ティアナ様は告らせたい~少女(一部女性含む)たちの恋愛頭脳戦~ 作:アルブレヒト・ミュンヒハウゼン
サレンディア救護院の二階、ユウキとコッコロの宿泊用に提供している部屋。サレンはその部屋に置いてある椅子に、完全に体重を預けて座り込む。
背もたれがみしり、と音を立てるが、それはサレンの所為ではなく、経年劣化によるものだ。
この建物に最初からあったもので、品物としてはいいのだがとにかく古い。ただ、その古さ故に頑丈で、普段使いにも耐えられること、そして慢性的な物資不足から使っている。使い勝手はいいのだから、これ以上の出費と比較したら我慢の一択だ。
とはいえ、先のきしみや塗装のハゲなど、多少の疲れは隠せない。
そして、使用者であるサレンの疲れも隠せていない。
椅子にもたれかかっているその表情には、普段の美貌の上に色濃い疲労の色が乗っている。勝ち気な印象を与える目元も少しだけ下がり気味になり、その代わりに浅黒い隈がこびりついている。それに、どことなく肌ツヤも悪い。
それもそのはず、何しろ三徹目だ。いくら若いから無理ができる、と言っても限度がある。現状、その限度に近いところまで来ているため、表情のみならず態度にも疲労が滲んでいる。
ただ、サレンの疲労が最高潮にほど近くなっているのには寝不足の他にもう一つ原因がある。
それは、先程まで同じ部屋、正面の椅子に座っていたノゾミだ。
ノゾミの相手はとにかく骨が折れた。
何しろ常に気を配っておかないと、すぐに彼女のペースにさせられてしまうのだ。商談とは異なる緊張感で望まなくてはならなかったため、サレンの疲労に拍車がかかった。
ノゾミの話術は相手を動かすことに長けている。動かすということであれば、サレンも商談で幾度となく経験を積んでいる。
ただ、商談のような少人数を相手にした、双方の妥協点を探るやり取りであれば遅れを取らないが、ノゾミの場合は大多数を相手にしているだけでなく、その全員の気持ちを動かす話術だ。
勢いやノリといった、その場の雰囲気を読む必要、そしてそれに応える言葉を選ぶ機転の早さが必須となる。この場合、気の利いた言葉でなくてもいい。わかりやすく、そして伝わりやすい言葉であればいい。
ノゾミは学に関してはさほどではないようで、言い回しはそこまで巧いわけではなかったが、場に見合う言葉のチョイスは完璧だった。
その所為で手を焼いたとはいえ、面白かったのは事実だ。
自分に類似点がありながら今まで触れたことのない業種の人間の視点や思考というのは、サレンにとってはいい刺激だ。
新たな気付きもあれば、自分も陥っている良くない流れなど、確認することが多くて面白かった。
ただ。
「ふぅ……」
はしたないと自覚しつつ、疲労を多分に含んだ嘆息を吐き出す。
このタイミングではやり合いたくなかった。
もう少し体調がよければ、さらなる発見があっただろう。
同時、最悪の決裂も生みそうではあるが。
アキノとはどちらかというと対極にいるため、意見の相違があってもそういうもの、と割り切ることができるので決定的な決裂はないが、自分と似て非なる、ということは、いい関係を築くより流血も辞さない関連になる可能性が高い。
しかも、サレンには貴族という特権があり、ノゾミは庶民だ。
つまり、サレンがその気になればノゾミは……
(社会的な力がある、って怖いわー……)
思考を止め、軽く頭を振る。
短絡的、かつ危険すぎる思考に思わず冷静なツッコミを入れる。
これも疲労、そして寝不足のせいだ。そう言い聞かせる。
だが。
「疲れてはいるんだけど……」
眠気が少しだけ抜けているのを自覚する。
その原因はいくつかある。
一つは、子供達だ。
話が一段落ついたにも関わらず一向に出ていこうとしないどころか、ユウキの寝顔を眺めてはニヤニヤし、軽く頬を突き始めたノゾミを追い出……同室で寝ているコッコロの邪魔にならないよう、子供達を利用……おっと、子供達に協力してもらったためだ。
最終的には"
今は子供達にせがまれて歌って踊っていることだろう。微妙に声聞こえるから。
……微妙にヤケクソになっているようで、高音が抜けてしまっている。それでもうまいのは事実だ。そして子供達は気にしないので結果的になんでもいいのだろう。
音を立てないように気をつけながら立ち上がると、右側のベッドに歩み寄る。そこには幼いエルフの寝顔がある。
掛け布団を少しだけ直してやると、
「うぅ……ん」
小さく身じろぎし、顔を左側に傾ける。
起こしてしまったか、と恐る恐る顔を覗き込むと、その目は伏せられたままだ。
その穏やかな寝顔を確認し、ほっと胸をなでおろす。
自身のことより
実のところ、コッコロはサレンと違い、それなりに休みを入れさせている。それにもかかわらずその頬はハリを失い、目の下にも隈が見える。ユウキの病状がよほど心配なのかこのところのコッコロはほとんど寝付けておらず、枕に頭をつけているだけ、という状態が続いていたためだ。
