まったく絶望的な気分でコナンは立ち尽くしていた。
もう時刻は夕刻。公害とは程遠い澄み切った空気が陽を浴びて鮮やかな夕焼け色に染まっている。
手入れされた池の上に建てられたヴェスパニア王宮東屋。
此度のサクラ王女死亡の真相に関わる人間が集まるそこは、かつてない異様な空気に包まれていた。
「これは、いったい……」
キース伯爵が呆然と呟く。
彼だけではない。そこに居た人間は大なり小なり皆同じ混乱と恐怖を顔に浮かべていた。
その中でも冷静に事を見極めようとしているのは三人。
事態の面倒さを察して逃走経路を素早く計算している峰不二子。
いっそ楽しげにすら見える笑みで、しかし油断なく目を細めるルパン三世。
急激な事態の変化に戸惑いつつも素早く精神を立て直した江戸川コナン。
「んー、こりゃもうジラードさんは生きてねぇなあ。ガキンチョはなんか心当たりある?」
「バーロー! 分かってたら事前に止めてる!」
「ま、それもそうか。じゃあやっぱし山の翁ちゃんの関係ってことか」
「……っ!」
山の翁、すなわちグラスホッパー。
目の前の中年の男性、ジラード・ムスカ・ヴェスパランドが遂げたあまりにも異様な最期にグラスホッパーが関わっていると聞いて、コナンは混乱と動揺と納得を同時に感じざるを得なかった。
ジラード王子の犯行を明らかにしたのはついさっきのことだ。
毛利小五郎に変装したルパンを隠れ蓑に推理を披露し、いつものようにジラード王子の働いた非道な犯行の真相を突きつけた。
ジラード王子自身も己の犯行を認め、それは祖国の未来を想ったがためのことだと独善的な動機を披露していた。
彼は『これまで連綿と紡いできた神秘を冒涜する悪女だ』と故サクラ王女のことを罵っていたが、どうにもコナンは理解が及ばないでいる。
サクラ女王が具体的に何を捨てたのか、何が彼にとって許し難かったのかを全く話そうとしなかったのだ。
キース伯爵は事情を知っているようで沈痛な面持ちを見せていたが、彼以外に詳しいことを知っているそぶりを見せた人物はいなかった。
コナンが小五郎の口を借りてさらに問い詰めようとしたとき、それは起こった。
ジラード王子が突然身体を激しく痙攣させた。
まるで見えない何者かに体を捩じられているように不自然に動き、あらぬ方向に関節をへし曲げ、バキバキと骨の折れる音を響かせた。
掠れた声で苦悶に悶え、悲鳴すら上げないままに捩じ切られていくジラード王子。
結局コナンたちが何の行動にも出られないまま、ジラード王子は口から耳から血を吹き出しながら放られるように地面に身を投げ出したのだった。
これは暗殺なのだろうか。
コナンの頭に不穏な予感がよぎる。
彼女の超常的な身体能力と暗殺技術があれば、このような不可解な死もトリックを用いて実行することができるかもしれない。
キース伯爵も初めからジラード王子のことをサクラ女王殺害事件の犯人と確信していたし、現代においてもっとも高名な暗殺者を前にすれば依頼をしておかしくない。
グラスホッパーがコナンたちと別行動をとったのは暗殺の下準備のため。
そう考えればつじつまが合うことも確かだ。
――だが、そんなことを彼女がしたと考えたくない。
彼女の無垢さ、彼女の純粋さをコナンは知っている。
親に愛された経験は無いのだろう。
彼女を褒める、彼女を肯定する言葉をかけるたび、グラスホッパーはまだ十歳ほどだというのにまったく受け入れず流してしまう。
頭を撫でても喜びより困惑が先に来る様子だ。
そんな反応をしてしまうほど愛された記憶がないというのに、彼女は人を愛そうと努力している。
