晴れてはいるが、柔らかな日差しは冬を感じさせる。外気は少し肌寒かった。
チュートリアルの時とは違い、服装はちゃんとしている。コートを着た冬服姿で、人に見られても恥ずかしくない恰好だ。
構内にいる時はそれなりに温かくはあったが、外は冷たい風が吹いていて思った以上に冷えた。
行き交う人や車をぼうっと眺めていると、不意にある事に気が付いてハッとした。弾かれるようにして口元を手で覆う。
(私、マスクしてないや……)
駅まで来てノーマスクとか。今のご時世、それは致命的だ。
感染リスクによる物理的な命の危険もそうだが、何より社会的に死ぬ。
今の状況でそんなことを気にしている場合かとも思ったが、ここ1年以上で身についた習慣故か、人混みでマスクをつけていないことに不安を感じた。
(あれ……? でも、皆マスクをしてないような……?)
周囲を見回し道行く人の顔を見るが、多くの人がマスクをしていなかった。
口元に何も覆わず、それが当然のような態度で歩いている。
(どういうことなんだろう……? ひょっとしてこの世界ではコロナが流行ってないのかな? ……んっ、あれは)
そんなことを考えていると、白い頭の人物が遠くに見えたので、思考を中断して注意を向ける。
しゃんとした姿勢に細身ながらも女性らしさを感じさせる体つき。服のセンスも若者らしい。老人ではなく若い女性のようだった。
しかもマスクをしている。ひょっとしてあの人がそうだろうか?
(ど、どうしよう。私から手を振るべき……だよね?)
間違っていたらと思うと少し恥ずかしかったが、思い切って手を上げて、小さく左右に振ってみた。
(あ、こっちに来た!)
やはり待ち人で間違っていなかったのか、銀髪の女性は軽く手を振り返すと、翡翠の方に向かって歩いてくる。
柔らかな陽光を受けて煌めく滑らかな銀髪は、顎程の高さで切り揃えられている。
マスクで顔の下半分が覆い隠されているにもかかわらず、醸し出ている美少女オーラ。
目元だけでも整った顔立ちをしているのが伝わってくる。
身長は170センチ近いだろうか。翡翠よりも目線がおでこ1つ分ほど高かった。
目元だけでニコリと笑ったその人が、初対面を感じさせない気さくな様子で声をかけてくる。
「こんにちは。君が掲示板に書き込んでくれた人かな?」
「あ……はい。そうです。わざわざ迎えに来てくれてありがとうございますっ」
「急いで来たわけじゃないから気にしないでよ。本当に家が近かったんだ」
言葉にした勢いのまま頭を下げると、銀髪の人は苦笑したように肩をすくめた。
「まずは自己紹介でもしようか。僕は
「あ、はい、えっと……」
本名と現在の名前。どちらを口にしたものかと少し迷って口籠る。
そんな迷いを察したのか、三千桂は再び口を開いた。
「ちなみにこれはこの世界での名前ね。本名は……今となっては名乗る意味がないかな。それとも知りたい?」
「い、いえ。大丈夫です。えっと、私は翡翠です。
不思議と、その名を名乗ることに違和感がない。
記憶が薄いとはいえ、20年近くもこの名で呼ばれていたからだろうか。
「その、よろしくお願いしますっ」
「うん、こちらこそよろしくお願いするね、巫浄さん」
自分がお辞儀をすると、三千桂も改まって頭を下げてきて、翡翠は恐縮した。
「じゃあうちに案内するよ。10分くらい歩くから付いてきて」
「は、はい。お願いします」
ややあって、二人は連れ立って歩き出した。
歩き出してすぐに、三千桂が碧色の瞳をちらりとこちらに向けて口を開く。
「ところで巫浄さんって、月姫の?」
「あ、はいそうです。私はあんまり知らないんですけど……あの赤髪のメイドさんですよね?」
「そうそう、無口っぽい方の」
「確かにそんな感じでしたけど……」
無口っぽい方? そういえば姉妹キャラだったんだっけ?
考えても月姫に詳しくない翡翠にはよく分からなかった。
「そっかー、翡翠かー。それってランクは何だったの?」
「ランクは……」
一瞬言い淀む。自分の弱みをさらけ出すようで少し抵抗があったから。
「……N+です。多分、最低ランクより一つ上の」
「そっかー。けど悪くないように思うよ、翡翠は。戦闘はできな……くもないかもしれないけど、能力はサポート系だから」
三千桂さんはこのキャラについて色々知っていそうだ。
詳しい話を聞こうとしたが、先に三千桂が「あっ」と上げた声に遮られた。
「……ごめん。今のは名前を呼び捨てにした訳じゃなくてね?」
「わ、わかります。大丈夫ですよ。むしろ呼び捨てでも何でも好きに呼んでもらって構わないというか……」
「そう? じゃあ名前で呼ばせてもらうね。よろしく翡翠ちゃん。僕の事も自由に呼んでくれて構わないからね」
「あ、はい。わかりました……」
なんだかコミュ強というか、大人な感じがする。三千桂さんの実年齢は結構高いんだろうか。
聞いてみる? いや、そんなことよりも名前について気になった。
『つぎくに みちか』って、『継国 みちか』だよね?
