ゴーン、という酔いしれるほど美しい鐘楼の音が、37階層『
白濁色に染まった壁面と、そしてあまりにも巨大な迷宮構造でありながら、風に乗るようにそこに訪れた者達の耳朶を震わせる。
「これ・・・・魔力・・・?」
金髪金眼の少女はその音を聞くとほぼ同時、足を一度止める。
この階層でこのような音など聞いたことがないからだ。
しかし、すぐに止まった足を再稼働させる。時間がないからだ。
探し人である少年も、探し人である少女も、とてもこの階層域で生きていけるとは思えない。ましてやあの心優しい少年のことだ、少女を庇って無理をしているに違いない。それは隣を並走する赤髪の美女――アリーゼも同様に考えているのか、平静を保ってはいるが、嫌な感じがするとばかりに、その足は急いでいるようだった。
しかしアイズとアリーゼよりも少し前を進む
「音の方向からして・・・階層の中心、『玉座の間』にいる可能性が高い」
『
次層への階段と『階層主』が出現する階層中心部が『玉座の間』。
そこから順々に『騎士の間』、『戦士の間』、『兵士の間』、『獣の間』と続く。
アリーゼが聞いた話ではモンスターに飲み込まれて、
その場合、たとえ第一級冒険者であっても自分がどこにいるのかわからなくなっていてもおかしくはないし、それが
ゴーン、とまた鐘楼の音が鳴り響く。
オッタルにもう一度聞くも、同じことを聞くなと返答はない。
背後からついてきていた異端児達は、いてもたってもいられなくなったのか、
「見テキマス・・・ッ!」
特段、彼等とは会話はない。
アリーゼは異端児達については少年が友好関係にあるのであればそれを邪見にするわけにもいかないし、敵意を向けられるわけでもないのだから剣を向けはしない。紛らわしいなあ・・・とは思うけれど、今や飛んで行った
アイズも彼等に剣を向けはしないが、一度リドが話をしに近づいてきたところ、誤って剣を向けてしまって一悶着起こりかけた。結果、『あの・・・間違えそうなので、その・・・えっと・・・』なんて心底気まずくなって一定の距離間隔をあける羽目になっていた。オッタルは言わずもがな、反応すらしない。
「あー、綺麗な音なんだけどトラウマが・・・っ!」
「アリーゼさん?」
「いやその、アルフィアと戦った時・・・盾とライラの策で助かったけど、いやほんと、痛いしあっちこっちから血は出るしで・・・やばかった」
「・・・・・」
「ベルが『
会話をしつつも、急ぐ足は止まらない。
出現するモンスターはオッタルが魔石ごと、遭遇即粉砕するがそれも中心部へ近づけば近づくほど遭遇率は格段に落ちていく。
「モンスターの数が少なすぎる・・・ううん、もしかして、怯えて隠れてる? ありがたくはあるけど、後が怖いわ・・・」
念のためにと、後方の異端児達にジェスチャーで
『遭難者、回収後、護衛、お願い』
をするアリーゼ。
しかし、
『悪ぃ、何て伝えたいのかわからねぇ・・・』
アリーゼは激怒した!
必ず邪知暴虐の邪神を滅ぼさねばならぬと決意した!
しかし異端児達はジェスチャーがわからぬ、意思疎通が取れなかったのだ!
