アサシン(英霊)なオリ主in名探偵コナン   作:ラムセス_

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15 天空の難破船──E

「無事か灰原っ! 怪我はねぇか?」

「工藤くん、その姿……!」

 

 新一を視界に入れてすぐに灰原は目を見張った。

 灰原の覚えにある小学生の姿ではなく、紛うことなき高校生である元の姿を取り戻していたからだろう。

 談話室に入った新一にすぐさま駆け寄り両手を伸ばして新一の体調を確認しようとする。

 

「脈、体温は正常……風邪で突発的に戻った訳じゃないのね。なら一体どうして、血圧は、ASTの値も調べないと」

「んなもん後だ、後。ともかく安全な場所に避難してろ」

 

 不安そうな灰原を落ち着かせ、常と変わらない無表情でソファに座るグラスホッパーを新一は見やった。

 新一の後に続いて談話室に入ってきたKIDがグラスホッパーを見て「げっ」と声を上げる。

 KIDがグラスホッパーのことを怖がっていることは知っていたが、ここまでだったとは。

 声に反応してグラスホッパーもこちらに顔を向けた。

 

「あなたが怪盗KIDか。なるほど、たしかによく見ればその魂には魔術的な守りが施されている。協力者は先日こちらを見ていた悪性情報に連なる者だろうか」

「あー……、ゴホン。失礼、レディ。わたくしめはそちらの話題に詳しくないのです。どうかご容赦を」

「そこまでの対魔力を持っていながら魔術に踏み込まないのは少々惜しいように思う。磨けば武器にもなり得る」

「私はあくまで奇術師。夜を翔けるエンターテイナー。魔法使いになる予定はございません」

 

 KIDはなんとかいつものキザな怪盗としての態度を取り戻し、わざとらしい紳士さを前面に出してグラスホッパーに一礼した。

 新一はここまで付き合ってくれた礼として、彼の頬に伝う冷や汗は見なかったことにした。

 しかし奇妙な会話だ。

 KIDとグラスホッパーには共通の関係者・話題があるようだが、どうも隠語が多すぎて内容が掴めない。

 

「グラスホッパー、お前それなんの隠語だよ。KIDの言ってた紅子って人の話か? 変な宗教かファンタジーみてーに聞こえるぞ」

「これについてはいくらシェリングフォードと言えど話せない。いずれ知るときが来る。それまで待つか、あるいは自力で探り出してもらいたい」

 

 返事は意外なものだった。

 彼女は新一に対して隠し事をほとんどしない。彼女は大抵の場合聞けばほとんどなんでも答えるからだ。

 たとえそれが他国の機密や世に出てはいけない情報のたぐいでも平然と漏らす。

 ただ、以前黒の組織の動向やかつて請け負った組織からの暗殺依頼をポアロで平然と答えだした時は流石に止めた。

 そのときはカウンターでコーヒーを入れていた安室さんは勢いあまってコップを一つ割ってしまったが、それに気をとられて梓さんがこちらの話を聞いていなかったのは幸いだった。

 

「……組織の内情より重要な情報、ね。上等、シェリングフォードの名に相応しい働きを見せてやるよ」

「頼もしい。楽しみにしている」

 

 グラスホッパーの様子は嬉しそうですらあった。

 新一のことを「タイトルロール」と呼び慕っているところを考えるに、表題役として新一が動くことを彼女は好んでいるのかもしれない。

 KIDはというと、複雑そうに心底関わりたくないという顔をしていた。

 KIDの方向からこの話題の謎を探ろうかとも考えたが、彼はこの件については余程良くない思い出があるらしい。

 

「つか、テロリストの連中はどうなったんだよ。オメーが居てヘタをうつことは無いだろうけど、状況が掴めてない。今奴らは何処にいるんだ?」

 

 新一が率直に現状を聞くと、彼女は機嫌の良かった様子が一変してどこか不愉快そうな空気に満たされた。

 グラスホッパーは多少の沈黙を置いてからぽつりぽつりと話し出す。

 

「テロリストの男2人は上の二等室にバーボンに運んでもらった。もう用済みであるが故に、適当な部屋に押し込めればそれで良いと考えた」

「用済み……まさかお前、」

「まだ死んでいない。安心してほしい、シェリングフォード」

 

