火星より、エネ。   作:BIG-BAKA-MONO

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同業者

先を先を行くおじさんを見失わないように何とかついて行ってしばらく、突然前を行く彼が停止した。危うくぶつかる所だった。

「ここだ」

そこには何もないように見える。はて、と首をかしげると唐突に砂が盛り上がり、ギリギリACが通れるくらいの口が開いた。

「やたら用心深い誰かさんがな」

言いながらおじさんは機体を入口に潜り込ませた。

「ほら、何ボッとしてんだ」

言われて私も同じように機体を屈ませ頭をぶつけないようにシェルターに入り、私の機体が完全に隠れると分厚いシャッターがゆっくりと降りた。

真っ暗になったのもつかの間、次々に照明が入りシェルター内部を照らし目が眩んだ。

中は思ったより広く、きちんと手入れされた整備機器や通信機器が壁際に整然と並んでいた。

機体のカメラを通して辺りを見渡しているとふとハイドレーションシステムのタンクが空になっていたことを思い出した。これから何時間待つのか分からない以上補充はしておきたい。しかし貴重な水がここで手に入るのだろうか、そもそも分けてもらえるのだろうか…厚かましいよなぁどうしよう。

言い出そうかどうか散々迷って結局ダメ元で聞いてみようと決意し、いざ口を開くと、

「ここの物は適当に持って行くと良い。どうせもう使う奴も居ない」

先に言われてしまった。

「じゃあお言葉に甘えて…」

もう使う奴もいないという部分が少し引っかかるが、素直に頂くことにした。文句を言える余裕は無いのだ。

とりあえずそれらしいタンクを発見し、機体を降着姿勢に移してコクピットのハッチを開け、顔を出した。するとその様子を見ていた(少なくとも彼の機体の頭部はこっちを向いていたように見えた)おじさんの機体も降着姿勢を取り始め、狭いコクピットから身体を引き抜こうと四苦八苦していた私はそれに気がつくと、何故だか緊張して動きが止まってしまった。どんな人が出てくるのだろうと身構え、ヘルメットのバイザー越しに彼の機体のハッチを凝視しつつ慎重にコクピットを出た。

視線の先のハッチがゆっくり開き、中から姿を晒したのはゴツいパイロットスーツとヘルメットの…と、ここまで見たところでよく考えたらACに乗っている以上パイロットスーツもヘルメットも当然着ているのだからどんな人か見てわかるわけないじゃないかということに気がつく。私だって多分今は彼と大して変わらない見た目だろうに。

…まぁ人間が乗ってるのが分かっただけでも…

そう思えてくる。ついさっきまで未知との遭遇気分だった自分が恥ずかしい。

少し安心した反面若干残念な気もする。助けてくれた?人のご尊顔くらい拝んで礼を言いたかったと思わないわけでも無かったが、とりあえず機体から降り、さあ補給するぞとパイプを探していると彼も機体から降りてきて壁に向かって何やら作業を始めていた。

「何をしてるんですか…?」

何やら不穏な空気を感じた私は思わず聞いてしまった。

おじさんは、

「後始末」

とだけ答えて、明確な回答をしてくれなかった。

何が起こるんだろう…

正直私はこの人を信用して良いのか判断しかねている。そりゃあ初対面で信用出来る人は殆どいないのが当たり前なのだが、ここでは一瞬の油断が命取り。彼に背を向けることが私の生命に関わる問題である可能性は捨てない方が良いだろう。助けてくれた人にここまで警戒することには胸が痛むが、命には変えられない。私はおじさんを視界内に、ジリジリと後ずさりながらパイプを探していると、

「パイプは多分そっちじゃないぞ。左だ」

作業を続けながらおじさんがそう声をかけてきた。ハッと左を見ると確かに給水パイプが。かなり目立つ位置だったのだがおじさんに注意を払い過ぎで気がつかなかったのだ。何となく恥ずかしくなって赤面した。今ほどヘルメットとマスクを着けていて良かったと思ったことはない。動揺を悟られたくなかった私は、あたかも知っていたかのような顔で給水パイプを機体に繋ぐ作業に移った。

