ぴちゃり、ぴちゃり、と水滴が滴る音が響く。下水道とロンディニウム時代に作られた地下の遺跡を用いて作られた地下道は暗く湿っている。
じめじめとした空気の中、古びた木製の扉で区切られた地下室に五人は居た。
「改めまして、異邦人の皆さん。僕はヘンリー・ジキル。セント・ジュード病院で医師をしていたものだ。ロンドンのほとんどが死を待つばかりの今、その肩書がどこまで意味のあるものなのかは定かでは無いけれどね」
「この度は危険なところを救っていただき感謝します、ジキル博士。僕は安室透。私立探偵をしています」
「俺は赤井秀一だ」
「江戸川コナンです。ジキルさん、本当にありがとうございました!」
「いやいや、あそこで助けないなんて選択肢は無いからね。気にしなくていいよ。コナン君が元気になって良かったよ。魔霧もまだほとんど吸い込んでない状態だったし、簡単な処置だけで済んだのは僥倖だったね」
大きいが簡素なテーブルをぎしぎしと軋む椅子で囲み、コナン達は和やかに言葉を交わした。
ゲームの中へ入ってから半日。
ジキルの的確な処置によって魔霧の毒を体内から排出することができた赤井、安室、コナンの三人が意識を取り戻したのは二十分ほど前のことだ。
魔霧によって倒れた彼らはスコッチとジキルによって手分けして地下に築かれた工房へと運び込まれ、順に治療を受けた。
霧に曝される時間が少なかったせいもあり、ロンドンの大半の住民のようにそのまま呼吸困難で命を落とすなどという事態にはならなかった。
それでも宝具による影響は大きく、意識を取り戻した今も倦怠感や頭痛に苛まれているのだという。
先に事情を聞いていたスコッチから簡潔に現在の状況を聞いてはいるが、改めてジキルからロンドンに起こった異変を聞こうという方針で一行はすぐに一致した。
「それについて詳しくお話を伺いたい。あの毒性の濃霧、閉ざされた家々、人の心臓で稼働する人形。あれらは一体、この街になにが起こっていると言うんですか?」
安室の言葉にジキルは穏やかに苦笑した。
ジキルが本当にあの物語に描かれる「ジキル博士」であるのなら、ロンドンに起きている異変に関わっている可能性は極めて高い。
いるはずのない架空の人物という点、医師として博士として高い地位にいるという点、慈善活動を通して広い人脈を持っているという点、「ハイド氏」という裏側面を持っている点。
様々な理由から情報源としての価値は非常に高いと言っていい。
もちろん、「ハイド氏」は世に知れる二重人格の殺人鬼というキャラクターであり、下手をすれば危険な相手だ。
しかし裏返せば「ジキル博士」は真に善人であるともいえる。
彼が「ジキル博士」である間ならば、必ずや安室たちの力になってくれることだろう。
「事が起こったのは五日前だ。季節はもうとうに冬だというのにロンドンは急に霧に覆われたんだ。それだけじゃない。霧の中からはあの恐ろしいオートマタたちも湧き出るように現れた。街は大混乱で、逃げ惑う人や対処に追われるスコットランドヤードで道はごった返してたよ。オートマタの付近にいた人は心臓を抉られて死んでしまったし、そうでなくとも霧の毒でそう間を置かず後を追うことになった」
「では、ロンドンで暮らす人々はもう……」
「大半がもう生きてはいないだろうね」
ジキルが暗く顔を伏せた。
「人形なら家に閉じこもってドアをふさげばいい。でも霧はそうはいかない。籠城を選択した人のほとんどは屋内で毒に侵されて死んでいたよ。霧の範囲外に逃げようとした人はほとんどオートマタに殺されてしまった」
「だから街が異様に静かだったんですね。僕たちがあの人形……オートマタから逃げている間、路上にはまったく殺された人や毒に命を落とした人の遺体がありませんでしたが、あれは何故か心当たりは?」
「恐らくオートマタが運んで行ったんだろうね。いくつか目撃証言も聞いた覚えがある。彼らはホムンクルス技術を融合した特殊なオートマタだから、遺体を集めて動力源として再利用している可能性が高いと思ってる」