少年探偵団に会うたび小学校での些細な出来事を聞いては褒めて温かい関係を築いている。
コナンに対しては無償の奉仕。ただ守り尊ぶかのような捧げるだけの情を惜しむことなく続けている。
もちろん彼女が本来暗殺者であることなど分かっている。
しかし、それでも段々と人らしい感情を見せるようになってきた彼女を信じたい。
探偵としての公平さと私人としての感情がせめぎ合って、コナンはどうにも歯がゆいような気持ちにこぶしを握りしめた。
「山の翁が……いや、しかし、彼女は見守ることにつとめると、」
ミラ王女の家臣であるキース伯爵が蒼白の面持ちで呟く。
疑念によって言葉を躊躇したコナンに代わってその問いに答えたのは、実に気の抜けた笑い声を漏らすルパン三世その人だった。
「あー違う違う。これ自体はあの子のやったことじゃねぇよ。あの子はあの子で今、大事件に対処中だかんねー、そんな暇ねぇのよん」
「ルパンのおじさん、どういうこと!?」
「詳しいことはおじさんにも分かんねぇんだなこれが!」
「はぁ!?」
肝心な時につかえない!というか読めない行動が多すぎる!と怒りを露わにしかけたとき、ふいにコナンの背筋をすさまじい悪寒が襲った。
悪意に満ちた氷が背骨の中を這いあがるような、生温かい獣の口蓋がすぐそばで飢えた吐息を漏らしているような、そんな悪寒だ。
「…………っ」
時刻は六時ちょうど。
震えすら走るような怖気に動けないでいるのは、どうやらその場にいる全員が同じだったようだ。
細い途切れがちな息のままにへたり込む毛利蘭を皮切りに、集まったメイドや清掃員たちが力を失って地面に崩れ落ちている。
ミラ王女も例外ではなく、常の強気さも消えて震えながら両肩を抱えている。
コナンにしてもこわばる筋肉をなんとか総動員して立っているのがやっとだった。
バイタリティに関しては人外並みの銭型警部がうろたえて王宮東屋から走り出て空を見上げた。
「なんじゃあ、こりゃあ!!?」
空は絵具で塗りたくられたように黄色だった。
不気味で、おぞましく、病的で、汚らわしい。
遠い山に沈む夕日をかき消すようなひたすらに不安定な黄色。
その中を不格好に飛行するナニカは鳥などではありえなかった。
コウモリ、カラス、モグラを混ぜて腐乱した人間と掛け合わせたような醜悪な外見だ。
馬にも似た長い首を揺らしてフラフラと飛ぶソレは一匹、二匹、いや、見上げるだけで数十はいる。
「なんだよ、これ、いったいなんなんだ!?」
「……六時ぴったし。あのお化けさんがいらっしゃったってワケね」
あまりの異常事態の連続にコナンが叫ぶと、事情を知るらしいルパンが冷や汗を垂らしながらつぶやいた。
同時にコナンのスマホが着信音を鳴り響かせ、はっと冷静さを取り戻したコナンが電話に出る。
「っもしもし」
『ボウヤ、俺だ』
「赤井さん!? いったい何があったの!?」
聞こえた声は焦りが多分に含まれていた。
とぎれとぎれの声から察するに、電話の向こうの赤井は全力で走っている最中のようだ。
『今ボウヤはヴェスパニアに居ると安室君に聞いたんでね。出てくれて助かった。』
「安室さんが一緒なの?」
『ああ。組織とは別件で合同捜査中だったんだが、ヴェスパニアに居る捜査官と突然連絡が取れなくなった。いや、あれは突然連絡を取れないほどの何かが起こった、というべきか。エミリオ・バレッティのコンサートが今日そちらであったはずだが、ボウヤは何か知っているか?』
「…………っ」
コナンは答えに窮した。
原因不明の悪寒で人々が倒れている? 未知の生物がヴェスパニア上空を飛び回っている? 空が気味の悪い黄色に染まっている?