ただの風邪だというのに、と付け加えたいところだが、サレンもコッコロに近しい心情から徹夜を重ねていることもあり、あまり強くは言えない。
ただ、【
(速度と賢さは高そうよね)
短距離の逃げ体質、というところか。ここは筋力を上げたいところだ。
本当であれば、コッコロを無理矢理にでも休ませるために静かで誰からも邪魔の入らない別室に連れて行くべきなのだろう。
だが、それでは主を思うコッコロは気が気でなく、休まらない。この辺はサレンと同様だ。
そこで、コッコロはユウキと同室であること、そしてサレンがユウキを見ている、という状況を望んだ。それなら少しは休まるらしい。なぜなのかは追求したことがないし、する気もない。
それと同時、面会謝絶にしたのは疲労困憊のコッコロのためでもある。
アキノをはじめとした【メルクリウス財団】の面々が押し寄せた場合、どう考えてもおとなしくせず常に漫才のようなやり取りを展開するに決まっている。コッコロがツッコミをしまくり、疲労を蓄積させる様がありありと浮かぶ。
それに、誰一人として看病はおろか、家事のスキルを持ち得ていなさそうなこともある。
サレンやスズメには子供達の面倒を見ているという自負があるし、言い方は良くないが、その行動に責任を持つことを強要されている。スズメのドジは本人、そしてサレンが覚悟しているので想定内だ。
だが、アキノ達にはそれがない。
恐らくだが、本人たちはユウキの面倒を見るという大義名分の元に騒いでもいいと思っているに違いない。それがユウキのみならず他の面々、特に最前線で看病をしてきたコッコロとサレンにどれだけの迷惑をかけるかが分かっていないのだ。
サレンにはそれが許せない。
たとえ一人であってもきちんと看病ができたとして、それ以外の三人ができなければ来る意味を見いだせない。
それ以外のギルドの面々を出禁にしたのにもきちんとした理由がある。
【
策謀家であり謀略家であり戦闘狂でもあるクリスティーナであれば、獣人と戦端を開くことに何の躊躇もしないだろうし、浅学で猪突猛進で勇猛果敢なマコトが安い挑発に乗るのは火を見るより明らかだ。勘弁してくれ。
ジュンは友人として招いたのでノーカンだ。それに、あまり自己主張をしないのでサレンも気を遣わずに済む。
……ただ、今回はそうもいかなかった。それは今置いておくとして。
そして【カルミナ】、というより首謀者であるノゾミとはこれまで面識がほとんどなかったためだ。記憶喪失? のチカは一時期ここにいたが、今回チカは関係してこないのでなし、ということにした。
社交性が高くない割に思い切りがいいコッコロにとって、ユウキの看病をしながらツッコミをこなし、戦場をいなしながらはじめましての人への対応をすることはこなせるだろうが、休む暇どころか負担しか生じない。
サレンだってできるが嫌だ。いつから救護院はブラック職場になっ……最初からか。いや、ブラックではない。やることが多くて給与が少ないだけ。やりがいはあるわ!!
社畜根性が染み付き、頑じょ……少しの休息でも働き続けることのできるサレンとは異なり、身体強度が低く真面目で息抜きが下手なコッコロには過酷すぎる環境だ。
結局、ノゾミは招かざるを得なくなったものの穏当に済んだ。
『あたしの歌を、じゃなくって、話を聞け、じゃなくって、"Listen"~~~っ!!』
きゃあ、と子供達の声、そして弦楽器独特の重低音が響き出す。
……どっから
……大丈夫、あたしの心の奥深くにはサンクチュアリなんてないから。響かないから。
そして、コッコロを同室で寝かせたことにはもう一つ理由がある。
それは、サレン自身のためだ。
音を立てないよう足運びに気を配りながら、再び椅子に戻る。
自覚している疲労と寝不足のため、今のサレンには自制が効いていない。ノゾミを招いたことがその証拠だ。
いつものサレンであれば、泣き落としだろうが恫喝だろうが一切気にせず、自分の我道を貫く。
感情によって導出した結果は碌な成果を産まない、というのは実業家あるあるとしてよく聞かされる話だ。そしてサレンはその話を我が事のように捉え、常に一呼吸置いて決断している……はずだった。
三徹程度で揺らいだわけではない。眠気はともかく、これ以上に疲労を重ねたことだってある。その時には感情を交えずに決断をしていた。
だというのに、
『♪ あぁカミサマ お願い 二人だけの DreamTime ください』
あげません!! ではなく、この体たらくだ。
……分かっている。
ユウキを引き合いに出されてしまうと、全ての前提が狂ってしまうのだ。
ノゾミに関しては多少行き過ぎた思考に陥ってはいたものの、彼女なりにユウキの安否を気遣っただけだ。なのにユウキを気遣ってくれていると判断するや感情を交えてしまい、あっさりと同行を許してしまった。
独占したいはずなのに、ユウキを慮ってくれると分かれば判断基準が緩んでしまう。
これではまるで、
(できたばかりのカレシができた人物だって自慢したい、頭軽いオンナみたいじゃない!!)
