そうこうしているうちに三千桂の自宅へと到着した。
駅からほど近い場所にある高層マンション。その低階層にある一室に案内される。
広くて家具は揃っていて、掃除も行き届いている、どこか生活感のない小奇麗な部屋だった。
これで所持金も200万以上あるという。能力もそうだが、住居・所持金共に、上位プレイヤーの優遇っぷりが尋常ではない。
自分たち底辺プレイヤーとのあまりにも大きな格差に翡翠は愕然とする思いだった。
やはりランカーの人達は恵まれている。
となれば強さの面でも自分たちとはかけ離れたものになるのだろう。
やはりついてきて正解だった。そんな凄い人の庇護下に入れるなら安心だ。
「どうぞ、自分の家だと思って寛いでね」
「は、はい……ありがとうございます」
そう言われて、本当に他人の家で寛げる人は中々いないだろう。ただの社交辞令だ。
翡翠はおそるおそる、三千桂が座る対面のソファに浅く腰かけた。自然と手を膝の上に置き、背筋がピンと伸びる。
こうして面と向かうと、口元のマスクが気になった。
外では皆していなかったとはいえ、この人は前の世界の常識を持っている訳で、エチケット的に自分もするべきでは……?
「あの、マスク……私もした方がいいですか?」
「ん、ああこれ?」
自らがつけたままのマスクを指差して三千桂は笑う。
「気にしなくていいよ。習慣って怖いよね。部屋にマスクがなくってさ、私が外に出て真っ先にしたことはコンビニでこれを買う事だったよ」
「わ、分かります。私もマスクをしてないって気づいた時は慌てました……」
「そうだよね! まあ結果的には必要なかったみたいだけど。外を出歩く人は殆どマスクを付けてなかったし」
「こちらの世界では、コロナは流行っていないんでしょうか……?」
「どうなんだろうね」
おもむろにスマホを取り出した三千桂は、何やら検索し始めた。
「あーやっぱりだ。コロナって検索しても感染症の類はあんまり出てこない。パンデミック関係の情報もないし、この世界ではコロナ禍なんて影も形もないみたいだ」
「そうなんですね……。だったらオリンピックとか、普通に開催できたんでしょうか」
「オリンピック? ……おー、どうやら予定通り開催したみたいだね。今年……つまり2020年の夏に終わってる」
「そっか……いいですね、なんだか」
あの大変だった騒ぎが無かったことになっている。
その時の苦労を思い出してしみじみとした気持ちになるが、口をついたのはそんな言葉だった。
もう少しまともな表現は無かったものか。口下手で嫌になる。
「そうだね、平和なのはいいことだ。……このマスク、無駄になったな」
三千桂は無造作にマスクを外した。作り物のように整った素顔が露わになる。
キャラクタークリエイトによって作られた外見であるので、その表現もあながち間違いではない。
自分も元の姿とはかけ離れた端正な顔立ちとなっているため、翡翠もあまり人の事は言えないが。
「つけなくても大丈夫だと分かっても、外をノーマスクで歩くって、なんか違和感を感じない?」
「わかります。さっき歩いていた時も、なんだかムズムズする感じがして居心地が悪かったです」
「コロナが流行してから1年以上が経ってたもんね。完全に習慣化しちゃったなぁ。まあ衛生意識が増すのは悪い事じゃないんだけど」
「確かに、そうですね」
手洗いうがいを徹底したり、マスクや消毒液を使う習慣は、コロナだけではなくその他の感染症の予防にもなる。
毎年のように流行していたインフルエンザがコロナ禍では激減したりと、その効果は確かなものだった。
前の世界では当たり前のようにしていた大衆の行動が、この世界では当たり前ではない。
「なんだか、異世界に迷い込んだんだって実感が湧いてきます……」
「え? マスクの有無で?」
「は、はい。あっちでは当たり前だったことを、こっちでは皆していないので……。そこにギャップを感じるというか……」
「あはは! そっか、マスクで感じる異世界ギャップ! 面白いこと言うね、翡翠ちゃん!」
