ティアナ様は告らせたい~少女(一部女性含む)たちの恋愛頭脳戦~ 作:アルブレヒト・ミュンヒハウゼン
その瞳の中には、ユウキの顔が大写しになっている。
そこでやっと、レイは現状を把握し、そして今更ながらに気付いた……。
――キスは、おとぎ話の中だけのものではないと。
【トゥインクルウィッシュ】に所属している魔族のレイは、友人であるツムギが経営している仕立て屋を訪れた。
いつものような、お茶会と称したデート(ツムギ談)ではない。用事が早く終わればそうなるだろうが、今回の本題はそうではない。
「こんにちは、ツムギ」
扉をくぐると、小さな鈴の音と笑顔のツムギがレイを迎える。
「こんにちはレイ様!! ご足労いただき感謝します!!」
そのままの勢いで間合いを詰めてくると、
「本来はこのような瑣末事にレイ様を呼び立てるなんて」
笑顔のまま、顔を歪めて見せる。
器用だな、と思いつつ少しだけ間合いを開ける。いつも思うが近い。思わず右腕がぴくり、と反応してしまった。
友人だし慕われているので殺気があるわけではない。ないのだが、レイの体が自然と反応してしまうのは……ある種の危険を察知したからだろう。一応友情は成立しているはずなので、それ以上は考えない。
「まぁ、本来の依頼ではないけれど、困っているなら手を貸すよ」
レイが困っていればツムギが助けてくれる。今回は逆になっただけだ。【トゥインクルウイッシュ】のメンバーであるヒヨリの言葉ではないが、お互いさまさま、ということだ。言葉そのものを口にするのは少々恥ずかしさがあるものの、心がけは素晴らしい。レイはその考え方を見習い、友人限定で手助けをすることにしている。
納得して訪れたのはいいが、今回に関しては多少の懸念はある。
「事前に話したと思うけど、私に手伝えるのは荷運びくらいで……棚卸のやり方なんて分からないよ」
そう。
今回の要件は決算に向けての棚卸の手伝い。その人手の一人として呼ばれたのだ。
だが、ツムギは再び笑顔になる。
「大丈夫ですレイ様。レイ様にそばにいていただくだけで私のやる気はマ~ックス!! 有頂~天ッ!!
お菓子もふんだんに用意しましたから遠慮なく」
「まぁ、こんなに!! パクパクですわ~……じゃなくって!! いや働くよ!?」
物覚えは悪くないと思うのだが、未だに名前を覚えていないツムギの店は仕立て屋だと聞いたことがある。ただ、手広く、というか求められていたらどんどん扱う商品が多くなり、結果として服飾系全般、製造から小売、一部では卸すらも行っている。期待に応えたい、と頑張ってしまうツムギらしい。
ただ、商工会に登録している分類は製造業にしているため、年に一回棚卸を行う必要がある……らしい。その辺の細かいことはよく知らない。
レイの知る限り、ギルドとして登録していれば、その手の手続きのほとんどはギルド管理協会がやってくれる。
だが、ツムギは【カルミナ】というアイドルユニット兼ギルドに所属している。ランドソルではギルド加入が戸籍登録と同様の意味を持つため、複数のギルドの掛け持ちはできない。第一、この仕立て屋はツムギが個人事業主となって営んでいる店なので、経営は全て自分でやらなければならない。
その一つが決算書の作成であり、今回行う棚卸はその決算書を作成するのに必須の事項だ。とはいえ、ギルド管理協会も決算には手を出せないので、ギルドであってもなくても必要なこととなる。
棚卸、と一言で言ってもその方法には二通りあるという。一応調べてきた。一つは実際に素材や商品の数量が存在することを目視で確認する実地棚卸と、もう一つは帳簿のみで完結する帳簿棚卸だ。
マメな性格でその日の出納を全て記載しているツムギであれば帳簿棚卸でもほとんど問題はない。実際と差が生じたとしても素材の数量くらいで、しかもそこまで大きな差異ではない。
第一、素材の数量が異なったとしても、評価軸となるのは資産、つまり素材の金銭的価値が釣り合えばお咎めなしとなる。そして、高額の素材ならともかく、魔物由来の素材の価値を正しく評価できる徴税請負人などほぼいない。
それに、決算書は納税の手間を簡略化するだけで、一般へと公開する義務はない。つまり、数があっていなくても素材の金額を調整してしまえば何も問題はない。
だが、生来の生真面目さからツムギはそういう小狡い行為を嫌う。例え面倒でもひとつひとつ素材の数量を確認し、正確な数量と評価を行い、その結果をきちんと徴税請負人に伝え、きちんと納税する。それがツムギという少女だ。
だからレイも、ツムギの頼みなら常識の範疇でに収まる限りは断らない。
とは言え。
目の前に拡がる光景には閉口せざるを得ない。
天井に固定された棚には縦横に仕切りが備えられており、その仕切りに合わせた大きさの引き出しが入っている……はずなのだが、その一部……というか半分ほどは引き出しが奥まで入っていない。その代わりに、色とりどりの布がこれでもか、とはみ出している。完全に仕切りの大きさを逸脱した量が無理やり詰め込まれている、と素人のレイであってもすぐに分かった。
それだけではない。引き出しが入っていても、その上部からはほつれのように糸がはみ出している。
否。
よく収まっているな、と思うほどにこぼれている、が正しい。
なにかに熱中しだすと周りが見えなくなるツムギの悪癖が積もり積もって形を成した、まるで難攻不落の砦を思わせる完成度だ。
かろうじて床には何も置いていないのが救いといえば救いだが、棚のインパクトが強すぎるため評価に値しない。
「この量を……二人でやるのか……」
棚の使い方は間違っている気がするが、床が見えているので常識の範疇……なのだろうか。この辺の常識には疎いレイには判断が付きかねるため一旦流すとして、常識であったとしてもこの圧倒されるビジュアルだ。絶句してはいけない、ということはないはずだ。
そのつぶやきに、ツムギが慌てたように訂正する。
「い、いえ、あとでノゾミさんとチカさん、それに騎士さんも来てくださいますから。
……本当はふたりきりがいいんですけど、実際問題この分量はふたりでは終わりませんし……あ、レイ様が私にチュゥしてくれるなら芝でもダートでもどの距離でも勝ってみせます!! あ、なんでしたら私の初めt」
「落ち着いて。ツムギは実装されていないだろう。あと、えっちなのはいけないと思う」
「レイ様こそ。そのセリフは前々回の
しれっと本音が含まれるのはいつも通りだ。そういうところも尊敬に……いや、素直なことは評価する。内容はともかくとして。
ではなく。
先の発言にとんでもない内容が含まれていた。
「えっと……彼が?」
思わず声が上ずってしまったことを自覚する。
これはよろしくない。ツムギの表情にも疑念が交じったのが即座に見て取れた。
ユウキを気にかけているのは事実だが、レイが気にしたのはそこではない。
……というテイにするため、きちんと言葉にする。
「私も人のことは言えないけど、彼をいいように使いすぎだよ、ツムギ」
言っておきながら、他人に責任を擦るような物言いは本当によくないな、と自制を促す。
ユウキはなぜか、様々な人間関係に絡んでいる。なんだかんだで自分から首を突っ込む性格と行動力を兼ね備えているので当然と言えば当然なのだが、ちょっと節操がない気がする。いやだいぶ。
ユイやヒヨリだけでなく、全然関連のなさそうな連中だってユウキと関連を持っている。レイの釣り仲間であり、広域指定危険ギルドのマスターであるルカとすら知り合いだと知った時には流石に苦笑が漏れた。
しかも、その関連にはレイとは異なる主義主張を持つ相手も存在している。今は数える程度しか知らないが、この様子だともっとすごいのもいそうだ。
だというのに、ユウキを取り巻く環境は破綻していない。それどころか、彼を中心とした大きな勢力……というと物騒なイメージに聞こえるので、一種の共同体が出来上がっている。一応、その中に自分が含まれている自覚はある。もう少し言うなら、その中心付近にいることも。
それなのに、レイとその共同体との関連は破綻していない。それどころか、相容れない連中とも会話を交わすだけでなく、認めるべきところは認められるようになった。全面的な肯定を示すほどではないにしても、以前のレイからは考えられないような柔軟さだ。
その事実に、レイは自分でも言い表すことができない気分になる。
自分が変わっていくことはきっと喜ばしいことだ。ただ、それが自ら望んだ成長ではなく、ユウキと関連を持つ相手から与えられたものだという事実に納得がいっていない。
否。
そうではない。レイが煩悶としているのはもっと端的な理由だ。
なぜ、ユウキはそんなに人間関係を広めたがるのだろう。それに、その全ての人間と良好な関係を築くことに意義があるのだろうか。別に、数える程度の相手と友誼を結べばいいじゃないか。
そんな思いに囚われ、慌てて頭を横に振る。
後ろ向きな思考はよくない。みんな違ってみんない……いやよくはない。わたs……わ、私達だけを見ていればいいんだ。
……そういう問題でもない。
それ以上にレイが困惑しているのは、その誰もが彼を受け入れ、認め、更には好意…………いや、ここで誤魔化すのは負けを認めるようなものだ。
そう。ユウキの周りの有象無象は彼に好意を抱いている。その大きさや深度、真剣度には違いがあれど、その想いは間違いない。男女の間に生じる機微に疎いレイですら気付く。というかユイが露骨すぎて慣れてしまっている。
その現状に気付いていないのはユウキとヒヨリぐらいだろう。あとは性徴を迎えていないお子ちゃまだが、そこを入れると条例やら事案になるので考えない。
第一、私だって(偽装)ケッコンしたのは今年ですよ!! 早すぎます!!