……思い込みと意見に個人差とツッコミどころしかないが、概ね似たようなものだろう。
それどころか、"カレシ"、と自然に表現したことに対して、口角が上がる。それ以外にも、目元や頬が緩み、とてもではないが人様に見せられない顔になっていることを自覚し、
「~~~ツ!!」
頭を抱え、足をばたつかせる。
再び椅子が軋む音にはた、と足を止め、表情もなるだけ普段のような冷静さを繕いながら二人の様子を窺う。
……まぁ、そんな簡単には起きないのは分かっている。分かっているが、迷惑にはなりたくない。デキるオンナなので。
相好を正して再び立ち上がると、今度は左側、ユウキの寝ているベッドの方へと向かう。
おでこには"サレン"、右頬には"ジュン"、そして左頬には"コッコロ"と"落書き"されたユウキは、そんなことになっているとは露知らず、静かに寝息を立てている。安定した音と穏やかな表情、そして普段通りの顔色に、自然と頬がほころぶ。
ノゾミの"落書き"を阻止したことも大きい。というよりもペンがなかったのでできなかったのだ。よかった、コッコロが持ったまま寝てくれて。そして、使ったらしまう、を徹底した当時のあたし。
椅子をベッドの傍らに持ってくると、ユウキの寝顔を見下ろせる場所に備え付ける。
音を立てないように座り、ゆっくりとした手付きで額に張り付いた髪の毛を左右に分ける。そして、書かれた自身の名を見下ろす。
普段の通りに書いたので、特段目新しいことはない。せいぜい、人の肌に書くと意外に歪むな、くらいの感想しか浮かばない。
そのため、サレンの視線は自然と、見慣れたサインからユウキの目元から鼻筋、そしてその下の口元へと移動する。なぜか徐々に個々のパーツが大きく見えるようになって行くことに何かを思うことはない。
そして、おでこが何かと接触したことで我に返る。
あまりにも近くて焦点があっていないが、ここまでの視点を振り返れば何が起きているかはわかる。自分のおでことユウキのおでこが接触したのだ。
事実、おでこからは少しだけ汗ばんだ感触と、自分のものではない温度を感じ取れる。もちろん、ユウキのおでこから得られた感触と体温だ。
これまでとは違い、露骨に冷たかったり熱かったり、ということはなく、自分とそう変わりがないように感じる。
その事実に安堵すると同時、湿った感覚に眉をひそめる。
高熱が出ている時は脳へのダメージが行かないように濡らしたタオルなどで冷やす必要があるが、今日の朝くらいから熱が落ち着いたのでそれをしなくなった。その結果、名前を書く場所ができてしまったのだが、それはそれ。
大きな体温変化がなくなったので安心していたが、それでも汗はしっかりとかいていたようだ。
その感触は不快とまでは言わないが、丁寧に拭いていたのに、という残念が先に来る辺り、やはり普段とは様子が異なる……とまで考え、そこでやっと現状を把握、そして理解する。
現状、ユウキと最至近で見つめ合っている状態だ。最も、サレンの焦点はあっていないのでぼんやりとしているが。
そして、顔をずらしておでこを重ねたため、互いの鼻はぶつかっていない。
だが、その所為でほんの少し顔を動かすだけで唇を重ねることができる。
できてしまう。
これまでは遠くてできないと思っていた。
だが、今なら。
できてしまう。
そこまで思いつめたのに、サレンの顔はそれ以上の接近ができない。
それは、先の妄そ……ああもう、認める。サレンのされたい願望で構築した妄想があるからだ。
本当はユウキから奪……ああもう、素直になるわ、奪われたい。
しっかりと目を見て、ぐっと顔を押さえられて。
ユウキの顔を見てられなくて目をつぶると、自分の唇に似た感触が唇に接触してきて。
ただ触れるだけだったのが、徐々になぞるような動きになり。
サレンも動きに貪欲さが生まれ、同時に慣れと物足りなさが胸を焦がし。
その思いは具体的な動きとなる。
サレンは小さく、ほんの小さく唇を開けると、そこにユウキの――
「……」
無言で口元を押さえる。よかった、垂れてない。ユウキに垂らしたら……それはご褒美なのではないか。いやしないけど。
そうではなく。
寝込みを襲うなんて自分らしくない。というか相手にリードされたい。強気にされるのが松なのだ。とはいえ、それをユウキに求めるのは酷だ。酷なのだが、やはり求めてしまう。
だから、今ここで引くべきだ。
同意なくするというのはサレンの流儀に反する。というか普通に人としての道義に反する。
……分かっている。
頭では理解しているのだ。この状況は間違っていると。
分かっているが、この状況は如何ともし難い。
今後、似たようなシチュエーションが訪れるとは限らない。
否。
現実は非情だ。これ以上都合のいいことなど起きるはずがない。
ビジネス同様、好機と思った瞬間こそ仕掛け時だ。よく言ったではないか。「いつやるの? 今でしょ」、と。
だから、やるべきだ。何しろ、あとたった数センチだ。数センチ、顎を前に出せば事足りる。
抵抗なく、そして誰からの干渉もなく、サレンの初めて…………のキスね!! キスをユウキに捧げられるのだ。
……危ない。きちんと言葉にしないと完全に先走った内容になってしまう。それはまぁ、興味というかそういうのはあるけれども、まず告白が先。それだってユウキから告白されたいわけで、ホラ、タイトルは別の人……って陛下の愛称っぽいわよね? え、陛下に自由恋愛許されるの? ありえないでしょ? でもまぁ、陛下は随分と年……おっと年齢の話はNGだったわ。まぁ、そういう願望があるってのはわかるわ。女の子……子? ああいや、いくつになっても告るよりは告られたいわけで……って誰に何を言っているのよ?
ともあれ、やはり乙女としてはアニバーサリーと言うか、記憶に残るような特殊なことは大切な相手と経験したいと願ってしまう。
サレンとしては、その相手がユウキならそれ以上の喜びはないし、文句のつけようもない。
そもそも。
奪われたい、というのは完全に願望だ。
……ではなく。いや正しいけれども、今の争点はそこではない。
相手の同意を得たい、というのは正常な反応だ。
そこで言うと、どういう事情があれども寝込みを襲うのは卑怯だ。
だが、こと現状に関してはそんなことは一切思わない。そもそも、同じ屋根の下にいながら一切何も進展がなかったことの方がおかしいのだ。むしろ、そこまで自制したことを褒めてほしい。
それを、サレンが主導することで段階を進める。
ただ、それだけのことだ。
サレンはそう自身に言い聞かせ、するする、と顔を前にずらす。
先程も確認したが、あと数センチ動かせば、自身の唇とユウキの唇は同じ場所に来る。ちょっとだけ高さがあるので、そこは微調整する。
……ええと、あと少し顔を下ろせば、ってところで目を閉じればいいわよね?