諦めて異端児達に届くように言葉で伝えると、揃って親指を立てられる。
いや、親指立てて了承を伝えられるんかい! とアリーゼは笑顔を浮かべる顔をピクピクとひくつかせた。いくら2人の救助とはいえ強行軍であることは変わらないし、常に気を張っていても仕方がない。適度に肩の力を抜くのも大切なのは【ファミリア】の団長であるアリーゼはよく知っている。だからこそ、2人の
「コノ先デ、ベルサンノ声ガ聞コエマシタ!」
しかし、その姿は見ていないらしくそれを聞いてみても、なんかすごいやばい魔力が波打ってて近づけないと、近づくと絶対死ぬと青い顔をして言うので無理させることもできない。
「魔力を吸収しているせいで・・・景色が歪んでる・・・」
アイズが目を細めて、『玉座の間』の入り口部を見つめてそんなことを言う。
アリーゼも同じようにして目を凝らしてみれば、確かに歪んでいた。
放った魔法から魔力の残滓を回収して、連発しているのだ。それが恐らくは階層全域に音が響くほどともなればその魔法がどれほど強力なものなのかはわかりきっていた。強力な魔法、異質な魔力に、脅威的存在に階層内のモンスター達は怯え、姿を消してしまっているのだろう。
走る、走る、走る、走る。
アリーゼの勘が警鐘を鳴らしている。
何か嫌な予感がする、急げと言っている。
「あと、少し・・・!」
「ベル、アミッド・・・!」
階段を何度も飛び降り、駆け上って進む。
『
少年の声がやっと聞こえた。
震えていた。
悲痛な声音だった。
その声と共に、紫色に輝く炎が、
戦っている、戦っている、戦っていたのだ。
あの泣き虫な少年が、女の子のような笑顔を浮かべる少年が、義母の墓を荒らされて生まれた怪物と戦っている、自分よりも遥かに強い精霊と、過去の憧憬と戦っている。文字通り命を削って。
駆ける、駆ける、駆ける。
「ベル、ベル、ベル―――ッ」
急げ、急げ、急げ。
あの子に輝夜は無事だと伝えなくてはならない。
一緒に帰ってアストレア様に無事に帰りましたと、「ただいま」と言わせてあげなくてはならない。
何より怖い思いをしたはずだ、温かいお風呂に入れてやって、美味しいご飯を食べさせて、怯えて眠るだろう彼に誰かがついていてやらなくては、とそんな考えを思い浮かべる。
彼は今回の、傷ついて傷ついて傷ついた『冒険』をどんな風に語るのか。
それはアリーゼにはわからない。
もしかしたら、語ってくれないかもしれない。
偽物であっても母親と戦っている、殺し合っているのであれば痛いくらいに抱き着いて泣きわめくかもしれない。それでも、これはきっと彼だけの大切な旅なのだ。落ち着いて安心して安全なんだと思えた時に、彼女達は、あるいは女神はきっと彼の旅を聞かせてほしいと言うだろう。内緒と言われればそれまで、けれど、無意味なものにはならないはずだ。
静かになった迷宮に、泣きわめく子供の泣き声が聞こえた。
泣いている、あの子が泣いている。
もう大丈夫、私が来たよと言って安心させてあげなくてはと胸が騒ぎ立てる。
駆ける足が速度を増す。
きっと体中がボロボロなはずだ、戦闘員ではない少女を守り続けていたはずだ。
なら、頑張ったね、と言ってあげなくてはならない。
あと少し、けれど長く感じるその道のりを飛ぶように進む。
異端児達も彼を心底心配しているのか、もはや開けていた距離感など無視して飛べるものはその速度を増し、翼のない者達は必死に走っていた。
「アリーゼ、さん・・・もう少し・・・!」
「ええ、ええ、ええ!」
地面を爆砕させるように、風になったように、駆けあがる。
最後の階段を駆け上がる。
どうして『
駆けて駆けて駆けぬけて、最後の一段を飛び越えるようにして、一直線の通路を走り抜けて入り口に手をつけて、彼女達は叫んだ。
「ベルッ!」
「アミッドッ!」
そこにいたのは、ボロボロの2人。
血の泉に沈んでいる少年と少女。
全て出し切ったようにうつ伏せで倒れている少年に、その少年の頬を撫でるようにして手を添えている少女。意識はあるのか、ぴくり、と少しだけ反応してみせた。
■ ■ ■
「・・・・終わり、ましたね」
少女が言った。
「・・・・・は、ぃ」
少年が言った。
擦れた声で言った。
スキルの反動で疲弊した少年は、もはや動くこともままならず泣き叫ぶだけ泣き叫んで、ぐらり、と倒れていた。今にも瞼が落ちそうな少年はそれでもアミッドを見つめていた。アミッドもまた、倒れていた。常時回復状態を行いながらの戦闘行為。
傷しかない体は今も血を吐き出していた。
互いの呼吸が浅い。
手足の感覚も曖昧。