諸々の補給を終えると、私は機体の足下にもたれかかりどっかりと座り込んだ。これまでの疲れがどっと溢れ出して、肢体が汗でじっとりと湿る感覚がたまらなく不快だった。汗で貼り付いた髪の毛を払いたくてヘルメットを外し、暑苦しい酸素マスクも外して良いものかと考えていると、数メートル向こうで同じように座っていたおじさんが視線をこちらに向けているように感じた。向こうはヘルメットを被ったままなので本当にこっちを見ていたのかは分からないが、とにかくそう感じたのである。暗いバイザーに覆われた彼と目が合った気がしたのだ。

気まずくなった私はしばらくそわそわと視線を泳がせていたが、結局先に口を開いたのは私だった。

「あの…ここ、マスク外しても大丈夫ですか」

自分で腕の検出器のことは意識の外にあった。

「………」

何も聞こえない…

何かまずかったのかなと考え始めるより早く彼が身振りで何かを伝えようとしていることに気がつく。自分のヘルメットの…耳の部分を指差している。

私が意図が掴めずに首をかしげると、おじさんは気怠げに立ち上がり、私の手前まで歩いてきた。

何だ何だと後ずさる後ろもないのに逃げようとする私を尻目に、彼は自分のヘルメットとマスクを乱暴に取り外し、この通り、と肩をすくめて見せた。

そして一言

「俺たちがさっきまでどうやって会話してたかを考えてみろ」

…?

少し考えて、両手で抱いたヘルメットに視線を落とす。そしてヘルメットに内蔵されたヘッドセットで会話していたことを失念していたことに気がつき、また赤面した。

私も彼に倣いマスクを外し、とりあえず指摘に感謝を述べた。

露わになった彼の顔は、どこか見覚えのあるような無いような…その容貌は想像していた厳つい「傭兵」然としたものではなかった。痩けた頰に白毛の混じる髪と無精髭、眉間に深く刻み込まれた皺、そして生気のない瞳…

正直ゾッとした。しかし不思議と恐ろしくは感じなかった。何故だろう、何かこう、想像していたよりもずっと…

「俺の顔を見ても面白くなかろう」

呆れたように彼は吐き捨て、私に背を向け自分の機体の方へ戻ろうとした。

「あ、あの!」

立ち去ろうとするおじさんの背に私は咄嗟に声を掛けた。

彼は立ち止まり、また気怠そうにゆっくりと視線をこちらに移す。

「えっと…その…」

まずった。声を掛けてみたは良いが、何を言うかを考えていなかったのだ。何となく、一人は不安だったから。

「えーと、えっとその…」

必死に考え身振り手振りで中身のない「何か」を伝えようとする私はとても滑稽に見えただろう。彼の表情は読めないが。

「言いたいことがあるならはっきり言ったらどうだ」

しばらくそんな状態が続いた後に、痺れを切らしたおじさんが先に口を開いた。

やっと彼が反応してくれたことで、少しは私の考えもまとまった。勇気を出そう。

「…その、チョット、少し…お話ししませんか……?」

何とか笑顔を作りながらそう絞り出した私を、予想外だったのか彼は目をまん丸にして眺めていた。

 

その後、おじさんは私の隣にゆっくり腰を下ろした。私もどうしたら良いか分からず、とりあえず同じように腰を下ろしたは良いが話題が出てこなかった。沈黙が辛い。でも、しばらく生身の人間とこう近くで過ごすことが少なかったせいかも知れないが不思議と緊張や不安は和らいだ。いや、バイトで毎日のように沢山のお客さんにもみくちゃにされているので生身の人間との接点はいくらでもあるのだが、そこでの私と彼らの関係性はあくまで給餌と客であり、「私」と「一人」ではなかった。今のように一人の人間をここまで意識することは久しく、いや思い返せば家族以外には一度だってなかったように思える。何だか不思議な気分だった。

「…何か話すんじゃなかったのか」

いつのまにかタバコを燻らせていたおじさんが先に口を開いた。自分から誘っておきながら、沈黙を破られたことに驚き飛び上がってしまった私は、結局話題が全く思い浮かばなかったことを思い出して大慌てで思考を巡らせた