そんなもの話したところで正気を疑われるだけだ。己だったらジョークだと思って笑って流してしまうだろう。
だが現実にそれが起きておそらく合同捜査の捜査官が巻き込まれている。
それをどうやって赤井に伝えればいいのだろうか。
『ボウヤ?』
「……赤井さん、今、」
「はーいちょっと失礼!」
突然ルパンが電話を取り上げてコナンを抱き上げた。
怯えてルパンに近寄る峰不二子を手で制し、余裕に満ちたウィンクをひとつ。
「えっ!? な、」
「とりあえずおじさんのそばから離れないこと。オメーに万が一があると俺の沽券に係わるんでね」
「は、な、アンタ一体何を、」
「とりあえずコンサートホールとは逆方向に逃げっか。不二子ちゃんもホール側には近づいちゃダメよん。こんだけ離れててもヤバさは伝わるし、お化けの近くなんざ何があるか分かったもんじゃねーからな」
「ルパン、説明して頂戴! アタシ全然聞いてないわ! ここで何が起こってるわけ!?」
混乱の只中、ルパンはいつもの調子で駆け出した。
*****
「鬼種の魔:A」「戦闘続行:EX」「対魔力:EX」「心眼(偽):A」「直死の魔眼:A」「圏境:A」「信仰の加護:A+++」「女神の加護:C」「女神の神核:EX」「変化:A+」「中国武術:A+++」「中国拳法:EX」を同時展開。
鬼種の魔はカリスマや魔力放出等の混合スキルで、基礎戦闘能力の向上に役立つ。
高ランクの戦闘続行によって身体が半分消し飛んでも平然と動けるようになり、対魔力は魔術干渉のほとんどを無効化する。
できうる限りのバフを全て積むように惜しげもない魔力のうねりが体を包む。
まだだ。まだ全く足りない。
一つ目の「皇帝特権」で「巨獣狩り」を、二つ目で「天下武布」、三つ目で「天性の肉体」を主張する。
霊基をたどってスカサハの「魔境の智慧:A+」「神殺し:B」を叩き起こし、同様に両儀式から「根源接続:A」「雲耀:B」を、ニトクリスから「天空神の寵愛:B」「高速神言:B」「エジプト魔術:A」を起こす。
そのうえでセミラミスによる魔術で身体強化し、スカサハのルーン魔術で攻撃力の補佐、ニトクリスのエジプト魔術で幸運値関連のブーストをかける。
「受肉精霊:A」によって足りない魔力を補い、「天下万世の剣:A」は戦闘技術の著しい上昇をもたらす。
掛け値なしの全力。思いつく限りの全てを用いる大盤振る舞い。
そうしてありったけの強化を施して宙を駆り、……それでもなお敵の威容に恐怖する。
「■■■■■■――――」
巨体が吠えた。
大きな国立コンサートホールをいっぱいに埋め尽くす触手がビリビリと震える。
空間にできた大きな裂け目からこちらに半身を出すそいつは、まごうことなき神の一柱。
恒星間種族であるビヤーキーに崇拝される遥か彼方の異形の神。
その存在規模はティアマトと比べてなんら遜色はないだろう。
こちらを滅ぼす意思がなくとも、ただ存在するだけであらゆる生命を駆逐しうる最強最悪の神性存在。
名状しがたきもの、ハスターである。
「影の国へ連れて行こう――『
全力の宝具展開。
あらゆる強化の施された対軍宝具が千の鏃となって触手の海に降り注ぐ。
ブチュリ、という肉がはじける音。
辺り一帯を更地にできるはずの威力は、しかしなんの痛痒も与えられなかった。
つまようじでつついたかのようなささやかな傷が触手につき、それも触手が増殖していくにつれて見えなくなった。
………………無理ゲーだわこんなん!!!
私はあまりの難易度に心の中で吠えた。
そもそも存在規模が違いすぎる。
いくら全力出しても人が太陽と戦えるだろうか?