「それは……」
人形が纏うボロボロの衣服からわずかに見えた、ゆるく動く人の心臓。
かき集めた死体の腹をさばき臓器を取り出していく様を想像して、安室は我知らず冷や汗を流した。
それは確かに地獄のような光景だっただろう。沈黙した街並みが無言のうちに無念を積もらせていたのだと思うと、街を踏破する意欲はどうしても減退する。
息を呑んだ安室を見て、コナンが言葉をつづけた。
「ここはどうして霧が来ないの? ジキルさん」
「ああ、えっと……君たちなら話しても問題ないかな。ここは魔術協会が作った大規模な地下研究街だからだよ。多重の魔術防壁が魔霧の侵入を防いでいるんだ。昔は『穴蔵』なんて呼ばれてたけど、ロンディニウムの遺跡の発掘にともなって街をつなぐ移動路としても使われるようになったんだ」
「魔術、協会?」
「あれ、知らないのかい? 時計塔だよ。ほら、ヨーロッパの両キョウカイの。三大部門の一角で、彷徨悔、アトラス院、時計塔って言うだろう?」
「ご、ごめんなさい。分かんないや」
コナンが申し訳なさそうに肩を縮めた。
グラスホッパーが設定したゲーム内の架空組織だろうか、と安室は推察した。
安室も裏社会を歩き始めてずいぶん経つが、そんな組織の名前は聞いたことがない。魔術というものの存在が世界の上層部において知られるようになった今も接触して来ようとする気配がないのを考えて、現実には存在しないものだろう。
コナンのまったく心当たりのない様子にジキルは首をかしげて何ごとかを呟いている。
「コナン君のナカにある物が物だから、今回の事態の対処に動いたカルデアの人間かと思ったのに……」
「えっ、僕がなあに?」
「いや、気にしないでくれ。僕の勘違いだったよ。君たちは外の人だしミスター・イッシキの体を見るに、混血関係の人たちかな?」
「光の体が、なんと?」
「あー、零、アレだよ、工場で俺の体が派手につぶされたことあったろ? あの時再生した力がグラスが試験的に導入した混血の力ってやつらしいんだ」
「なるほど。なら、混血関係者と言えなくもないでしょうね」
安室はスコッチが内臓が丸々飛び散った状態で四つん這いに動き出した時のことを思い出し、納得して頷いた。アレはプラナリアとかその辺のしぶとい生き物と人間との混血だろう。
ともかく、霧が来ないのならばひとまずは安心ということだ。だがここに居座っていてもクリアはできない。
コナンと安室は目線で同意して話を切り出した。
「ねえ、ジキルさん。僕たちは街の外を目指してるんだ。外へ出さえすれば、ここを何とかできるかもしれない人に連絡をとれると思う。何か方法は無いかな?」
コナンが言っているのはグラスホッパーのことだ。
ここがゲームであると分かっているが、彼の正義感がこの街を放っておけなかったのだろう。彼女であればこの街を救うことなど容易いだろうし、クリアの報酬として街を清浄に戻すことも可能なはずだ。
だが、街を簡単に出る方法があるのならば死者など出るはずがない。そう都合のいい回答は貰えないと分かっているが、これを問わない限り話は進まないだろう。
ジキルは困ったようにコナンの問いに答えた。
「実は無いこともないんだ」
「ほんと⁉」
「地下研究街はロンドン周囲に点在する十一の学園都市とも繋がっているからね。地下道を正しく辿っていけば出られるはずだよ」
「ならすぐに……!」
「でも、少なくともただの人間に踏破できる道じゃない。霧の魔力が呼び出した英霊たちが、今も脱出しようとするわずかな人間を刈り取ろうとさまよっている。ここみたいな表層はともかく、本格的に潜れば侵入者に対するトラップも多くなるはずだ」
英霊、とは戦死者の霊のことを言っているのでは無いだろう。あの殺人人形と同じように人間に敵対的な存在と考えていいだろうが、ジキルの口調はそれよりもっと恐ろしい示唆を込めている。
「でも、このままここに留まってるわけにもいかない」