 グラスホッパーの無表情に僅かな笑みが乗る。

 仄暗い微笑みだ。濁った川底を思わせる瞳が薄い嘲笑を示している。

 その言い回し、その表情から新一は瞬時にテロリスト達の末路を察した。

 

「死は救いである。私は彼らに救いは与えなかった。苦痛の中で生き続けることを彼らには望んだのだ。あなたも人の死を忌避しているので丁度良いように思う」

「それはつまり、テロリストの奴らを死なない程度に甚振った、っつーことか」

「是。彼らがあなたを飛行船から放り出した後、私は彼らを制圧した。容易いことだった。短機関銃で武装した男2人。私に対応するための戦力としては不足に過ぎる」

「お前相手ならそうだろうな」

 

 グラスホッパーの驚異的な戦闘能力に関しては、東都タワーでの一件で嫌という程知った。

 仮にも黒の組織の一員である男が、こんな年端も行かない少女に切り刻まれていくさまは新一の脳裏に深く刻み込まれている。

 そうでなくとも、彼女がこれまで行ってきた数々の不可能とされる暗殺任務を思えば不自然な話でもない。

 

「彼らはシェリングフォードを、あなたを害した目障りな存在である。多少の憂さ晴らしは許して欲しい」

 

 彼女の声色には呪いじみた澱みが積もっていた。

 きっとそれは激情の残滓だ。得体の知れない威圧感。

 グラスホッパーは新一が落ちていくあの瞬間、おそらくかつて無いほどの怒りを覚えたのだろう。

 談話室に来る前ダイニングを通ったが、その時感じた血の匂いを思い出す。

 てっきり自分の流したそれの名残だとばかり思っていたが、グラスホッパーの様子を見るにそれだけではなさそうだ。

 

「お前は……」

「ああ、そうか。そう、あなたを不快にさせたかもしれない。私はあなたを暴力の言い訳に使うつもりはなかった。許してほしい」

「……そんなに、か」

「うん?」

「そんなに、お前は俺に入れ込んでたんだな」

 

 新一は胸中に複雑な思いを抱えながらも、幼くあどけない暗殺者を責めることはできなかった。

 感情表現をほとんどしないグラスホッパーがここまで怒りを露わにしているのだ。

 その怒りは相当に深いだろう。

 そして、そんな激情をコナンを傷つけられたことで抱いたのなら、それは正しいことではないが人間的に喜ばしい変化である。

 

 新一には自分がなぜそれほどまでに彼女に想われているか分からない。

 しかしどういった理由であれ、大切なものを傷つけられて怒るのは人として健全な在り方に違いない。

 怒りの表し方を決定的に間違えているとはいえ、表情一つ揺らさず淡々と人を殺めていくこれまでと比べれば一歩進んでいると言えるだろう。

 闇深い谷底に少しだけ光が差した。

 一足飛びに解決とはいかないことに、新一はままならない現状を少しだけ憂いた。

 

「シェリングフォード、あなたは主人公(タイトルロール)である。それは姿が変わっても生き方が変わっても揺らがないことだ。私が今回失態を重ねてしまったため、あなたを不安にさせてしまったのだろうか?」

「そんなんじゃねーよ、バーロー。お前が本気で俺を守ろうとしてくれてたってのは理解したし、俺が死にかけたのは俺の行動が原因だ。お前を責めるつもりはない」

 

 テロリストへの拷問を察した新一の表情に、グラスホッパーは少しばかり顔を陰らせていた。

 彼女はおそらく拷問を反省してそうなったのではなく、新一をみすみす傷つけられてしまったことと新一の意にそぐわない行動をしてしまったことへの負い目から表情を曇らせたのだろう。

 ここの対応を間違えるわけにはいかない。

 新一が責めるつもりはないと言い切ったことで、グラスホッパーはおずおずと顔を上げた。

 

「けど、人はできるだけ傷つけるんじゃねーぞ。そんなことをお前がしなくたって法がきちんと裁いてくれる。お前がそんなことする必要はないんだ」

「シェリングフォード」

「でも、そうやって感情を表すのは別に悪いことじゃない。今度から気を付ければいい」

 

 そう言って新一はグラスホッパーの頭をできるだけ優しく撫でた。

 ゴールデンブロンドの髪は柔らかく艶やかだ。

 本来の姿に戻ったことでずいぶんと小さく見える彼女に、改めて新一はグラスホッパーがまだ幼い子どもであることを理解する。

 頭を撫でられる経験がないのか、グラスホッパーは困惑顔のまま新一を見つめ返していた。

 

