「―――お義母さんっ!」
小さい子供が、迷子の子供がようやく親に出会えたように叫ぶ白髪の少年の声が、胸をざわつかせる。何度も何度もぶつかってくる彼は、『
『
自分がなぜ生まれたのかも『
「――おか、あさんっ!」
私は彼を
あの処女雪のように綺麗な白髪を。
抉り取ってしまいたくなるような赤い瞳を。
転んだだけで泣いてしまうような弱さを。
ぶっただけで壊れてしまうのではないかという脆さを。
可愛らしく、
私は
少年が何度も何度も、しつこく、壊しても立ち上がって、鬱陶しいと思えるほど走り、ぶつかってくる。それを何度も何度も打ち払い、叩き潰し、吹き飛ばした。なのに、立ち上がる。瞼が熱い、胸が熱くて苦しい、声が震える。その理由が、わからない。
――どうして? ベルは、何?
「お義母さん・・・!」
何度も呼び掛けてくるその声が聞こえる度に、体が一瞬動きを止める。
意味が分からない。
彼女はそんなもの知らない。
子も母も知らない。
生まれた理由すら知らない。
だというのに、思考を乱すように少年の声を聴くたびに、ぶつかるたびに、小さかった少年が抱き着いてくる記憶が、義母を呼んでいる記憶が、可愛らしく身を寄せて眠っているその記憶が、『
「おかあ、さん!」
また胸がざわついた。
知らない誰かの記憶に、『
子が親を越えていく、それを喜ぶ『冒険者』としての母のように胸が熱くなっていく。
会いたかった誰かに会えたとばかりに、瞼が熱くなっていく。
謝りたいこともないのに、謝らなくてはいけないと胸が締め付けられていく。
少年が離れ、どんどん、どんどん速度を増して疾走してくる。そして何度も何度もぶつかる。火花が散る、少年のナイフが自分を傷つけてくる。
――
――
――
自分が自分を破壊する、記憶が自分というものをぐちゃぐちゃにしていく。
意味の分からない感情が、体から動きを鈍らせていく。三次元跳躍できるほどの脚力で少年を追い越して攻撃する。少年は徐々にスピードをあげてなお追いつき、攻撃を返してくる。その度に『歓喜』という
「お義母さん!」
何度も何度も、彼は彼女のことを呼ぶ。
精霊を通して、義母の名を叫ぶ。
今まで呼ぶことができなかった分をたっぷりと叫ぶように。
我慢していた分を吐き出すように、彼は精霊を通してアルフィアの名を呼ぶ。
――
――
――
心が悲鳴をあげるように叫ぶ。
薄闇の迷宮の中、粉塵の向こうからチカチカと、紫色の輝きが見えた。
それを知っているものは、きっとこういうだろう。
『まるで流星のようだ』と。
けれどそれすら、
だというのに
『ああ・・・・綺麗・・・』
そう、自然と口にした。
なんだそれは、綺麗とはなんだ。
わからない、知らない、理解できない、意味が分からない。
だけど、見とれてしまう。
まるで自分の思いを伝えようとするように輝きは増す。
好きな人はできたか?
今は何をしているんだ?