「そうか。なら僕から言うことは無いよ。僕はロンドンを離れられないけど、代わりに君たちには地下道の地図を渡しておく」
「ありがとうございます、ジキル博士。助けていただいた上にこのようなことまで。この恩はロンドンを救うという形で必ずや返して見せますよ」
「本当に気にしなくていいんだ。君たちならきっと僕が居なくとも成し遂げただろうし、それに……僕もただ言いなりになるなんて御免だしね」
最後の言葉は小さく聞き取ることはできなかった。
ただ、それが彼にとって重要な事だということだけが安室の耳にはっきりと伝わった。
*****
人一人が通るのが精いっぱいの狭い階段を登り切った先。
地下なのか地上なのかも分からないそこは、どうやら書斎であるらしかった。
「ジキル博士の言ってたことが間違ってないなら、此処に在るはず……なんだよな」
恐る恐る、といった様子で僅かに開いた鉄製の扉からスコッチが室内を覗き見た。
室内は明かりが灯っており探し物をするのに支障はなさそうだ。
壁に取り付けられたガス照明が、部屋の壁と本がぎっしりと詰まった棚をを淡く照らし出している。
慎重に辺りをうかがいながら、まずはじめにスコッチが部屋へと入った。
埃っぽい空気が鼻につくが、カビ臭さやガスの臭いは感じられない。
「どうだ?」
「問題なしだ、零。もしもを考えるならあと五分ぐらい待つ必要があるけどな。どうする?」
「ここは下水道からは遠いはずだ。ガスの危険は少ないだろう。それより、またあの悪魔に遭遇する方が危険だ」
「俺も安室君の意見に賛成だ。今度爆弾を仕掛けられたら確実に死ぬ」
「りょーかい。どうでもいいけど、あの爆弾足がワサワサーって生えててめっちゃキモくなかったか?みっしり整列して迫ってくるの、思い出すだけで鳥肌立たない?」
「……スコッチさんってほんと余裕あるよね。いつも冷静っていうか。僕、ちょっと真似できないや」
とりとめない話を交わしつつ扉から中へと入る。
ギギギ、という蝶番の錆びた音が響いて少しだけ体を強ばらせるが、音を聞きつけてこちらへ向かってくる人物が居るような気配は無かった。
部屋の中はぐるりと一面が本棚で覆われている。
美しい彫刻が彫られた木製の本棚だ。
おさめられている書物はどれも時代物であるらしい装丁の施された洋書らしく、皮づくりの表紙は保存状態も良くなめらかに照明の光を鈍く反射している。
そして、不自然に一冊だけ抜かれた正面の本棚には、本が抜かれてできた空間にあからさまなスイッチの類が見えていた。
「え……レバーを引け、とかそういう……?」
「あまりにも怪しすぎるよな。いつも思うんだけど、RPGの主人公ってどういう心境で敵ダンジョンにあるボタンとかレバーとかを押すんだろうな。『プレイヤーが、プレイヤーが勝手に!』とかかな」
「そういえばスコッチに聞きたいんだが、日本のゲームだと何がおすすめだ?俺は同僚に勧められてやったFPS(一人称シューティングゲーム)しかやったことが無くてな」
「お前ゲームでまで銃撃ってんのかよー。ランキングを片っ端から荒らす未来しか見えねぇんだけど。一応言っとくけど、銃撃つリアル指向のゲームならアメリカ産のがたいてい優秀だぞ」
「いや、俺としては可愛い系がやりたい。ハムスターを育てるとかそういうやつだ」
「えっ……?」
「無駄話はそこまでにしておけよ赤井。フルダイブのゲームなら今まさにやっているだろうが。光も変なこと言ってないでスイッチ押して来い」
「えっ、『ハムスターパラダイス』とかそういう……?」などと呟きながら、スコッチは特に気負いもなく木製の出っ張りを手前側に引いた。
ちなみに、此処まで来る道中でもボタン起動役、不審な室内への突入役など危険が予想されることはすべてスコッチが担っている。
罠に嵌ること数十回。危険な生物に遭遇すること数回。
スコッチの右手がなんか蠢く肉塊に変化したあたりで遂にコナンの良心が悲鳴を上げたが、良い代替案も無く現状維持となっている。