そんな様子を横目にため息と共に紫煙を吐き出したおじさんは独り言のようにポツリと零した。

「アンタ、本当にレイヴンなのか?」

まとまらない思考の中予想だにしない彼からの質問を受けて私はまた飛び上がった。

「ま、ままままぁそそうです!」

「少しは落ち着けよ…」

そのまま深呼吸。少し経って息も落ち着いて、話を戻す。

「ええ、一応、レイヴンをやらせて頂いてます…始めてからそんなに時間は経って無いんですけど」

「そうか」

と一言だけ返された。それからまた沈黙。

どうしよう…また何かマズイことを言ったかな…恐る恐る彼の顔を覗き込んでも、虚空を眺める瞳から感情が読み取れず困惑。

決死の覚悟で話を振ってみる。

「お、おじさんは一体どのくらいこの仕事を…?」

また帰ってきたのは沈黙。しかし彼は少し考えているらしい様子で、答えてくれようとしていることが分かっただけでこの沈黙はそこまで息苦しいものではなかった。

「10年」

回答は思ったよりも早く返って来た。

「10年だ。この手の仕事を始めてから」

何故か言い聞かせるように繰り返した。

「ということは火星に来てから10年ですか?」

「いや、火星に来たのはつい最近だ」

ここで一つ疑問が生じた。地球はここ最近平和になっていて、レイヴンのような仕事は完全に過去のものになった、と私は教えられていたので、10年、それも地球で活動していたレイヴンであることを示唆する彼の発言に違和感を覚えたのだ。

その疑問の表情に気付いたのか、私が口を開く前に彼は答えてくれた。

「アンタが考えているほど世界は上手くできちゃいないってことだ」

相変わらず表情から読み取れないが、その口ぶりはこの話題に触れたくない様子を感じさせた。しかし私にはそれを分かっていても、彼が10年にも渡り活動してきたレイヴンであると知った以上、あることを質問したいという、いや、しなければならないという衝動を抑えられなかった。

「その…一つ質問しても良いですか」

私の申し入れに対し彼は沈黙のまま、ただタバコを咥え壁を見つめていた。私はお構い無しに続ける。

「…有人機を…人を殺すことって慣れちゃうんでしょうか…」

「俺が知るか」

今度はすぐに返ってきた回答は突き放したようなものだった。それでも諦め切らなくて食い下がる。最早不安を紛らわす為に会話するという当初の目的は、不安の根源…つまりずっと考えていたいつか訪れる『殺人』についての悩みをなんとかしたいという欲にすり替わっていた。

「おじさんは慣れちゃったんですか…?」

再度放った問いにおじさんは露骨に眉をひそめた後、諦めたのか一言だけポツリと零した。

「まあ、そんな所だ」

その姿はどこか、少しだけだが苦しそうに見えた。

「ただ、俺とアンタは違う。生まれ、育った環境、こなした仕事の数…まぁ推測だがな。多分違うだろ。だから俺の話は参考にならん」

彼は漂うタバコの煙を眺めながら続けた。

「…悪いが俺はアンタの言い訳にはなれんぞ」

痛いところを突かれた。彼には魂胆が透けて見えていたらしい。結局のところ、私は誰かの体験を自分に投影し、比較して「自分はまだ大丈夫」「自分はまだマシ」と思いたいだけなのだ。卑怯な行為を指摘された私は少し俯いた。

「ただ、まぁ」

彼が口を開く。

「慣れて得になる事じゃないとは、思うこともある」

少し切って彼は深く煙を吐き、天井を仰いだ。

「あくまで私見だがな」

その言葉を聞いて少し考える。私はどうなのだろう。慣れるとどうなってしまうのだろう。

父の死を思い出す。最終的には泣くことは出来たが結局それは父という存在が、私が縋っていたものであったというだけで、彼の死そのものを悲しんで泣いた訳ではない…と理解している。そのことが急に気になり始めた。結局、私は死というものを理解していないだけなのではないか?そもそも何故人を殺したくないのか、それは人が死ぬ事が嫌なのではなく、自分が傷付くのが怖いだけなのではないか?それは、確信は持てないがなんとなく…良くないこと…な気がする。人は人の死そのものを悼むべきなのだ。自分のために殺さないんじゃない、死んで欲しくないと考えるべきなのではないか?そんな疑問と自己嫌悪が頭の中を駆け巡り、混乱を始める。

