16 ルパンVSコナンその1
天空の難破船よりはや一週間。
私は東都ホテルで開かれたミラ王女のレセプションパーティーに来ていた。
会場の巨大ホールへ気配遮断を駆使して苦もなく入り込み、うろちょろとTVカメラの群れを見学する今現在である。
流石に王女の来日ということもあって取材陣の数はすさまじい。
直前に女王と王子が二人とも死去しているという話題性もあって注目度もいつになく高いのだろう。
ミラ王女にとってあまりにも酷薄な歓待がレンズ越しに漏れ聞こえてくる、そんな華やかで冷たい昼下がりでございます。
さてはて、やってまいりましたルパンVSコナンのアニメスペシャル。
確か事の始まりは王位継承問題だったか。
ジラード侯爵が国の実権を握ろうとサクラ女王とジル王子を謀殺。
王家にありがちな四面楚歌に陥った若きミラ王女──それが実に毛利蘭似の美人さんだ──は自暴自棄のままに会場を抜け出し、峰不二子と駆け落ちとかいう盗んだバイクで走り出す的な凄まじい暴挙を敢行するのだ。
ここ一週間は飛行船の乗客たちの記憶操作だったり江戸川少年の容態観察だったりで比較的忙しかったため、原作見どころ第二弾の到来に若干ワクワクしてしまう。
難破船で一番問題だったのは工藤くんの顔見せが行われてしまったことだ。
組織の幹部バーボンの目の前で私を抱きしめたり撫ぜたり……ではなく。いやそれも十分精神ダメージになるが。
グラスホッパーと親しげに振る舞ってしまった事そのものがかなり深刻な事案なのだ。
私は基本的にぼっち属性であり、親しい人間が極めて少ない。
スキルの情報抹消で顔見知りが作りづらいというのもあるが、根本的に私がコミュ症だからだ。
工藤君が私と親しくしているという強烈な印象は、バーボンの中でじきに江戸川少年との強固な関係を連想させることだろう。
ようは江戸川コナン=工藤新一という物語最大のネタバレを防止する必要があるということ。
こんな重要な情報を私の大ポカで晒したなんて事になったら羞恥心で肉体ごと液状化してしまう。
江戸川少年へ治療魔術代わりに使ったアレは、魂の形を肉体へ反映させるというもの。
彼本来の姿は高校生活のそれであり、薬物の影響で肉体が変わってしまっても魂の形は以前のまま。
魔術によって魂の姿を反映させられたのなら、彼が突如工藤新一に戻るのも当然の事だったりする。
あの時は緊急事態だったのである程度は仕方ない面もあるのだが、やはり責任を取るぐらいはせねばなるまい。
そうして関係者の記憶を整えたり監視カメラの映像をハッキングしたりと日々忙しく過ごしていたら……。
ルパコナが到来したというわけだ。
「───ヴェスパニア鉱石はやはり、いや。どちらにせよ確かめるしかない」
誰に聞かせるでもない独り言を漏らしながら、影灯籠にて肉体を無明へと同化させていく。
ヴェスパニア王国の成り立ちは以前一度調べたことがあるのだが、今のそれは奇妙に過ぎる。
ルパン三世の勇姿を生で見られるのは嬉しいのだが、不安材料も盛り沢山だ。
彼らの世界観が波乱万丈、奇妙奇天烈というのもあるが。
確かめねばなるまい。
私の視線は控室にいるミラ女王にひたりと向けられている。
その身体に存在する開かれた痕跡の無い16の魔術回路と、香るような異界の気配。
型月という世界観が存在しないはずの世界に、何故これらの異物は存在しているのか。
それらの答えをゆっくりと思案しながら、「そういえば飛行機に密航した江戸川少年は助けておかなきゃ」と活躍の機会をしめしめと計画した。
*****
ぞわり、と全身の細胞が警告を泣き叫んだ。
荒事に慣れた次元の肉体は考えるより早く己の相棒であるS&WM19を構えた。
「どうなされました、突然。一体何が……」
「……」
次元は無言のまま全神経を集中させた。
全身が締め上げられるような重圧。呼吸すらままならなくなりそうなほどの濃度。
一言でも話せばその気の緩みを突かれるだろう。
この実体すら感じそうな殺意の持ち主は、これまでやりあってきた数々の難敵と何ら遜色ない力を持つはずだ。
そう確信できるほどの研ぎ澄まされた殺気だった。
うろたえるキース伯爵とお付きのSP達が身動きする音だけが飛行機のエンジンが発する低重音に混じっている。
高度3000メートルの上空を時速864キロで飛行するこの機体に外敵が侵入することは不可能に等しい。
もしそれを果たすとするなら、離陸前に何らかの形で侵入するしかない。
反女王分子を警戒して入念にチェックしたジェット機に、しかもこれまで念のため警備を行っていた己を欺いたまま、いったいどうやって?