壁役としてならスコッチ以上の人間は存在しない。
本人の戦闘センスに加え、グラスホッパーに与えられた能力の恩恵で生存力が一般人と比較にならないレベルとなっているからだ。
あんな力を平然と受け入れるなんてアイツの心臓には草でも生えてるのか、とは初めて能力をその目で見た安室の言である。
カチリ、と何かが噛み合う音。
それと同時に、古典的だが今なおロマンにあふれた動きで本棚が開いてゆく。
「…………、」
わずかに息をのんだのはコナンだった。
ろうそくの頼りない光だけが部屋を照らしているせいで、目を凝らしても詳しいことは分からない。
本棚と数メートルはあるだろう厚い石壁の向こうに見えるのは小さな隠し部屋だ。
六畳も無い狭い室内に簡素なテーブルと椅子、低く小さな本棚がうっすらと見える。
そして椅子に深く腰掛け、気だるげな様子で本を読む人影がぽつりと一つ。
重心を軽く落とし、安室がコナンを庇える位置にジリ、と移動した。
銃弾の残りも心もとないが、赤井は万一に備えてホルスターに手を伸ばす。
「なんだ、もう到着したのか。面倒な。……まあいい。この部屋は手狭だ、今そちらに行くからくれぐれも攻撃してくれるなよ」
そういって人影は億劫な様子で椅子から飛び降りた。
低い、艶のある成人男性の声だ。
だというのにろうそくに照らし出された影は随分と小さく、コナンよりやや高いといった程度の身長に見える。
てくてくと小さな歩幅でこちらに近寄ってくる影に、コナンは我知らず身構えた。
細い通路を抜け、人影がガス照明の当時としては眩い、現代としては薄暗い光の前に露わになる。
「君、は……?」
「こんな魔術師の悪意と害意が煮詰まった肥溜めみたいな場所を、よく生きて通ることができたな。普通の人間なら6度は死んだ方がマシだという目に遭っているはずだが……」
人影は、やはりまだ幼さを残す小さな子供であった。
髪は絵画に描かれる澄み渡った空の色で、髪と同色の瞳が落ち着きを載せてコナンたちを写している。
品のいいベストに半ズボン、胸元に蝶ネクタイを締めた姿から見るに上流階級の子弟といったところだろうか。
喉頭ポリープやホルモンの異常などで声が異常に低くなるという障害も確かに存在するため、子供であるのに成人男性の声になってしまうことも無くは無い。
だが、子供のどこかすべてを見通したような、それでいて皮肉に満ちたような表情がひとつ気がかりだった。
「……君はここの住人かな?僕らはロンドン自然史博物館の地下区画を通るためのキーを探しに立ち寄ったんだ。悪いけれど、キーの在り処について何か知らないかな?」
警戒を解かないまま安室が表面上の親しみやすさを身にまとって問いかけた。
たいていの人間が心を開く、「安室透」の人好きのする笑顔だ。
子供がフンと息をついて、値定めするかのような鋭い視線を安室に向ける。
「羊の皮を被った狼ならよくあるテンプレだがな、キツネの皮を被ったイノシシなど俺も初めて見る。よくもまあそんな器用なマネができるものだ。……いや、イノシシとしてご立派な牙で一突きされても、俺のようなひ弱な物書きにはなすすべも無い。ここは丁寧に対応してもらえたことをありがたく思っておくべきか?」
「……え、うん?」
「ああ、キーの在り処だったか。それなら此処にはないぞ。あいにく書庫から逃げ出してしまったからな。俺は筆者であって司書じゃない。管理不行き届きを責めるなら俺にではなく魔術教会に言ってくれ」
予想外すぎるなめらかな、それでいてひねくれ過ぎている言い回しだ。
不意を突かれたらしい安室は言葉にならない声を漏らすしか無いようだ。
目をパチクリさせて絶句する安室を捨て置いて、子供は面倒そうな様子を隠しもせずに腕組みをして言い放つ。
「俺はハンス・クリスチャン・アンデルセン。このどうでもいい祭りを盛り上げるためのしがないエキストラだ。ちなみに、今回の俺は過去最高にやる気がない。手助けは期待するなよ」