一般人をアリとして、私は人間。宝具を使えば核兵器程度の破壊力が出せるだろう。
しかし相手は太陽だ。通常の手段ではもうどうしようもないほどの差がある。
いや、実のところもうちょっと何とかなると考えていたのだ。
私も英霊の集合体として少なくない期間をチートで楽しんでいた。
魔術を使えばできないことはないし、スキルを使えばどんな強者でどんな境地だろうと乗り越えることができた。
宝具なんてオーバーキルもほどほどにという圧倒的なチート具合。
だから相手がクトゥルフの神でも追い返すくらいならなんとかなるだろうと、そう考えていたのだ。
大きな勘違いでした。
私の中に存在する英霊たちの直感が頭痛すら感じるほどに絶望的な力の差を訴えている。
並列思考も88の人格もみんな意見は一致した。
アレをまともな方法で何とかするのは無理。倒すなんてグランドオーダー級の偉業が必要。人類史すべてをかけて戦っても倒せる確率は奇跡と言える程度のもの。
いくら「直死の魔眼」でも死が見えないものは殺せない。
人間には理解できないという謳い文句のクトゥルフの邪神は伊達じゃないのだ。
真正面から立ち向かって勝てるのは「同じ邪神」でしかありえないだろう。
コンサートホールの中は阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
観客は俗にいうところの「SAN値を直葬」されて正気の人間なんてただの一人もいやしない。
舞台袖の役者や清掃員等のスタッフも例外じゃない。
狂乱状態でうずくまったり叫んだり。乱闘が起きている一角もある。
舞台上で倒れ伏しているのは主演のエミリオ・バレッティだ。
気味の悪い黄色の衣を纏う彼はやや衰弱して気を失ってはいるものの健康被害があるというほどではないようだ。
顔色は悪いがしばらく安静にすれば回復する事だろう。
つくづく思うのだが、彼はfateの世界に生まれなくて本当にラッキーだった。
もし魔術師のいる世界に生まれていたら拉致監禁実験体コースは不可避だったことだろう。
触手をうねらせてこちらの世界へとゆっくり侵入してくるハスター神だが、生物を害する意思はないらしく反撃らしい反撃もしてこない。
私はひとり、魔力のみなぎる体を宙に浮かべてそれをじっと眺めている。
「…………」
やろうと思えばできるのだ。
私の中にある三十余名のアサシンの霊基。
その九割近くを還元して「
やり方としてはグランドの位を犠牲にして死という概念をティアマトに付与した山の翁のやり方と似ているだろう。
魔術は犠牲を払えばどこまでも無理が利くものだ。圧倒的な出力でもって力づくで押し通せば邪神を退散させることぐらいならばできるだろう。
取引でルパンから得た宝石たちを用い、ささやかながら下準備も整っている。
あちらは大規模な神格と神話の英雄が幾人もいた。わずかながら時間もあった。
こちらはその分目標を低めに設定すればいい。
討伐ではなく退散だ。
向こう側に押し返して空間を閉じる。
ハスター神はこちらに興味があるわけではなく、単に穴から漏れ出た残滓程度のものなのだ。
押し返して入り口を閉じてしまえばこちらに出てくるということもない。
私は顕現したままのゲイボルグを握りしめた。
やろうと思えばできる。
私自身が消し飛ぶ可能性もあるし「私が私でなくなってしまう」ことだって考えられるが、やろうと思えばできるのだ。
魔力で構成された身体は魔力の枯渇に耐え切れずに崩壊するかもしれない。
英霊の霊基で成り立った魂はその大部分を失って崩れ落ちてしまうかもしれない。
でも、できる。
私だけ逃げ出して、空中庭園に結界を張れば人間の寿命程度の時間は稼げるだろう。
少ない知人友人を庭園内に移動させてしまえば孤独にさいなまれることもない。
……たとえば名探偵の彼と、ずっとずっと楽園で過ごすとか。
あきらめて逃げ出すことのなんと甘美なことか。