 それを幾分か神妙な顔つきで見守るKID。

 灰原は遠くを思い返すような表情で目を伏せた。

 グラスホッパーは撫でられたままKIDと新一を交互に見やり、もう一度後悔を滲ませた声でぽつりと言葉をこぼした。

 

主人公(タイトルロール)が二人揃う、というのはやはり壮観だ。このような大舞台で気を抜いて失態を犯すとは、私もほとほと詰めが甘い」

「……タイトルロールが二人? 俺以外にもお前がそう呼ぶ奴が居たのか」

 

 グラスホッパーの内心・背景を知るための鍵となる発言が唐突に投下され、新一は一気に思考を回転させた。

 彼女は事あるごとに新一のことを「タイトルロール」と表現するが、その正確な意味はまだ分かっていない。

 分かっているのは新一を物語の主役とみなし、世界を物語とみなしていること。そしてタイトルロールと呼ぶ人物を彼女が大切に思っていることのみ。

 これもまた何かの隠語だろうか、それとも彼女の家系に伝わる宗教的な比喩だろうか。

 

主人公(タイトルロール)は、知りうる限りであなたを含めて4人いる。工藤新一、怪盗KID、ルパン三世、そして金田一一」

「金田一って、たしか夕闇島の……知り合いだったのか!?」

「否、否。私は彼とあったことがない。ただそうだと知っているだけである。彼らは主人公(タイトルロール)。世界を回す人」

 

 その言葉は感慨深い響きを持っていた。

 新一自身の名も含めた、縁も所縁もない4人の名前。グラスホッパーがそれらに強い関心を抱いているのは明らかだ。

 なんとか情報を引き出そうと話しかけるその前に、彼女は色のない視線をこちらに向ける。

 

「それより、事態が動いた。予想通りではあるが、バーボン1人に対処させるのも気がかりである。そろそろ二等室に向かうことを提案する」

「――っ、え?」

 

瞬間、銃声が響き渡った。

 

「これは上から……くそっ、どういうことだ!」

「一等室から出た藤岡隆道が物音に気付いて二等室に移動し、そこでバーボンと鉢合わせしたようだ。己の計画が失敗したのを悟ったのだろう。バーボンに藤岡隆道が発砲した」

「藤岡……それってルポライターの、でも、ああくそ、情報が足りない!」

「工藤君!」

「灰原はここで待ってろ! とりあえず二等室に行くぞ!」

「へいへい、了解しました名探偵」

 

 情報収集すらままならない状態で急転する事態。

 新一は焦りのままにKIDとグラスホッパーを伴って二等室へと走り出した。

 

 

 

*****

 

 

 

 二等室は戦場だった。

 家具の陰に隠れた安室さんと藤岡が互いに銃を打ち合い、さながら劇場版のワンシーンのようだ。

 さながらも何も元々これは劇場版なわけだが。

 

「くそ、くそ、くそ! 何なんだテメェ!」

「まさかそっちから馬脚を露わすとは思っていませんでしたよ、藤岡さん。貴方の武器はその拳銃ひとつだけ。おそらく飛行船内の他の協力者もいないのでしょう? もう状況は詰み。諦めたらどうです?」

「ウルセェッ! 頭の足りない傭兵どもを利用してせっかくここまで来たんだ!クソ、鈴木財閥のくそ爺もその象徴であるベルツリータワーの崩壊もすぐそこだっていうのに! クソが!」

 

 ひたすらに悪態をつき続ける藤岡に、安室さんが小さく舌打ちするのが見えた。

 安室さんというキャラクターが物腰穏やかな優しい青年なだけに、降谷さんの素がチラッと顔を見せたときの怖さもひとしおである。

 

 さて、この状況どう決着をつけようか。

 一足で飛び込んでさっくり片付ければそれで終了なのだが、先ほど工藤君に釘をさされたばかりだ。

 むしゃくしゃが拳ににじみ出てうっかり殺してしまってもいけないので、迂闊に踏み込むこともできない。

 私が悩んでいる間に、遅れて二等室に到着したKIDが状況を察するや否やトランプ銃で藤岡の行動を牽制した。

 

「っ!?」

「敵は一人ではありませんよ? 真犯人さん」

 