……違う。そうじゃない。
軽く頭を振る。ツムギもそうだが、レイも余計な思考が多すぎる。
レイは再び思考に戻る。
とはいえ、ユウキが無分別に知り合いを増やしている理由は知っている。それは、自分の記憶に関わっているかも知れない人間と積極的に関わることで、記憶喪失を解消するためだ。
……女性ばかり、というのもレイの気持ちを落ち着かせない要因だ。ただ、これはレイの周囲の人間全てが好ましく思っていないので、特にレイが極端な思考を持っているわけではない。
加えて、ユウキの試みがうまく言っていないのも悩ましい。何しろ、今日に至るまでユウキの記憶は戻っていない。ただ、素振りというかいくつかの断片は揃っているらしい。
その断片を提供しているのはレイ以外のユウキの知り合いたち、そしてルナの塔だ。
ルナの塔が彼の記憶に関わっているらしい、という噂はどこからともなく流れてきた。レイは半信半疑だったが事実のようだ。
攻略に参加した者(匿名)からの情報(有料)によると、一定階数を登るなり一定時間探索を行うなりすると突然光に包まれ、ランドソルとは異なる光景を見るという。
もちろん、その当事者もランドソルでの姿とは異なる、妙な服装に身を包んでいるという。更に、当事者がヒューマンでない場合はヒューマンに酷似した種族での姿になっており、それでもその人物がその世界における自分なのだと自覚できるという。
ここまで聞き、レイは率直にユウキと共にいると時折生じさせる白昼夢のような現象と同じなのだろうか、と考えた。
レイが見たことのある白昼夢も聞いた話と同様で、魔族のレイはヒューマンのような姿になっており、その格好も冒険者スタイルではなく、画一的な出で立ちだった。そして、その場所は明らかにランドソルではなく、無機質な建物が乱立している、なんとも奇妙な場所だった。
自然に囲まれた場所も見たことがあったものの、ランドソルと比較すればかなり管理されていた。それに、魔力とは異なるエネルギーを用いているようで、ランドソルとは格段の技術差があるように見えた。
その風景がユウキの記憶とどのように関係しているかは分からない。そして、なぜレイやユウキの知り合いたちもその風景に含まれているのかも。
分からないながらも、その情報に触れた面々はこぞってユウキと共にルナの塔攻略に向かっている。皆、レイと同様に考えたのだろう。
ただ、実のところ、レイとしては彼の記憶を戻すことに対して消極的だ。
彼の記憶は戻って欲しい。その思いに偽りはなく、できることなら自分が成し遂げたい。
だが。
そうなると、ユウキは今のユウキではなくなってしまうのではないか、という不安に駆られる。
それはそうだろう。今、ユウキには記憶がない。だからレイのことを見てくれている。多少贔屓目で見ても許されるなら、剣の師や冒険の仲間として慕ってくれている。そして、レイも彼を友以上の存在、有り体に言えば恋愛対象として見ている。
だが。
もし記憶が戻ったなら、レイのことを見てくれなくなるかもしれない。
否。
逃げないと決めたのなら、はっきりと言う。
恐らく、ユウキと関わっている有象無象の中にはユウキと男女の仲になっている者がいる。それは悔しいことにレイではない。レイがユウキに対して好意を持つようになったのは出会ってからだ。その事実は如何ともし難い。
女性側に記憶はあるのだから言ってしまえばいいだろうが、それをすればユウキは混乱する。彼の者は分別がある、というよりも混乱が生じることを嫌っているのだろう。そこまで分かっている、ということは相当にユウキを理解していることになる。
それに、ユウキの知り合いには極端な武闘派も存在する。当の本人が武闘派ではない場合、そんな連中に知られれば明日の朝日は尊いものになってしまう。
ならば、露骨に積極的に動くのではなく、他の面々を牽制しつつも自発的に動く方が都合がいい。ユウキから付かず離れず、しかし自分をアピールすることでユウキの気を引く。
そんな動きをしている連中はこれでもか、といる。
つまり、記憶を戻そうとしている面々の中に、ユウキの想い人がいる可能性が高い。
……極端な結論ではない。私だって考えた末の結論だ。
自分がユウキの彼女だったと仮定する。ならば彼へと近寄る。そして有象無象を蹴散らす。そして告る。
……違う。そうじゃない。あと告らない。できれば……告白してほしいかな? タイトルもそうだし。
自分がユウキの彼女だったと仮定する。ならば彼へと近寄る。そしてつきっきりで有象無象を近寄らせない。最後に蹴散らす。そして告らせる。
……違う。そうじゃない。結論は同じなのはともかく、手順を増やせばいい、というものでもない。あと、それやった後だと脅迫だよね? 言わせてる感強いよね? 順番大事。
Take3。
自分がユウキの彼女だったと仮定する。ならば彼の行動に逐一付き合い、記憶が戻ったその瞬間、即座に告らせる。そして彼の公認の元、有象無象を蹴散らす。
……段階を増やせばいいというものではない。結論は同じなのはともかく、方向性は正しい。やり方をもっと穏当に。
ええと……ダメだ、話が進まない。
……いつも通りじゃない。そんなに脳みそ血走ってない。
要するに、自分が彼女ならそれとなく、あるいは他の者のついでを装ってユウキに近付く。そして関係を匂わせる。それと同時、なるべく有象無象を近寄らせないように努力する。
ええと、ユウキは素敵な男性だ。まっすぐでおせっかい焼きで頑固な面もあるが、きちんと人のことを考えられる。そんな男性の近くにいて、惹かれないなどということがあるだろうかいやない。
それに、世間一般に関する記憶すら失っている記憶喪失なら、彼女がいる、という過去の記憶もないはずだ。そんな状態で積極的に言い寄られれば、そのどこの馬の骨とも分からない女性へとなびいてしまうこともあるだろう。だから確保のために近付いている。そう結論したのだ。
と、そこまで考えて、
(そういえばユウキくんは、女性を性的に意識するような素振りを見せたことがないな)
前提が少々おかしいことに気付く。
時折ユイやペコリーヌの胸部を気にしていることはあるが、それは性的なものというよりは動いた時に揺れるので、その動きを捉えてのことだろう。男性は古来狩猟をしていたため、動体に対する反応が女性と比較し顕著だ、と聞いたことがあるのでたぶんそれだ。現象の名前は知らない。
つまり、ユウキ以外の男衆と比較すればほとんど反応がないに等しい、というレベルだ。
だが、揺れ動く胸には反応する、ということでもある。
つまり、今は興味がなくとも、今後は揺れ動く胸に対して関心を持つかもしれない、ということだ。
……胸か。やはり胸なのか。いや、レイだってスタイルはいいのだ。そこは負けない。ただ、それを証明するにはもう少し薄着になる必要がある。せっかくの水着も、泳がないからとごてごて、と細かい意匠をつけすぎた。そのせいで……そういう話ではない。
彼の視線に耐えられなかったのだ。別に性的な視線でなくても、体のラインを見られるのは恥ずかしい。レイは同年代の女性より筋肉が付きすぎていることを、引き締まっている、と開き直れるほど前向きではない。だって腹筋割れてないし。
「いえ、棚卸のアルバイトを募集したら騎士さんが応募してきて……」
ツムギの言葉に、自身の思考から抜け出す。
……視線の先に年齢にそぐわない双丘があったので殴……らずに視線を外す。ちくしょう。年下なのになんでこんなに大きいんだ。
その内容と先程までの思考も相まって、思わず息が漏れる。
「……彼の、なんでも挑戦する心意気は認めるけど、採用するツムギにも問題があると思うんだ」
ツムギは自分を律し、妥協も許さないほどの生真面目さを持つのに、気を許せる相手であればとことん甘えるきらいがある。その点は諫める必要がある。
とはいえ、それはレイも同じだ。なんというか、たとえレイがやらかしたとしてもユウキなら許してくれる、という確信がある。
対して、ツムギは照れたように笑う。諌められたからというのもあるが、レイから叱られて喜んでいる、というのも含んでいる。度し難い。やはりピンク髪のツインテールは総じて変態なのだろう。
その笑顔のまま、ツムギは口を開く。
「勝手知ったる騎士さんなら私も気楽ですし、それに、経験者だって言うもので」
……否。
レイの勘違いだ。これはユウキが来てくれて嬉しい、という方だった。許さん。
「経験者?
