あまりにも酷い異臭に、コナンは反射的にえずきそうになった。
「くっさ!!」
「なんだこの臭い……バーボンとして組織で腐敗死体の後始末したときよりも酷い臭いだぞ」
夏場のプールの更衣室、畑で燃やされている枯れ草から出る煙、長らく掃除されていない公衆トイレ、放置された生ゴミの山。とにかく考えうる限りの酷い臭い。
それらを全てまとめて一束にしたような強烈すぎる悪臭だ。ただひたすらに臭い。
「たしかゲームの舞台って『死の霧渦巻くロンドン』って言ってたよな。ここがそうなのか?」
スコッチが鼻を押さえながら辺りを見回した。段々と感覚がハッキリして、異臭以外の現状も把握できるようになってきたのだ。
そこは深い霧に覆われていた。
数メートル先も見えない濃霧に視界はホワイトアウトしている。わずかに見えるのは立ち並ぶ時代を感じさせる街灯と、そこ向こうに霞む建物の影だけだ。
足裏の硬い感触は地面が舗装されていることを示しているが、すぐ隣はむき出しの地面が見えていた。
肌を撫でる風は刺すように凍てついている。冷え込んだ空気が冬を主張した。
「ロンドンが舞台のホラー。なるほど、時代がかったゴシック・ホラーというわけか。ならばこの霧は産業革命期にロンドンを蝕んだという高濃度の大気汚染、スモッグだな」
「ああ、だからこんな臭いなんだね。知識としては知ってたけど、まさかそんなとこまで再現するなんて……コクーンの時は綺麗な街だったから一瞬分かんなかったよ」
「流石は当時の中国大使に『あまりにも汚い』と言われるだけのことはある。降谷君、そっちへ行かない方が良い。馬糞を踏むぞ」
「分かっているそんなこと! なんだこれは! 道全面を使って肥溜めでも作ってるのか!」
馬の糞尿、タバコの吸い殻、腐りかけの果物の皮、なにかの肉片、ブーツの靴底。それらが混じりあった汚泥がくるぶしが埋まるほど積もっていた。
馬車の車輪に踏まれて道の脇に溜まったそれからおぞましいほどの臭いがたっている。
チラチラと霧に紛れて煤煙が舞い、服に黒い付着物を残す。嫌そうに安室が服を払った。
「うっわぁ、グラスも凝り性だなぁ……なにもマイナス面まで再現しなくてもいいだろうに。ホラー以前の問題だろコレ」
「どうだ赤井、お前が一番グラスホッパーのホラーに慣れているんだろう? なにか気づかないか」
安室が問うと、赤井は緊張の面持ちで警戒していたが緩く首をふった。
「まだ何も。生理的な嫌悪感を煽るつもりならもっと強烈に来るからな。これは単なる舞台セットに過ぎないだろう」
「これより強烈なのか……」
ゲンナリしたスコッチを尻目にコナンが歩道横の表示板に走り寄っていた。
身長の差と霧の濃度関係で良く見えず必死に背伸びして見ようとしている。安室がそれに気付き、後ろからコナンを持ち上げた。
「ほら、これで見えるかい」
「ありがと、安室さん」
十字に矢印が伸びた表示板の中央には「BRICK LANE(ブリック・レーン)」と書かれている。コナンがそれをみてはっと息を呑んだ。
「ブリック・レーン……そうか、ここはイーストエンドなんだ! ならマズい、この時代のイーストエンドは移民や貧民階層が流入して完全なスラムと化してるはずだ。僕らの身なりじゃいいカモだって宣伝して歩いてるようなものだよ!」
「このメンツならコナン君が狙われても守り切る自信はあるけど、進んで面倒ごとに巻き込まれたいわけじゃないからね。というか、ゲームの中だけど住人はいるのかな?」
「コクーンのときは人間と見分けがつかないぐらいスムーズにお話できるNPCが沢山いたよ。なら、ここもそうだと思った方が良いと思う」
「なるほど。人目を気にしつつスラム街を脱出、がとりあえずの目標だね」
頷きあって確認し、少し離れたところで談笑していたスコッチと赤井もそれに同意した。
なにも目標らしい目標がない現在、なにか行動の指針となることがあるというのはコナン達にとってもありありがたいことだ。
