるとどうしても暗殺に偏ってしまうのだ。
キャラ立ちの問題というか。
宮野さんは目を伏せたままぽつり、と涙をこぼすように問いを落とした。
「教えて。……あなたの、本名を」
「ない」
「……え?」
「ない。私に本名は存在しない」
私が生まれおちたとき、そこはイランの飢餓にあえぐ小村だった。
私を路地とも言えない乾いた土がむき出しの地面に置くと、母親らしき女性は涙を流してその場を走り去っていった。
見るからに貧しそうなところだ。
生んだはいいもののこのままでは母子共倒れ、というところだろう。
母親らしき女性もかなりやせ細っていた。あそこまで栄養失調で、よくぞ死なずに子供を生めたものだ。
こちらは生まれ持つ能力で生き延びるのに支障はない。
ドッペルゲンガーの能力で手近な人間に化け、そのまま女性が走り去ったのと反対方向に歩き出した。
下手に面倒を見られて幼児プレイなど私が辛い。
女性も後ろめたく思う必要はない。win-winというやつだからな。
仕事を探すのも、言語を習得するのも、全てすべて自前でできる。
いつか生んでくれた礼をしに行こう。
そう思って荒れ果てた路地を歩いたのが、この世界での最初の記憶である。
女性は私に名前を付けなかった。
もしかしたらあったのかもしれないが、今となってはどうでもいい話だ。
「…………そう。なら、私が付けるっていうのは」
「否」
悲哀に満ちた宮野さんの声が私の罪悪感を刺激する。
でもごめんなさい。私は本名なんていらないのです。
何故なら、前世の名前こそが――――私の本当の名前なのだから。
―――――
「アイリッシュの身柄は公安が確保しているわ。情報はじきに合同捜査本部へ送られるそうだけど……正直言ってどこまで渡してくれるかは公安の上層部次第ね」
「安室君からの横流しに期待するしかないな。キャメルはどうした?」
「銃撃戦の後始末よ。高速道路上で狙撃合戦なんて、書類をいったい何十枚書かなきゃいけないことか。シュウ、あなたもっとスマートにできなかったの?」
「キャンティもコルンもそう甘い相手じゃない。ともすればやられていたのはこちらだ」
白く安っぽいブラインドが下がった窓と、切れかけの直管蛍光灯。
端が黒ずんだ壁紙はクリーム色で、ガタガタと不安定な長机が並んだ部屋は少々狭い。
ここはとあるビジネスホテルの1室だ。
使われていなかった部屋を急遽手を入れて会議室として使えるようにした影響で、あちこちがボロボロの安っぽい部屋になってしまっている。
ビジネスホテル自体はそうランクの低いものではないのだが、たまたま他の団体客が正規の会議室を予約していたのだ。
他に会議室として使える部屋を探してもよかったのだが、合同捜査本部の開設は明日だ。
今日限りの部屋をわざわざ他で探すこともない。
そうした判断から、FBIらしからぬボロ屋を借りているのだった。
赤井は思案とともに煙草の煙をくゆらせる。
江戸川コナンから聞いた情報は、彼を驚愕させるのには十分すぎた。
グラスホッパーが、ボウヤを守った。
曰く、それは契約とのことだ。
都内の神社で偶々会った二人は、そこで契約を交わした。
コナンはグラスホッパーに握手をする。その対価に、グラスホッパーはコナンの命を守る。
子供の戯れ事のような口約束だ。
そのためにグラスホッパーは組織を裏切ってまでコナンを助けたのだ。コナンとの握手は、彼にとってそれほどまでに重い事柄なのだろうか。
いや、コナンの話を信じるのなら、「彼」ではなく「彼女」か。
金髪で
それが裏社会で伝説を築き上げた暗殺者、グラスホッパーの姿であった。
赤井は短くなったタバコを灰皿に押しつけ、胸ポケットから新しい一本を取り出す。
上品な赤のデュポンライターのフリントホイールを回すと、小さく炎がともった。
背後で吸いすぎを注意するジョディの声が聞こえたが、するりと無視を決めこんだ。
何故彼女は裏切ってまでコナンを助けたのか。
ひとつ考えられるのは、裏切りが彼女にとってそう重いことではないという理由だ。
彼女は最強の暗殺者。誰にも見つからず、誰にも捕まらず、誰にも止められずに事を成し遂げる宵闇の主。
裏切りには死をもって応えるのが組織のやり方だが、彼女を殺せるものなど存在しない。それゆえに、彼女が裏切っても組織はどうすることもできないだろう。
彼女がRUMの熱心な勧誘で組織に入ったのは有名な話だ。組織への帰属意識も皆無に等しい。
そう考えれば彼女にとって裏切りなどちょっとしたことでも起こりうることだと思われる。
だが、いくら裏切りが軽いとはいえ、その程度の口約束を守るために組織を裏切ったりするだろうか。
その答えを、すでに赤井は知っている。
大事件が起こる前の、ちょっとした口約束。
それが多くの人間の生き死にを左右する大事件のキーとなる。
そんなつもりなどなくても、彼女はときに驚嘆すべき気まぐれさで絶対の契約を誓うのだ。
――――それは2年前、深々と雪の降る寂然とした冬の日のことだった。