……ああ、そういえば彼はたまにランドソルの物資集積所で働いていたね」
……忌まわしい記憶がよぎるが、意図的に思い出さないようにする。
否。
なぜ忌まわしいと思ってしまったのか。常々ユウキへの想いを口にしているユイが、事故であり頬へはあるものの……その、ええと、キ、キスができたのだから喜ばしいことじゃないか。
そう思うも、レイの胸中は荒れに荒れている。
……分かっている。
悔しいのだ。
口先でユウキへの思慕を唱えている
ユウキを想っているのは何もユイだけではないのだ。あの時、あそこにいた全員がユウキに対して並々ならぬ想いを抱いている。
マコトに至っては以前からユイを出し抜くような言動は常々あった。そしてレイ自身も、明確にはしていないものの匂わせる程度のことはしている。
……双方ともに気付かれていな……いや、ユイだって彼には気付かれていないか。自分から表に出そうとするものの、結局有耶無耶にして、毎回のように目をぐるぐると回しては逃げ回っている。お互い様なのだが、それはそれとして。
なのに。
なのになぜ、ユイだけがいい思いをするのか。
ユウキに触れることができて。
ユウキに無邪気に恋慕できて。
ユウキに何気なく意識されて。
なのに。
なのに、それだけでは飽き足らず、ユウキにそれ以上を求める。
ユウキを己が物にしたがる。
ユウキが自分だけを見てくれている、と盲信している。
それは自分だけの特権だと言わんばかりに。
その傲慢が、許せない。
なぜ、他の女性がユウキを好きだと思わないのか。
なぜ、マコトがユウキを好きだと思わないのか。
なぜ、レイがユウキを好きだと思わないのか。
ぐらぐら、と腹が煮え立つ。
態度に出そうで、だが、なんとか抑える。
ある意味でツムギにも関係してくるものの、今のこの感情はツムギに向けているものではない。向けていいものじゃない。それくらいの分別は持てている。その自覚があるからこそ、自分が今相当に感情的になっている事実と向き合える。
ひとまず抑えなくてはならない。自分が不覚に陥り引き起こした自分の感情を、友人に向けるのは明らかな間違いだ。いくら気の許せる相手でも許せることと許せないことはある。そしてツムギは憧れと言って憚らないレイ相手であっても、諫める部分は諫める。それも的確に。
それ自体は別に困らない。むしろ至らない自分を見てくれている、とありがたく思う。
だが、今は違う。諌められたら言い返しかねない。情けないが、その自覚がある。
すぅ、と息を体に入れる。
そして、吐き出す。
ゆっくりと、ゆっくりと。
多少掛かり気味なのはわかっている。だから一息入れた程度で少しだけ心が落ち着くのを自覚する。もっとこう、冷静にならねばならない。
今は棚卸を手伝う。それが求められていることだ。
だから。
「皆が来る前に、手を付けられるところから始めようか」
ひとまず、体を動かすことにする。目的でもあるし、そして頭に登った血を全身に回すためにも。
……ユウキが来たら、どうなるか分からないから。
とはいえ。
レイは早くも辟易していた。
ユウキ云々ではなく、布の重さにだ。
見た目とは裏腹に、ずしり、と腕に来る。引き出しに入っている量なのだから重さだってそう大したことはない、と見くびっていたのも疲労を助長した。
更に、ツムギよりも上背があるからと言って高い場所の引き出しを下ろす作業に名乗りを上げてしまったこともある。
床や腰よりも下の荷物であれば、腰と膝を連動させることで負担を軽減できるが、脚立に乗っての作業になるので使えるのは腕と肩の力のみ。しかも重いので反動をつけて扱わざるを得ないため、その反動を吸収する先が腰になる。
剣術で使う場合は左右のひねりだが、この荷運びでは前後になる。つまり使っていない筋肉を酷使しているのでかなり辛い。というか既に腰が痛い。この痛みとは別に、明日の筋肉痛は覚悟しておくべきだろう。
だからといって、もう無理~休もうぜ、とは言い難い。失敗率20%は信用ならないとしても、まだ体力は半分を少し下回った程度なので言葉に重みがない。
それに、眼下のツムギはレイの数倍動き回っている。自身の糸を使っているために作業を軽減できているとはいえ、運んでいる量はその軽減した分を補うかのように大量だ。
しかも、運びながら分別している。既製品、素材、そして小物。それぞれきちんと分類され、目的通りに並べられていく様を見ていれば、とてもではないが弱音は吐けない。
(気軽に請け負うべきではなかったね)
内心で弱音を吐きつつ、しかしもともとの生真面目さ故、荷物を運ぶ手は休めず、黙々と下ろす作業に従事する。それはひとえに、ツムギへの、そしてあとから来る面々への対抗心からだ。
レイが自身の腰と戦っていることを知りながら、ツムギは自分の作業に没頭していた。
正直に言うが、レイが困るのを見て喜ぶ趣味はない。あ、困り顔は見たいですけど。
そうではなく、単純にツムギにも余裕がないのだ。
【カルミナ】の人気はうなぎ登り。それに伴い、ツムギの仕事量は指数関数的な増加を見せていた。何しろ彼女はアイドルとしてステージに立つだけではなく、その衣装の製作、そしてステージの演出に至るまで手掛けている。最近はクリスティーナが演出の一部を担当してくれるため、少しだけ負担は減ったとはいえ、それでも仕事量は多い。
本来であれば、クリスティーナはプロデューサーなので全部任せてもいいはずなのだが、
「お前達が決めたコンセプトを横取りする気はない☆」
という、遠回しに全部はやらないよ宣言をされたので諦めている。
とはいえ、ツムギの構想を一回の打ち合わせだけで理解し、そこに自身のアイデアを載せて戻してくる手腕には驚いている。明らかに専門としているとしか思えないのだが、本人曰く【
ただの自称でしょう、と斜に構えていたがノゾミも似たようなことを言っていたので、信じていないわけではない。本気にしていないだけだ。
ただ、貴族だという部分には納得している。立ち振舞いには品を感じる以上に、あのイブニングドレスは庶民には着こなせない。
デザインの話ではなく、使われている生地だ。異国でのみ生産されている特殊な絹で、一般的な絹より伸縮性に優れている。大股で歩いても妙な癖がつかないこと、そして腕を振り回してもポロリしないのはそのお陰だ。
ただ、生地の分量は有限なので、あまりにも大きく動くと生地が寄ってしまう。その結果、扇情的な下着を何度か目撃することになっている。下着はともかく、太ももとお尻へのラインがしっかりとして引き締まっているのでいやらしさを感じない。相当動けるな、とは思う。でもレイ様の方が素敵なので全然見とれることはない。
話を戻して。
四日後にはアストライア大陸縦断ツアーが控えている。縦断とはいえ小規模なので衣装と演出は決定済みだ。そして最終レッスンは三日後なのである程度まとまった時間が取れるのは今日と明日くらいしかない。
そのため、できるだけのことはしておきたい。特に、素材の残数整理だ。
今回の衣装は過去に二、三度しか着用していない。保存状態には細心の注意を払っているものの、劣化や当時と比較して体型変化がある
そのため、補修用の素材を確保しておきたいのだ。
ただ、過去に製作したものなので素材があるかが不安だ。なければ予備、あるいは構成を変える必要が出てくる。それもあって、早めに確認したいという思惑がある。
……当時と体型が同じ可能性はない。一切ない。
チカなど変わりたくても変わらないというの……忘れてください。
(確か二年前に作ったから、かなり奥の方にまとめて押し込んだと思うんですよねー……)
ツムギのしまい方はシンプルで、古いものは上から順番にしまう、だ。
なので、今レイが運んでいる一つ下の段だと記憶している。
