スポーツ小説です。よろしくお願いします。
1
妹のユキの見舞いに行った、次の日。鷹野が学校に行くと、肌を舐められるようなざわつきを感じた。下駄箱で靴を履き替えて教室に向かうまで、見ず知らずの生徒に好奇の視線を浴びせられたのだ。
チラチラと見てくる生徒もいれば、まじまじと凝視してくる生徒もいる。なかには、露骨にこちらを見ながらコソコソとなにかを話している生徒までいた。
いったいなんなのだろう──鷹野は首を傾げながら、2階にある自分の教室へと向かった。
白いスライド式のドアを開ける。その瞬間、教室の中にいたクラスメイトが一斉にこちらを見てきた。
(……こうも見られると恥ずかしいな)
一歩進むだけで、周りの生徒達がサーッと鷹野を避ける。それだけで、自分の席まで一本の道ができた。海を割ったモーセが見た光景もこのようなものだったのだろうか──などと思いながら、そそくさと鷹野は自分の席へと歩く。
席に座っても、誰も話しかけてこない。自分から話しかけに行こうにも、前後左右の生徒は着席していないため、本格的に話し相手がいなくなってしまった。
(……まぁそんな日もあるか)
きっと間が悪いだけだろう。そう思い、鷹野は鞄の中から単行本サイズの本を取り出す。昨日、ユキから借りた──どちらかというと「押し付けられた」、が正解だが──『帰宅部超人伝』というタイトルの本だ。あまり興味が無いのだが、妹との会話の種になるなら読んでいて損はない。ちなみに、ユキはこの本を病院で知り合ったお爺さんに貰ったらしい。そのせいか、本からはほんのりと畳の匂いが漂っているような気がした。
立派なハードカバーを開くと、鷹野を遠巻きに見ていたクラスメイトが再びざわつく。だが、本に集中し始めた鷹野にその喧騒は聞こえない。
(3大競争は入学式、修学旅行、卒業式?帰宅部って休みの日が無いのか……?)
いや、外出する以上どう足掻いても帰宅は伴う。ということは帰宅部の活動があるのは自然なことだ。帰宅部は、意外とどの部活よりも活動熱心なのかもしれない。
そんなことを思いながら、パラパラとページを捲る。この時の鷹野は、自分を取り巻く環境が変わり始めるなどとは微塵も思っていなかった。
2
入学式から数日経ったある日の放課後、1年生の教室がある廊下にて。鷹野と同じクラスの男子生徒2人が、並んで歩いていた。恰幅が良く背の高い
「なぁ、やっぱり入学式帰宅の上位ランキングに『鷹野』なんて名前無かったよな?」
「あぁ。あのスタートダッシュは良かったんだが……やっぱり3大帰宅大会のハードルは高いのかな」
「でもアイツ、世界で100部しか刷られてない、伝説の『帰宅部超人伝』を教室で読んでたぞ?やっぱり特別なランナーなんじゃ?」
「うーん……」
謎が謎を呼ぶ同級生。熱心な帰宅部ファンである男子生徒2人は、湧き上がる好奇心を抑えられなくなっていた。
帰宅部において入学式に出走するということ、それは「俺に友達なんていらない。高校生活のすべてを帰宅部に捧げる」という意思表示というのが暗黙の了解だ。
だが、少し話すくらいは許されるだろう。なにも親友になろうとしているのではない。軽い知り合い程度なら、
2人はそう思い、互いに頷き合う。そして、中島が鷹野に近づこうとした。その時だった。
「おいおいおい、まさか
「ヒッ……!!」
不意に後ろから現れた、赤い髪の持ち主に肩を掴まれた。
中島がギチギチと首だけで振り返る。そして相手の顔を見ると、目をぎょっと見開いて小さな悲鳴を上げた。
「き、君は……
「ヘェ、オのこと知ってんのか……」
中島に名前を呼ばれた不死鳥のケン──
「オレのこと知ってるんだろ?じゃあお前、帰宅部ファンだよなァ……?」
「は、はい、そうです……」
鳳は、ヴィジュアル系バンドのボーカルのような、前髪が長く伸ばされた赤髪をかきあげると、その鋭い目つきで射殺さんばかりに中島を睨んだ。
「帰宅部が入学式に出走するってことは、帰宅部に全てを捧げるっていう意思表示なんだわ……お前も知ってんだろォ?」
そう言う鳳の口調は、真剣に入学式の日に出走した帰宅部を思いやるようなものではない。むしろ、入学式帰宅に出走した鷹野をどこか小馬鹿にしたような口調だった。だが、中島は鳳に胸ぐらを掴まれた恐怖からコクコクと頷くしかできない。
「そうか、知ってたか」
「は、はい……それは、もう」
「そっか、そっかァ……」
鳳は納得したようにゆっくりと息を吐く。そんな様子を見て安心したのか、中島も「あはは……」と笑った。その直後──
鳳の頭突きが、眼鏡の生徒を襲った。
「おめェ如き雑魚がァ!!帰宅部様につけこもうなんて100万年早いんだよォ!!」
「アッ……血、血が……!」
頭突きで切れたのか、中島の口からは赤い血が出ている。一緒にいた恰幅のいい生徒が慌て手駆け寄るが、今度は津田の髪の毛を、鳳が鷲掴みにした。
「いいかァ?これに懲りたらあの鷹野とかいう奴と話そうなんて思うんじゃァねえぞ?次やったら頭突きじゃすまねぇかもなァ!」
鳳の脅迫まがいの言葉に、2人は震えながら頷く。鳳は舌打ちしてドカドカと大股で歩き出した。
「気に食わねえ……帰宅部で1番