そんな熱い何かが胸をざわざわとざわめいて、心が荒波を立てる。
粉塵を突き破り、少年が迫ってくる。
紫に輝く炎を携えながら、突っ込んでくる。
小さかった子供が、親にようやくおいついたように。
昔小さかった少年が、義母のもとに駆け寄るように。
そんな記憶がまた瞼の裏をチラついて、動きが止まる。動きが止まってしまった
無意識に両腕を広げ、駆け寄ってきた子を抱きしめるように待ち受けていた。まるでこの瞬間を、その一撃を望んでいるかのように、もはや体は動いてくれない。
『――――ベ、ル?』
「お義母さんっ!」
白髪の前髪から、透明な体液が散っていくのが見えた。
今にも泣きそうなのに、必死に堪えている子供の顔が見えた。
何度も何度も、お義母さんと呼ぶ少年の声は嗚咽を堪えていて、震えていた。何度もナイフを振るう度に、少年の瞼からは透明な体液が飛び散って、蒸発していく。
泣いている。
あの子が泣いている。
これはどちらの感情なのか、もはやわからない。
固まる
彼以外に、そのナイフを振るえる者はいない。
彼以外に、
食わなくては維持できない肉体。
埋まることのない胸の内にある乾き。
もうとっくに
もうとっくに限界を迎えて崩壊していたのに、生まれた意味もなく、誰もいない迷宮の中、少年のことを待ち続けていた。
穢れた命として産み落とされてしまった被害者だ。
面白そうだから作られた。
嫌がらせのつもりで、たまたま生まれた。
ただそれだけだ。
どうして自分が少年を求めているのかもわからず、けれどこの肉体、記憶が少年を傷つけたくないと拒絶して崩壊していった。
終わりの時を、
彼に殺されるのならば、文句はない。
彼に終わらせてもらえるのなら、これ以上嬉しいことはない。
悔しい、もちろん悔しい。身に覚えのない記憶が邪魔をして、その度に身に覚えのない思い出に嫉妬する。
臨界を迎えた灼熱の刃。
憎悪ではなく、闘志でもなく、敵意でもなく、殺意でもなく。
ただ、その愛と憐憫によって打ち出される。
「――『
それは、かつて道化を演じ後に『始原の英雄』と呼ばれた者の名だ。
それは、全ての孤児達の保護者にして、聖火を司る女神の名だ。
それは、『
零距離から繰り出される必殺の一撃に、全ての行動が間に合わない。
迎撃も、回避も、何もかもが。
それを当然のように、慈愛に満ちた母の顔をして、
収束された炎が、光が解き放たれた瞬間、全てを悟る。
少年の全てを出し尽くして放たれる
英雄を葬るというのに、なのに、その刃の中には憎しみはなかった。
労りがあった、憐憫があった、同情があった、悲哀があった、悲嘆があった、なにより、愛があった。
圧倒的なポテンシャルを誇る
ああ――ああ、
必殺の一撃を受ける前に、そう思った瞬間で、
でも、もう無理だ。
この一撃を受けてしまっては、もうどうしようもない。
この一撃は、愛なのだ。
だから喰らってしまえば、終わりを受け入れるしかない。
終わったはずの命を終わらせようとする。
聖なる炎が穢れた体を浄化していく。
乾きが、疼きが、消え失せていく。
自分ではない。
彼が見ているのは、
自分ではない、のだけど。
この体の媒体となった
ああ、嬉しい。
嬉しいとは、こういう感情を言うのか。
温かい炎が、穢れた彼女を滅していく。
それでいい、それがいい。
崩れていく。
他者の記憶で思考を塗りつぶされ、自己が崩壊していく。
蒸発していく。
フレアの炎に焼き切られて、胸から下が消え失せていく。
罪ではなく、罰でもなく。
愛ゆえに、
限界だったのだろう。
互いに。
少年は全力を出し尽くして、ああ・・・必殺の一撃を解き放って無様に倒れこんでいる。思わずくすりと笑ってしまえるほどだ。
胸から上、残った体が仰向けになって宙を浮いて地に落ちていく。
ドシャッ、と音を鳴らして倒れていく。
真上の景色は真っ暗だけれど。
ズル、ズル、と這いつくばって少年が近づいてくる。
止めを刺そうと、近づいてくる。
時折、体を引きずる音とは別に、鼻を啜る音が響く。
彼が見下ろすように、
