〜Elysion〜 作:楽園
早足で駆ける春風が、てんとう虫の背をやさしく撫でた。揺らされた葉の先で小さく震える黒い水玉模様を眺めながら、隣ではしゃぐあの頃の彼の声を耳に焼き付けた。
《りみちゃん! おとなになったら、けっこんしよう!》
笑ってしまうほどに稚拙で、そして何よりも純粋なプロポーズだったと今ではそう思う。私は幼い手で必死に編み上げたシロツメクサの花冠を彼の頭にそっと乗せて、よろこんでと微笑んだ。今日と同じ、柔らかな春風がやさしい午後だった。あれから、私達はどれだけ大人になれただろう。
月日が経つにつれて背は伸びて、見える景色も変わって、私と彼は少しずつ大人になった。無邪気に笑う優しい彼と、泣き虫で意地っ張りな私。私達は良くも悪くも私達のまま、大人になった。
「懐かしいよね。よく二人で、ここで遊んだよね。夕方までずっと」
幼い日の思い出に浸っていたのはどうやら彼も同じだったようで、懐かしげに微笑む君の肩が私の肩に触れ合った。あの日と同じ匂いがした。
「散々遊んでさ、そのまま二人で寝ちゃって。帰ってからすごく叱られたよねぇ」
「あれはマサくんが帰りたくないってごねたからだよ?」
「そうだっけ?」
「そうだよ。マサくんが泣き止まないから、必死であやしてるうちにこっちまで眠くなって……」
「えー、泣いてた?」
「泣いてました」
「そういえば、りみもよく泣いてたよね」
「……泣いてないよ」
「泣いてました」
くすくすと笑う彼の横顔は、まるであの頃のままだった。いくら怒っていても、口もききたくないと思っていても、いつもその微笑みにほだされて、どうでもよくなってしまう。
あの頃は、大人になるってことはとてつもなくすごいことで、大人になればすべてが変わってしまうものだと思っていた。
夕暮れ時に別れを惜しむことも、朝になってまた会えるのを待ちわびることもなくなるものだと思っていた。
大人にさえなれば、私たちは誰にも邪魔されず、ずっと一緒にいられるものだと思っていた。
あの頃の私たちはやっぱり子供だったのだと思い知ってしまうのは、私たちがきちんと大人になれている証拠でもあると思えた。
「もうすぐ……卒業だね」
「そうだなぁ」
「マサくんは都内の大学でしょ? 遠いね……」
「りみは地元のトコだっけ。近いの?」
「うん、近いよ……」
私たちは大人になるほど、遠くなる。歩いて通えた君の家までの距離が遠くなって、こんな風に二人で寝転んで、くだらない話でいつまでも笑い合えるような時間も遠くなる。
何もかも、遠くなる。
「りみは優しいね」
不意に投げられた言葉が、草原にころんと転がった。相変わらずにこにこと微笑んだままの君が撫でた小さな花びらが揺れるのを、私は見ていた。
自分のことは、自分が一番わかっている。私は私ことを誰よりわかっている。だから、君の言葉に素直に喜ぶことが出来なかった。優しいなんて、間違っている。私には優しいところなんて、ひとつだってないのに。
「……なんで?」
「ん?」
「なんで呼び出したの、こんなとこ……」
私たちは大人になるほど、遠くなる。あれだけ近くにいたのに、いつも隣にいたのに、背が伸びるにつれてその距離は広がって、私たちを離れ離れにさせていった。
ちがう、離れたのは私の方だった。
君のことが大好きなのに、それが怖いと感じるようになったのはいつからだろう。
手をつないで歩くのを躊躇うようになったのは、君のことを好きだと周りに言えなくなったのはいつからだろう。
私がひとつ距離を置くたび、君はいつも寂しそうに微笑んだ。それなのに、どうして、とは一度も聞かずに、ただ黙ってそれを受け入れた。
二人で作った秘密基地に私が行かなくなった日も、毎朝待ち合わせしていた通学路のあの場所で私が待たなくなった日も、放課後の教室に君を一人置いて私が背中を向けた日も、ただ黙って、君は私を見ていた。
それが、何より痛かった。
今日、彼から「会いたい」と電話がきた時、私は嬉しかった。嬉しかったのに、怖かった。何を言われてしまうのか、君は本当は私のことを憎んでいるんじゃないか。それが、酷く恐ろしかった。
私は君のことが好きなのに、私は君の隣にいたいのに、私は君のことが嫌いになりたくて、君の隣にいたくない。
大人になんて、なるんじゃなかった。
「ごめんなさいって、言いたかったんだ」
にっこり笑った君の頬を、色を濃くした太陽が照らしている。夕焼けになりきれない太陽が、じりじりと空を焦がして、私たちを見ている。
「はなかんむりね……編めなくなっちゃったんだ……」
私は指先で膝の上に散らばった花びらを寄せ集めて、はらはらと舞わせた。
「昔は編めたのに……」
「昔から下手くそだったけどな」
「……ひどいよマサくん」
「なぁ、やっぱり──」
言いかけた彼の唇を、私は塞いだ。
シロツメクサの匂いがする。あの日と同じ、匂いがする。泣き出してしまいそうで、どうにもならない指先を、君の背中にそっと這わせた。
──あぁ、大人になんてなるんじゃなかった。
本当はずっと、後悔していたんだ。手をつないで帰りたかった。日が暮れるまで、君と一緒にいたかった。大人になってもっと自由になったなら、こうしてキスをして、朝も夜もずっと一緒に、君と過ごしていたかった。当たり前のように、そう出来ると思っていた。
大人になんて、なるんじゃなかった。
知りたくなかった。あの日のまま何も変わらず、君と一緒にいたかった。幼稚で、格好つかなくて、それでも精一杯に真っ直ぐなあの日のままで、君を好きでいたかった。
「マサくん……もう一回、プロポーズしてよ」
許されたいくせに、ごめんなさいと言えない。愛されたいくせに、与える術を知らない。こんな大人に、なりたいわけじゃなかったのに。
「……私と、結婚してくれる?」
君はどこまでも優しくて、どこまでも真っ直ぐだ。私はなんにも持ってないのに。君に優しくすることも、大事にすることも出来ずにいるのに。ただ、好きでいることしか出来ずにいるのに、それすら躊躇って、見ないふりを続けているのに、それなのに。
君は、私を楽にする術を知っている。
春風が鬱陶しくて、涙が出る。
柔らかい風が、優しい香りが心地悪くて、涙が出る。
「結婚できない、ごめんな。りみ……」
そして彼は、私に優しいさようならをくれるのだろう。あの日と同じに、にっこり微笑って。