日が長くなり始めた2月。俺は学年末試験に向けて図書室で一人勉強をしていた。キリのいいところまで終わったので体をほぐそうと伸びをすると、いつの間にか周りには誰もいなくなっていることに気がついた。窓の外を見ると日が傾き始めている。集中している間に随分と時間が経っていたらしい。俺も遅くなる前に帰ろうと思い、机に広げていた教科書やノートをカバンに詰め込んだ。
「あれ、英語の教科書がないな」
カバンにしまった教科書を確認していると英語の教科書がないことに気がついた。図書室で英語の勉強はしていないから、多分教室に忘れたのだろう。取りに行かないといけないなと自分の迂闊さにため息をついた。
図書室を出て教室に向かう。放課後になってから結構な時間が経っているのに、ちらほら部活もせずに残っている生徒を見かける。
今日は2月14日。バレンタイン。きっと部活終わりにチョコを渡すために、あるいは貰うために残っているのだろう。今日はそういう特別な日だ。
かくいう俺も中学に入ってからは毎年この日を、正確に言えばバレンタインの翌日を楽しみにしていた。中学生の頃も高校生になった今も、家族以外から直接チョコを貰ったことはないけど、毎年机の中にポケチョコを一粒入れてくれる誰かがいたからだ。本命にしてはささやかな贈り物だけど、義理にしては他に貰った人がいないのが不思議だった。
ポケチョコ一粒だけだし名前も書いていなかったからきっと義理だったのだろうけど、普段あまりお菓子を食べられない身としてはそれだけでも十分、一番好きなチョコがポケチョコになるくらいには嬉しかった。高校に入って学校も分かれてしまっただろうから今年は貰えないと思うけど、叶うなら一度会ってお礼とお返しをしたかったなと思う。告白されたことなんて一度もないのに自分がバレンタインを特別な日だと思えているのは、その誰かのおかげだから。
バレンタインの思い出を振り返りながら歩いているうちに教室についた。チョコなんて入っているわけがないけど念のため机の中を確認してみようか、なんて未練がましく思いながら扉に手をかけた。
「……武元?」
教室の扉を開けると、物憂げな表情をして窓の外を見つめている武元の姿が目に入った。夕日の差し込む教室で黄昏色に染まる姿は、今までに見たことがないほど幻想的で。確かにそこにいることを確かめるように、半ば無意識のまま問いかけるように名前を呼んでいた。
「な、成幸!? ……良かった。待ってたんだ」
振り返った武元は俺の名前を叫んで、それから良かったという言葉とは裏腹に、緊張した声色で返事をした。一体なんのために待っていたのかと一瞬考えて、すぐにある可能性に思い至る。
さっきまで考えていたじゃないか。今日はバレンタインだ。今まで武元から貰ったことなんてなかったから全然想像していなかったけど、もしかしたらなんて想像が頭をよぎる。
「ま、待ってたって、なんで……」
「えっと、その……こ、これ!」
馬鹿みたいに聞き返した俺に、武元はおずおずとラッピングされた箱を差し出した。武元の持つ箱は細かく震えている。重みのせいだろうかと思ったが受け取った箱は思いのほか軽く、少なくとも腕を震わせるほど重くはなかった。
この場で開けていいか声をかけようと武元の顔に視線を移す。なぜか潤ませている瞳と、西日に照らされて赤く染まった頬が印象的で、心臓がドキリと跳ねるのを感じた。
「あ、開けていいか?」
「……う、うん」
高まる期待と緊張で震えそうになる手を気合いで抑えて、破いてしまわないよう丁寧に包装を解く。心臓が生涯で一番の速さで鼓動を刻んでいるのを感じながら、ゆっくりと箱の蓋を開けた。
「おお……これ、手作りか?」
「う、うん。べ、別に深いイミとか全然アレなんだけど! 成幸いつもあたしのことイロイロ助けてくれてるから、そのお礼っていうかなんていうかっ!」
武元がくれたのは「いつもありがと! URUKA」という文字が書かれたハート形のチョコレートだった。料理だけじゃなくお菓子まで作れるんだなと、改めて武元の家庭的な面に驚かされる。