あとは前歯をぶつけるのが礼儀、だったかしら? 確か、スズメが貰ってきたマンガにはそう書かれていた。
……買ってないでしょうね? 娯楽品は経費で落とせないんだからね。
だが。
測距を終え、今まさに目を閉じようとしたサレンの耳に、
「う、うん……」
短く、しかししっかりとしたうめき声が届く。
その声に、サレンはびくり、と大きく肩を震わせる。
そう。
コッコロを同じ部屋に寝かせたのはコッコロを安心させるためと、自制の効いていないサレンが突っ走らないようコッコロの気配を感じ取れるようにするためだ。
もっとも、サレンには既に他人の気配に気を配るほどの余裕がなかった。というかコッコロの存在をすっかり忘れてしまっていた。
慌ててユウキの寝顔すべてを視界に収められる位置にまで体を戻す。もちろん音を立てないよう、だ。
息を吐き出しながら椅子に座る。ちらり、と背後を確認するのも忘れない。
……目をつぶっているだけでは安心できないが、もしも見られていたとして未遂だ。熱が下がってきたようなので顔色をしっかり確認していた、とでも言えば大丈夫だろう。一応事実だ。接触したのはおでこだけだし。
コッコロの気配を忘れないように気をつけつつ三度椅子に座ると足を組み、その上に肘を置いて顎下へと添える。
眠気を含んだ視線の先には、サレンの葛藤を知らないユウキの寝顔がある。三人がその顔に名前を書いたというのに起きもしなかった。ある意味では豪胆だ。
その寝顔を見ながら息を吐き出す。
正直、千載一遇のチャンスだった。そこは疑いようがない事実だ。
だが、もしコッコロの妨害がなく、そのままキスをしていたとして、これからの関係性が変わるか、と言われると疑問符が浮かぶ。
……そもそも。
おでこと両方の頬にいたずら書きされても起きないというのに、更に唇に小さな接触が生じても気付きやしないだろう、という疑念もあった。それはそれで悲しい。
前提として双方が気付いているものとして想定するも、
(……きっと、コイツは何も思わないんでしょうね)
恐らく、現状では最も正しい見解だろう。
何しろ、ユウキには年相応の情緒がない。年頃の男女が口と口を接触させることに特別な意味があるとは思いもしないだろう。説明? したくもない。
となれば、いろいろと考えるだけ無駄だ、という思いも強くなる。
せめて何かを思ってほしい、と思うが、期待するだけ虚しい、と突っ込む思考もある。
三度息を吐き出す。
「……乙女心、なのかしらね」
恋愛禁止のため秘めた想いを抱えているノゾミをどうこう言えないな、と思った瞬間だった。
階下から地響きのような足音が響き、その主が階段を恐ろしい速度で上がってくる。
それに付随するかのように、
『あああ!! お客様困ります!!』
用法用量を誤っているスズメの叫び声が聞こえる。
それだけで誰が上がってきているかが見なくても分かった。
芦毛の怪物、ではなく、ノゾミだ。
サレンはまさかの四度目の息を吐き出すと立ち上がり、扉近くに立て掛けてあったコッコロの槍を手に取る。そして、柄の半ばを握り、腰だめに構える。槍の扱いは突く、払うの最低限しか知らないが、この狭い室内では突く以外の手段は取れないので十分だ。
ノゾミのこのテンションは危険だと判断した。このまま飛び込んでくればユウキは確実に起きてしまう。
それを阻止するためには、足音が止まり、扉が開いたらまっすぐに突く。
完全に正常な判断ができていないサレンがそう覚悟を決めると。
『え? ひゃわわわっ!!』
甲高い声が二階の廊下に響き、それに遅れて、
『へぶっ!?』
およそ年頃の女性が上げるようなものではない声と、床にそれなりに硬い部位がぶつかる音と、相応の質量が叩きつけられる音が響く。
……何が起きたか、見なくても分かった。
ダメ押しとなる五回目の息を吐き出し、構えを解く。
コッコロの槍を元あった場所に立て掛け、ゆっくりと扉を開く。
すると、そこには想像した通り、
「あ痛たたた……」
スズメとノゾミがもつれ合うように床に倒れていた。本当に想像通りで、肩の力が抜けるのを自覚する。
階段を登り終えたその時、"誓約女君"の絶対防御すら無視するスズメのドジが発動、先行するノゾミの腰に後ろからタックルするような形で入ったのだろう。
突然の実力行使に、流石のトップアイドルも神対応とはいかず、もろに食らった。そのため、構えることなく頭から床に激突、というところだろう。
「……きゅう」
妙に古めかしい擬音を漏らすノゾミは目を回しているらしい。先の鋭い激突音からも分かる通り、頭を打っているので少々怖いが、
「ひゃわ!? すすすすみませんノゾミさん!! えぇい、元気になぁれ……♪」
スズメが"メイドエール"で回復を図ったので大丈夫だろう。その前にノゾミの上からどく方が先だろうが、それだけスズメにやらかしたという自覚がある、ということにしておく。
責任感は強いのだ。そのおかげで二次被害が……いや、そんなことはない。とても助かっている。
そこで。
サレンには誰にも邪魔されないように時間を稼ぐ方法を思いついてしまった。
あとで魔が差した、と言われてもいい。
今は、ユウキと一緒にいる時間が少しでもいいから欲しい。
慌てる素振りを装いつつ、声をかける。
「大丈夫、スズメ!?」
「お嬢様? ああ、すみません!! また」
ノゾミの上で恐縮するスズメを言葉で静止する。
「そんなことはいいの。素早く対応してくれたからノゾミに大事もなさそうだし」
一応ノゾミの名を出すことで自覚を促す。
「お嬢様……」
すると、スズメはノゾミの上で居住まいを正し、こちらに眩しそうな眼差しを向けてくる。
……いや、感動するところじゃないから。どいてあげて? スズメは重いとは思わないけど、いつまでも被害者を下敷きにしたままでいるのは良くないと思うの。
「ぐぇ」
年頃の女性が出しちゃいけない声も出てるし、ね?
「魔法を使って疲れたでしょう? それに……ノゾミも休ませないと」
「へ?
……あああ!! そうでした!! すすすすみませんノゾミさん!!」
「きゅう」
……さっきからタイミングいいわね。起きてるのかしら?
スズメが小さいゴーレムを駆使してノゾミを隣の部屋へと運び込むのを確認し、
「いい、スズメ?
まだユウキの具合が優れないし、コッコロもさっき休んだところなの。それと、ノゾミも頭を打ったかもしれないから休ませないといけないわ。
子供達もノゾミに付き合って疲れているだろうし、ちょっとだけ静かにする時間にしましょう?
