男の取り合いで負かした女が嫉妬に狂って悪戯してくる 作:あいだ子
数学の授業で先生に当てられた愛咲が黒板に左手ですらすらと証明を書いていく。
左利きの人が文章を書くのを見ると、奇妙な感覚に陥る。
よくそれで書けるなあ、力加減難しくないのかなあ、と心の中で無意味な気遣いをしてしまう。
香澄の心配をよそに、愛咲は癖の少ない綺麗な字で文を書き連ねていく。
行が蛇行することもなく、文字の大きさも均一だ。
こういうところも美術的なセンスと何かしら関係がある気がする。
栗色の長い髪が左右に揺れる。
あれは地毛らしいが、本当だろうか。
少なくとも頭のてっぺんがプリンになっているのを香澄は見たことがなかった。
性格や言葉遣いが良ければ完璧なのに。
さっきから消しカスを投げつけてくる女子も愛咲の指示に従っているのだろうか。
香澄は証明を終えて席に戻っていく愛咲をぼうっと眺めながら、そうだったら残念だなと思った。
授業が終わり、香澄はトイレに向かった。
用を済ませて個室から出ると、二人の女子生徒がトイレの入口付近立っていた。
手を洗い、ハンカチで手を拭きながら二人の横をすり抜けようとすると、片方の女子が入口に立ちふさがった。
顔をよく見ると、クラスで見たことのある顔だった。
「通りたいんだけど」
香澄が半歩横にずれると、彼女もそれを追うように横にずれる。
「藤崎さあ、自分がどういう状況かわかってんの?」
女は香澄の肩を押し、不機嫌そうに言った。
「状況……お手洗いを済ませて教室へと向かう状況だよ?」
「そうじゃねえよ! 岸本のことに決まってんだろ!」
大きな声を出され、香澄はビクッと身を震わせた。
同性に好かれないと言っても、喧嘩まで発展したことはこれまで一度も無かった。
荒い口調で怒鳴られ、香澄は面食らう。
「き、岸本君がどうかしたの、えっと……あー、何さんだっけ。消しカスの人だよね?」
「藤崎、お前いい加減にしろよ」
女は先ほどよりも強い力で香澄の肩を押した。
香澄はよろめき、転ばないように大きく後ずさると、一つ目の個室の壁に背中がぶつかった。
この二人の名前はわからないが、愛咲のグループにいた気がする。
「これって青山さんに言われてやってるの?」
「ちかっち、こいつ押さえててよ」
女は香澄の質問には答えず、もう一人の女子に指示を出した。
「え? まあべつにいいけど」
これまで静観していた『ちかっち』と呼ばれた女子が困惑気味に香澄に近づき、香澄の左腕を引っ張った。
「な、なにするつもり? 離してよっ」
ここまでどこか楽観視していた香澄も、身体の自由を奪おうとする『ちかっち』に強い危機感を覚える。
しかし、彼女の力は強く、振りほどくことができない。
二人で争っていると、右の脇腹に強い衝撃を受け、香澄は息が詰まった。
「ぐうぅ……う……くっ……ふぅぅ……」
痛みに香澄はしゃがみこむ。
上手く呼吸ができない。
殴られたということに理解が及び、逃げなきゃ、と立ち上がろうとするが、目の前の女にトイレのスリッパを履いた足の裏で蹴飛ばされ、香澄は尻もちをついた。
女は香澄の髪の毛を鷲掴み、顔を近づける。
「次はこんなんじゃ済まねえぞ」
そう言い捨て、女は乱暴に髪の毛から手を離し、トイレから出ていった。
『ちかっち』と呼ばれた女子は、本気で殴るのは頭おかしいでしょ、などと小声でこぼすと、香澄を一瞥したのち、女の後を追った。
一人残された香澄は、呼吸が整ってから立ち上がり、スカートのお尻を両手ではたく。
殴られた箇所に触れると、痛みが走った。
折れてはいないが、確実に痣になるだろう。
消しカスを投げられるくらいなら許容できるが、ここまで来てしまったら、何か手を打たないとだめだ。
愛咲本人と話をする必要がある。
香澄はもう一度手を洗って、今度こそトイレを後にした。
その日の放課後、岸本に自転車置き場に呼び出された。
岸本からその誘いを受けたとき、前の席に座る百花が勢いよく振り向き、何かを言おうとして口を閉ざし、結局何も言わずに前に向き直った。
香澄は岸本と顔を合わせ、首を傾げた。
席が隣同士なのに、一旦分かれて自転車置き場に合流する非合理に少しだけイラっとする。
トイレでの一件のせいで、香澄の心はささくれ立っていた。
岸本の用事はなんとなくわかるし、昨日までの香澄なら多少心は浮き立ったのかもしれないが、今はどうにも間が悪かった。
自転車置き場に着くと岸本が落ち着かない様子で、手を組んだり離したりを繰り返していた。
校舎の影から姿を見せると、彼は姿勢を正した。
用事は予想に違わず、告白と交際の申し込みだった。
タイミングさえ良ければ香澄もオーケーしたが、いじめの先が見えないこの状況では簡単に頷くことはできなかった。
岸本に非は無い。
おそらく学校で女子から一番人気の男子で、性能だけ最高品質の愛咲とは違い、性格だって良い。
そして香澄自身、一緒にいて楽しいと思える男子だ。
断るのがもったいないと感じる自分がいる。
それに、近いうちに愛咲と話をつけに行くつもりだから、例えばの話、岸本に告白の返事を待ってもらっている状態は岸本に好意を持っているという彼女との交渉を有利に進めるのに、非常に強いカードとなる。
そのときに愛咲が自分を見る目に何かしらの感情が浮かぶのが見られたら最高だと思った。
あの冷たい目。
香澄を見ているようでその実、興味の欠片も抱いていないようなあの目。
そこに浮かぶのが悔しさでも怒りでも、香澄はそれを見てみたいと思った。
「告白してくれて本当に嬉しい! 真剣に考えて返事がしたいから、少しだけ待ってくれるかな、岸本君」
香澄が返事を保留することを告げると岸本の顔は少しだけ曇ったが、すぐにいつも通りの爽やかな笑顔を見せ、快く了承し、部活があるからと言って香澄より先に自転車置き場を去っていった。
香澄はその後姿を見送ってから校舎に戻り、内履きに履き替えて、3階まで階段を上った。
階段を上がった正面には特別教室棟に続く渡り廊下がある。
香澄の教室は今いるこの普通教室棟にあるから渡り廊下を越える必要はないが、見覚えのある背中を見つけ、意識がそちらへ向かう。
百花がスクールバッグを肩にかけて向こう側へと歩いていた。
陸上部の百花が放課後に特別教室棟にバッグを持って向かう用事が思い当たらず、香澄は不思議に思ったが、今は気軽に声をかけられる関係性でもないため、そのまま教室へと向かった。
教室に着くともう生徒はほとんどいなくなっていた。
宿題に必要な教科書等をバッグに詰め込み、香澄は教室を出た。