「武元お菓子まで作れるのか……。凄いチョコだな」
「う、ううん! そんな大したことないから……あ、で、でも味見はちゃんとしたしあたしなりにちゃんとガンバって作ってはいるんだけどね!?」
武元は慌てた様子で答える。謙遜しているように思えるけど、もしかしたら武元にとっては本当になんてことないものなのかもしれない。けれど少なくとも俺の目には、店で売っているものと比べても遜色ないくらい丁寧に作られているように見えた。
「食べていいか?」
問いかけると武元はゆっくりと頷いた。これほど綺麗に作られたものを砕いてしまうことに若干の申し訳なさを感じながら、端の方を少しだけ割ってチョコの欠片を口に運んだ。
「うっわ……! うま……っ!」
口に含んだ瞬間、チョコレートの甘味が広がった。たまにスーパーやコンビニで買って食べるチョコとはまた違う繊細な甘み。あまりの美味しさに思わず声が出てしまった。
普段感じることのない複雑な美味しさ。なのに武元のチョコを味わっているうちにデジャブのような感覚に襲われた。武元からチョコを貰ったのはこれが初めてのはずだ。なのにこの味には覚えがある。手作りのはずだけど絶対に食べたことがある。一体どこで食べたのかと記憶を辿っているうちに、梅雨頃に武元とした会話がふと頭に浮かんだ。
『お前こんなに料理できたのか』
『疑ってたの反省した?』
『反省した。すまん、悪かった』
『えへへ、分かればよし! それに料理だけじゃないかんね。毎年成幸に……』
『毎年俺に?』
『う、ううん。なんでもない!』
料理だけじゃない? 毎年俺に? そういえば結局なんのことだったのか聞いていなかった。
口の中に広がる武元の手作りのチョコの味と、毎年バレンタインに机の中に入っていたポケチョコの味が重なって、あのときの会話と結びつく。
「この味って……武元。聞きたいことがあるんだけど」
「えっ!? な、なに!? もしかして変な味した!?」
「いや全然! めちゃくちゃ旨かった。そうじゃなくて……」
もしかしたらという疑問を確信にするために、武元に確認しようとしたが言葉が続かない。もしも単なる自分の勘違いだったら。そんな想像が頭に浮かんで怖くなる。
「成幸?」
だけど、ここで確かめないと前に進めない気がする。不思議そうに顔を覗く武元を見て気合を入れ直し、武元の目を見据えて口を開いた。
「……武元。もしかしてなんだけど、中学の頃、バレンタインに俺の机にチョコ入れてくれてたりしてたか?」
「え」
武元が固まる。それは隠していたはずのことを言い当てられたときの反応そのもので。やっぱり俺の記憶は間違っていなかったと、内心でホッと安堵のため息をついた。
「あ、や、な、なんで」
「チョコの味が一緒だったから……やっぱりそうなんだな」
「あ、う、あの、その、」
武元は凄い勢いで目を泳がせている。落ち着くまで待とうかと少し考えたが、どう見てもしばらくは落ち着かなさそうなのでそのまま話を続けることにする。そもそも俺自身まさかの事態で気持ちが逸っていて、そんなに長く待つことはできそうになかった。
「武元、俺、お前に言いたいことが……」
「えっ!? あ、えっと、あ、あたしごめんもう帰んないとだから!!!!」
失敗した、と思ったときにはもう遅く、武元はカバンを掴むと猛烈な勢いで逃げ出してしまった。
もっと待てば良かったとかそもそもなんで逃げたんだとか、そんなことばかり頭に浮かんで一瞬固まってしまったが、武元が教室から出ていくのを見届けて、馬鹿みたいに突っ立っている場合じゃないと我に返った。
「ま、待てよ武元!!」
持っていたチョコの箱を机に置いて、全速力で武元を追いかける。教室を出るとちょうど武元が階段を降りようと曲がったところが目に入った。静かな校内に武元が駆け足で階段を降りる音が響いていた。
絶対に今日のうちに話さないといけない。絶対に追いつく。そんな決意をしながら全速力で武元を追いかける。