次元は警戒に淡く笑ったまま銃を鳴らした。
「そう警戒する必要はない」
「っ、」
背後から響く声に、次元は瞬時に身をひるがえして銃口を向けた。
そして小さく息を呑む。
砂金を思わせるディープトーンの長い髪。絹のごとき繊細さと象牙のような排他性を帯びた白い肌。
背丈は次元の腰にも満たない。幼い幼い相貌は整いすぎて作り物めいた印象を抱かせる。
ぞっとするような深い色合いのグレイッシュブルーが次元をそっと映していて、殺気の主がこの少女であることを確信させた。
「……金髪にグレーの瞳のガキ、か。まさかとは思うが、『山の翁』ってのはオメーのことか?」
銃口を向けたまま、次元は無防備にその場に佇む少女に尋ねた。
2週間ほど前から、国家の情報機関を中心にあの伝説にまで上り詰めた稀代の暗殺者、『山の翁』の外見情報が出回りだした。
『山の翁』の活動は5年前までさかのぼることができる。
初めての活動はイラン、戦火や紛争にまみれる中東において、かの存在が残した爪痕は大きな意味を持つ。
世間で言われる有力政治家の暗殺だけではない。
数々の反政府組織・テログループの頭目が『山の翁』の手にかかってその命を散らしているのだ。
『山の翁』に暗殺を依頼するということはすなわちターゲットの絶対的な死を意味したし、だからこそかの存在とコンタクトを取れるということそれ自体が戦局を左右した。
ここ数年は活動は下火になってはいるが、それでも半年前にメキシコを騒がせた失踪事件は記憶に新しい。
迷信の混ざったような嘘八百のコンタクト方が何百億という金額で取引されたことだってあった。彼女の外見情報の入手、というのもこの業界でまことしやかに囁かれているだけの噂話だとばかり思っていたのだが。
「是、是。私は現在、グラスホッパーという名で活動している。かつて『山の翁』と呼ばれていたのは私のことである」
澄んだ鈴の音を思わせる声だ。
その外見を構成する全てがか弱く無力な少女のものであるというのに、空気に浸透する毒素のごとき殺気がそれを否定する。
次元の首筋を冷たい汗が伝うのを誰が責められようか。
銃を突きつけているのはこちらだというのに、次の瞬間には己は絶命しているだろうという確かな予感に脳が震えているのだから。
「おい、キースさんよォ。反女王分子にこんな超大物助っ人が居るなんて俺はこれっぽっちも聞いてないんだがね」
次元は意識して軽口を叩いた。己の平常心を僅かでも保つための行為だ。
この圧倒的なまでの死の気配を感じ取れないらしいキース伯爵は、それでも次元の尋常ならぬ様子に気が付いたようだ。
軽く構えをとって次元に答える。
「私どものほうでも反女王分子は精査していますが、金の流れはともかく実行部隊の詳細までは把握できておりません。申し訳ない」
「まあ、たとえ把握できてたとしても伝説が直々に動くなんざ話半分に聞いてただろうけどな。せめて心の準備ぐれぇはしておきたかったとこだ」
意識を引き絞る。
己の感覚がその絶望的なまでの脅威を叫んでいるが、こちらにもプライドというものがある。
数多くの困難を乗り切ったこれまでの経験で泣き叫ぶ本能を塗装し、震えそうになる体を根性で押さえつけた。
少女がわずかに目を細める。
「チッ!」
銃声。
0.2秒にも迫る早撃ちが少女を捉える。
戦闘に時間間隔が引き延ばされ、タールの中を進むような抵抗感を空気に感じる。
己の最速に近い動作から放たれた弾丸が、あやまたず少女の眉間へと迫る。
少女は未だ動かない。
色のない瞳。
次元は彼女の瞳に写った己を見て、全身が総毛だつほどの悪寒を感じた。
これまでの経験が形のない危機を警告し、必勝であるはずの現在から次の一手へ繋ぐため左方向へ体を駆け出させる。
筋肉に力を入れる、その一瞬。
「芸術的なまでのその技術、賞賛する」
「……ッ!!?」
なんの変哲もないナイフが己の首にあてられていた。
次元は息を呑んで硬直した。
視線を下に向けると、背伸びをめいっぱいにした少女がナイフを持った手を伸ばして首から顎にかけてを狙っていた。
背丈が足りていないことがありありと分かるが、微笑ましさなどまったく感じない凍えるほどの冷たさに満ちている。