 一瞬藤岡の意識が安室さんから逸れた。

 もちろん彼もその隙を逃すような甘い性格はしていない。

 バーボンとしての立場を存分に利用するつもりなのか、安室さんは躊躇いなく藤岡の右肩を打ち抜いた。

 くぐもった声を上げて拳銃を取り落とす藤岡。

 落ちた拳銃をすかさずKIDが遠くに蹴り飛ばす。

 

「チェックメイト」

「…………く、そ」

 

 憎悪に満ち満ちた視線を安室さんに向け、藤岡は血の滴る傷口をもう片方の手で抑えた。

 右手は力無く垂れている。

 最後に部屋に入って来た工藤君も、状況を一目見るや否や推理を成立させたらしい。

 目を見開いて「そうか、そういうことだったってわけか!」と小さく呟いていた。

 

「さて、一応確認しておきましょう、藤岡さん。貴方が今回の一連のテロ事件の真犯人、本当の赤いシャムネコの残党ですね」

「……」

 

 藤岡は押し黙った。

 しかし安室さんはすでに真相を解き明かしている。余裕と自信に満ちた笑みで拳銃を向けたまま安室さんは言葉をつづけた。

 

「貴方の行ったことは簡単だ。民間軍事会社の傭兵崩れを金で雇い、危険なウイルスを研究所から盗ませる。そして『ウイルスと偽って漆を用いたテロを行え』と指示するだけ。貴方はバックアップと称して研究所をハッキングしたり、事前に飛行船内に侵入してウイルスを散布しておくだけだ。傭兵たちが香港マフィアと繋がって勝手に仏像盗難計画を企てていることも知っていたのでしょう? 彼らは貴方を隠れ蓑にしているつもりでしたが、実際には貴方にまんまと利用されていたというわけだ」

 

 ぎり、と奥歯が噛み砕けそうな音を立てている。藤岡の様子はもうほとんど手負いの獣のようなありさまだ。

 安室の言葉にも返事を返すそぶりはない。

 ちらり、と藤岡が目線を横に向けた。

 

「船内に真犯人が潜んでいることは分かっていましたが、まさかこんな偶発的に発見できるとは思っていませんでしたよ。僕が武器らしい武器をもっているとは思っていなかったのでしょう? 拳銃一つあれば残りの乗客を殺害して計画を完遂できると、そう思って仕掛けてきたんですよね」

「……」

「しかし、僕にも僕の事情があります。こんな面倒ごとに巻き込まれるなんて思ってもみませんでしたが、それもここで全て終わりにすることにしましょう」

「……クソが」

 

 拳銃を突きつけたまま安室が歩み寄った。

 KIDは静観し、工藤君は事態を理解したのか息を呑んで制止の声を上げようと息を吸った。

 しかし。

 

「……っ、はァッ!」

「っ!?」

 

 突然藤岡が捨て身の勢いで工藤君の側に飛び出した。

 自由になっている左手でベルトに仕込まれたナイフを取り出し、工藤君に切りかかる。

 まさか工藤君も標的になるとは思っていなかったのだろう。

 とっさに反応できずに硬直したまま迫りくる刃に視線が固定されていた。

 

「ギェアッ!?」

 

 そして隣にいた私のカウンターが腹にめり込み、藤岡は驚愕の声を上げて倒れ伏した。

 そのまま藤岡の頭を踏みつけ、私はヘンリージキル&ハイドの持つなんの変哲もないナイフを懐から取り出した。

 

「度し難いほどに愚か。拳銃で死ねていれば楽だったというのに」

 

 自分が想定していた数十倍冷たい声が出た。

 今回の一件の真犯人というのだけでギルティだというのに、この男はあろうことかまた工藤君を狙ったのだ。

 人質として狙うには妥当だったが、そればっかりはいただけない。

 KIDは犯罪者だから除外、私は立っている位置が悪い、安室さんは銃を持っている。

 そうするとあとは工藤君しか残っていないのは分かるが、心情的には最悪の一言である。

 

 スキル「人体研究:B」「処刑人:A++」「拷問技術:A」を連動展開。

 できる限り苦痛に満ちた死を与えるための予備動作だ。

 ただでさえ江戸川少年を傷つけられるわ工藤君に怒られるわで精神がベコベコなのに、こやつは泣きっ面に汚い唾を吐きかけて来た。

 88の人格が満場一致で「処刑!」と脳内会議を盛り上げている。

 

 最初の一撃で気を失っていた藤岡の首にナイフをそっとあてた。

 押し黙ったまま、部屋の中にいる人は皆声一つあげない。

 

 脳髄と脳だけ摘出して痛覚神経を刺激しながらホルマリン漬けか? 後が面倒くさいからここで強化したナイフで魂ごと肉体を切り刻むか?