ほとんど落下するような勢いで3階から1階まで駆け下りて、ようやく武元の姿が目に入った。昇降口で靴を履き替えようとしている。今なら間に合う。気合を入れて加速する。
「えっ!? ウソ速っ!?」
「あっ! おい待てって!」
俺に気づいた武元は履き替えるのを諦めて上履きのまま外へ駆け出した。そこまでするかと思いながら、俺も負けじとそのまま外へと飛び出した。さすがに上履きで学校の外に出る気はないのか中庭の方に向かっている。
武元の背中を見据えながら必死で追いかける。今の俺は人生で一番速く走っているという自信がある。だけどそれでも全然追いつかない。差が詰まる気配すらない。当たり前だ。武元と俺じゃ才能も努力も何もかも違う。離されていないだけよくやっている。
「はぁ……はぁ……」
そもそもチョコを貰っていたからなんなんだ。手作りだったといっても所詮はポケチョコサイズ、誰かに作った余りを俺に恵んでくれていただけじゃないのか。直接渡さず机に入れていたのは俺に勘違いされたくなかったからじゃないのか。今だってそれに気づいた俺から変なことを言われるのが嫌で逃げているに決まってる。嫌な想像ばかりが頭を巡って、きっとそれが正しいのだと疲れた体は訴えている。
「げほっ! はぁっ……くそっ、全然縮まらねえ」
だからどうした。そんなことは自分自身が誰よりわかってる。ずっとノートを貸したりしていたから、チョコをくれていたのだってきっとそのお礼だ。誰が渡したかわからないようにしていたのは変に意識されたりお返しを貰ったりするのがむしろ面倒だったからだろう。
俺が武元に好かれているとか、俺が武元と付き合うとか。想像だけはいくらでもした。告白しようと決意もした。だけどそれが現実になるなんてことはきっと誰より俺が信じていない。現にこうして逃げられてしまっている。
こんなときに告白したって上手くいくわけがない。だから追いかけるのをやめてしまえばいい。理性ではそんなこといくらでもわかっているのに、それでも武元が俺のことを好きなのかもしれないと、そんな可能性を少しでも感じてしまった。ただそれだけで自分を抑えられなくなってしまった。
ほんの僅かな可能性だけど、気持ちを伝えるきっかけを探していた俺にとっては十分な可能性だった。
肺が破裂しそうなほど苦しい。息も絶え絶えで足の張りは限界を訴え始めている。気合に任せて走るのも限界が近い。
「おい、武元! 待てって!」
叫ぶ。この距離なら聞こえているはずなのに振り返らない。悲鳴を上げる肺を無視してもう一度。
「武元、聞こえないのか!?」
「聞こえないー!」
「聞こえてるじゃないか!! 待てよ!!」
「聞こえないのー!」
「ていうかそもそもなんで逃げるんだよ!?」
「そんなんわかんない!」
「なんだよそれ!?」
こっちは必死で追いかけているのに、あいつはなんで逃げてるかもわからず逃げている。なんて理不尽なんだろうか。逃げている理由がわからないなら、なんて言えば止まるかもわからない。疲れで頭も回らない。だから頭に浮かんだ言葉を半ば反射的に叫んでいた。
「たけも……うるか! 待ってくれ!」
「ふぇっ!?」
突然名前を呼ばれた武元が驚いて立ち止まり振り返る。これを逃したらもう捕まえられない。最後の力を振り絞って加速して、まだ驚きから回復せずに呆然としている武元を捕まえた。
「ようやく捕まえ……あっ」
「わっ!?」
武元を捕まえるために力を使い果たした結果、自分の体を支えられずにバランスを崩した。捕まえた武元を巻き込まないように手放す体力すら失っていて、2人でそのまま地面へと倒れ込む。せめて怪我だけはさせないように武元の頭と背中に手を回してクッション代わりにした。
「いったぁーっ!?」
「す、すまん武元、大丈夫か!?」
「う、うん、ダイジョーブ。下芝生だし、つい声出ちったけど別にそんな痛くないし」
下が芝生で良かった。ほっとため息を付いて、武元と地面の間に挟まれていた腕を抜く。そのまま俺が武元を押し倒すような姿勢のまま、至近距離で見つめ合った。
「……な、成幸。その、お、重いっていうか」
「わ、悪い!」