「なんだ、処女か」

考えていると突然横からそんな場違いな言葉が。

思考に耽っていた私は突然側頭部をぶん殴られたような衝撃を受けた。

処女!?いきなり何を言い出すのだこの人は。一体なんの話だろうか。

困惑に目を白黒させて慌てる私をおじさんはポカンとした顔で数刻眺めた後、合点がいったのか苦笑した。

そんな彼の様子を気にする暇もなくどう返答したものか頭を痛める…いや、まあ痛めるほど迷う回答もないのだが…。

「ま、まぁ…そうなんですけども…」

少し赤面しながらボソリと答えてから、何を言ってるんだ自分と恥ずかしくなり目を伏せる。

隣からはクツクツと特徴的な彼の笑い声が聞こえる。この人は…私をからかって遊んでいるのだろうか。なんとも気分が悪い。

「まさかそのままの意味で取るとはな…」

「え?」

「変な言い回しはするもんじゃない。勉強になったよ」

おじさんはまた訳の分からないことを言い出した。何なんだ一体。

「悪い、無神経だったな言い直そう」

と断って彼は

「殺したことないんだな」

と。

一気に頭が冷えた。そうだ、私はそのことを聞きたかったんだと思い出した。

何でもないことのように呟く彼の言葉は私の視界を少し暗くした。

「…はい…まだ有人機とは当ってないですけど、私、怖くて…」

「ふーん」

返事は素っ気なかった。

「簡単なことだ。考えてみたら分かるだろ、アンタは何を動かしてる」

「え?」

またよく分からない質問だ。何を?私が動かしているもの…

あ、そうだ。

「AC…?」

今の私に動かせる唯一与えられたもの、そして私を縛る枷、AC。詳しくは知らないが…万能の作業機械にして最強の戦闘マシンと聞いていた。最初はその言葉を鵜呑みにしていたが、最近の私の不甲斐なさと地味な仕事の連続でその認識も薄れてきた頃だった。

しかしそれがどうしたというのだろう。

「分かってるじゃないか」

彼の真意を掴めない。何を言っている?

その困惑は口に出さずとも伝わったらしく、彼は頭を掻きながら答えた。

「そいつを見上げてみろ、どう思う」

彼は顎で私の背後を指した。

釣られて私は後ろを見る。鎮座していたのは私の愛機だ。

言われてみてまじまじと見上げ、眺める。こうじっくりと見ることなんて今までなかったかもしれない。

今まで簡単な仕事しか受けてこなかったが、それでも確実にダメージが蓄積していることが分かる。装甲は細く継ぎ接ぎに補修してあり、傷跡をたどたどしく隠していた。ついさっきの仕事の物だろう、小さな弾痕も見受けられる。もっと大事に扱わないとなぁ…。

そんな風に足元から順に視線を這わし、良く観察する。そして頭部まで差し掛かったときにふと感じるものがあった。恐怖だ。

全高およそ10mの鋼鉄の巨人。その足元に私はいるのだ。初めてACを見たときを思い出す。あのとき得た感情も、嫌悪と、そして恐怖であった。その巨大な足で大地を踏みしめ、異様に長い腕で敵を蹂躙する。それは対面したものを粉砕する暴力の化身。自分がこんなものを動かしていたことに気が付き背筋が凍えた。

「アンタがどう思おうかはまぁ勝手だがな、相手から見たら化け物なんだよ。そいつはな」

言われてみるまで気が付かなかった、自分が恐怖の対象だったなんて。

「向こうも必死に撃ってくる、そうさ死にたくないからな。アンタと同じさ」

私は…

「そう…ですか」

私は殺すのは嫌だ。でも…死ぬのはもっと嫌だ…。

多分、皆そうなんだろう。自分の命が惜しくない人なんていない。自分が一番かわいいのだ。私は、そこから目を逸らしたまま「殺したくない」だなんてことを。「殺すのは悪いこと」「死を悼むべき」、これは殺す側の視点での話である。私は無意識のうちに、これから殺すであろう相手を見下していたのだ。