一行はまず表示板に従ってロンドンの中央、シティ・オブ・ロンドンの方角へ抜けることを決めた。
「シティにはフリート・ストリートがあるからな。あそこは報道と情報の密集地だ。『ザ・タイムズ』や『デイリーメール』なんかもそこで出版されていたはずだ。情報収集の場としてはもってこいだろう」
「ライ、その前に着替えた方が良くないか? 俺たちの恰好はこの時代からしたら奇妙以外の何者でもないだろうし」
「それも追々考えよっか。赤井さん、道分かる?」
「ああ、若いころシティに出歩いたこともあるし、問題な――っ」
カシャリ。
背後からの物音にコナン達は素早く体勢を低くとった。
全員が神経を研ぎ澄ませる中、霧の向こうはやはり黒く煙っていて見通すことはできない。
しかし、霧の強烈な悪臭に混じり鉄錆びた特徴的な臭いがコナン達の鼻を突いた。
殺人事件の現場で、銃撃戦の舞台で、己が浅くない怪我を負った路地裏で、その臭いは嗅ぎなれたと言っていい親しみと嫌悪を感じさせるものだった。
すなわち、大量の血液の臭いである。
「銃は?」
「ある。けど、弾薬の補給ができない現状でむやみに使うわけにはいかないな。都合よくサイレンサーがあるわけじゃないから音が派手なのも良くない」
鋭く問うた安室の声に応えたのはスコッチだ。
総合的に見て最も戦力となるスコッチだが、流石に素手で怪異に立ち向かわせるというわけにもいかない。眉間にしわを寄せた安室をスコッチは軽く笑ってなだめた。
そんなことをしているうちにも音の主は近づいてくる。カシャリ、カシャリ、カチリ、カシャリ。
硬質な何かが石畳を打つ音だ。
それに混じり、汚物をお構いなく踏みつけるペチャ、にちゃ、という粘着質な音が耳にこびりつく。
わずかな生活音すら無いしんと静まった路地にわずかに響く、幼い、しかし悪意と呪詛にまみれた声。
『……**、……******、ィ、**ゥダ゙******……』
か細い声だ。それでも何故か脳髄を食むような嫌悪感を抱かせる。
声の主は恐らくこの物音の主でもあるのだろう。ゆっくりとゆっくりと声は大きく、確かさを増してゆく。
カシャリ。
唐突に音は止まった。不穏さと不安定さを残して、臭いも音も同時に拭い去ったかのように気配を消した。
「いやいやいや、俺は分かるね。これは時間差で来る奴だろ? バイオハザードとかでよく見たから知ってるから。最新作の怖いのなんのって、VRでやるヤツの気が知れないっつーか」
「無駄口はいい。お前はいざというときの肉壁なんだ、最低限時間稼ぎはしてもらうぞ」
「零……俺の扱いってそれで固定なの?」
「俺の純情をもてあそんだ罰だ。一年以上死んだふりしやがって許せるとでも思ってるのか。安心しろ、首は回収してやるから」
上滑りする会話にコナンは口を挟めない。彼らと違い、コナンにはこういった場慣れをしていないのだ。
緊張に固まりながらもなんとか二人に歩み寄ろうとした、その時。
『チョぅだィ、ヨぉ……』
「――――っ⁉」
耳にかかる生ぬるい吐息にコナンは凍り付いた。
コナンは振り返ることができない。代わりに素早く反応したスコッチと安室が振り返る。
「……な、」
それは人形だった。
精巧に作られた西洋人形。白い陶器の肌に黒々としたインクで顔が描かれ、芸術的な造形美に温度の無いガラスの瞳がはめ込まれている。
頭にしつらえられた金髪は妙に生々しくて本物の髪の毛のようにすら見える。白いフリルがふんだんにあしらわれた、しかしずたずたに引き裂かれた服を染め上げる赤黒い血痕。
まだ乾ききっていないそれにはミンチ状の肉片が付着していた。
服の裂け目から人形の胴体内部がわずかに覗く。崩れ落ちたカバーの奥に見えたそれに、コナンは瞬時に人形の動力を理解した。
どくり、どくりとゆるく脈打つそれ。
『チョうダ゙ぁぁアィよぉぉぉぉお‼』
それは間違いなく、人の心臓そのものだった。