その言葉でハッとして、武元の両横に手をついて体を離す。少し距離をおいて見ると今まで武元と密着していたということを余計に意識させられる。熱を持った体には冬用の厚い制服越しでも感じていた武元の体温が残っているようで。心臓がドクドクと悲鳴を上げそうな速さで鼓動を刻んでいるのは、全力疾走をしていたからというだけではなさそうだった。
「そ、そうじゃなくって、手どかして上からどいてってば!」
俺の下で武元が抗議の声を上げている。顔を真っ赤に染めているのはさっきまで走っていたからか、それともこの状況のせいか。どちらにせよこの体勢を変える気はなかった。元々武元が文句を言うだろうことはわかってこうしているのだ。
だって、もし手をどけてしまったら。
「……そしたらお前また逃げ出すだろ」
「そ、そんなこと、ナ、ナイヨ?」
「嘘下手すぎだろ……」
武元に息がかからないように顔を逸らしてため息を付いた。それから急いで乱れた息を整える。これから話し始めるというときに息が切れたままでは格好がつかない。
「……武元」
深呼吸を何度かして、少し息が整ったので武元の名前を呼ぶ。そっぽを向いていた武元は体をビクリと震わせて、ゆっくりと俺の方へ顔を向けた。
視界が武元一色で染まるほどの至近距離で武元を見つめる。汗で貼り付く乱れた前髪。長く艶めく睫毛に、涙で濡れたアメジストの眼。アーモンド型の瞳は戸惑うように揺れている。朱に染まった頬は微かに震えて、息を整えようと呼吸を繰り返す口元には僅かに濡れた赤い唇が光っていた。
改めて綺麗だと思う。この1年間で自分の彼女を見る目が変わったのか、彼女が成長したのか、あるいはその両方か。可愛らしさだけではなく美しさも感じられるようになっていて。普段はその天真爛漫な振る舞いで覆い隠されているけれど、緊張で強張った表情がむしろその端正な顔立ちを引き立たせていた。
見た目だけでも当然に。中身も含めればなおのこと。自分が武元に釣り合うところなんてどこにもないと実感する。
目の前にある、好きな相手の不安げな表情に体が固くなって、無謀なことはやめろと心のなかの弱い部分がささやいている。それでも勇気を奮い立たせて真正面から武元を見つめる。武元は俺の視線から逃げるように目を逸らしてボソリと呟いた。
「……な、成幸。あの、もう逃げないから、起き上がらせてくんない?」
「……本当か?」
「う、うん。ていうか、その、か、顔。ち、近くって……」
「……そ、そうか。悪い」
武元の言葉で冷静になって体を起こす。落ち着いて考えるとあの体勢のまま話を続けるのは内容的にも体力的にも厳しいものがあった。
武元はぎこちない動作で起き上がると、間を置くように背中の草を軽く払って、俺と向かい合うように立ち上がった。もう逃げないというのは本当のようだ。
これでもう後戻りは出来ない。覚悟を決めるために冷たい空気を深く吸い込んで、それからゆっくりと息を吐き出して気持ちを落ち着ける。興奮していた頭が少しは冷えたのを確認して口を開いた。
「……去年の春頃、勉強を教えてほしいって頼んできたよな。あれ嬉しかったんだ」
「え?」
「武元が勉強するって言ってくれたこと自体も嬉しかったけど、お前みたいな凄いやつが俺なんかのこと頼ってくれたのが嬉しくてさ。前からノートは貸してたけど、直接教えてほしいって言われるくらい頼りにされてるなんて思わなかったから、武元の力になれるなら頑張ろうって思った」
我ながら随分遠回りな告白だと思う。武元は何を言われているかわからないだろうし戸惑っているかもしれない。
「武元、中学の頃落ち込んでた水希に水泳教えてくれただろ? 落ち込んでた水希のことを元気にしてくれて、水希のことを救ってくれた。俺には出来なかったことを、俺とちゃんと話したことがあったわけでもないのに、当然みたいにやってくれた。あのときからずっと、俺はお前に憧れてたんだ」
だけど時間がかかってもいいから、武元のことを俺がどう思っているのか。それを全て伝えたいと思った。