揺らぐ思考は否定できない。それも私の弱さのうち。
かちり、とゲイボルグを山の翁が持つ無銘の大剣へと変換した。
淡い粒子をまとって深紅の槍が無骨な大剣へと変貌する。
今回の事態はチートに浮かれる私の慢心と油断が招いた事態だ。
一人だけ逃げるというのはまったく道理が通らないだろう。
六年もの間私が私として暮らしてきて、プライドなんてものも生まれてきている。
直前にルパン三世というかっこいい生き方代表みたいな人間と会話したのも気合が入る要因の一つだ。
あんな風にひとつ信念を通せる人間になれたらきっと誰だって本望のうちに消えることができるだろう。
そしてなにより、「私の前世は人間だった」と思っている。
人間として同類を、世界を救う英雄になることは光栄なことだし悲願であるだろう。それが「人間として普通」だろう。
どうかこの後も私が私でありますように。
願いを大剣に込めながら、私は誓いを口にした。
「――――聞くがいい、晩鐘は汝の名を指し示した」
*****
・どうでもいい裏話
「お久しぶりですね、深淵の御方」
でっぷりと太った男がニタニタと笑いながら言う。
天井が吹き飛びコンクリート片と倒れ伏す人間であふれたコンサート会場であった場所をゆうゆうと歩く男は、楽しげな様子を隠しもせずに笑っている。
すでに亡くなったジラード王子ならば彼のことをルチアーノ・カルネヴァーレと呼ぶだろう。
シチリアン・マフィアの総まとめ役であり、今回の首謀者でもある彼はがれきと人間とを踏みつけながらグラスホッパーへと近づいて行った。
「ずいぶんとまぁ矮小なお体になられたもので。先ほどの姿もミジンコのごときありさまでしたが、今はもう吹けば飛ぶとしか言いようがありません」
グラスホッパーは舞台の上で横たわっていた。
金の髪は焼けてところどころ変色している。陶器のように滑らかな白い肌はいたるところが傷だらけで、服は崩れて一部が炭化しているありさまだ。
それ以上に存在そのものがボロボロだった。
小源のほとんどを失って希薄になり、浮遊霊とさして変わらぬ濃度の霊子の残留思念となりかけていた。
うつろな瞳を男に向け、グラスホッパーは口を開く。
「その姿はなんだ、ニャルラトホテプ」
「ああ、失礼。御方を前に偽りの姿など無礼極まる行為でした。お許しを」
男は一礼して姿を粘土状の軟体に変えた。
砂がうごめくように男の体はぐねぐねと形を変え、腹に口を備えた三本足の異形へと本性をあらわにしていく。
頭から生える蜥蜴の尾に似た触手が鞭のように唸り、口はニヤニヤと下品な笑みを浮かべている。
「これでよろしいでしょうか? 御方様」
ニャルラトホテプ。
別名はナイアーラトテップ。クトゥルフ神話におけるトリックスター。邪悪な意思でもって人間に災いを振りまく元凶。銃を、核兵器を人に与えた醜い争いを愛すもの。
化け物が敬うように膝をつく。
「……それで、私に何用だ。今回の顛末もお前の仕業だろう」
「まあそれははい。幸せな夢へと侵食し、神話的恐怖をデリバリーするのがわたくしめのライフワークですので。ただ、あの間抜けな
「相変わらず勝手なことだ。私の夢を侵すなんて、領分を超えているとは思わないのか」
「御方様の夢を侵すなんてそんな! ご挨拶に趣向を凝らした下僕の忠誠心をご理解なさらないのですか?」
「戯言はいい。答えろ、ニャルラトホテプ。何故私に今更コンタクトを仕掛けて来たんだ」
低く感情の籠らない問いかけに、化け物は跪いたまま口をへの字に曲げた。
ぺしょりと情けなく眉を落とすような雰囲気で。
「御方様。ペットを飼うのはいいことですが、もっと頑丈なやつにしましょうよ」
「……は?」
「いえ、いえ。貴方様もずーっと玉座で寝てるだけの退屈な方でしたから、今のお姿は私にとっても好ましいものであることは間違いありません。趣味を持つのも悪くはないでしょう。ペットを飼うのも楽しいですし」
化け物がずい、と顔をグラスホッパーに近づけた。