……棚卸なので全部出す必要があるのだ。それに、効率よりも確実。妙な期待を抱かせて失望させるより、最初から希望を抱かせない方がモチベーションを持続させやすい。要員管理の初歩だ。
それに、ツアーが控えている今、体、特に腰へのダメージは最小限にしておきたい。そんな思惑もあり、レイが荷降ろしをするように誘導してみせた。決してスカートの中を覗きたい、などとは思っていない。だってレイ様タイツ履いているし。ただ、ボトムみたいに分厚くないので、お尻の形は分かるけれども……別にそれ、普段の姿からも分かるのであまり興味ないです。
この時ばかりは服の上から見ただけでサイズが分かる自身の特技が恨めしい。
右の人差し指と中指を大きく伸ばして糸を飛ばす。レイが下ろしてくれた引き出しに糸をかけると、手首を内側に巻き込みながら手前へと引っ張る。重そうに見えるが、実際には動かし始めだけ力が必要になる。後は摩擦の問題だ。
それに、そう長い距離を動かすわけではない。せいぜいが引き出し一つ分だ。一時的にそこを空けておき、次の引き出しを置く場所を作るためだ。
場所を作ると、糸の一端を離して引き出しを開放する。
その糸は左手も使って巻き取る。その動きによどみはない。今日だけで数十回も繰り返せばそうなる。
それだけの数の引き出しを動かしているが、一向に減った感じがしない。よくもまぁ溜め込んだ、と自分のことながら感心する。
カルミナの衣装は細かい意匠が多い。そのため、様々な種類の布を用いている分、様々な大きさの切れ端が出てしまう。なるべく端の方から使ってロスを出さないよう工夫はしているものの、それでもかなりの量と種類となってしまう。
では捨てればいい、と言いたいところだが、先の通りサイズ変更が生じかねないため、たとえ切れ端であっても必要となることがある。例えば、腰回りのサイズアップが生じた場合、全体を直すのではなく、その小さな意匠部分をほどいて布を追加し、補強する形で手を加える方法を取る。
最初に作った時と比較すると多少強度は落ちるものの、見た目に変化は生じない。それに、時間も手間も省ける。
そんな手法ばかり取っているため、捨てるに捨てられないのだ。
その困った状況を生み出しているノゾミに対し、太るな、とは言いたいが、食べるな、とは言えない。
ああ見えてノゾミは大食いだ。特にライブの後の消費量は成人男性に引けを取らないどころか凌駕する量を食べる。それでも痩せてしまうため、ツアー最終日の衣装は絞った状態にしておくことが多い。
ノゾミのライブパフォーマンスがずば抜けているのは事実なのだが、一番の問題はエネルギー効率が良すぎてしまうことにある。
普通、人は100のエネルギーを取り入れても、活動するためのエネルギーとして使えるのはせいぜい30から40といったところだ。それ以外のほとんどは熱として恒常性の維持に使用される。
だが、ノゾミは基礎体温がかなり高い。つまり熱産生が高いため、取り込んだエネルギーをすぐに消費しきってしまう。なので量を食べる。その量を受け入れるために胃の容量が広がる。
問題はライブ後でもその量を維持して食べてしまうことと、胃の容量が広がったままなのでそれができてしまうことだ。そのエネルギーを吸収してしまい、しかし消費しきれないので余分がつく。
一番の問題はノゾミがその事実に気付いていないことだ。だから小言を並べるのだが、どうにも響いていない。こちらの苦労を知ってほしいものだ。
そんなことを考えながら、手元に引き寄せた引き出しを見る。
その中に入っている色とりどりの布を見ると、即座にどの衣装に使ったかが思い出せる。
(この赤い生地は……チカさんのソロ用ですね。しっとりとした曲に合わせるには鮮やかなので冒険が過ぎたんですよね。ファンの皆さんからの評価は良かったみたいですけど。
こちらは私の、ですか。緑って私のイメージになかったんですけど、ノゾミさんが譲らなかったんですよね。評価は……良かったですね。
これは……ノゾミさん。補修に使ったから減ってますね。途中で解けたから評価はされませんでしたけど)
それでもステージ上でキャストオフすることもなく、話題にもならなかったのは成功と捉えていいだろう。
とはいえ、目にじとり、と良くない感情が乗るのを自覚する。
正直、ノゾミが苦労をかけることが嫌いなのではない。新しい価値観を与えてくれたノゾミには感謝こそすれ、恨んだり嫌ったりなど以ての外だ。
ただ、余計な労力を強いられているな、とは思う。そこは素直に。その分ツムギの技量が上がっていくのは……素直に喜べない。
「ツムギ、次……いいかい?」
頭上から消沈したかのようなレイの言葉が降って来たので思考を止める。
「はい、レイ様。ちょっとお待ち下さい……ねっ!!」
言いながら、右手を大きく上へと振る。それと同時、先程巻き取った糸がその動きに合わせて緩やかに上へと向かう。
通常の糸であれば、もちろんこんな動きはない。先端に重りを仕込んであり、それを指先を使って飛ばしたのだ。狙いはレイのいる脚立の更に上、天井だ。そこにはこぶし大の滑車がぶら下がっている。荷運び用に設置した定滑車だ。
糸はツムギの狙い通りに滑車と天井の隙間を通り過ぎ、滑車の中央、可動する輪の部分へと引っかかる。
ツムギが操作できるのはここまでだ。
「レイ様」
「ありがとう……よっと」
荷物を最上段に置いたレイが手を伸ばし、ツムギが引っ掛けた糸を手にする。それを引き出しの角に引っ掛けて固定する。対角線上の角も同様にし、片手で二、三度糸を引っ張る。
「頼む」
「はい!!」
ゆっくりと腕を下へと動かす。定滑車なので、ずん、と引き出しの重さが伝わってくる。
この重さを数十も上げ下げしていれば、確かに声から張りもなくなる。それはツムギも同様といえば同様だが、レイとは異なり、ライブの成否が自分にかかっている。そのため、やらなくてはならない、という鋼の意志がある。
……ファンが五万人以上いると勝手に寄越してくるやつではない。あんな使いにくいの。
やるべきは今回のライブ衣装の素材を確保すること。その次点として棚卸の準備だ。なので、ある程度まで引き出しを出し、中身を確認できればそれでいい。何しろ、見つけておかなくてはある意味での死活問題につながる。
とはいえ。
作業開始から既に二時間が過ぎた。
上段の引き出しはほぼ全て出し終えたのだが、目的の引き出しはいまだに見つからない。
(このあたりにあると思うんですけど……)
自分の記憶力には自信があるつもりだったが、やはり無秩序に叩き込みすぎたようだ。
これでは効率が悪い。一度仕切り直して作戦を替えた方がいい。それに、レイはスタミナも筋力もあるが、いつまでも動けるというわけではない。
「レイ様、休憩にしましょう」
休憩は動けなくなったときにするものではない。その手前で休息して、充足感を得ることが目的だ。そうすればアドレナリンによる軽度の興奮を継続することができるため、実際には疲労がなくなっていないのに疲労を感じにくくなる。
「……助かるよ」
レイは言葉少なく同意すると、ゆっくりとした歩調で脚立から下りてくる。
そのまま椅子に座ると、少しだけ足を崩した状態で息をつく。どんな時でも凛々しく振る舞うレイらしくはないが、そのくらいは目をつぶる。
「こんなに厳しいとは……」
「すみません、レイ様」
レイは力なく笑い、軽く首を振る。
「私が言い出したことだし、何よりこれからライブツアーだろう? 体に余計な負担をかけるのは良くないよ」
そう言われてしまうと頭を下げる他ない。ツムギが誘導したからとはいえ、罪悪感がないわけではない。
だからこそ、代替案を提示する。
「このまま進めてもレイ様の疲労が増すばかりです。
実は……お話していなかったのですが、探している素材があるんです。今日はそれを見つけたくて」