「きゅ急に、あ、憧れてるってそんな大げさな! べ、別にあたしは水泳くらいしか取り柄ないから泳ごうって言っただけで、元気になったのはみずきんが頑張ったからだってば!」
「俺にとっては大げさなんかじゃないんだよ。あのとき水希が……水希と俺が元気づけられたのは武元が水泳が得意だからじゃなくて、才能のあるお前が誰より努力してたからなんだ。才能のある武元が俺なんかよりずっと頑張ってるんだから、俺ももっと頑張らなきゃいけないって思えたんだ」
努力しても全然結果が出なかった頃、自分よりずっと才能があるのに自分よりずっと努力している武元の姿を見て、もう少し頑張れば結果がついてくるかもと思うことが出来た。あそこで挫けなかったから俺は今こうして武元のそばにいられるのだと思う。
「武元が必死で水泳頑張ってるの知ってたからお前の助けになるならノートを貸していいって思ったし、武元に頼られたことが嬉しかった。そうやって支えになってるだけでいいって思ってた。……だけど武元が文化祭で顔も知らない上級生たちからも騒がれてたのに気づいたとき、武元は俺が思ってるよりもずっと凄いやつで、俺なんかよりずっと成長してるんだって実感して……」
武元の凄さを知っているのは自分だけじゃない。そんな当たり前のことに、あのとき初めて本当の意味で気付かされた。
「武元が遠い存在のように感じたんだ。武元はこんなに凄いやつなのに、平凡な俺なんかがそばにいていいのかって」
武元がギュッと手を握り込む。どんな気持ちでそうしているのだろうか。それを素直に聞けるような性格だったらこんなことはさせなかっただろうなと、自分の意気地のなさに呆れたくなる。
「……でも、いいとか悪いとかじゃないんだよな。花火が上がるとき、俺は武元の手を離せなかった。無意識だったかもしれないけど、武元のそばにいたいって思ったんだ」
一度目は思わず手を離してしまったけれど、二度目は離すことが出来なかった。理由なんて自分でもわからなかったけど、武元とジンクスを成立させたいと思っていたことだけは確かなはずだ。
「馬鹿な話だけど、俺なんかが武元のそばにいても迷惑になるだけだから、武元の隣はもっと相応しいやつがいるんじゃないかって想像して、想像しただけでどうしようもなく苦しくなって。そのとき、初めて自分の気持ちが憧れだけじゃないって気がついたんだ」
「……えっ?」
喉がカラカラに渇いているのは走ったせいだけではないだろう。小さく声を上げた武元から目を逸らしたくなるのを必死でこらえる。緊張で速まる心臓の鼓動を感じながら軽く深呼吸をして口を開いた。
「俺は武元の隣にいたい。目標に向かって迷わず全力で突き進んでるお前の隣にずっと並び立っていたいんだ」
一息に叫ぶと、武元は体を震わせて息を呑んだ。俺の一方的な告白に何を感じているのだろうか。今それを考える余裕はなかった。
「武元から先生に向いてるって言われて嬉しかった。自分が何をやりたいのかとか全然考えたことなかったけど、お前からやりたいことは何かって聞かれて初めて考えるようになって、教師を目指そうって夢を持てるようになれたのもお前のおかげなんだ。……すごく勝手なこと言ってると思うけど、俺はずっと武元の隣にいたい。他の誰かがお前の隣にいるなんて、想像するだけでも嫌なんだ」
自分より才能があって、自分以上に努力をしている。そんな相手にどうすれば並び立てるのだろうか。初詣の後からずっと考えていたけど答えは見つかりそうにない。
きっと武元は縛るものがなければどこまでも羽ばたいて行けるやつなんだと思う。俺が武元の隣にいたいと思うこと自体、武元にとって邪魔でしかないのだと思う。
目標に向かって迷わずに努力を続けているやつだから、きっと好きな人の一番になりたいという夢に対してもそうなのだろう。だから俺のこんな告白は邪魔にしかならないとわかってる。
「……今の俺は勉強でお前を助けることしか出来ないし、まだ全然武元に釣り合うような人間じゃないけど、立派な教師になって、いつかお前の隣に並び立てるようになるから」