視界は霞んでいる。
少女が重たい体でなんとか少年の頬に、涙が伝っているのを拭おうと腕を伸ばして手を添えた。
よく頑張りました、とせめてそう言ってやるべきだ。
少年にとっては親殺しをしたのだ、辛いはずだ。それでもこの旅は終わりなのだ。せめて頑張ったと褒めてあげなくてはならない。
ここが治療院であったのならば、怪我も治って、心の傷も癒えた時には花束を渡して送り出してあげなくては。けれどここが迷宮で、それはできそうにもない。それが少しだけ残念だ。だからせめて、せめて・・・と頬に手を染めて疲れ切った体で表情が変わっているのかすらわからないけれど、微笑んで見せた。
「・・・・帰れ、ますね」
「・・・・・、ぃ」
か細い声。
少年の表情は前髪で隠れてよく見えないが、口元が何とか笑みを浮かべようとしているのか震えている。まるで夢の中のような微睡みが支配する中、地上に戻る未来を、現実との境目を失った夢の中だけで共有する。そこにもう、冒険者はいなかった。壁にできた大きな傷は炎が盛っていて、幻想的で、『
怪物の遠吠えが響き渡る。自分達にとっての脅威が失せたことに歓喜し、静寂を破るように、闇が盛んに喚きだす。幾つもの激しい咆哮と重なり合う足音が、この広間へと迫っていた。立ち上がることもできず、身じろぎ一つもままならず、闇だけが少年と少女だけが見下ろす。
「・・・・ベルさん」
「・・・・・」
地上に戻ったら、少し出かけませんか? そんなことを言いたくなったが、うまく言葉にならない。さすがに今回のことを知れば、あの主神とて長期休暇くらいは認めてくれるはずだ。いや、団員達がそうさせてくれるはずだ。そんなことを思って、少年を誘おうと思って、しかし、言葉が出ない。眠たい、疲れた、痛みさえ感じないほどに。少年が反応しているのかさえわからないくらいには、アミッドも瞼が重たかった。少年はアミッドを庇い続けていたが、アミッドはLv.2だ。そんな場違いな環境下にいる時点で、そのストレスは計り知れない。
もう言葉は続くことはない。
浅い呼吸を繰り返す。
頬に置いた手だけはそのままに、眠るように瞼が閉じられた。
しん、と静謐なその広間に、近づいてくる雑音。
ぴくりともしない2人。
自分達がいる場所さえもわからず、1人の冒険者と1人の治療師は、この旅を終える。
多くの同業者がそうであったように、徐々に『深層』の闇に飲み込まれていく―――
「―――――ベルッ!」
「――――アミッドッ!」
その時。
「――ベルっち!」
「ベルサン!」
離れている同胞を見つけたように、怪物達の人語が、良く知った人間の声が耳朶を震わせた。
帰らなきゃ・・・。
ぴくり、と姉の声が聞こえて少年は体を必死に震わせる。
背中が弱弱しく熱を放つ。
生きたいという意思が、消えていく聖火に力を滾らせる。
頬に添えられた手を、震えた手でぎゅっと握りしめて何度も呼吸を繰り返す。
「ぁ・・・、ぅ・・・ぅ」
歓声にも聞こえた雄叫びが響いている、けれど少年の耳にはよく聞こえなかった。
疲れきった頭には、残念なことによく聞こえなかった。
手を握られて、アミッドがゆっくりと瞼を開けていく。
透明な体液が、伝って地面に落ちる。
赤い泉の中に、混じっていく。
「ベル、ベルッ・・・生きてる、生きてる・・・!」
「こっちも・・・アミッド!
飲める? と聞いておいて、ガボッと口に流し込まれる
それは少年も同じようで、ぐったりとした体を膝枕に近い、上体を少し抱き起すような体勢で飲まされていく。
「・・・・、・・・、」
喉がうまく動かない。
けれど、この世で一番美味しいのかもしれないと思えるような味が広がっていく。
口から零れて、皮膚を通って落ちていく。
真上に見える姉の顔は、今ままで見たことがないくらい歪んでいて、泣きそうで、微笑んでいた。
声がうまく聞こえない、けれど、「がんばったね」「偉いよ」と言っているように唇が動いていた。
笑みを返してやりたい、でもできない。
返事をしなければいけない、でもできない。
ただただ、瞼から何かが流れていた。
真上からも、雨が降っているかのように顔に何かが落ちてきていた。
ぼんやりとした瞳に、金色、赤、灰色、赤、青、いろんな色が映る。
うまく見えないその瞳では、それが誰なのか視認することすら難しくて。
けれどそれが、
「ベル、アストレア様が待ってるよ・・・みんな、待ってる。今、連れて帰るから」
「・・・・。」
少しずつ姿勢が上がっていって背中を優しく摩ってくる。
遅れて遠くに、ぼやけた武人が見えた。
叔父さん・・・・?