そうね……三時間くらい。
ノゾミは隣の部屋だからあたしが様子を見るとして、下の子供達はスズメに任せるわ。その間は誰も部屋を出入りしないようにしてね?
あたしが言うことじゃないけど、扉の開閉だけでぎしぎし言うような古普請だから気になるのよね。
それと、暴れるとか料理作るとか回復魔法以外を使おうとするとか、そういう変なことしちゃダメよ。防音じゃないから」
疚しさを隠すためか、いつにもまして説明が細かくなってしまう。
ただ、スズメはそうとは捉えなかったようだ。
「わかりましたお嬢様。私のドジの後始末をお願いするようで大変申し訳ないのですが」
「いいわよ、別に」
素直に苦笑する。そうしないと別の感情が出そうだったためだ。
スズメのドジ、そしてその事後処理はいつものことだし、それに、今回はサレンの思惑もある。それくらいしなければ素直に受け取ったスズメに悪い。
だが。
これで採算は合う。
とはいえ。
「……しまった。ノゾミも同じ部屋にしとけばよかった」
防音されていないとはいえ、壁越しにでは寝ているかどうかまでは確認できない。
既に起きていて、壁に耳をつけて様子を探っているかもしれない。音楽に携わっている人間なら耳の感覚は優れているはずだ。となれば、寝たままでも十分に聞き耳を立てられる。
とはいえ、この部屋にはベッドはふたつしかなく、その両方とも既に埋まっている。
「これがベスト、ってことよね……」
ノゾミの意識が戻っているかも分からない中で動くのはリスクが高すぎる。
正直、寝たふりをしていたとしか思っていない。その状態で隣の部屋にいるとなれば、明らかにサレンの思惑を見抜いただろう。初見の貴族言葉を解読してみせた直感力があれば、先のスズメへの説明を怪しいと睨むのは当然のことだ。
これではどちらが監視しているか分かったものではない。
否。
単純に、サレンがユウキの寝込みを襲わなければいいだけの話なのだ。
だが、サレンが拘泥するにはわけがある。
ユウキの顔に名前を書くなどといった子供じみたことをしたのも、全てはジュンの所為だ。
何しろ。
(きゅ、急にジュンさんがユウキとキスする、なんて言い出したからよ!!)
数時間前。
個人的にお見舞いに来た友人のジュンを迎え、ユウキの様子を見せていたところ、突然、ユウキの顔を見ていたジュンが急に動きを止めた。
そして同様の突然さであたふた、と体を前後させはじめた。焦ったかのように忙しなく動くその様子は常に冷静沈着なジュンには似つかわしくない。それはまるで、別人になったかのような変貌ぶりだ。
付き合いの長いサレンですら初めて見るその様子に対し、
「あ、あの……ジュン、さま? いかがなさいました?」
ほぼ初対面のコッコロが戸惑いつつも声をかけるのは当然といえる。
すると、ジュンは動きを止め、
「コッコロ、ちゃん……? い、いや、替わらないぞ? 少年とのキスは私が、責任を……もって……?」
とんでもないことを口走った。途中で気付いたようだが、既に致命的な部分を口にしている。
そうなれば、当然。
「なりませんわよ!!」
(訳)いい? ユウキはあたしのもの……ではまだないけど、いくらジュンさんでもそれだけは絶許。絶対に許さない、の方ね。
思わず、王侯貴族が用いる貴族言葉で諌めてしまう。
それはコッコロも同様だ。
「なりません!!」
(訳)主さまはわたくしの主さま。いつもお世話になっているサレンさまなら多少のオイタは目をつぶりますが、お会いしたばかりのジュンさまは絶許。絶対に許さない、の方でございます。
……あれ、コッコロの言葉は普通よね? なんだか妙に言外の意味が多いんだけど?
だが、貴族言葉が分かるのはジュンも同様だ。
そして、
「我らの見解に相違があるかな」
(訳)サレンちゃん先走りすぎるだろう。少年は誰のものでもない。確かに好ましく思っているけれど、私と少年がいくつ離れていると思うんだ? まぁ……私は気にしないが?
更にぶっこんできた。
「お待ち下さい」
(訳)よろしいですか、主さまは少々年若い方との交流を好まれますので……ジュンさま、若いツバメを求めるとは少々はしたないかと。
……コッコロが一番俗っぽいのはどういうことだろう?
ともあれ。
「……」
「……」
「……」
三者が静かに視線をぶつけ合う。あ、ジュンさんは気分で。なんか睨まれてる感じするし。でも煽ったのはコッコロでしょ? なんであたし睨まれてるのかしら?