すると、レイの目が少しだけ細くなる。
その様子から、誤解が生じていることを察したツムギは慌てて言葉を作る。
「あ、いえ、棚卸のため、というのは事実です。ただ、今すぐ全部、というわけではないんです」
「それは分かったけど……じゃあどうするんだい?」
「今度は私が上に登ります。確認と、対象となる引き出しを見つけたら下ろすくらいですから、ご心配いただくほどではありません。ですから、レイ様は少し休んでいてください」
それに、と壁に備え付けた時計の文字を読む。
「そろそろお昼ですから、出前と他の方々もいらっしゃると」
最後まで言い終える前に、扉が開く音、そして来客を知らせる小さな鈴の音がツムギの耳に届く。
ツムギが扉の方を向くと、そこには桔梗色の頭髪と、その頭頂部の横から特徴的な耳を立てた女性が顔を覗かせていた。
「こんちわー、出前でーす」
勝ち気そうな目がツムギを捕らえると、続いてその隣へと流れる。
「あれ? レイさん?」
名を呼ばれるとは思っていなかったレイは、その声に反応して足を正す。
「……マコトか。
そうか、キミの実家は居酒屋だったね。昼もやるようになったのかい?」
大きな岡持ちを手にした狼獣人のマコトはレイの言葉に、笑顔のままで首を横に振る。
「お得意さんだけの限定サービス、ってとこだな」
そんなところだろう、と思う。それなりに有名なお店なのは知っているが、規模としてはやはり個人店だし、何より居酒屋だ。そこまで大々的には展開しないだろう。
というより、
「カルミナの面々が通っているほどとは」
レイもユイの付き添いで行ったことがあるが、居酒屋ということもあって男性客が多い。それに量も多めで味も濃い。運動後ならともかく、普段使いはしにくいな、というのが印象だ。
レイの思考を読んだかのように、マコトが再び首を横に振る。
「いやー、カルミナじゃなくて、コイツだよ」
空いている方の手で、外を指す。
すると、ひょこり、と音がしそうな勢いでユウキが顔を出してきた。
「お昼のこと、ツムギちゃんに相談されて、それでマコトのお店を紹介した」
いつもより言葉が多く、しかも的確な説明だ。
徐々に記憶が戻りつつあるのか、それとも彼と関連を持つ知り合いたちによる学習のおかげか。後者だと少しもやり、とするが、ユウキが日常生活を送るのに支障がなくなることは喜ばしい。
だが。
やはりレイとしては看過できない一言があった。
「ツムギが……ユウキに相談?」
逆はよくある。以前、ソルの塔に籠もる前に訪れた時も、ユウキは装備品についてツムギへと相談してい……今思い出した。まだツムギと二人で出かける、という約束こなしてなかった。え? じゃあまだユウキもマント新調してない? うわーゴメン。
……気を取り直して。
解せない。
ツムギはユウキを散々に言うが、その実かなり信頼を置いているのは知っている。しょうがない、などと言いつつも彼の希望を聞くのはいつものことだ。
そのこと自体は別にいい。年代特有の照れや
それに、ツムギの専門分野である服飾品に関しての相談ならこれ以上ない的確な人材は他にいない。むしろ聞かない方が失礼だ。
だから、納得はできる。
だが、その逆は理解不能だ。
今回でいえば、食事ならどこでもいいはずだ。なのに、なぜユウキなのか。
顔が広いから?
確かに、飲食店を実家とするマコトとは顔見知りだし、察する能力には優れているので話は早い。
男だから?
体を動かす以上、量に関してはともかく、それなりに味の濃いものを欲するのは男女共に同じだ。となれば、味の濃い料理に詳しいのはやはり男性だろう。
とはいえ、何もユウキに聞かなくても、他に適任者はいるだろうに、と思ってしまう。例えば、カルミナのライブに出入りしているケータリングの業者や、あるいはメンバーのノゾミやチカだって、贔屓にしている飲食店くらいはあるはずだ。むしろ、その手の方が使いやすそうに思える。
(それとも……少しでもユウキとの接点が欲しいから?)
少しでも話せる時間が欲しいと思ったツムギが、味の濃い料理を提供してくれる店などというどうでもいい話題を使ってユウキと話をする機会を作る。日々肉体労働をしているだけでなく、食に詳しいギルド【美食殿】に所属しているのだからその手の店の情報には詳しいはずだ。
それに、食べ物ならば話題は弾みやすい。少しの時間でも、満足行くだけの会話が楽しめるだろう。
それを見越して、わざわざユウキに聞いた。そう考えれば辻褄が合う。
……分かっている。考えすぎだ。
なんだかんだで誠実なツムギに限って、そんなこそこそと、抜け駆けのようなことをするはずがない。
するはずが、ない……はずだ。
普段なら言い切れる。
だが、先の思考もあって、今はどうしても言い切れない。
レイとしては、ツムギを信じたい。いや、疑っているわけじゃないんだ。ただ、どうしても私の中に拭い去れない疑念があってだね……。
ただ、ツムギに感じている疑念を晴らすために何をしたらいいのかが分からない。そして、どうすればレイ自身が納得できるのかも。
レイが煩悶としていても時は待ってくれない。どちらかというと好き勝手に進んでいく。しかもレイを置き去りにして。
時間はともかく、置き去りにする代表は当然ユウキだ。
「カルミナのみんな、来れないって。
ノゾミは急にランニング。チカはクリスティーナさんに呼ばれた」
「……ノゾミさんはまた太ったんですね。で、私に顔向けできない、と。
でもプロデューサー、急にチカさんだけ呼び出し、ってなんでしょう?」
「振り付けの特訓」
「ああー……プロデューサーの完璧主義ですかぁ。確かにチカさんのところ、ちょっと甘いとこありましたからね。
というか、そしたら棚卸の人員が全然足りないんですけど!! ついでに出前も五人前にしちゃったんですけど!!」
「そう思って一人連れてきた」
ユウキが体をずらすと、できた隙間から顔を見せたのはレイが知らない、金髪のエルフの少女だ。展開がいつも通りすぎて何も言えない。
というかこの娘、もう既に何人か殺ったかのような目つきといい、何事にも興味を持てなさそうな荒んだ雰囲気といい、明らかにカタギではないことが窺えた。
棚卸なんてしているよりは暗殺者の方が似合っている気がする。そんな率直なことを思った瞬間、少女はどーん、と音を背負い、目をまんまるに見開き、
「こ…ころしや…!!」
年格好に似合わない高めの声で、とんでもないことを口走る。
まるでレイの思考を読んだかのようなタイミングだったため、思わず反論が口をつく。
「いや見た目的には君の方だから!!」
すると、
「はぁ? 何言ってるんすか?」
はん、と息を吐きながら言われた。その声は当初のイメージ通り、やや気だるげダウナーだ。
ではなく。
無言でユウキを睨む。いつも通りなのは諦めているが、説明は必要だ。してくれるかは別問題だが。
すると、レイの期待を裏切り、
「クロエ。バイトを探してて、重労働でも平気、って言うからここに連れてきた」
あっさりと、しかも簡潔で分かりやすい説明をくれる。
今日のユウキはなかなかに機転が利いている、と内心で感心する。いつもも問題があるわけではないのだが、たまに会話になっていないことがある。その時と比べれば雲泥だ。
対するクロエと紹介された少女は、
「あ、ども。バ先を探してたらまかないも出るってんで来ましたクロエす。それなりに動けるんでおねしゃーす」
軽妙な言葉といいぶっきらぼうな態度といい、これまでレイが出会ってきた誰とも異なる印象を与える相手だ。ただ、不思議とそこまでの苦手意識はない。なんというか、ダウナーな雰囲気をまとわせつつも、一本芯が入った信念のようなものを感じるからだろう。真面目ではなく、責任感が強い、という感じだ。それに、やんちゃな感じがレイに眠っているそこはかとなく庇護欲を掻き立てられる。まるで母のような心境だ。