きっと、きっとそれは違う。
彼は何一つ言葉をくれはしない。
ぼやけた武人に、憧憬を重ねても意味はない。
とても似ているとは思えないから、無意味だ。
けれど、どうしてだか。
この瞬間だけは。
見事だ。
そう言ってくれたような気がして、また瞼から何かが流れ落ちた。
■ ■ ■
ゆっくりと立ち上がる。
生まれた小鹿のように、足をふらつかせて、支えられながら立ち上がる。
「あれ・・・ベルがやったの?」
「みたいね・・・あれ、しばらくは消えないんじゃないかしら」
頭上高くにできた大壁の傷。
炎が再生しようとする迷宮に逆らっているのか、しばらくはそのままだろう。
『精霊』に2人だけで挑んで勝利したというだけでも驚愕ものだというのに、いったいこの少年は何をしたのだとアイズもアリーゼも首を傾げる。落ちているナイフをアリーゼが広い、腰に納める。今の少年にはナイフさえ重くて持てないだろうから。
「ベルさん・・・・・歩け、ますか?」
少年よりもまだダメージがマシなアミッドは足を引きずるようにして少年に寄り添う。あるだけの
1歩。
また一歩。
広間から出ようと進む。
ゆっくりと。
「・・・・・・っ」
ピリッ、と痛んだのか少年が足を止める。
アミッドも足を止めて、顔を覗こうとする。
アリーゼとアイズが少し前を、オッタルが入り口に、異端児達は先に外に出てモンスターが来ていないか警戒している。
「・・・・・ん、、、、ぃ」
「・・・?」
体を震わせる少年。
何を言っているのかわからず、アミッドは首を傾げる。
やはり、痛むのか、ならもう自分が肩を貸すよりアリーゼに背負ってもらった方が確実だと、アリーゼ達に守ってもらいながら少しずつ上に登っていくつもりで背負われずにいたが、少年は足を動かせなくなっている。
「アリーゼさん、すいまs――――」
アリーゼに、やっぱり背負ってあげて欲しいと言おうとして。
トン、首に一撃、そして背を手で押されてアミッドは押し飛ばされた。
軽く、ふわり、と。
「―――――ぇ?」
押しのけられたまま、アミッドはアイズに受け止められていく。
その瞬間はとても時間がゆっくりに感じられた。
急なことにアミッドは間抜けな声が出て、振り向き様、少年を見ても少年は俯いたまま静かに口角を上げていた。
アリーゼとオッタルとアイズの声が遠く感じられた。
駆け出し、アミッドを通り抜けていくアリーゼとオッタル。
けれど、それでも遅い。
少年の
次の瞬間。
ドンッ! と黒い剣山が少年を貫いた。
『ごめんなさい』
スローモーション、薄れていく意識。
少年の声にならない言葉が、脳内で再生される。
剣山を破壊するアリーゼも、生まれた怪物と対峙するオッタルも余所にアミッドのすべてが凍り付く。薄れていく意識の中で必死に否定する。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だと目の前で起きた事実を否定する。
せっかく回復したのに。
やり遂げたのに。
乗り越えたのに。
これで終わり?
そんな言葉の羅列が脳内を駆け巡る。
少年が壊されていく。
治った体が再び破壊されて、血の海に沈む。
剣山を叩き壊し少年を抱きかかえてアリーゼは付与魔法も使って疾走する。
「【猛者】、先に行くわ!」
返事はない。
しかし、瞳がさっさと行けとアリーゼに訴えかける。
これで少年が死に絶えたら女神の意に反してしまう。
油断でもしていたのか、と何だこの体たらくはと笑われてしまう。それこそ、かつての最強に。
炎を纏った骸の王は姿を現す。
聖火に焼かれながらの【
その姿はまるで、火あぶりにされた罪人が踊り狂うかのような異様さで。
壊れた人形を抱えるようにして走っていくアリーゼと、否定したい現実を見せつけられたアミッドは。
次に目覚めた時、自分のよく知る消毒臭い部屋のベッドの上にいた。