*****
「いやー、そこを何とか!な、右も左も分からない初心者に救いの手を差し伸べようとか、そういう親切が人間には備わってるだろ?」
「だから手助けはせんと言っているだろう。スコッチだったか?名は体を表すというが、まさに『ラウドスピリッツ(主張する酒)』だな。うるさくて敵わん」
アンデルセンと名乗った少年が犬を追い払うような素気無い仕草でスコッチに手を振った。
現在、書斎中央に備えられたシンプルな机を囲んで話し合いの真っ最中だ。
――否。
扉とは机を挟んで反対側の席にアンデルセンを座らせ、大人3人で逃げられないように囲っている最中と言い換えるべきか。
マイルドな尋問と言ってもいいが、コナンとしてはそこまでのことをするつもりはない。
アンデルセンの言から察するに、この少年はまず間違いなく事の次第を理解しているはずだ。
コナンたちがなぜここに来ているのかはもちろん、ともするとこの「死界魔霧都市」というゲームの真相も知っている可能性がある。
この極悪難易度のゲームに現れた初めてのヒントだ。
無理強いすることは心理的に抵抗があるが、ただで逃がすというのも出来ない相談だった。
机に頬杖をついて気だるげにスコッチをあしらうアンデルセンは、どうも言葉通り本当にやる気がないらしい。
はあと息をついては机に突っ伏し、のそのそと起き上ってはまたため息をつく。
しつこく話しかけるスコッチにようやく一言返したが、気乗りしないというのも嘘ではないのだろう。
不快そうに目を細めてスコッチを見やる。
「だいたい、俺はこの夏場のビニールプールみたいな奴にあれこれ懇切丁寧に事情を説明する気にはなれん。浅いし、素材も安っぽい!それっぽいお題目を出来合いの言葉で語る性根はまさに子供用のビニールプールだ。心地いいのは一瞬で、すぐに生ぬるく不快になる!」
「……っ、」
「だが、中に入っているのが水だということに間違いはない。ヘドロだったり排泄物だったりではないぶん、世にはびこる同系統の肥溜めよりはマシだろうよ」
「……お前」
すっ、とスコッチから表情が消えた。
何か根本的なところにアンデルセンの言葉が触れたのか。
スコッチの出す異様な気配にコナンが立ち上がりかけ、安室が戸惑いに死線をさまよわせたとき。
「ほう、なるほど。ずいぶんな観察眼だ。幼い姿ではあるが見た目通りの中身というわけではないのだろうな。君から見て、我々はどう映る?」
凪いだ声は赤井のものだった。
足を組んでリラックスしたまま、煙草を一本取り出して火をつける。
その泰然とした様は、FBIという猟奇殺人という項目において日本よりはるかに多い経験を持つ組織のエージェントにふさわしいものだ。
気だるいままの様子でアンデルセンは赤井へと視線を移す。
「人物評をお望みというなら、まあ答えてやってもいい。作家がこの手のことに言葉を惜しむのは主義に反する。自身の人物鑑定をご所望なんて変人もここに極まれり、とは思うがな」
「ありがたい。では、言い出したものとして俺の評価から頼もうか」
言葉を交わすというごくごく一般的な場面であるのに、どこか異常で緊迫した空気に書斎が満ち満ちている。
スコッチは能面のような表情で押し黙ったままだ。
焦る心を抑え、コナンは無意識に握りしめた拳をゆるく解いた。
「お前のような人間に心当たりがある。体と心を切り離せるなどという不幸な才能を持った阿呆はどこの世界にもいるものだな。切り離したところで無くなりはしないというのに、機械ごっこでもするつもりか?理性は人間の味方をするが、人間が理性の奴隷になったところで誰の理解も得られんというのに。バカめ」
「……手厳しいな。俺は俺のしたいように振る舞っているつもりだったが」
「お前が自分勝手に見えるようなら、それは大層おめでたい奴だろうよ。とはいっても知恵と知識のない人間からすれば、数式が出す答えも神の気まぐれも、どちらも『意味が分からないもの』でしかないがな」
「……本当に手厳しい」