だが、最初に音を上げたのはサレンだ。
「……やめましょう? 今、ユウキは風邪で寝込んでいるわ。ジュンさんはそのお見舞いに来てくださった。それで十分でしょう?」
サレンは静かに諭す。そう言いながら、枕元に備え付けてあるスツールに手を伸ばす。
「……確かに。私も大人気なかった。今は少年のお見舞いが最優先だね」
ジュンも静かに頭を下げる。そして、腰元へと手をのばす。
「……度が過ぎました。大変申し訳ありません」
コッコロが最後に深々と頭を下げる。その手は前に揃えられているが、何かを握っているかのようだ。
そして。
身を翻したサレンの右手には容態を見ながら仕事を進めるために置きっぱなしになっていたペンが握られている。
ジュンが装甲の隙間から取り出したのは、全天候でも問題なくサインできるインク封入済みのペン。
コッコロはユウキの体温と様子を記録するために手放していなかった羽ペンを眼前に構え。
そして、
「……あたしはおでこに」
サレンの宣言により、女性がユウキに群が……コッコロは既に左頬に書き始めていた。
空いている場所、ということでジュンは右側に書き込むべく身をかがめる。
それぞれの名前を書き終わり、なんとなく弛緩した空気が漂う中。
「コッコロ。ジュンさんを見送ってくるから、その間の看病よろしくね」
「承りました」
「あ、いや、まだ私は」
ジュンが何やら満足そうな雰囲気を醸しているのを邪魔するためではない。
サレンはコッコロを見、素早く視線を外へと向ける。
それだけでジュンは察してくれた。
それでも、名残惜しそうにユウキの寝顔を眺め、
「……早く、元気になってくれよ少年」
布団の上からユウキの肩を優しく、ぽん、とひとつ叩き。
鎧を装着しているとは思えない動きで踵を返す。
ランドソルに向かう道中にサレンの懸念と対アキノ用の作戦を共有した後。
サレンは本題を口にする。
「ジュンさん。
さっき、ユウキを見た時に別の光景を見たんですね」
その言葉に、ジュンはサレンにも分かるくらい露骨な動揺を見せた。
その動揺の意味が分かる。だから、言葉を重ねる。
「あたしも見たんです。それは……」
言いよどむ。正直、信じられないし信じたくない。それに、あまり思い出したくない光景だ。
だが、今はとにかく情報が欲しい。ここはジュンに納得してもらい、彼女が見たであろう光景の共有が必要だ。
だから、端的に伝える。
「半壊したランドソルで、ユウキがピンチに陥る場面でした。
あたしは、恐らくあたしではない誰かの記憶というか視点でその場面を見ていました」
ジュンはその場で足を止め、しばらく黙り込んだ。
そして、ひとつうなずき、
「あれは目抜き通りの東側にある通りだった」
よどみなく、すらすらと語り出す。
ジュンはそのまま続ける。
「私が見たのは破壊された街と、少年、コッコロちゃん。
そして……小さな羽の生えた人間、というか……ええと、それっぽいことを言うなら妖精のようなものがいた」
後半は言いよどむ。
それはそうだ。大の大人が妖精を見た、なんて言い出した日には正気を疑う。
だが、サレンはそこには触れなかった。ユウキの周りではなんでもあり、幽霊だの吸血鬼だの魔法少女だのが目白押しだ。今更妖精なんて目新しくもない。
サレンは小さくうなずき、先を促す。
「その妖精が、ユウキにキスを促した、と」
「そ、その話は蒸し返さないでくれ」
ジュンは腕を組む。
「どうも、キ……その行為が『作戦』の要のような話だった」
……随分と色ボケした『作戦』のようだ。うらやまけしからん。
「状況からすると、私はキャル……サレンちゃんは知らないかもしれないが、『陛下』が用いている近侍の獣人の視点のようだった」
その近侍は知らないものの、同名の獣人なら知っている。
「そのキャル? って……猫獣人ですか?」
「おや、知っていたのか」
サレンは小さく首を振る。
脳裏で全体的に黒系で彩られた、小柄な猫獣人を思い出す。なんというか、非常に落ち着きがなくきゃんきゃんうるさい印象だ。猫なのにきゃんきゃんとはあまり適切な表現ではないかもしれない。にゃんにゃん? それは違う意味が含まれそうだわ。
その印象からすると、とてもではないがあの気難しい『陛下』の近侍など務まりようもない。
「いえ、【美食殿】に同じ名前の獣人がいるので」
「【美食殿】というと、少年と先のコッコロちゃんが所属しているギルドだね。そうなると、私が見た光景と辻褄が合う……のか?
ふむ。もしかすると、そちらのキャルと関連があるのかもしれないな」
即座の否定はしなかったものの、恐らくジュンの知るキャルとサレンの知るキャルは別人だろう。
キャル、というのは珍しい名前だが、最近は面白おかしい名前の持ち主も増えてきたこともあり、かぶることもあるだろう。そのくらいの認識だ。
ただ、もしも同一人物だったとして、なぜ『陛下』の近侍が【美食殿】という零細ギルドに所属しているのだろうか。
そして、王宮に入れる、ということは王侯貴族の一員である、ということでもある。
だが、サレンの知る限りそんな名前の貴族は聞いたことがない。貴族名鑑をめくる必要もない。
ランドソル王家は人類で形成されているため、そもそも獣人の貴族は存在しないためだ。
となると、何らかの特権により王宮に入り浸っている、ということになる。
だが、それも即座に否定する。どこを探しても、そんな特権は存在しない。
何しろ、ランドソル王家にとって獣人は不倶戴天の敵だ。
今でこそ宥和政策が採られているが、かつてはいがみ合い、殺し合う仲だったのだ。そんな相手に、土地の管理という国家の最も重要な権利を与えるなどありえない。
「……ふむ」
息が漏れる。
サレンは一旦、キャルと貴族に関しての思考を止める。今考えるべきではないし、そもそもそれは王家や王侯貴族が考えるべき内容だ。サレンも一応は王侯貴族だが、当主は父親で自分には権限らしいものはない。つまり考える必要がない。
「ひとまず、今はジュンさんの見たことについてもう少し教えてくれませんか」
「そうだね。
確か、その『作戦』は『カイザーインサイト』と対等に戦うために必要となる、という話だ」
しれっと話しているが、サレンにとっては最重要だ。
ついに敵の正体が判明した。
……といっても、名前なのか、はたまた組織の名前なのかが判別しにくい。