それでもこの気持ちは鎮まりそうもない。武元の迷惑になるからと何度自分に言い聞かせても、この想いが消えることはなかった。
溢れるほどの才能があるのに全力で努力していた武元の眩しい姿に憧れて、それで今の自分がある。だからもし許されるのなら、胸を張って武元の隣にいられるようになるまで、武元のそばにいさせて欲しい。ずっと追いかけさせて欲しい。そんなどうしようもない身勝手な願いが、今の俺の全てだった。
「武元うるかさん。俺はあなたが好きです。俺と付き合ってください!」
まっすぐに武元を見つめて言い切る。武元に釣り合うものなんて何も無いから、せめて真剣に言っているのだという気持ちだけでも伝わるように。
武元は告白の途中からスカートの裾を握っていた。断られたとしてもこれで区切りがつけられるならそれでいい。今の中途半端な気持ちのままで武元のそばにいるのはもう終わりにしたかった。
「…………」
武元が言葉を探すように口を開けたり閉じたりしている。なんて返事をするつもりなんだろうか。心臓の鼓動の音が全力疾走したあとよりも大きくなっていて、緊張で視界も揺れている。武元からなんて返事をされても受け止めようと身構えていると、突然物理的な衝撃を受けて思わずのけぞった。
「いつかって意味わかんない! 成幸、高校入ってからずっとあたしの隣にいてくれたじゃん!」
耳元で武元の声がして、体を強く締めつけられる感触が伝わった。
武元に抱きつかれている。
混乱と衝撃で真っ白になりそうな頭で半ば反射的に言い返す。
「と、隣ってそれはそういう意味じゃなくて……」
「そんなんわかってるって! 成幸のさ、人のいいとこ見つけるのが得意なのすっごくいいことだと思うけど、でも、ダメなとこもちゃんと、見てよ。成幸はあたしの、いいとこばっか、見すぎ」
なんで武元が抱きついているのかと、疑問符ばかりが頭を埋め尽くす。そのまま放心してしまいそうになるけど、この武元の言葉を聞き逃すわけにはいかない。飛んでいきそうになる意識を必死で繋ぎ止めて武元の声に集中して、それで初めて気がついた。
武元の声がいつもと違う。途切れ途切れでくぐもった声。昂りそうな感情を抑えて、俺の告白の返事を必死で伝えようとしてくれているのだろう。追いかけ回した末の告白をここまで真剣に考えてくれているのだと思うと、胸が締め付けられた。
武元は少しずつ腕の力を緩めると、それからゆっくりと深呼吸をして、そっと体を離した。
「あたしだって、水泳やめようって思ったことあるよ。でも成幸が本気になれるものがあるの羨ましいって言ってくれたから続けようって思えたんだよ。……成幸が教師になる夢を持てたのはあたしのおかげって言ってたけど、それ言ったらあたしが水泳続けてんのだって成幸のおかげなんだかんね」
絞り出すような震える声。目からは涙を流していて、けれどその表情は喜びに染まっていた。今まで見たことのない、初めての表情だった。
「いつかって言うけどあたしはずっと成幸のこと立派だなって思ってるよ? 苦手な勉強ずっと頑張ってて、家族のために色んなこと我慢して、努力して、その上あたしみたいな勉強がゼンゼンダメなやつに丁寧に勉強教えてくれる人が立派じゃないわけ無いじゃん! ……それにさ」
流れる涙はそのままに、いたずらっぽく晴れやかな笑顔を浮かべて武元は続けた。
「成幸があたしのことよく考えてくれるのは嬉しいけど、あたしの隣に誰がいて欲しいとか、誰の隣にいたいとか。それ決めんのはあたしだかんね」
武元は当たり前のように当たり前のことを言い放つ。あまりにも当然のことで、そんなことはわかっていたつもりだったのに、自分がそれを十分理解していなかったことに気がついて思わず目を丸くした。
俺の気持ちがどうであれ、結局のところ武元に選ばれるような人にならないといけない。だから武元に見劣りしないくらい立派な人間になろうと思った。武元に隣にいていいと思われるような人間になろうと思った。武元がずっとチョコをくれていたことに気づいて、もしかしたら俺に気があるんじゃないかなんてことを感じても、今のままの俺が武元の隣にいていいなんて思えなかった。