ぐちゃぐちゃだ。
嫌だ、やっぱり嫌だ、お別れなんて嫌だ。
もっと話したいことがあるんだ。
そう言うかのように、静かに泣きじゃくる。
けれどやるべきこともわかっていて、だから余計に泣いている。
カタカタと胸の上に突き立てられたナイフが震える。
ぽたぽたと、
『な――ぃ、d―――』
涙を拭ってあげなくては。
子供が泣いているなら、拭ってあげるのが母親の務めだ。
この体を構成するのに使われた
最後の最期まで、ああ、なんて中途半端なのだろう。
子供に会いに行って、子供を捨てて。
迷宮都市に絶望を与えて、半端に作戦を変更させて。
子供に親殺しまでさえて、涙一つ拭ってやれない
『g―――、gス、
「ぐすっ・・・【
「―――ベル、さん」
少年の背後から、白銀の長髪を揺らす少女が歩み寄ってくる。
ボロボロの体を引きずって、隣に腰を下ろしてナイフを握る彼の手の上に少女らしい手を添える。貴方一人に罪を背負わせたりしないと言うように、大丈夫と言うように。優しく。
『―――、―――』
意識がぼんやりとしていく。
瞼が重たい。
これが、眠たいというものなのかと知覚する。
「ベルさん・・・最後です、もう、言い残したことはありませんか?」
彼女がずっとこの旅の中、支えていたのだろう。
きっと偶然だ。
別に彼女である必要はなかった。
誰でもよかったのだ。
ただこの旅の同行者が彼女になっただけであって、きっと形は違えど、結果は同じように辿るのだ。吸った空気が胸の下、何もない場所へと漏れていく。彼の手から震えが消えていく。
「お義母さん・・・僕、は・・・」
恨んでいるだろうか。
「恨んでなんか、いないよ」
怒っているだろうか。
「寂しかった、よ」
そうか、それはすまなかった。
「・・・・お義母さんの名を、また呼びたい」
好きにしろ、私も好きにした。
「ぼ、く・・・・僕、言わなきゃって、言えなかったことがあるんだ」
だろうな。私ももちろんある。
「英雄に・・・・英雄に、なりたいんだ」
おすすめはしない。碌なもんじゃないからな。
「貴方達の罪も後悔も、僕が受け継ぐから・・・だから、どうか」
もういもしない誰かと会話するように、少年は少女に支えられながら口にする。
ゆっくりと、ゆっくりと胸の中に刃が納められていく。
穢れた体が、清らかなものへと浄化されながら、最後の瞬間を待ちわびる。
「思い出の中で、眠っていて欲しい・・・絶対、忘れない、から」
辛いだろうが、苦しいだろうが、悲しいだろうが、それでも。
少年は前に進める。
決して独りではないのだと見ていればわかる。
必ずそこには、寄り添ってくれる誰かがいるのだ。
なら、問題はない。
「ぐすっ・・・・・ぼ、僕に、僕に・・・会いに来てくれて・・・あり、がとう・・・!」
でもやっぱり泣いてしまうのは、減点ものだ。
しかし、別れは寂しいものだから、大目に見よう。
『た、のし・・・か、た・・・?』
お前の旅は、良いものだっただろうか?
アルフィアが少年の元を去って以降、彼女達は少年がどうなったのかを知らない。
どんな道を歩んできたのかを、知らない。きっとたくさん泣いたのだろう、嘆いたのだろう、神を恨んだのだろう。ここに至るまでの道のりを、短すぎる命を背負った
「う、ん・・・・嫌なこともあったけ、ど・・・悪くは、なかったよ・・・・」
良いことばかりではない。
所詮、そんなものだ。
下手糞な微笑を浮かべる少年の顔を見て、いよいよ
パキッ、と刃が魔石に触れ砕いていく。
体が灰に変わって散っていく。
走馬灯などない。
少年と戦っている最中、散々狂わされた、壊された。それくらいは見た。
だからもう十分だ。
これ以上、自分が誰なのかわからなくなってたまるか、と最後の抵抗のように穢された精霊は醜く笑った。
笑って。
『―――愛して、いる』
「―――愛してる」
2つの言葉が重なって、眠るように瞼を閉じる。
魔石は砕かれ、体は灰に変わり、炎に撒かれて消え失せる。
その光景の中、少年は見上げるようにして泣き叫んだ。
あと1,2話くらいで終われるだろうか