「いやママ枠はもうパンパンよ? これ以上やるとウチの身内が乱入してくるから」
相変わらずこちらの思考を読んだような妙なことを口走るが、これだけ威勢がいいならすぐに音を上げるようなこともなさそうだ。
「クロエ、といったね。よろしく頼むよ」
「よろすすおねがいするます!!」
「あの、レイ様? 一応、雇用主としては私なんですけど……まぁレイ様のOKが出たなら私もOKです」
「……なんなんこのザルさ。いやうちが言うのも何だけど大丈夫なん?」
「それだけ信用されているんだよ」
「……え、何を? どこをどうしたら信用されんの?」
「クロエが真面目でしっかりしているところ」
「いやだーら」
「……いい加減、昼食の話に戻してくんねぇかな?」
昼食後。
「ユウキくん、足元に気をつけて」
「うん」
「それと引き出し、意外に重いからね」
「わかった」
「あと」
「いやもう発言が完全にママ!!」
「……うるさいハエがいるね」
「いますね。……処します?」
「信じてやれってナシだわ!!」
レイに代わって脚立に登り、作業を始めたユウキに注意しながら、検品と称した探しものに邁進するふりをして、レイは再び自身の思考に没頭する。
最近、一部の人間の挙動がおかしい。それは心境の変化から来るものだと、近接戦闘を専門とするレイは気付いた。
その手の変化を察する能力に関してはヒヨリの方が数段優れているが、彼女の場合は考察が甘く、結果として判断が鈍い。だから自身のユウキへの思慕を理解していない。レイは
問題は他の連中、具体的にはサレン、そして先のマコト。ユウキの周りで見たことがあり、レイが名前を知らない者なら最低でも三人。扇状的な格好のピンク髪と全身鎧、そしてウィスタリア家の令嬢。
全身鎧は【
この連中は危険だ。
サレンもマコトも、自身が抱えているユウキへの思慕を理解している。しているどころか、ひけらかしているようにしか見えない。
しかも、サレンとアキノ、ジュンは共謀しはじめたという。この情報も高かった。コッコr……匿名希望のエルフの幼女め、足元見て!!
先のマコトにしてもそうだ。
作業人数が減ってしまうことを知ったユウキはクロエを確保した後、マコトに直談判しに行ったのだという。
「いやさ、ユウキから「人数減るから発注数減らして」なんて言われてさ。こいついっつも言葉足りないのに、今回だけはきちんと通じたから助かったぜ。
だんだん、物事の進め方、てのが分かってきたよな。なんつーか、頼れる感じがしてきたな」
ぽん、とユウキの肩に手を置く。その置き方も気安さが勝っている。
レイは素直に思う。
……なんだろう、この感じ。自分のオトコのできるところアピールを聞かされている感がすごい。
あと距離感。これまではもっと、遠慮が含まれていたと思うが、今はその遠慮はない。しかも接触している時間が長い。なんで手ェ置きっぱなしなんだ。あと首に近付けるな。駄肉がユウキに当たるだろう!! やめろ!! 汚れる!!
一通りユウキを褒める言葉を並べると、マコトは帰っていった。残された皆の微妙なイラつきを残したまま。
ついでに、食べ終わった食器はユウキに回収をお願いしていたこと、そしてその裏にある、後でまた会おう、というメッセージにもイラつきを生じさせた。
腹の奥から出た息を口の中に溜める。
以前も多少の仲の良さアピールのような匂わせはあったものの、今回は度を越している。なんというか、
このマコトの心変わりは確かに意表を突くものだ。これまでの常識が変わりつつある、ということは、各方面の危険分子が徐々に活発化してきている、ということだ。
とはいえ、守りに入るのはレイの性分に合わない。だったら先んじてユウキを確保した方が、とは思うが、それはつまり、レイがユウキに告白する、ということだ。
それはなんというか……困難だ。いや私が告白することを怖がっているわけじゃないよ? 私が気にしているのは、ユウキが私の気持ちをきちんと理解してくれるかどうか、という部分なんだよ。
……断られるかもしれないから、とかそういうことじゃないよ? そういう心配はしてな……いやちょっとだけ。
……話を戻して。いや、今私のことなんてどうでもいいだろう?
それ以上にレイが気にしたのは、当然ユウキの変化だ。
これまでのユウキからすると、今回の行動は大変な進歩だ。
日頃から様々なアルバイトで鍛えられたためか、はたまた【美食殿】の面々に教わったのか。いずれにせよ、ユウキが徐々に社会的な知恵をつけてきたことは認めなくてはならない。
そして、レイにとってそれはあまり好ましくないことも。
それは、レイ以外の人間によって成し遂げられていることの証左だからだ。
落ち着かない。
ユウキはもっと、レイ……や、他の皆が支えてやらないといけない。それが母の……ではなく。
「随分侵略されてね?」
うるさいエルフ。いい年してツインテールなんて、女子校くらいでしか見かけないぞ。
「テレ女は共学。はい論破」
うるさいエルフ。男女比がぜんぜん違うだろうが。実質女子校だ。
「……詳しくね?」
うるさいエルフ。高かったんだ。
とにかく、レイが関わっていないところでユウキが成長しているのはどうにも納得できない。
否。
許せない。
ユウキを助けていいのは自分だけだ。
それだけの実力が伴っているのも、それだけの能力があるのも、そしてそれだけの信頼を得ているのも。
全て兼ね備えているのは自分だけだ。
だから。
ユウキを救えるのも、自分だけなのだ。
上で作業をしているユウキの体がふらり、と揺れる。
その揺れは重い物を持ち上げた時のような、ゆったりとしたものではない。バランスを崩していることが分かるほどの性急な、そして自身で体の制御ができていないことがありありと分かる動きだ。
理屈は分かる。
引き出しは総じて重いのだが、たまにぎっしりと入っているのに妙に軽いものもある。それを引き当ててしまったのだろう。重いと思って力を入れて持ったため、余分な力によってバランスを崩したのだ。
レイも午前中に何度かやったが、鍛え上げられた背筋を駆使し、無理やり上体を前に倒すことで耐えてきた。
だが、ユウキはそこまで鍛えているわけではない。
そのまま上体は後ろへと反らされ、しかし脚立の上なので後ろへと踏ん張ることはできない。
このままでは、ユウキは引き出しを持ったまま後頭部から落下してしまう。しかも、床には検品中の引き出しが多数ある。打ちどころが悪ければ、最悪の展開すらありうる。
だから、レイは動く。
ユウキを救えるのも、自分だけなのだから。
「ふっ!!」
吐息一つで戦闘モードに切り替わった今のレイには、落下するユウキは緩慢に見えている。
戦闘モードにそういう特性があるわけではない。いわゆる超集中状態を強制的に引き起こしたのだ。こうすれば体感時間が引き伸ばされ、判断するための思考の余裕と救うための準備ができる。
もちろん、そんな便利ではない。反動として歩くのすら困難になるほどに運動能力が劇的に低下してしまう。だから普段使いはせず、ここぞ、という時にのみ緊急的に使用する程度だ。
そして今は緊急時だと判断した。何よりユウキを今救えるのはレイだけだ。
だから何の躊躇もなく使用する。
レイは自身の視界情報を精査する。
(ユウキは首から落ちる。しかも引き出しの角の上に。それに、持っている引き出しが追い打ちをかけるように顎下から胸に落ちる)
後頭部を角で打撃されただけでも危ないのに、更に首を挟むように打撃されることになる。これでは頸椎を損傷、つまり首が折れてしまう。当然、致命傷だ。
……なぜそんなにクリティカルな落ち方をするのだろうか。
ユウキの運の悪さは筋金入りだ。
(……? そんなこと、あったかな……?)