「あたしはいつかなんて話じゃなくて、今だって成幸はあたしの隣にいてくれてると思ってるけど、成幸がそうじゃないって思うんなら、成幸が隣に並べたって思えるのをずっと一緒に待つよ。あたしが隣にいて欲しいって思うのは成幸だけだから」
そんな思い込みが、武元のはにかんだ表情と真っ直ぐな台詞に晴らされた。胸を打たれるような衝撃で、武元の笑顔がそれまで以上に眩しく感じる。高鳴る鼓動を意識しながら、まだ武元のことを好きになる余地があったことに我ながら驚いた。
言い終えた武元は俺の様子を見て安心したのか、肩の力を抜くように深く息を吐くと、それから改めて俺の方に向き直り、ゆっくりと口を開いた。
「好き。大好き。ずっとずっと成幸のことが好きだった」
俺なんかじゃ聞けるはずのなかった言葉が、間違いなく、はっきりと聞こえた。そうなればいいと何度も想像したけど、現実になるなんて思っていなかった。
好きな人から好きだと言われることがこんなに嬉しいなんて、想像すら出来なかった。
「あなたの恋人にしてください」
武元は胸の前で優しく抱きしめるように両手を重ねた。見たことがないほど幸せそうで柔らかな微笑み。目尻から零れる涙が夕日で煌めいていた。
綺麗で、可愛くて、好きで好きでたまらない。喜びと愛おしさが全身を駆け巡っていてもう耐えられそうにない。
「武元」
溢れんばかりの感情に体を突き動かされて、気づけば今度は俺が武元を抱きしめていた。武元は驚いたようにビクッと体を震わせて、それからおずおずと俺の背中に手を回して抱きしめ返してくれた。そんな仕草がどうしようもなく愛しくて、今度は意識して腕に力を入れ直した。
今の気持ちを言葉にしたいと思ったが、何を言っても十分に伝えられる気がしなかった。お互いに抱きしめる腕に力を込めて、相手の存在を確かめる。そうやって今誰よりも近くにいることを実感することがただただ幸せだった。
触れ合っている部分の熱が全身に伝わる。冬の空気の冷たさはもう感じなかった。
◆◆◆◆◆◆
「なあ、武元」
「うるか」
「え?」
「うるかって呼んで」
「い、今すぐはちょっと……」
武元の名前を呼ぶと、武元は頬を膨らませてそんなことを言い出した。いつかはそう呼ぶつもりではあるのだが、付き合い始めたからといってすぐに呼ぶのはまだ抵抗があった。
「さっきはあんなに大声で呼んでくれたのになー」
「うぐっ!? い、いやあれは武元になんとか追いつこうと思ってとっさに……」
「むー」
不満そうに喉を鳴らしながら上目遣いで見つめてくるのはほとんど反則だと思う。これくらい叶えてやれないのに恋人になった意味があるのかなんてことも考えてしまう。そもそも付き合ってから初めてされるお願いなんだから、出来る限り応えてあげるのが当然だろう。
そう決意して深呼吸を一つ。それから武元を見つめて口を開いた。
「…………う、うるか」
「……えへへ」
名前を呼ぶとうるかは心底幸せそうな笑みを浮かべた。頬が赤くなっているのは恥ずかしさもあるからだろうか。自分からせがんだのにそういう反応をするのは色々な意味でずるいと思う。時間が許すならずっと見ていたい表情だった。
うるかと抱きしめあったまま幸せに浸る。いつまでもこのままでいたいのは山々だけどそういうわけにもいかない。名残惜しいけど離れようと腕を動かすと、うるかがビクッと体を震わせた。
「うるか?」
「あ、え、えっと……な、成幸が追いかけるから汗かいちった」
「お前が逃げるからだろ」
「成幸に追いかけられなかったらこんなに走らなかったし」
「それ言うならお前が逃げ出さなかったら走らなかったよ」
教室で突然逃げ出されたときは本当に驚いた。自分がうるかに追いつけたのはある意味それ以上の驚きではあるけれど。うるかも汗をかくくらい必死で逃げていたというのならなおさらだ。だけどなんで今さらそのことを言うのだろうかと疑問に思っていると。
「……そんでさ。ちょっと汗のせいで寒くなってきたからなんだけど」
「うん」