「まあ今は良いだろ、直に嫌でも分かる。直にな」

そう彼は付け加えた。不穏な話だ。

私が考え込んで黙りこくっていると、少し饒舌になっていたおじさんも同じように黙った。また空間を沈黙が支配する。

分厚い壁の向こうから僅かに聞こえる風音が、シェルターの中で響き渡る。遭難とこれまでの長考に疲れていた私には、それが不思議と心地良く思えた。音は私の出口の見えない思考を靄のように覆い隠し、次第に私を深い眠りへと誘った。

 

父がいた。

私、私たちは海辺に立っていた。まだ幼い弟は初めて見る海にはしゃぎ、何が面白いのか打ち寄せる波に足を晒し、笑い転げていた。私は母に手を引かれながら弟を眺め、笑っていた。

隣を歩いていた父は突然私を抱き上げ、弟の元へと走り出した。驚きの声を上げる暇も無いまま、私を抱えた父は弟に追いつくとそのまま弟も抱き上げ波に濡れた砂浜を駆けた。困惑こそあったが、潮の香りが混じる風が気持ち良かった。それを感じられたのもつかの間、父は波に足を取られてバランスを崩し、私たちを抱えたまま波打ち際に転んでしまった。私は弟もろとも背中から浅瀬に落ち、びしょ濡れになった。弟と顔を見合わせ、父を見ると父も同様に濡れねずみ。それに加えて頭から突っ込んだのか、砂も被っていて大層惨めな様子だ。少し間を置いてから、3人で笑い合った。何がおかしいのか分からない。せっかくのおしゃれも台無しだ。それでも、何故か笑いを止めることはできなかった。母が心配して駆けてきたが、笑っている私たちを見て、母も笑った。皆んな笑っていた。嗚呼、きっとこんな日が永遠に続くのだろう。私はどうしようもなく、幸せだった。

 

「起きろ、止んだぞ」

私を現実へと引き戻したのはそんなおじさんの一言だった。

「あ、あぁ…私寝ちゃって…」

凄く、嫌な夢を見た気がする…今私の目に映る光景は先ほどよりくすんで見えた。

目の前に立つ彼は座り込んでいた私を見下ろし、小さく苦笑し呟くように言った。

「アンタ、良くそれで今まで無事だったな…」

こんな所で、それも初対面のレイヴン一人の目の前で眠り込んだことについて言っているのだろう。はい、返す言葉も御座いません…。

一応自分の身に何か変化が無いか確認してみる。装備も全てある、機能にも障害はない。機体も…見た所は大丈夫そうだ。こう警告はする彼だが、彼自身が私に何かするつもりは無いらしい。そういえば、私を見つけたときも遭難者かどうか確認していた。これは私がレイヴンではなくただの遭難者だった場合無条件に救助するつもりだったのではなかろうか。いや、私も無条件に助けられたわけだが…流石に甘すぎる見通しだろうか、しかしどうにも私は彼が遭難者から略奪するような人物とは思えなかった。

考えながらおじさんの顔を眺める。これまでの行動から害意は感じないが、その目は相変わらず暗く濁っているように見えた。

彼は私から目を逸らし、そしてパイロットスーツのポーチに手を入れた。ポカンとした次の瞬間、彼が武器を取り出そうとしているのでは、やはり私の見通しが甘かったのではないかと思い始め、途端に不安が脳内を支配した。まさか、いや、やはり?そんな上手い話があるわけなかったんだ…!ポーチから彼の手が出る。終わった…私は声にならない悲鳴を上げ、身を屈め頭を抱えた。

「警戒心があるんだかないんだか…」

降ってきたのは銃声ではなく呆れたような彼の声だった。恐る恐る顔を上げると彼は手にハンカチを持ち、私に差し出していたのだ。

状況が掴めない。彼は私に何をしようとしているのかが全く分からなかった。

「顔拭け、あー…これは使ってないから安心しろ」

顔?