それに凄くよく似た名前を、翡翠は知っていた。
「継国さんのお名前は……もしかして巌勝――鬼滅の刃の黒死牟から取られたものなんですか?」
「そうそう、正解。詳しいね? 鬼滅好きだったの?」
「はい、アニメとか漫画が趣味だったので……」
「なるほど、気が合いそうだね!」
黒死牟――。鬼滅ではかなりの実力者だ。
Sランカーというのは伊達ではない。
やっぱりこの人についていけば何とかなるかも……。そう翡翠は思った。
「ちなみにさ、黒死牟の一人称って覚えてる?」
「え? えっと、確か“私”だったと思いますけど……」
「ふむ、ならそっちに寄せようかな。この身体になってちょっと一人称に迷ってたんだよね」
まるで性別が変わったかのような物言いで、少し……いや、大いに気になった。
デリケートな話かもしれないけど、隠しているような素振りもないし、大丈夫だよね?
恐る恐る質問する。
「その、答え辛いなら答えなくてもいいんですけど……。もしかして三千桂さんって、男の人だったんですか……?」
「そうだよ」
あっさりと三千桂は肯定した。
「困っちゃうよね。単にゲームで女キャラを使いたかっただけなのにさ」
ははは、と笑う三千桂の横顔はどこか哀愁を帯びていた。
「そういう翡翠ちゃんはどうだったの?」
「私は……性別は変わってないです」
「そっかー。なら色々教わることもあるかもしれないね! その時はよろしく」
「は、はい。もちろんです」
色々ってなんだろう。
結構恥ずかしい話のはずなのに、銀髪の少女はあっけらかんとしている。
性別が変わった事、実は大して気にしていないんじゃないかと翡翠は思った。
先導するように斜め前を歩く三千桂を追って、しばらく無言で歩く。
ある程度打ち解けたことで緊張が解れて、人付き合いが苦手な翡翠もそれなりに口が軽くなっていた。
不意に思った疑問を言葉にする。
「特典の黒死牟さんって、やっぱり最高レアだったんですか……?」
「ん-、多分そうだと思うよ。とりあえずSRではあったね」
「すごい……。その、ステータスのボーナスポイントはどれくらい貰ったんですか……?」
「そっちは10ポイントだったね。まあレベルリセットされて初期ステはALL1だったから、総合的な強さは迷宮の時と大して変わってないよ。いや、武器やアイテムが無くなった分弱体化してるか」
「10ポイント……すごい、ですね……」
もうそれしか言えなかった。
やっぱり自分なんかとは全く違う。
最底辺と、最高峰。
比べたら惨めになるほどの強さを持った人だった。
翡翠は話題を変えるように言葉を続けた。
「その、日光とかは大丈夫なんですか?」
「ん? ああ、別にその辺は何ともないよ。今のところ恩恵もなければ弊害もないみたい。そっちもそんな感じでしょ?」
「そうですね、特に何か変わった気はしないです」
鬼滅の刃の黒死牟と言えば、日光が弱点の人食い鬼でもある。
もしかして人肉を欲するためにプレイヤーを集めるつもりなのではと邪推してしまったが、だとしたら名前は隠すだろう。正直に告げて警戒させる必要はない。それらのデメリットは無いようで一安心だ。
特典のキャラの名前を聞いてドキッとしたが、杞憂で良かった。
「ところで、私の特典元の能力が何か知ってますか? 顔だけはなんとなく知ってたんですけど、詳しい事は分からなくて……」
「ん、翡翠の能力? あ、あー、確か『感応能力』だったかな? 自分の体力や生命力を他者に分け与える的な」
「なるほど、確かにサポート系ですね」
「後は……メイドをしてたし家事は得意なんじゃ? ああ、でも凄いメシマズって設定もあったか」
「え、メシマズ?」
「うん、味覚がおかしくて料理は全くできなかったはず。格ゲーの派生作品では料理が爆発してたような……」
「ば、爆発ですか」
「そう、爆発。もしかしたらその能力も引き出すことになるかもしれないから、厨房に立つときは気を付けてね」
「は、はい……分かりました」
なんだかすごいことを聞いてしまった。
料理が爆発するって何?
これから料理をするのが怖くなる翡翠だった。
※メルブラなどの派生設定は含んでいないので、料理は爆発しません
所詮はレア度N+なので……