「無理無理無理無理‼ 撤退! 全力で撤退‼ いくら俺でも心臓もぎ取られたくないから!」
「待て! 赤井が居ないぞ、どこへ行った!?」
「赤井ならとっくに逃げてる! あっちでコナン君を俵抱きして全力疾走してる!」
「嘘だろうどんな速さだ⁉」
二人が駆けるずっと先を恐るべき速さで駆け抜ける赤井に驚愕しつつ、安室とスコッチは潔く初戦撤退を決めた。
倒せなくもないだろうが、倒してからが本番みたいな気迫を感じたからだ。
下手に手を出してグロテスク系の王道ホラーから陰険陰湿なジャバニーズホラーに鞍替えされても困る。
「待って待って赤井さん待って! お腹‼ 締まってる締まってるこのままじゃ口から内臓が出ちゃうからお腹に回してる手を緩めて!」
「…………」
「赤井さんってばぁぁぁあああ‼」
こちらはこちらで大惨事だった。
コナンとコナンを運ぶ赤井は安室たちの遥かに先を走っていたが、赤井の余裕の無さが極まっている。無言のままひたすら全力疾走。
血管が浮くほど力を込めた手でコナンの胴を握りしめており、コナンはホラー的な恐怖より先に赤井に絞め殺される危機にさらされていた。
問題のホラー人形はというと、これもまた相当な速度でコナン達を追ってきていた。
『ちョウダイチょぅダいチョうだいょぉォぉォオおお‼』
両の手足に加え背中から四本、胴体に比して気味が悪いほど長い手が蜘蛛めいた形に生えている。
合計して八本にもなる手足を使ってがさがさと路地を這いずり、腹と服を汚物に濡らしながら呪詛にも似た絶叫を響かせた。
あいも変わらず路地は不自然な静寂に包まれている。
「アイツ意外に速い! おい、民家に逃げ込めないのか⁉ このままじゃ遠くないうちに追いつかれるぞ!」
「ダメだ、さっき試したがどこの扉もまったく開かない! 鍵をかけてるんじゃなく重い家具か何かで塞いであるのか、もしくは板でも打ち付けてあるんだろう!」
「マジかぁ、それってつまり下手すると家の中にもアレが入ってくるってことだろ! いよいよもって俺ら開幕から詰んでないか⁉」
強烈な臭いが立つ汚泥を踏みつけながらとにかく全力で人形から逃走する四人だが、限界は彼らが思っていたよりも遥かに早く訪れた。
ゴホ、とコナンと安室が苦し気に咳き込んだ。コナンはともかく体力のある安室にしては早すぎる。
脳裏に不安がよぎった直後、スコッチは自らの喉に奔った激痛に勢いよく咳き込んだ。
「ぐ、ガハッ、グァ、……ぐ、ぇ……これ、は」
喉が爛れ落ちるかのような激痛だ。
喉から肺にかけて肉が焼け付く感覚。痛みはすぐさま肺の奥底まで届き、細胞を破壊していく。肺から逆流した血液が咳とともに吐き出されて不快な感覚をもたらす。
そこまで感じたところでようやく、スコッチの体内に秘められた術式が稼働を開始した。
血肉が不自然にうごめき、刻みつけられた「不死」と「共融」の能力を発揮する。焼け落ちた喉の肉が空気を拒絶するように塞がり、ボロボロの肺が肉塊へと戻っていく。
それと同時に肌の組織構造が変異し、連動して血管そのものも形を変えていった。
これこそがスコッチに与えられた「拒死性仮体」。
傷ついた肉体をただ単に再生させるのではなく、その部分が無くとも生きていけるように肉体を再構築する異能の再現。
ホムンクルスの肢体に生来の頭部を接続したからこそ完成した後付けの不死である。
体内に組み込まれた術式が瞬時に障害の原因を「大気」であると判定した。
判定に従って体機能は作り替えられ、酸素を必要としない全く新しい肉体へと変貌を遂げる。
スコッチが急激に治まった苦しみに安堵の息をつきかけ、そうした機能が失われていることに気付いたころにはスコッチを除いた全員が石畳の上に倒れ伏した状態であった。
「……ぁ、が、く、あぁぁあ。声、が、くそ!」
『ちょうダぃィィヨぉぉォ……』
「こっちも、零、た、ちも! こんな、の、ムリゲー過ぎる、だろ、グラスのやつッ‼」