 ああそうだ、そういえばサーヴァントは魂食いができるんだった。

 それがいい、と私はナイフを逆手に構え直した。

 よく手入れされたナイフ独特の輝きが部屋のランプを反射する。

 私は目を細めた。

 く、とナイフを握る手に力がこもる。

 

「……っ、グラスホッパーっ!!」

 

 ナイフを振り下ろそうとしたその瞬間、私は後ろから唐突に抱きしめられてた。

 

「っ!? シェ、シェリングフォード……?」

「グラスホッパー、止めろ、止めるんだ」

 

 言葉の力強さに反して、声の調子は囁くようなそれだった。

 私の体をすっぽりと覆うように工藤君が手を伸ばし、私の手を押しとどめている。

 筋力値にすれば私よりもはるかに低い脆弱なそれだが、無理やり払うというわけにもいかない。

 というかそれ以前にどういう状況だコレ。

 そこまで殺してほしくなかったパターンなんだろうか。聖人すぎだろ工藤君。

 あと私、推しに抱きしめられて死ぬほど恥ずかしいんですがそれを考慮に入れて行動してほしいです工藤君。

 

「グラスホッパー、落ち着け。俺はお前に守られて無事だった。傷一つ負っちゃいない。ほら」

 

 工藤君は耳元で囁いた。

 唐突過ぎる甘い展開。少女コミックのワンシーンかと思うような状況。

 あまりのことに呆然としていた私は、されるがままに工藤君と向き合った。

 あっ、近くで見るとやっぱイケメンだわ眼福。

 

「ほらな。そいつを殺す必要なんて何一つないんだ。お前が怒ってくれるのは嬉しいけど、俺はそんなの望んじゃいない。お前なら分かるだろ?」

 

 工藤君は切なそうな、必死そうな、懇願するような響きを含んで甘い声をかける。

 幼子をあやす母親。孫の喧嘩を見守る祖父。

 そういった慈しみの光が宿った瞳で、工藤君はもう一度私の頭をゆったりと撫でた。

 

 88の人格の一つ、もっとも工藤君推しの人格が「わが生涯に一片の悔いなし……」という遺言を残して昇天した。

 ああ待って、私を残して逝くなというか気持ちは痛いほど分かるがラオウは止めなさい。

 「尊い」「ムリ」「ここが理想郷やったんか……」と人格が次々と白旗をあげていくなか、私は頭の中が真っ白のまま工藤君を見つめ返した。

 身長の関係で必然的に見上げる形となる。

 青年独特の精鍛な顔立ちを前に、これまで頑なにコナン推しだったが新一形態も悪くないな、なんてことを考えて、「それな」と人格の誰かが同意した。

 

「……承知した」

「良し!」

 

 ひとことそれだけ口から絞り出すと、工藤君は犬でもほめるような調子で破顔して乱暴に頭をわしゃわしゃなでた。

 

「……っあー、名探偵度胸あり過ぎでしょ……」

「こればっかりは同意します。あの状態のグラスホッパーを前に動くことができるなんて、ちょっと信じられません」

 

 男衆ふたりが何ごとかぽつぽつと言葉を交わしていたが、私はイケメンを全力で輝かせている工藤君の対応で精いっぱいだったため意識を向けることはできなかった。

 

 

 その後、私は半分以上ぼうっとしながら魔術で作り出した抗ウイルス薬を乗客に投与して回った。

 抗ウイルス薬を見て意味ありげな視線を向けるバーボンを適当にあしらいつつ、今回はこれにて終了である。

 普段ならバーボンの恐ろしさに内心震えるところだが、今回はそれどころではなかった。

 まさかの接触に並列思考のほとんどが機能を停止している。

 

 「尊い」しか言わなくなった2番、3番思考をカットしてなんとか普段通りの頭の回転を取り戻すのは、それから3時間後のことだった。

 

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