なにやらツボったのか、三千桂は手を叩いて爆笑していた。
クールそうな印象だったけど、意外とお茶目な人なのかもしれない。
優しそうな人だし、これからも上手くやっていけそうだ。
勇気を出して掲示板に書き込んで良かった。
翡翠は自らの決断が誤りではなかったと感じ、ほっと胸を撫で下ろした。
「――ところでさ。翡翠ちゃんはどうして私を頼ろうと思ったの?」
「え?」
急に笑いを引っ込めて放たれた質問に、翡翠は面食らった顔をした。
「自分で言うのもなんだけど、怪しくなかった? あの人も散々裏があるって指摘してたでしょ? 他に頼る手段もあったはず。それでも結局、頼ったのは私だった。どうして?」
「それ、は……」
真っすぐな瞳に見つめられて、翡翠は思わず視線を俯かせた。
本当の事を言ったら軽蔑されるかもしれない。
そう思った翡翠が言葉に窮していると、三千桂は穏やかな声音で言葉を続けた。
「ああ、ごめんね? 怖がらせるつもりは無かったんだ。ただ参考までに聞かせて欲しいな。私を頼ったのは、どうして?」
「あ、う、その……お、怒ったりしませんか……?」
「もちろん! どんな理由でも怒ったりしないよ。なんだったら私はここ10年ぐらい人を怒鳴った事はないから安心して」
「そ、そうなんですか?」
「うん。人に怒りをぶつけた所で自分がすっきりする以外何の得にもならないからね。知ってる? 暴言ってのはさ、直接言われた人はもちろん、それを見ただけの人ですら仕事の効率が物凄く落ちるんだよ。とても非効率なことだと思わない?」
「そ、そうですね……」
やはりこうした支援活動をしようとするだけあって、とてもしっかりとした考えを持った人のようだった。
少し怖いけど、やっぱり正直に話そう。この人ならきっと怒らないはずだ。
「その……三千桂さんがSランカーで、とても強い人なんだと知って……。私、怖くて。この先チュートリアルみたいなことがあったらと思うと、どうしていいかわからなくって。だから……三千桂さんを頼れば、守ってくれるかも、って……」
話しているうちにその時の感情を思い出して、きゅっと心臓が縮まり目の前が遠くなる。
自分でも何を話しているのか分からなくなりつつも、何とか言葉を続けた。
ちらりと三千桂の方を見ると、ふむふむと頷きながら静かに話を聞いていた。
いたたまれなくなって、翡翠は思わず謝罪した。
「その、ごめんなさい……」
「どうして謝るの?」
「だって、こんな打算的な考えで……」
「それの何がいけないの?」
本当に何とも思っていないような声だった。
恐る恐る顔を上げると、三千桂は穏やかに微笑みながら、優しい目で翡翠を見つめていた。
「打算的という言葉は、合理的で思慮深いとも言い換えることができる。私が見た所、翡翠ちゃんはとても頭が良くて賢い女の子だよ。もっと自信をもってご覧?」
「あ……ありがとうございます」
自分の内面をこれほど褒められたのは初めてだった。
○○って根暗だよね。ちょっと冷たいよね。そう言われて傷ついたことはある。
やっぱり三千桂さんは、他の人とは何かが違う。すごくいい人だ。翡翠は感動に胸を震わせながらそう思った。
「翡翠ちゃんが正直に話してくれたから、私もこうして人助けをしようとした動機を話すよ。と言ってもつまらない話だし長くなるけど……聞きたい?」
「はい、聞きたいです」
できる人という雰囲気がする三千桂の考えは、翡翠としても凄く興味があった。
期待の籠った眼差しを向けて翡翠が頷くと、三千桂は嬉しそうに口元を緩めた。
「おっけ。じゃあ話すけど……翡翠ちゃんは弱肉強食が間違いだって話は知ってる?」
「い、いえ……よくわからないです。ごめんなさい」
「うん、気にしないで。その辺も軽く解説していくね」
そう言って、三千桂は指を立てて説明する。
「まず弱肉強食というのは、弱者が強者の餌食になって弱者の犠牲の上に強者が栄える……。そんな概念だね。それが自然界の法則だと未だに多くの人が勘違いしがちだけど、科学的には古い概念なんだよね」