「……もうちょっとこーしてていい?」
うるかは甘えるような声色で、俺の反応を探るようにぽつりと言った。あんまり分かりやすい言い訳だったので思わず笑みが零れた。断るとでも思っているのだろうか。いつになく弱気なうるかの姿が新鮮で、可愛いなと心のなかで呟きながらうるかを抱きしめ直した。
「もう付き合ってるんだから、そんな言い訳しなくても」
「付き合っ!? そ、そうだけどそんな急にムリに決まってんじゃん!」
「そっか。俺は寒くなくてもこうしてたいんだけど」
慌てるうるかに、寒くなかったらこうしたくないのかと言外に匂わせながら囁く。うるかは一瞬体を強張らせると、不満げに口を開いた。
「成幸のバカ。なんで簡単にそういうこと言えちゃうの」
「……今までずっと我慢してたからだよ」
うるかのことを好きだと自覚してから、何度もうるかと恋人らしいことをするのを想像していた。想像はしていても本当にすることはないと思っていたのに、今ここで現実になっている。我ながら浮かれて大胆になっていることは自覚しているけれど、幸せすぎて抑えられそうにはなかった。
「ずっとっていつから?」
「大体半年くらい」
「あたしなんて中学からずっとだし」
うるかが俺の胸に顔をうずめて訴える。バレンタインのチョコはやっぱり好きだったからくれていたものだったのだろう。俺の片思いは半年くらいだったけど、うるかの片思いは3年以上。どれだけもどかしいのか身をもって実感したのでうるかがそう言いたくなる気持ちもわかる。
「あたしの方がずっとしたかったんだかんね」
「期間はともかく、俺だってずっとしたかったんだぞ」
「ずっとっていうならもっと早くコクハクしてくれればよかったのにー」
「いやまあ……その、振られたらって思うと怖くて」
「あはは、ごめん、ジョーダン。あたしも振られたらって思うと怖くて言えなかったから。……あたしと違って成幸は勇気出して告白してくれたんだよね。ありがと」
クスッと柔らかい笑顔をしてうるかが言った。うるかと違ってなんていうけれど、俺もうるかと変わらない。うるかが勇気を出したから告白しようと思えたんだ。
「そんなことないって。俺だってうるかがずっと中学時代ずっとチョコをくれてたって気づいたから告白出来たんだ。だからうるかが直接渡してくれたおかげだよ」
「そ、そっか……。バレンタイン、毎年何やってんだろって思ってたんだけど、無駄じゃなかったんだ」
「……ああ。毎年チョコ入ってるかなって楽しみにしてたよ」
うるかが感極まったように声を震わせた。なんでポケチョコサイズだったのかはわからないけど、それほどの思いを込めて作っていてくれていたことが嬉しくて胸がいっぱいになった。
「そっか。良かった」
「毎年ありがとな」
「うん。……成幸、大好き」
「……ああ、俺も大好きだよ」
お互い示し合わせたように目を閉じて、吸い寄せられるように顔を寄せて、どちらともなく唇を重ねた。冬の冷たい空気の中、唇に伝わる熱は火傷しそうなくらい熱かった。いつまでもこうしていたいと思った。
「んっ」
多幸感で時間の感覚がなくなっていて、どれだけそうしていたかわからないけど、名残惜しさを感じながらも唇を離した。目を開けるとうるかは口元の辺りを抑えて俯いて、頬を真っ赤に染めていた。さっきまで目の前の相手とキスをしていたのだと思うと、自分の顔も熱くなっていくのを感じた。
半分夢心地のままうるかを見つめていると、うるかはそっと手を下ろし、ゆっくりと顔を上げた。
「成幸、改めてよろしくね!」
涙が滲んだ輝く瞳に朗らかな声。誰よりも愛らしい満面の笑み。太陽のように美しい姿がうるかには一番似合っている。いつまでもこの笑顔で俺に元気を分けて欲しい、なんて我がままなことを思いながら、そんな彼女がそばにいてくれる幸せを噛み締める。
俺がうるかに並べるのはいつになるかわからない。だけどせめて俺の隣でずっとこんなふうに笑っていてくれるように大切にしよう。そんなことをひとり静かに決意して、うるかの花の咲くような笑顔を見つめていた。