カイザーは皇帝を指す。ランドソルはかつてどこかの領邦だったとか、かつてはいち貴族の領土だったが独立したとか、更に上位の王家がある、と聞いたことはないので、恐らく別大陸の統治者だ。
つまり、個人の名前か通称、ということになる。
「……」
思わず無言になる。
個人が、ランドソルを半壊させるなどということはにわかに信じがたい。そして、それにユウキが関わっている、ということも。
ただ、後者に関してはありえるだろう、とは思う。あくまで直感として、だが。
あのお人好しが所構わず騒動に顔を突っ込んだり、他所様の都合に首を突っ込んだりするのは日常のいち風景だ。サレンもよく巻き込まれるので慣れっこだ。
ただ、それが国家規模となると、
(……あたしが最前線にいることは考えにくい、か)
サレンの重要度、そして危険度が一気に跳ね上がるためだ。
他国からすれば、サレンは敵国の貴族。捕らえてしまえば交渉のための人質にも、そして戦意高揚のための材料にもできる。
例え捕獲されなかったとしても、戦場で討ち取られればランドソルにとっては打撃となり、敵国にとっては士気の向上になる。
そうならないよう、先んじて父親やその周囲からの圧力で後方に回されることは十分に考えられる。
何より、ユウキと同じくらい、サレンディア救護院の子供達は大事だ。彼ら彼女らを盾にされてしまったら、サレンは迷いなく子供達を取る。
いずれにしても、サレンがユウキと同じ戦場で同じ敵と戦っている、という場面はないということが分かった。
それだけでもサレンにとっては収穫だ。残念ではあるが、各々の持ち場で戦ったとするなら本望だ。
……ということにしておく。
「それより……なぜ、サレンちゃんと私がそんな場面を見たのだろう」
ジュンの言葉は至極当たり前の疑問だ。
「これはあたしの想像でしかないんですけど。
細かい条件はわかりませんが、基本的にはユウキが陥った状態に近いシチュエーションになると、その場に居た誰かの視線を通じてその時の状況が見えるのではないか、って思ってます。
というのも、あたしの時は飛空艇に押しつぶされそうになって、ユウキにかばってもらったタイミングで見えたんです。
その時、あたしの視点はあたしと同じくらいの背で、長剣を扱う女性でした」
「サレンちゃんくらいの身長で長剣を得物とする、か。
……このランドソルで特定は難しいな。少年の周囲の人間、と限定したら……」
そこまで絞ったのなら、該当する人物には心当たりがある。いろいろな伝手を使って調べ上げた。
その名を口にする。
「【美食殿】のペコリーヌだと思います。彼女をかばって、ユウキは」
死にかけた、と言いかけ、止める。それは必要のない情報だ。
サレンの心中を読めないジュンは、違う単語に興味を示す。
「ペコリーヌ。私の見た光景でも、その名は出てきたよ。
先の『カイザーインサイト』と戦い、危機に陥っていると」
結論が出た。ごり、と指を鳴らしながら宣言する。
「よし『カイザーインサイト』を見つけてぶっ殺す」
「判断が早い!!
ではなくて。
……サレンちゃんは、実際にあったことだと信じているんだね」
問われ、ためらうことなく素直に首肯する。
「根拠があるわけじゃないですよ。
ただ、ユウキを取り巻く環境ならありえるかな、って」
ふむ、とジュンは声を漏らす。
「そう言われてしまうと、私も納得してしまうね。ランドソルが破壊される、というのはあまり感心しないけれども。
ただ、サレンちゃんの言葉がなくとも、根拠なくこの光景は現実だと、そう思ってしまうのは事実だよ」
どうやら、ジュンも同様の心境のようだ。
ただ、サレンには気になることがある。
「ジュンさん。この光景が事実だったとして。
ジュンさんは、どこで戦っていると思いますか?」
自分が、ユウキと共に戦えていないことは明らかだ。そして、自分の中でその理由も説明できた。
ただ、自分と似通った立場ながら、現役のジュンはこの災厄にどう立ち向かったのか。
それは知りたい。
果たして。
「それはもちろん、最前線だ」
ジュンは一切の淀みもなく、すらり、と答える。
やはり、と思うと同時、一抹の寂しさも思う。
だが、ジュンの言葉は続く。
「私の思う最前線は、何も敵の顔が見える場所だけではないよ。
もちろん、【
だから、私がいるその場所は須らく最前線だ。
……少年の顔が見えなくても、私は私の任務を着実にこなす。そうすれば、巡り巡って誰かの、そして少年の役に立つ。
そう信じて戦場に立っているよ」
なんの衒いもなく断言され、サレンは少しだけ笑みを浮かべて首を振る。
「あたしの覚悟が足りませんでした、団長」
「励むことだ、副団長」
そして、二人して声を上げて笑い。
その雰囲気のまま、ランドソルへと向かった。
……なのに。
結果として、研鑽の足りなさが露呈する結果となった。
正直、どうやってもうまい解決法はなかったように思えるし、冴えた方法があったかもしれない、と悩んでしまう。
この辺が悪いところだ、と自覚はしている。ただ、素直に直せるかと問われると難しい。
サレンはまず考えなければ動き出せないタイプだ。ただ、初速は遅いものの後半に最高速を叩き出せるため、結果としては勝ち負けくらいには持っていける。
とはいえ、今回のように最初から想定を外れた時は修正により時間がかかってしまう。
その結果、力づくで解決してしまった。
悪くはないが、納得はできていないことが不満なのだ。
その不満が態度に出てしまい、木と木が擦れ合う、甲高い音が部屋に響く。
「やば」
思わず声が出てしまい、慌てて口を押さえる。
そんなことをしても、既に出た言葉をなかったことにはできない。
果たして。
「……ぁふ」
ユウキの口から短い息が漏れ、そして、
「……おはよぉ」
サレンに向かって気楽そうな口調で挨拶してくる。その表情は起き抜けのだらしないものではあるものの、これまでのような辛さは感じ取れない。
その状態には安堵するものの、朝日は既に頭の上近くにあるこのタイミングでかけられる挨拶の種類ではない。
思わず息が漏れる。もう何度目かは分からない。それだけ、これまでの時間帯がせわしなかったということだ。
気を取り直し、サレンはユウキの寝ているベッドへと向かう。