いったいどうやってここまで移動したというのか。
不死の超能力者も居たし宇宙人が残した土偶と関わった事もある。SFで言えば明らかなオーバーテクノロジーに幾度も遭遇してきた。
この瞬間移動じみた動きもそのたぐいだろうか。
ならば、瞬間移動の使い手にはどう対応すれば良いのか。
次元が絶体絶命の状況下で必死に思考を巡らしていると、少女は瞬きを二つしたあとすっとナイフを下した。
「……どういうつもりだ」
「私にはあなたを害する意思はない。警戒は当然だが、嘘偽りでないと誓おう」
そう言ってナイフを可愛らしいツバメ型のポシェットにしまった。
グラスグリーンの下地にカーキ色のチェック模様が入ったプリーツスカートが動きに合わせて揺れる。やさしいライトイエローのキャバリア・ブラウスはふんだんにレースがあしらわれ、繊細で美しい。
少女は次元から一歩後ろに下がり、こちらを見つめている。
「……あー、分かった。こっちも無理に戦いたいってわけじゃないんでね。手出ししてこねぇって言うんならそれでいい」
次元はどっと流れる汗を意図的に無視しながらできるだけ平静に答えた。
――死んでいた。
さっき、間違いなく己は死んでいた。殺されていた。
まさに人間の遥か上を行く、バケモノの牙が己の首筋にひたりとあてられていたのだ。
戦いを避けられるならば絶対に避けるべき相手だと、次元はこの短い立ち合いで嫌というほど理解した。
「な、ここにはミラ王女がおられるのだぞ!」
「正面からやって勝てる相手じゃねぇんだ。こっちから仕掛けるのは無謀通り越してマヌケってもんだ」
「だが、」
「あー、いい、分ーった分ーった。なら聞くぜ嬢ちゃん。ミラ王女の暗殺が目的でないんなら、なんでこの飛行機に潜入した? 物見遊山ってわけでもねえんだろ」
納得がいかないらしいキース伯爵を落ち着かせるため、次元は最低限の聞き込みをする。
これでもボディーガードとして雇われている身だ。給料分の働きぐらいはしなくてはならないだろう。
幸いなことに少女もそこまで好戦的ではないらしい。
ちらりとミラ王女――正確に言えばその身代わりである日本の女子高生――に目線をむける。
「私はこの飛行機に入り込んだ少年の早急な救出をあなた達に依頼しに来た。飛行機の詳しい設計までは私も把握していないので、あなた達とSPに話を通した方が早いと判断した」
「少年? おい、どういうことだそりゃ」
「レセプションパーティでミラ王女のワインに入れられた毒を見抜いた少年を覚えているだろうか」
「ああ、あの偽ソムリエを見抜いた日本人の少年のことでしょうか」
「あのガキが機内に入り込んでるって?」
「是。あなた達がミラ王女の身代わりとして誘拐したそこの女性のことを、彼は大変に慕っている。彼は救出のために決死の思いで飛行機が飛び立つ直前、前輪部分にしがみついて密航を果たした」
「な、そんな馬鹿な」
少女の話は驚愕すべきものだった。
まだ10にも届かないような子どもが、飛び立つ飛行機の前輪にしがみつくなんてハリウッド映画のごとき密航を成し遂げたなどにわかには信じがたい。
しかしパーティで見せたあの底知れない聡明さを思い返すと、それほどおかしくないことだと考えてしまうのも事実。
キース伯爵がコックピットの入り口でうろたえているCAに指示を飛ばした。
慌てて前輪格納庫へ走っていくCAの後ろ姿をとらえながら、少女はゆったりと座席に腰を下ろした。
依然としてSPは警戒態勢を解かずに少女に銃口を向けている。
「それが本当だとして、なんでテメェは日本の一般人であるはずの小僧を守っていやがる。もしあのガキがどっかの御曹司だとしても、『山の翁』は暗殺任務以外受けねぇってのは有名な話だ」
「彼は例外中の例外、私が守るに足る人である。私は彼をあらゆる困難から守る。そして今回も彼を守るためにここに来た」
「へぇ、あの小僧がね」
次元の興味がかの少年に向けられる。
これほどそっくりな風貌をしているのにここにいるのが本物のミラ王女ではないと知っているのだ。この少女の言っていることに嘘偽りはないだろう。