苦笑を言葉の端々に混ぜ、赤井は煙草を携帯灰皿に押し付けた。
アンデルセンの言葉はどこか抽象的で、しかし本人には心当たりを強く感じさせるものであるらしい。
どれもこれも行き過ぎた毒舌のようにコナンには聞こえるが、言われた当人たちを思考に没頭させる力を持っている。
「そこの金髪は頭が回りすぎる不憫なイノシシで、そっちのウイスキー男は薄っぺらな人非人。どいつもこいつも努力だけは人一倍で、出来と言ったらお粗末極まりない。例外はそこの、」
するり、と視線がコナンを捉えた。
色の無い、しかし深く強い何かが籠った視線のように感じられるそれ。
「正しさの塊くらいのものか」
「……え、そ、その……」
困惑したコナンを意にも介さず、つまらなさそうな様子は相変わらずだが瞳に真摯さを乗せてアンデルセンが言葉を続ける。
「真実とは万人が追い求めえる正しさの形だ。事件の謎解き、秘匿された非道の数々。道理が正しく敷かれているなら、真実が弱者を救うことも多い。もっとも中立だからこそ物事を正しく見ることにも適しているだろう」
言葉を切り、一拍の静寂がコナンの心臓を打つ。
それは己の目指すあり方そのものである。
隠された情報は不公平をもたらす。真実は事実であり、事実は一つしか存在しない。
「正しさ」というものは人によって異なるだろう。
自分だけが幸せになることが正しいと思う人もいるし、敵を殺すことが正しいと信じている人もいる。
万人にとっての正しさは数少ない。
そしてその数少ない正しさの一つが、事実を明るみにすることなのだ。
それを追及することでもっとも正しい正しさをコナンは実践してきた。
瑕疵なく、的確に、はっきりと。
「だが、真実が感情を救うとは限らない。人間になりたい怪物に『お前は怪物だ』と突きつけて何になる?別に真実で救えない一握りを切り捨てたところでお前が困ることは無いが……いずれ致命的な齟齬が生まれるだろうよ」
いや、もうすでに生まれた後なのかもしれんな。
アンデルセンの滴り落ちる水滴のような言葉が、頭蓋に反響しながらコナンの脳を揺らしている。
なにかとても恐ろしいことを忘れているような、そんな理由のない予感が脳髄をかすめた。
それはコナンの不安を大きく撫で上げたが、すぐにコナンは頭を振って気を取り直した。
人物評はあくまで雑談だ。
こうして言葉を交わすことで彼の口を少しでも軽くすることが目的なのだ。
自分たちの目標はあくまでロンドンからの脱出、ひいては現実世界への帰還である。
彼の言葉は意味深で考察に値するだろうが、今はいったん置いておくべきだ。
コナンは無理やり、いつものように子供の皮を被って困ったような笑みを浮かべる。
「あ、あははは。な、なんのこと?さっぱりわからないや」
「それは子供らしくない俺への当てつけか?子供というものに過度の期待を抱いている大人どもには有効だろうが、俺にやったところでなんの得にもならんぞ」
「う……や、やっぱこの言葉遣いって子供受け悪いのか?元太たちにも不評だし」
「根本的な話として、子供は総じて大人扱いされたいものだと知っておくといい。本当に子供ぶりたいなら、堂々と『僕凄いでしょ!』と自慢して回ったほうがリアリティがある」
「えぇ……。うーん、参考にしておくよ」
それって遠回しに、メディアに露出しまくっていた工藤新一をこき下ろされてる?
人物評の話題から離れてしばらくのち、コナンは唐突にそのことに思い当たってひどい衝撃を受けた。
自分一人だけ評価が甘いなとは思っていたが、何のことは無い時間差で来る毒舌であっただけ。
ほっと一息ついて油断したころにくる時間差攻撃に、コナンは心の大切な部分を抉られたような悲しみに沈むこととなった。
その日の夜。
コナンたちはそろいもそろって上の空な状態で話し合いをすることとなった。
今日は気が乗らんから寝る、と言い放って隣の寝室へ消えていったアンデルセンだけがなんとも呆れたような溜息を空気にこぼすのであった。