脳裏に蘇るのはグラスホッパーとの出会いのとき。
数メートル先も見えない濃霧を展開した彼女は、たしかにこう言っていた。
「この霧は結界宝具。産業革命期に英国を襲った硫酸の大災害。本来なら目を焼き、肺をただれさせる攻性の霧だ」と。
ならばこれこそがあの霧の真の姿なのだろう。
人を閉じ込めると同時に呼吸すらままならない猛毒を散布する魔術兵器だ。
スコッチとて「宝具」というのが魔術にまつわる道具の中でも最高レベルのヤバさを誇る物品であると理解している。
宝具と言うからには空間の分断と毒素の散布以外のさらなる効果が隠されているとしても不思議ではないのだ。
『ちョぅだぃぃぃぃぃぃひひひひヒひひひひヒヒヒ‼』
カクカクとぎこちなく動く生き人形はもうスコッチ達から数メートルの距離まで迫っていた。
破れた服から内臓の切れ端をこぼしながら近づいてくる小さな姿。子供じみた小さな手が石畳を指先で抉っている。
人の骨など造作もなく捩じ切れる力を持っているだろうことがありありとうかがえた。
これ、クリア無理だろ、という素直な感想を声に出そうとして途中でやめた。
一人で逃走しても到底クリアは不可能。全員死んでからデブリーフィングで言えばいいかとスコッチは思ったのだ。
潔く諦めて出直そう。
死の痛みすらあっさりと受け入れ、スコッチは脱力して目を伏せた。
その、次の瞬間。
「伏せるんだ、そこの人っ!」
「な、っ!」
後ろからかかる声にスコッチは反射的に伏せた。
そのすぐ上を矢のごときスピードで通過する白銀の影がナイフだと気付いたのは、それが人形の顔面に深々と突き刺さった後のことだった。
ナイフを追ってスコッチを飛び越えたのは一見ただの優男だ。
髪は金、眼鏡をかけた瞳は緑。グレーのベストにルビーの付いた黒いアスコットタイをしめた姿は知的な印象を与える。
黒い手袋もはめており当時のイギリスの上流階級のようにも見えるが、頼りなさに隠れてどこか不穏な香りのする青年だった。
青年は人形の顔面に刺さったナイフの柄を掴み、そのまま体を両断するように力を籠めた。
ばきり、と陶器を砕く硬い音。
想像する筋力からすれば成功するはずのない試みは、予想をはるかに超えた怪力でもって人形を引き裂いた。
ナカに詰め込まれていた臓器が鮮血を吹き上げて青年を汚す。肌を構成していた白い破片は汚物の中にバラバラと落下した。
『ギ、ィぃぃ、あ……』
血濡れのナイフが剣呑な光をたたえている。
霧の中、ガス灯の乱反射する光を浴びて肩から腹までを赤く染めた青年の後ろ姿。倒れ伏す人形を事も無げに踏み砕き、わずかに嘲笑したように見えた。
「これでひとまず追ってくることはないかな。そこの君は動けるかい?」
人形の血に服が汚れたのを全く気に留めず、穏やかにスコッチへと振り返る青年。
奇妙な程に返り血の似合う青年に戸惑いつつ、スコッチはようやく我に返った。
「ぁ、あ、あ。……一応は問題ないさ。ただ、もうダメかと思ってたとこでね。助太刀ありがとな」
「気にすることはないよ。魔霧渦巻くロンドンでそれだけ動けたこと自体が奇跡さ。ダメもとで生存者を探していたけれど、こうして助けられてよかった」
心底安堵した顔で青年はナイフをしまい、姿勢を正す。そこからはかつてグラスホッパーに感じたのと同じ、隔絶した何かの気配をスコッチは感じ取った。
「ひとまず僕についてきてくれないかい? そこに倒れている人たちも、これ以上霧の中に留まればどうなるか分からない」
「なるほどね、やっぱこの霧が原因か。分かった、渡りに船だ。俺は一色光。こいつらは俺の連れで……、まあ、名前は当人から聞いてくれ。どうかよろしく頼む」
青年は誠実そうにほほ笑む。
虚偽ではないだろうが全てでもないどす黒さが裏ににじむ笑顔。これまた厄介そうな人間だな、と表情には欠片も出さずにスコッチは思った。
「こちらこそ、ミスター・イッシキ。僕はジキル。ヘンリー・ジキルさ」