だとするなら、この埒外の暗殺者はただ一人の少年を守るためだけに動いているということになる。
裏社会にその名を轟かせ、畏怖と尊敬をもって囁かれる暗殺者。
このわずかな期間でもその名に相応しい実力を少女が備えていると理解できた。
それほどの実力者が守ると宣言する少年とは、いったい何者なのだろうか。
気を失った少年を保護したとの報告が来たのはそのすぐ後のことだ。
少年が空気の薄い極寒の前輪格納庫の中、正確にコックピットへと連絡するための回路を探り当てた形跡も残っていた。
毛布と湯で暖められた少年の意識はまだ戻らない。
次元にとっても、この見どころのある少年への興味が湧いてきたところだ。
特例としてミラ王女とその周囲に蔓延る陰謀に関わらせる決定を下したキース伯爵に、次元は異論を唱えなかった。
*****
「ところで、キース・ダン・スティンガー」
「……何の用だ」
ヴェスパニアに到着してから、キース伯爵は背後からかかる声に剣呑に答えた。
背後にいるのはかの伝説の暗殺者、「山の翁」。
たとえどんな事情があろうと、相手は数々の権力者を屠ってきた人間である。
コナンと違ってこの少女を信頼することはキース伯爵にはできそうになかった。
「ヴェスパニア鉱石が国外に持ち出されていることは把握しているだろうか」
「……っ、どこでそれを知った!」
思わず振り返って怒鳴りつける。
それは秘中の秘。国家機密のさらに上。
キースとその周囲、そして下手人であるジラードの手の者しか知りえない情報だった。
ヴェスパニア鉱石はありとあらゆる電波・機械製品を乏める悪夢の鉱石だ。
戦闘機に用いれば完全なステルス機となり、ジャミング装置に用いればあらゆる科学的捜査を妨害する。
世界の軍事バランスを大きく揺るがすだろう希少宝石。
その宝石が国外に流出したなど、ヴェスパニアの威信にかけて明かすことはできない。
そして、秘密にすべき理由はもう一つあった。
「超級の魔術結晶が移動して、魔術師が分からないはずもない」
少女の答えにキース伯爵は目を見開いた。
「まさか、おまえ、いや、貴女は魔術師なのか……?」
「是、是、是。私は魔術師である。この1週間の間にアメリカ、イタリア、日本、ロシア。四か国にわたって魔力波を使ったレイラインが形成されているのを検知している。これは根源に挑戦しても可笑しくないほどの規模だ。何が行われているのか、事情を知りたい気持ちが無いとは言えない」
「……それは」
想像したよりはるかに規模が大きくなっているさまを知り、意識せずとも顔は険しくなる。
先代であるサクラ女王から伝えられていた情報は数少ない。
ヴェスパニア鉱石を決して世に出してはいけない。
これを正しい形で用いたとき、恐ろしいことが起こる。
分かっていることと言えばその程度だ。
サクラ女王は魔術師として優れた素質を持っていたが、キース伯爵はその手ほどきを受けただけの一般人。
魔術に関しての書物をサクラ女王がすべて燃やしてしまった以上、知りうることなど無いに等しい。
「……王位継承順位2位であるジラード様が手引きしたことは分かっております。そして、それを外部の者に渡したということも。しかし、それがいったいどういった目的かまでは、まだ」
「そうか。ならば、私が提案できるのは一つだろう」
少女の声は凪の海のように静かで、恐ろしい。
この少女が本当に魔術師であるとするなら、飛行機内で起きた全てのことに説明がつく。そして、「山の翁」の名声を考えるなら尋常ではない術者であることは想像に難くない。
摂理を捻じ曲げ不可能を成すのが魔術だ。
それを戦闘に特化させたとき、人の命は羽根よりもなお軽いものとなり果てる。
キース伯爵は神経を尖らせたまま僅かに息をついた。
「ジラードと呼ばれる人間の命、私が貰い受けることもできるが」
「っ、……ありがたい申し出だが、それは最後の手段としておきたい」
少女の正体が知れてから決めていたことだったが、やはりキース伯爵にとっても抗いがたい誘惑を秘めた提案だった。
そうすればひとつ、事態が確実に解決することは分かっているからだ。
しかし。