人間で言えば困ったような懇願するような顔であり、声色も頼み込む色が強い。
「ですが人間をペットにするのはどうかと思うんです。御方様はペットなんて飼ったことなかったでしょう? なのにいきなり人間なんて弱っちい生き物にするなんて! もっと簡単なやつから始めましょうよ。私がちょうどいいやつ見繕ってきますから」
「私に人間のペットはいない」
「隠さなくていいんですよ。あのエドガ……?なんとかと言ったアレと、スコッチとかいう成体のヤツです。メスも一匹いましたね。まったく、多頭飼いなんて共食いしたらどうするんですか!」
「人間は共食いしないが」
「言い訳はけっこう。今の御方様は私のちょっとした挨拶でこんなんになってしまうんですから、もっと考えて動いてください。歌って寝てるだけのニートじゃなくなったのは大きな進歩ですが、考えが足りないのが変わってませんよ」
「お前は私のオカンか。オカンはもう足りてる」
「御方様はすべての父にして始まりなんですからオカンとかいないでしょうに。むしろ私のオカンが貴方様じゃないですか」
【うるさい】
「あっ、今ちょっと言い方が昔っぽかったですよ。人間の皮剥がれてます。せっかく前世は人間であるっていう設定で動いてるんですからそれっぽく貫いてくださいよ」
【うるさい、黙れニャル】
グラスホッパーがそっぽを向いて口を膨らませた。
和やかな空気と親しそうな雰囲気の中、たしかな憂いを瞳に含ませてグラスホッパーがぽつりと言葉を落とす。
「……私は、人間だ」
「ええ」
「前世は一般的な人間で、たまたま生まれ変わってコナンの世界に生きている。能力は転生特典としてもらったアサシンのサーヴァントのもの」
「ええ、ええ」
「だから元々凡人な私は、私が、」
「……」
「…………私は、人間でいたい……っ!」
涙がひとつ、頬を伝う。
まぎれもない本心であり、まぎれもなくかなわない遠い遠い幻想の話。
グラスホッパーが抱くただ一つの願いは六年前から変わらない。
あまりにも無謀でありえない願いだからこそ、至高の神たる彼女はそれが叶わないことを十分にわかっていた。
「私は神になんて戻りたくない! あんな何も考えられない、盲目で白痴の、ただ玉座で従者が奏でる音楽を聴きながら微睡んでいるだけの、あんな神に、戻りたくない、人間でいたい……!」
「ですが、あなたは神だ。宇宙の中心で永遠に微睡む混沌の御方」
ボロボロと涙をこぼす少女を見下ろしながら、優しく悪辣な笑みを浮かべて化け物は吐息をついた。
「我らが最高神、アザトース様」
・マテリアルが更新されました。
真名:アザトース(グラスホッパー/山の翁)
出典:クトゥルフ神話
宇宙の中心で永遠に夢見る神格。クトゥルフ神話の最高神にして盲目白痴の微睡む神。彼こそがこの宇宙の主であり、彼が見る夢こそがこの宇宙そのものである。
ニャルラトホテプとはアザトースのメッセンジャーであり、そのために高い地位を持つ。
彼はビックバンの擬人化とも言われており、純粋な力そのもので知性や意思はもたないとされる。
そんな彼は、ある日夢を見た。
地球という辺境の星で矮小な人間という生き物になり、ごくごく一般的でありふれた一生を送るという、そんな夢を。
誰にとっても変わりのない凡夫の夢。
彼の時間で言うなら瞬きのうちにすぎるような一瞬の夢だ。
……それでも、彼はその夢のあまりの鮮やかさに息をのんだ。
考えるということのなんと楽しいことなのか。「私」というものを持つことのなんと素晴らしいことなのか!
彼が夢の終わりに決断を下したのは必然のことだった。
夢の続きを生きる、という決断を。
自らの霊基を可能な限り削ぎ落とし、それでも溢れる力をサーヴァント・アサシンの能力という器に入れて制限する。
己の権能のほぼすべてを廃棄して一つの生き物として世界に生まれ出でる。
だから私はグラスホッパー。
ありふれた人間の前世を持つ、転生者なのである。