言われて目元を触ってみると涙の乾いた跡に気が付いた。どうも鼻水も出ていたらしい。手元に鏡が無いことが非常に悔やまれる。私の顔は今酷いことになっているようだ。

私は慌ててハンカチを受け取りぐしゃぐしゃと顔を拭いた。何という醜態。しかし何より恥ずかしかったのは醜態を晒したことではなく、こんな親切な人物に対して私は殺されるかもしれないと勝手に思い込み悲鳴まで上げてしまったことである。なんと私は失礼なことをしてしまったのか…助けてもらったにも関わらず、信じることができなかった。

「ありがとうございます…ごめんなさい…」

恥ずかしさと申し訳無さで私は一杯だった。顔も合わせることができない。

おじさんはそんな私の前で何も言わずにヘルメットを被り、私に背を向け自分の機体へ歩み始めた。私は握りしめていたハンカチを見て、返さなければと思い立ち上がったが、それに気が付いた彼はこっちを一瞥して、やはり何も言わずにマスクを装着し、コックピットへと消えていった。

最後に見た彼の目は、最初と変わらず冷たく、暗く、そして憐憫の念を帯びているように感じられた。

私もそれに倣って機体に乗り込む。火が灯ったディスプレイに表示された時間は夜明け前であった。私は思ったより長く眠っていたらしい。

彼の機体が動き出した。

「出るぞ」

そう言うとシェルターの入口がゆっくりと開き、先程の一寸先も見えない砂塵が嘘のように澄み渡った薄闇の砂漠が広がっているのが見えた。来るときは気が付かなかったが、少し離れた場所に朽ちて傾いた塔のような巨大な構造物がそびえ立ってた。その出で立ちはまるで墓標のようだと、私は思った。

彼方を眺める私に構わず歩み出した彼の機体を慌てて追いかける。それからしばらく静寂の中、私たちは歩き続けた。次第に地平線の彼方が白けてきた。砂漠の夜明けだ。火星に来てからこの方心の底から美しいと思えることが無かった私にとって、火星特有の青白い朝日は、それはそれは素晴らしく見えた。地球のものより派手な陽光は無いものの、どこか儚げに見える淡い色の太陽は、ディスプレイ越しであっても私の心に確かな潤いをもたらした。

「この辺だな」

彼はそう言うと立ち止まった。

「もう通信は出来る。場所的にも回収も呼びやすい」

彼は私に回収部隊を呼ぶことを促した。

「おじさんはどうするんです?」

「俺はまだ少しな」

彼はじゃあなと言い残し、私を置いて歩み始めた。

このまま別れるのは何か駄目だと、私は思った。

「お、おじさん…!ありがとうございました!」

私の言葉を聞いているかいないのかは分からないが、とにかく伝えておかなければならない。彼はレイヴンにも関わらず、間抜けな同業者を無償で助けようとしたのだ。それに対して何も返さないのは、曲がりなりにもレイヴンである者の行為ではない。何でも良かったが、恩を返す…否、彼に「報酬」を……。

思いつかなかった。今の私に渡せるものが何かあるものか、何もない。ならせめて…

「あの…よろしければこの店に…来ていただけないかなと…」

こんなので良いのだろうか。それでも私にできる最大限のお返しは、マスターに頭を下げて精一杯のサービスをすることくらいなのだ。仕方がないのだ…。

「その…サービス、しますからよろしくお願いします…」

彼が歩みを止めた。

暫しの沈黙。私は冷や汗をかきながら返事を待つ。

すると聞き覚えのあるクツクツという異音。彼が笑っている。

「……クク…そうか…世間は狭いな」

え?それってどういう…?

「そうだな…アンタはそっちの方が良い」

笑いを堪えきれないといった具合の彼はそう返した。何か引っかかるが、これで良かったということだろうか。

彼は再び歩み出し、もう立ち止まることはなかった。

私を回収する輸送機が上空に見えた。お別れだ。

私は降下した輸送機に機体を格納しながら離れゆく彼に向かってもう一度礼を言った。

「本当に、ありがとうございましたー!!」

彼は答えなかった。

 

荒野の廃墟が遂げた謎の爆発と、私がレイヴンになったあの日、世話になった人、ストラング試験官の訃報を聞いたのは、あの荒野の邂逅から数日経ってのことだった。

 

 




次も少し遅くなります。
変更もあるかもしれません。気長にお待ち下さい
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