「ごめんね、起こしちゃって。
ついでだから、熱を測っておくわ」
改めて熱の有無を確認しようと近づいた、その時だった。
「サレンちゃん……疲れてる?」
素直に問われ、素直に首肯しそうになる。事実、そこまで疲労は露骨に感じるようになっている。
だが、
「気を使わなくていいのよ」
疲れてはいるが、まだ大丈夫だ。
だと言うのに。
ユウキはこちらの反応を無視したように、
「はい」
布団をめくり、中へとサレンを誘う。
その行動に、思わずサレンは息を止める。
年頃の男女が、付き合っているわけでもない男女が、幼馴染の男女が、同衾など。
そんなことできるわけがない。
否。
ここでその申し出を受ければ、それは全てを一足飛びにできる、最初の一歩にして修羅へと向かう道だ。
そして、それはサレンが求めている答えへの最速の手段だ。
悩む。
止めていた呼吸を再開させ、新たな空気を吸うと、ふわり、と男の匂いが鼻を突く。
それは、二日間風呂に入っておらず、ただ体を拭いていただけのユウキから漂ってくる。
普段であれば顔をしかめ、お風呂行きなさい、と叱咤しそうになる。そんな不快さを感じるような匂いだ。
だが。
なぜか、抗うことができない。
否。
嫌いなはずなのに、ずっとその匂いを嗅いでいたい。そんな風に思ってしまう。
それだけ、ユウキの発する汗の匂いは、疲労のピークにあるサレンにとっては抗いようのない強烈なものだった。
ふらふら、と。
サレンは夜、光に誘われて集まる羽虫のように。
布団の一部をまくり、入るように促すユウキの元へと、ゆっくりとだがしっかりと歩を進める。
果たして。
ふと。
ユウキは目覚める。
周囲は明るい。カーテンがあるために直射日光が差し込んでくることはないが、だからといってこれまで寝ている時間の方が長いユウキにとってはかなり眩しいと感じる。そんな光量だ。
その明るさに慣らすように、ゆっくりと目を開ける。
すると、金色の髪の毛が視界に飛び込んでくる。
「?」
小さく首を捻ったことで、自分が横向きになって寝転がっていることに気付く。
状態を認識し、少しだけ安堵する。そしてそのまま、視線を下へと下ろしていく。
すると、長いまつげが見え。
鼻先までだが、それでも十分なくらい整った美貌が見え。
そして、ぴんと天井に向かって伸びている耳がユウキの視界に入ってくる。
それらのパーツの持ち主は分かっている。
「サレン、ちゃん……」
どうやら疲労のあまり、看病の途中で寝てしまったようだ。
サレンが数日間、献身的に看病してくれたことは覚えている。
ただ、自分と同じ布団に入っているかまでは分からない。掛け布団がまくれていることから、サレンが自発的に入ってきたようだ。
普段なら絶対にしないだろうが、相当の疲労を感じていたようだ。
普通にありがたい、と思う。
記憶喪失であることを悔やんだことはないが、ここまでよくしてくれるサレンが幼馴染であることをきちんと思い出せないことには申し訳無さと、そして自分の不甲斐なさを思う。
ただの幼馴染がここまで面倒を見てくれるなど、破格の待遇だということもなんとなく理解した。そこに、何らかの思いが含まれていることも。
だからこそ、ユウキは何らかの形でサレンに恩返しがしたい。ただ、何をしようとしてもサレンはユウキよりも先に気付き、ユウキよりも先に成してしまう。
結局、できることとしては生活費を収めることだけだ。
サレンには毎回、そんなことしなくていいのに、と笑って言われるが、ユウキはそれが我慢できない。
良くしてもらっているのに、何もしなくていい、なんてことはありえない。
「う~ん……」
まぁ、唸ったところで事態は変わるわけではない。
唸って空気を吐き出した分、息を吸い込む。
すると、どことなく甘い匂い、そしてどことなく油っぽい匂いが鼻に届く。
それは男である自分が発することのできない女性独特の甘さと、自分でも発することができる人間独特の湿っぽさだ。
その匂いを発しているのは、眼前で寝息を漏らしているサレンだ。
普段は甘い匂いだけだが、自分の看病でろくにシャワーも浴びることができていないのだろう。そのため、頭の地肌から少々分かりやすい有機臭が発生しているのだ。
汗の匂いはともかくとして、自分の看病でそこまでしてくれていることに思わず心臓が高鳴る。
それが何に起因するかに気付く前に、自分の置かれている状況に気付く。
今ユウキは右肩を下にして寝転がっている。
下になっている右手は折り曲げており、その手のひらはサレンの頬の下にある。自由に動く親指でそっと押すと、ふに、と柔らかい感触が伝わってくる。
それ以上に柔らかい感触が肘の内側にある。布団とサレンの体で何かは分からないが、それは押したら押し返してくる肉の塊のようだ。それ自体は重いわけではないが、脂肪が多いことで感じられる独特の柔らかさがユウキに安心をもたらす。少しひんやりしているのも、布団で温まっているユウキには心地よい。
そして、体に這わせるように伸ばしている左手はなぜかサレンに抱え込まれている。といっても、手先だけだ。
手の甲の先、指先の外側から肌の質感が伝わってくる。感覚としては内側よりも鈍いはずだが、自分とは似ても似つかないきめ細かさが感じ取れる。
すべすべとしたそこはやや硬い布の内側にあるらしく、手首からはその布の感触が伝わってきている。
今触れている部分は両方ともサレンの体の一部だ。そして、普段でなくても、相当に関連が深くなければ触れることも見ることもできない部位であることも、なんとなく理解できている。
……ペコリーヌは抱きついてくるが、それは彼女からなのでノーカンだ。イオについてはノーコメント。
普段のサレンからそんな素振りはないことから、戸惑いと罪悪感が生じるものの、それ以上に、
(サレンちゃん、柔らかい……)
男とは違う感触をもっと味わいたい、というこれまで生じることすらなかった背徳感が勝ってしまっている。
とはいえ、腕を少しでも動かせば、サレンに気付かれ……起こしてしまうかもしれない。
ここは腕を動かすことなく、今得られる感触だけで満足するべきだろう。欲張れば失敗するのは世の常、らしい。
そんな失敗をしたくないユウキは、そこでやっと自分に生じた違和感を口にする。
「……朝でもないのに、固くなっちゃった」