「そ、そうなんですか?」
「そう。弱いからといって一方的に食われる訳ではないし、強いからといって一方的に食える訳でもない。最終的には全ての個体は死んで食われて土に還る。繁殖して次世代に遺伝子を残した者こそが真の勝者と言えるわけだ。実際の所の自然界の掟は、『適者生存』『共存共栄』。より環境に適応した者が生き残り、多種多様なそれらが共存し合い、複雑な食物連鎖を構築している訳だ」
「な、なるほど……?」
「そんな自然界には、種族ごとに異なる生存戦略が無数に存在する。そして私たち人間が今も続けている生存戦略は『社会性』。効率的な社会を作り助け合って生きていくことで、本来であれば生存が困難な弱者を生き延びさせて、個体数や可能性を増やし種を繁栄させる……そういう戦略だね」
三千桂は一度言葉を切り、ローテーブルに置かれたコップの水で口を潤した。
「つまり何が言いたいかというと、人は一人では生きられないということ。気づいていないかもしれないけど、国、地域、会社、家族……皆何かしらの共同体に属して生きているんだ。社会を取り上げられて孤立してしまった人間は酷く脆い。大自然に1人放置されて生き延びられる現代人なんて殆どいないようにね」
「それは……なんとなく分かります。私も、チュートリアルではなにもできなくて……」
「恥じることは無いよ。それは当たり前の事だから。私もやけくそ気味に飛び出して運良く成功を収めていなかったら、翡翠ちゃんと同じ立場にいただろうしね」
「そ、そんなことは……。三千桂さんはこんなに頭が良いんだから、きっと……」
「あはは、ありがとう。けどね、どんなに強い人間であっても1人では生きられないんだ。猿やチンパンジーだって群れを作っているし、ほら、ポストアポカリプス系の作品でも、文明が崩壊してヒャッハーしてるような人達だってグループを作ってるでしょ? あれも一種の共同体でさ。すべてを自分一人で完結させて、過酷な環境を生き延びるなんて不可能なんだよ」
そこで三千桂は表情を曇らせた。
「本当はプレイヤー同士でがっちり協力し合った方が合理的で上手くいくと思うんだけど……残念ながら私みたいな考え方の人は少数派みたいでね。相対的な弱者を放置して、一部の者が力をつけて先鋭化するよりも、全体的な底上げをして、ピラミッド全体を大きくした方が理に適っている。もちろんリソースを集中させる必要があるならするべきだけど、それだって母体は大きいほど有利だ。……そうは思わないかい?」
「お、思います。三千桂さんのおっしゃる通りだと思います」
問われて、翡翠は即座に頷いた。
三千桂の説明は分かりやすく、また納得できるものだ。翡翠はその講説に深い感銘を受けていた。
「おお、ありがとう! 賛同してくれて嬉しいよ。やっぱり翡翠ちゃんはとても良い子で賢いね!」
「あ、ありがとうございます」
尊敬の念を抱き始めた人物にストレートに褒められて、翡翠は満更でもなく頬を紅潮させる。
「私の理念としてはそんな感じ。とはいえ一足飛びにそんな大きな事はできないから、今は地に足つけて周囲にいるプレイヤーを助けようとしている訳だね」
「すごく……立派な考えだと思います」
そう素直な言葉を口にすると、三千桂は面映ゆそうにして頬を指先で掻いた。
「そう言ってくれて嬉しいよ。これは私一人では到底実現できないことで、皆の協力が必要なんだ。どうかな、翡翠ちゃんも力を貸してくれないかい?」
「も、もちろんですっ。私なんかで良ければ喜んで!」
「おお! 本当に!? ありがとう翡翠ちゃん! 君が協力してくれてとっても嬉しいよ!」
翡翠が快諾すると、三千桂は満面の笑みを浮かべて飛び跳ねるような勢いで立ち上がり、翡翠の手を両手で握ってブンブンと振った。
そのあまりの喜びっぷりに翡翠も嬉しい気持ちになり、釣られて笑みが浮かんだ。
「これから忙しくて大変だろうけど、力を合わせて頑張っていこうね!」
「は、はい! 頑張ります!」
翡翠が勢いよく答えると、三千桂はご機嫌な様子で笑みを深めるのだった。