一瞬だけ眉をひそめるも、同じ時間で切り替える。今は記憶を正す時間ではない。気を取り直して前を見る。
何しろ、ユウキの運の悪さなど気にしていない。
なぜなら、これからレイが救うからだ。
手にしたのは、毛糸で大きめの編み物をするときに使う棒針だ。片方だけが尖っており、これならほぐれやすい毛糸も難なく手繰れる。
指先だけでくるり、と回しながら、右側、半歩先にある引き出しの角に足をかけ、下へと蹴り飛ばす。
浮いた体を支えるのは、左側の棚の二段目。少しだけはみ出した引き出しだ。そこに左足の横を引っ掛け、更に蹴り飛ばす。
……なんか斜め下からバキィ、とか鈍めの音がしたけど気の所為。重くはない。蹴りが強いだけ。
ただ、そのせいか想定よりも上に飛べなかった。
だが、その目は既に次の足場を見つけている。
右側、三段目の引き出しを足蹴にし、更に体を上へと飛ばす。
「はは、バトルのひと……」
いつも通り余計な声が聞こえた気がしたが気にしない。今はユウキの命がかかっているのだ。
手にした棒針を普段の細剣のように顔下に構えると、ふわり、と背中に風が集まるのを自覚する。
いい感じだ。これなら、木製の棒でも行ける。
「はぁあっ!!」
裂帛の気合と共に腕を突き出し、ユニオンバーストを展開する。
「スラッシュテンペスト!!」
「ユウキ、ころされる……!?」
ね、狙っているのは引き出し!! 殺しませんから!!
穏やかではない思考を返しながら、棒針の先端は狙い通りにユウキが手にした引き出しに着弾する。
もちろん、それで終わらない。
鍛え上げられた背筋が生み出した力は腕を伸ばす動きに合わせて伝播する。得物が本来の剣ではなくても、木製の引き出しを破壊するなど造作もない。
果たして、甲高い破壊の音が狭い店内に響く。
もちろん、それで終わらない。
何しろ、体を脚立の中ほどを超える位置まで飛ばしたのだ。その慣性は未だレイの体に残っている。ただ、重力に引かれる力も同時にかかっているので、長時間滞空できるわけではない。
だが、それでいい。
レイは木製の棒を斜め前へと投げ捨て、空になった手をそのままユウキの服の裾へと伸ばし、指を絡める。そのまま手の力でユウキの方へと体を寄せる。
すると、意図を察したユウキがレイを引き寄せ、自身の胸へと収めるように動く。
その判断に驚きつつ、レイは抗うことなくユウキに委ねる。
といっても、床は既に目と鼻の先にまで迫っている。
結局、ユウキは何も置かれていない場所に、背中から地面に叩きつけられることになった。
「!?」
眼前にあるユウキの顔が少しだけ苦痛に歪み、その口からは声にならない小さな吐息が漏れる。レイはユウキの体とその腕によって守られたため、彼女には軽い衝撃のみが伝わっただけだ。
ただ、着地だけでは完全に慣性を殺すことはできず、ユウキの体は床で低く跳ね、半回転する。
そして、ユウキに抱えられたレイも同様に半回転し。
ユウキはレイに覆いかぶさるような格好で停止した。
レイはユウキとの顔の近さに驚く。
否。
ユウキがレイを抱きかかえた時点で分かっていた。
だが、緊急時ということでそこまで考えが至っていなかった。
否。
嘘はつかない。
こうなることは予測済みだった。
ユウキが落ちそうになることも、それに自分が動くことも。そして、ユウキを救えばこの体勢になることも。
計算ずくだった。
ここまでは。
ここからは、アドリブだらけだ。
……足の間に彼の体が入っているだけでなく、スカートの裾がその足に引っかかり、中が見えてしまうと言うくらい何だというのだ。ただの布切れなんだから気にしな……白と青のストラップは子供っぽいかな?
「くーる(笑)」
だからうるさい。なんでひらがなっぽく言うんだ? 声も甲高いし。元の声はどっちなんだ。
……今はそれどころではない。
ユウキの顔を近くで見たことはこれまでも数度ある。その都度レイは落ち着かない気分になっていた。
だが、今回は半ば意図的に近付いた。その意図には身勝手にもほど近い思惑が込められている。となれば、多少は尻込みするのもやむを得ない。というか、まっすぐに彼を見ることができていない。
思惑があってこの体勢になったレイが照れているのもおかしな話だが、レイにとって想定外の事態が生じたためだ。
レイに覆いかぶさっているユウキまでもが照れて、顔を少しだけ背けているのだ。
これまで、ユウキが年相応の情動を見せたことなどなかった。なのに、今は見せている。
否。
もしかしたら、単にレイとの距離が近くて顔を背けているだけかもしれない。そうだとしても、これまでにはそんな素振りを見せてこなかった。
となれば、この状況をこれまでと同じだと捉えるのは危険だ。
そこまで瞬時に理解したレイは、完全に思惑が外れたために戸惑っていた。
……ユウキのことは、好きだ。
動物とか家族に向ける好きではなく、ユウキという男性を好ましく思っている。そういう意味での好きだ。
この想いを伝え、自分だけのものにしたい。
自分だけを見てほしい。
そして、自分と共に将来を築いてほしい。
その思いが、レイに大胆な行動を取らせる結果となった。
ただ、悲しいかなレイに異性との交際経験はない。手を繋いだことすらない。あいや、あるにはあるが偶発的なものであり、いわゆる思いを通わせて、というものではない。
だから、分からない。
もし。
もし、この状態でレイが目を閉じたとしたら。
年相応の情動を見せているように思える今のユウキなら、その意味を正しく理解し、正解の行為に及ぶのではないか?
その既成事実を持ってすれば、この無意味とも言える恋愛頭脳戦……最近頭脳戦は展開されていないけれども、レイの完勝という結果を以て、この争いに終止符を打てるのではないか?
だが、自信がない。
そもそも彼は……否。
彼が、自分を選んでくれる保証がない。
縁深い【美食殿】の三人ではなく。
ユイでも、ヒヨリでもなく、こんな自分を選んでくれるのだろうか?
どちらかというとかっこいい部類に入るから、可愛げはないだろう。
胸も……あいや、スタイルはいい。
けど、胸はない。これは事実なのでどうしようもない。
行動にだって、好かれる要素はほぼない。
いつも修行と称して彼を冒険に連れ回すような無頼漢で。
気遣いとは一切無縁。むしろユウキの方が気が利く。
何より魔族で、しかも貴族だ。
そんな自分を、選んでくれるのか。
……試してみたい。
その先が、あるのかどうか。
いつものように、優しく抱き起こされたとしたら。
それはそれで嬉しいが、今そういうのはいらない。
ドドキン、ドドキン、と聞いたことのない音が鳴り響く。
まるで心臓が耳の奥に移動し、全力で拍動しているかのような大音量だ。
こんなこと、初めてだ。
それだけ緊張している、ということだろう。
……などと、冷静に考えてみても状況は変わらない。
今口を開けたら、「ちょあーっす」などと、これまた今まで使ったことのない擬音が飛び出しそうだ。
相変わらず、ユウキはレイから顔を背けている。
ただ、明らかにレイの顔を意識しているのは分かる。
その意識している場所は、顔の下の方。
鼻より下で、顎よりも上。
そんな場所を意識しているなんて。
それは、明らかに。
その場所が、特殊な意味を持つことを理解している。
ユウキがレイの意図を理解している、と自覚した瞬間。
レイは言い知れぬ感覚に身を震わせた。
否。
怖い。
ユウキに女性として見られていることは本望のはずだ。
なのに、怖い。
意味が分からない。
なぜ、怖いのか?