「私どもの国は魔術を捨て、未来に生きることを選んだ国。今更魔術の手を借りるなど道理が通りますまい」
魔術は過去に向かって進み、科学は未来に向かって進む。
行きつく先は同じだが過程も手段も大きく異なる。
時代が進むにつれて先細りとなっていった魔術に比べ、科学はよりいっそう民にとってなじみ深く便利なものへと変化してきている。
国のため民のため、魔術を捨てて科学を選んだのは当然の結果だったのだ。
キースの返事に、少女は空気を和らげた。
それはまるで好ましいものを見たような反応だ。
「承知した。ならば私は見守ることに努めよう。ジラードの悪行はシェリングフォードが必ずや解決するだろう」
魔術師が魔術を捨てた者へ向ける態度としてはあまりにおかしい、穏やかなそれ。
王宮の廊下に神代のそれと変わらぬ陽光が差し込んでいる。
瞬きののち、少女は姿を消していた。
*****
「外事は何をやっている! これは国際問題だぞ、分かっているのか!?」
安室は電話口で苛立たし気に叫んだ。
目の前で行われたそれは安室にとって到底許容できる範囲ではなかった。
守るべき日本国民の誘拐、しかも暗殺の危険が高い女王の身代わりとしてなど許せるはずがない。
安室透というアンダーカバーとして動いているのでなければすぐにでも力尽くで止めたものを。
歯噛みして乱暴に通話を切るが、こういった事案の解決は大抵の場合時間を要する。
遅々として進まない展望に苛立ちが募る。
「降谷さん!」
「何だ、風見。今俺は忙しいん――」
「緊急の事案です、至急お耳に入れたい話があるので今すぐ8階会議室へ向かってください!」
安室の盛大な舌打ちに風見はびくっと肩を揺らした。
八つ当たりに申し訳ない気持ちがないわけでもないが、こんな時にという思いも拭いきれない。
安室としての服装のまま、風見をともなって廊下を速足で歩き始める。
警察庁の慌ただしさの流れの中、安室は情報を手短に交わしてゆく。
「それで、何があった」
「5日前のエミリアのライブ会場で行われた取引のバックが判明しました。シチリアン・マフィアのノードノルトラで、トップはルチアーノ・カルヴァレーネ。ライブを隠れ蓑に各国で闇取引を行っていたようですが、今日未明から行方不明となっています」
「取引内容は?」
「新型の覚醒剤がメインで、そのほか大量の銃器もありました。暴力団関係者に相当数が渡ったと見られていますが、一部は民間にも流出した恐れがあります。危険ドラッグのいくつかはすでに売人を押さえていますが、完全ではありません。それと……」
風見にしては言葉に迷っているような様子だった。
こういったときによどみなく要点を伝えられるのが彼の強みなのだが、よほど説明に困るものなのだろうか。
「なんだ、はっきり言え」
「……ガラスレンズに似た謎の造形物が出回っています。用途・材質は不明。鉱石に類するもののように思われますが、特定はできませんでした」
「鑑定はされたのか?」
「はい。複数の専門家に依頼しましたが、いままで見たこともない鉱物だと。美しい結晶を成していますが、実に特殊な性質を持った鉱石らしく、光学分析がまったく使えないそうなのです」
「光学分析が使えない……?」
一瞬、安室の脳裏に閃くものがあった。
しかしそれは形を成す前に霧散してしまい、はっきりと掴むことができなかった。
もどかしさに苛立ちは増す一方で、安室の様子に怯えて風見の動きはぎこちなくなっていく。
会議室はすぐそこだ。
できるだけ心を落ち着けようと安室は努めて大きく息を吐いた。
かわり映えのないオフィスが続く廊下は冷たいグレーに塗られている。風見から渡された書類の束に目を通し、これからの方針に思いを馳せた。
少しばかり特徴的な形状の地下通路が伸びる、ライブ会場の見取り図。
実用性を考えないこの形も、あるいはマフィアがらみの何かなのだろうか。
三つの線が捻じれ悶えるかのような不気味な形状の地下通路の図面が紙束に埋もれていく。
事態が刻一刻と進んでいることを、このときはまだ、誰も知らなかったのだ。
……嘘だ。私はすでにこの異変の原因を知っている。
それなのに、情けなくもただ目を背けているのだ。