鳳は眉間にシワを寄せて、教室の扉の側にあった掃除用具入れに蹴りを入れる。廊下中に苛立ちのオーラを撒き散らしながら、鳳は去っていった。
◇
中島達の様子を、1人の少女が遠巻きに見つめていた。
「そっか、あれが
少女は鳳が去った後も、うずくまったままの流血した中島と、それを介抱する津田を見ながら、なかを考えるようにほっぺたに手を当てた。コテンと首を傾げる様子が可愛らしい。
「うーん、でも私がやらなきゃ……うん、やるしかないね!」
そんな少女は、かわいい仕草に似つかわしくない、決意のこもった熱い情熱を瞳に
◇
「だ、大丈夫?」
「痛いけど……血は止まったかも」
中島、鳳に頭突きされた口元を拭いながら言う。津田は安心したように一息ついてから、「それにしても……」と口を開いた。
「不死鳥のケン……噂通り荒っぽい帰宅部だね」
「あぁ。帰りっぷりは凄いのに肝心の性格があれじゃあな」
「だな〜……応援もできないよな」
帰宅部マニアの2人は全く同じことを考えているようで、互いの意見に同意しあって深く頷いた。中島が、胸ぐらを掴まれたときに落とした鞄を拾い上げる。今度こそ帰ろうとした時、後から鈴の音のように凛とした、心地よい声がかけられた。
「ねえ、ちょっといいかな?」
「「ん??」」
2人の男子生徒が振り向くと、そこには中島達の様子を影から見ていた少女が立っていた。肩口までの伸ばした黒い髪の毛は、絹のように艶を放っている。大きく開いた目は愛くるしさを満開に湛え、桜色の小さな唇の両端は少しだけ持ち上げられて、きゅっと可愛らしい笑みを作っている。どちらかというと小柄な、しかし成熟しつつある身体のその少女の可憐さに、中島と津田は照れるよりも先に息を呑んだ。
「……?どうかしたかな?私の顔になにかついてる?」
「──あ、いえ、なにも!」
「うん、な、なんでもないよ!」
少女に改めて声をかけられ、中島と津田は弾かれたように慌てて返事をする。そんな様子を少女が「ふふっ、良かった」なんて笑うものだから、2人はますます緊張して顔を赤くしてしまった。
そんな彼らの様子など気にする
「ねえ、さっきの赤い髪の男の子って、どんな人?」
「「えっ……」」
少女が、先程自分達を傷付けた奴のことを聞いてきて、2人は顔を見合わせる。だが、それも一瞬のことで、やがて中島が淡々と話し始めた。
「鳳健、それが彼の名前だよ。中学の頃は
「ふーん……でもそんなに凄いランナーなら、入学式に出走したんじゃないの?」
「できなかったんだよ。素行が悪すぎて、全国中学高校帰宅部協会から来月の競技参加を禁止されてるんだ」
今度は津田がそう答えた。彼は自分の額の汗をきれいなハンカチで拭うと、やや早口で続けた。
「帰宅部の活動停止……つまり鳳は今、
「あぁ、だから余計にイライラしてるんだろうな」
「そっか。じゃあ、そのイライラの捌け口に君たちに暴力をふるったり、鷹野くんに話しかけるなって言い回ってるのかな?」
「多分ね。実際、鷹野君が誰とも話せないのは、鳳がさっきみたいに話しかけようとした人を次々と脅してるからなんだ。それでみんな怖がっちゃって」
「へぇ……そっか。そうなんだね」
男子生徒達の話を聞いているうちに、少女の顔から笑顔が消えていく。そして、神妙な面持ちでポツリと呟いた。
「じゃあ、その鳳って人を
「黙ら、え、黙らせる?」
小柄な美少女から唐突に発せられた穏やかではない言葉に、2人組がポカンと開口する。だが、放心している間にも少女が「どうかな?」とプレッシャーをかけてくるので、2人は思わず首を縦に振ってしまった。
それを見た少女の顔から、ついさっきまで浮かべていた鬼気迫る迫力が失せ、代わりに人懐っこい穏やかな笑顔が戻ってきた。
「そうだよね。じゃあさっそくやってみようかな。ありがと、2人とも!じゃあね!」
「え、あの、ちょっと……!」
「ん?なにかな?」
勢いで呼び止めた中島は、頭の中であれこれと言葉を選んで、少し間を開けてから口を開いた。
「その、鳳になにかしようと思ってるなら、やめたほうがいいよ」
「あはは、心配してくれてるの?」
「だって、君がなにされるか分からない……」
「ううん、大丈夫。だって……私が危なくなったら、きっと
「へ……?」
にっこりと、大輪の花のような笑顔を浮かべながらそう言う少女に、中島は見惚れて言葉が出なくなる。まるで恋する乙女のような、そんな華やかな輝きを放つ少女を前に、彼は口をパクパクと開いたり閉じたりするだけだ。
それを会話の終わりと捉えたのか、少女は今度こそ「じゃあね!」と言って、昇降口へと続く階段を下っていった。
最初からいた2人の男子生徒だけが廊下に残される。2人はしばらく黙っていたが、やがて津田が中島の肩をポンと叩いた。
「諦めなよ」
「……いや、無理だ」
「え、でも」
「あの娘、帰宅部に興味があるみたいだったし……もしも僕が、最速の帰宅部員だったら──」
「中島、君は……」
津田は、中島の目を見て確信する。ギラついた瞳、溢れる闘志、誰よりも早く帰りたい、そして意中のあの子を振り向かせたいという願い──この男は、帰宅部になる!
「悪い、僕、今日は先に帰るよ」
「あぁ……車には気をつけてな」
鼻を
今年の帰宅部は荒れる──そんな予感を膨らませ、津田もゆっくりと家路についた。