ユウキに選んでもらえるかもしれないというのに。
自分の気持ちが、分からない。
ユイではなく、ヒヨリでもなく。
【美食殿】の三人でもなく、自分だけを意識してくれているというのに、怖い。
頼れるのは自分だけ、という機会はいくらでもあった。
その時も恐怖は感じていた。それでも、やってしまえばなんとかなった。恐怖も薄れ、いつしか普通になった。そうして、できることが増えていった。
だが、今は違う。
心細い。
だが。
否。
だから。
レイは意を決し、正面を向く。
そこには、ユウキの顔がある。少しだけ赤らんでいるが、それでもレイをしっかりと見据えている。
対する自分は、ふらふら、と視点が泳いでいるだろう。
それでもいい。
おとぎ話のヒロインであっても、最初は恐れていたに違いない。
レイと、同じだ。
だから。
レイは軽く顎を上げ、静かに目を閉じた。
ユウキが動いた素振りはない。目をつぶっていても、それくらいは分かる。
とはいえ、細かい動きまでは判別がつかない。
だが、確実にレイの唇に興味関心を持っているのは感じ取れる。視線で火傷しそうなほどだ。
だから、レイは静かに待つ。
あと、ほんの数センチだ。
たったそれだけで、レイの念願が叶う。
ならば、いつまでだって待つ。
だが。
「
そんな声がするや、レイの上から圧力が消えた。
否。
ユウキは声の主に、強制的に移動させられたのだ。
そんなことができるのはこの場にはただ一人しかいない。
レイは先の自身の思考を思い返す。
ユウキには付き合っている女性がおり、その女性は記憶を失っておらず、すでに彼の近くにいるのではないか、と。
それも、誰かのついで、というスタンスで。
ユウキに対してはその誰かを隠れ蓑にして接近しつつ、それとなく自身の気持ちを伝える。あるいは、ユウキのことを嫌うような素振りをみせつつも、言動の端々には好意を示すような示唆を含んでいる。
そんな、器用なことができる人物などいないと思っていた。
だから、ただの妄言だと一笑に付すことができた。
だが。
彼女は直接ユウキと接点はなかった。
レイを追っかけていることからユウキと知り合った、
そして彼女は、レイに近付くユウキに対して攻撃的な態度を見せつつ、しかしどことなくユウキに想いを馳せているかのような言動を繰り返してきた。
それは正しく、レイの想定したユウキの彼女像そのものだ。
そして、レイは気付いた。
その全ての条件が、ツムギには当てはまっていることに。
焦り、目を見開くと。
声のした方には、完全に眉を立てた表情でこちらを睨むツムギがいた。
……天井に吊り下げられたユウキは、一旦思考から外す。
ツムギは焦っていた。
レイの見たことのない顔にもだが、なぜ事実からかけ離れた、とんでもないことを口走ってしまったのか。
その事実に、焦りすら覚えていた。掛かり気味にも程がある。
ただ、
その力の主から、レイにユウキを奪われるな、と言われたかのような気分になった。
その言いようのない感覚は、簡単に言葉を作った。
それが、レイとのある種の決別を生むと分かっていながら。
だが。
ツムギの思った以上に、自身の口から紡がれた言葉の内容には抵抗がなかった。
そう。
ユウキの相手役にレイは役不足だ。
言葉の通り、無頼漢で四角四面、独りよがりのレイなど
ツムギの思考は加速する。
ユイやヒヨリだって敵ではない。
幼女?
猫?
話にならない。
仮想敵はやはりあの
だが、
その思いが、ツムギにさらなる力を与える。
ぐい、と眉が立ち上がる感覚がある。その感覚を持ったまま、レイをにらみつける。
レイは余計な動きなくあっさりと立ち上がると、ツムギへと歩み寄ってくる。
レイの方が上背があるが、そんなものは些末なことだ。下から睨めつけてやれば何の問題もない。
むしろ、こちらの力が込めやすい。
レイは、この疑惑を消し去るため。
ツムギは、この想いを固めるため。
レイとツムギは正面から向かい合う。
そして。
レイがツムギの目を見たまま、口を開く。
「一緒に、ルナの塔に行かないか」
王宮内。
最奥も最奥、選ばれた者しか入れない場所がある。そこは広間と階段で構成されている。
階段は上に上がる度に小さく狭く狭まっていき、最上段には一脚の豪奢な椅子が鎮座している。
微細な箇所にまで細工が施されたその椅子に座れるのは、アストライア大陸広しといえども一人だけ。
当代の女王、つまり、ユースティアナ・フォン・アストライアだけだ。
そこには今、狐耳を頭に備えた妙齢の女性が浅く腰掛けていた。
体を前に倒した彼女の表情には、いつもの余裕がない。目はまっすぐに正面を見据えているが、どうにも焦点が合っていないようでふらふら、と瞳が泳ぐ。
地面にしっかりと足をつけているが、膝から下はぐらついており、今にも貧乏ゆすりをし始めそうだ。
肘掛けには肘をつけているものの、細く手入れがされた指先は顎下から口元を覆っている。折りたたまれた親指は唇の形を確かめるように動いている。ただ、その動きはかなりぞんざいで、時折唇に引っかかっては小さく破裂音を生んでいる。
広間には誰もいないため、そんな無作法をしても咎められない。
だからこそ、自分の世界に没頭できるのだ。
例え誰かいたとしても、それを咎めることができるような貴族がいるか、と問われれば、否、と答えるしかない。
それだけ、彼女の保持する権力、そして戦力は絶大だ。
とはいえ。
それはあくまで、まだ彼女が優位に立っているだけの話だ。
現状、誰も彼女に届くことはない。何しろ、
そうなるよう、彼女が慎重にことを進めていたからだ。
なのに。
「
ぎしり、と耳奥で歯が軋む音が響く。
レイとツムギが共にルナの塔に登るシナリオは本編にある。
それなのになぜ、共にルナの塔に、などという結論になるのだ。頭を抱えたくなるが、じっと堪える。
ツムギへの干渉以外にも、
……脳筋の思考は複雑怪奇だ。
慣れたくなどないが慣れてしまった自分を見つめ直すことになり、再度頭を抱えたくなった。もちろん我慢だ。
否。
足りないことなどいくらでもある。
まだ、彼女の想定にない事態だって山のようにあるだろう。それは自分のスキルを持ってしても全ての事象の把握など不可能だ。
とはいえ。
現状、彼女を脅かす存在はおらず、その発生もありえない。
ほんの少しの揺らぎのような連中など、誤差にもならない。そんな連中に脅かされるほど、彼女は弱くない。
そう。安泰だ。
安泰の、はずなのだ。
だが、彼女はどうしてもその誤差以下の連中を無視できない。
無視したくてもできない。
それは彼女がエンジニアだからだ。
エンジニアとして、彼女はありとあらゆる事態を想定しなくてはならない。いいことも悪いことも、全てだ。
彼女の想定は詳細で、その制御は緻密で、そして完璧だ。
それでも、不測の事態は生じうる。例外処理をいくら想定してテストを繰り返してみても、足元をすくわれるかのようにバグは発生し、予期せぬエラーを吐き出す。そのエラーを潰せば、また新たなバグが発生する。
その繰り返しがシステム開発というものだ。転職サイトが並べ立てる綺麗事などどこにも見当たらない、本当に泥臭い作業だ。真新しいコンセプトから生まれたシステムであればなおさらだ。
彼女は直にコードを書いているわけではない。どちらかというとプロジェクトを管理する者を更に管理する方に近い。だからその手の報告や状況には慣れているとはいえ、憤りや焦りは普通にある。
そんな感情は現実だけで十分だ。
そうならないように、あえて関連の薄いツムギに力を与えた。
なのに、レイは大した労力も見せることなく、その力に抗ってみせた。それどころか、修正までやってのけた。
起きた事象のみから鑑みれば、それが真実だ。
忌々しい。やはり、
ならば、自分の辿り着く先は――
思わず力が入る。
すると、ぶつり、という鈍い音と共に微かな痛みと、それに遅れてぬるり、とした粘度の高く鉄の香りを持つ液体が口中に流れ込んでくる。
親指で押し込んだ唇を噛み切ってしまったようだ。口内炎になる未来など見なくても分かる。
……今の悩みはそうではない。
このところ連中の動きは完全に彼女の想定を覆すものばかりだ。
様々な連中に力を与えたことが間違いだとは思っていない。諸刃の剣ではあるものの、一方では彼女を破滅から守る盾となりうる。
だというのに。
だが、彼女は優秀なエンジニアだ。
想定していたシナリオが想定通りにうまくいかないなら、違う方法で制御すればいい。
「……抜本的な更改が必要、か」
人の制御が難しいなら、
そんなことは許されるものではないし、そもそもできるわけがない。
だが、
そのためには。