梅雨入りを迎えた6月。夏本番に向け高くなる気温と湿気で蒸し暑い日々が続く季節だが、今日の気温は飛び抜けて高い。衣替えして夏服になったがこの暑さの前には焼け石に水で、勉強しているだけでも汗が垂れてくる。
「あっつー……」
「言うなよ。余計に暑くなるだろ……」
今日は水曜日の放課後。俺は部活を終えた武元と合流して図書室で勉強をしていた。勉強会を始めて数週間経つが、武元は部活の後でも休むことなく図書室に来ていた。正直に言うと驚いた。勉強が好きなわけでもテストが近いわけでもないのにこれだけ努力出来るのは、たとえ赤点がショックだったとしても素直に凄いと思う。
「泳いで来た後だから余計暑いのー」
「プールに入ってた分俺よりマシだろ」
「一度涼んだ後に暑くなるのもケッコーつらいんだよぅ」
「まあそれはあるかもなあ」
そんな武元ではあったが、今日の暑さの前ではさすがにやる気が出ていない。というか俺自身も正直集中できていない。急に気温が上がったせいで冷房がまだついていないのだ。点検とかの都合らしいが、それにしてもこの暑さは殺人的でとても集中して勉強が出来るような環境ではなかった。そのせいかどちらともなく勉強の手を止めて自然と雑談を始めていた。
「にしても武元、よく勉強しに来てるよな。正直何回かやったら来なくなるかと思ってた」
「あ、ひどい成幸! あたしからお願いしたのにすぐすっぽかしたらすっごいやなやつじゃん。あたしのことなんだと思ってんのさー」
「悪い。でも武元勉強嫌いだしさ。テスト前だけとかならともかく普段からやるとは思わなかったよ。俺と違って部活もあるし、部活の後とかキツイだろ? もし来なくなってもしょうがないっていうか普通だと思うぞ」
俺と違って武元には部活がある。練習風景を見たことがあるわけではないが、公立とはいえ強豪の一ノ瀬学園水泳部は練習も楽ではないだろう。そんな部活の後に勉強に来るのは大変だろうと想像がつく。だから武元が勉強を続けられるとは正直思ってなかったし、来なくなったとしても嫌な奴なんて思うつもりもなかった。
「まあ正直キツイけどさ。でもこうやって勉強するのはそんな嫌じゃないんだよね」
勉強嫌いなはずの武元の意外な言葉に思わず面喰らい、なんと言うべきかわからず瞬きを繰り返して黙ってしまった。黙り込む俺の様子を見た武元は不満げに目を細めて言葉を続けた。
「そんなに意外?」
「いやまあ……うん。お前勉強嫌いじゃなかったか?」
「別に好きになったわけじゃないけどね。学校の授業じゃさっぱりだったところも成幸に教えてもらうと少しわかるようになって、わかるようになるとちょっとは楽しく感じたんだ。成幸って教え方上手いよね」
「そ、そうか? 人に教えるのなんて初めてだし、そんなでもないと思うぞ」
勉強が嫌ではなくなった理由があまりに意外で驚いた。適当にやっているつもりはないし武元のために分かりやすく伝えようとは思っているけれど、それでもこんなふうに真正面から褒められるのは少し面映い。
「いやほんとほんと。お世辞じゃないかんね。成幸、先生とか向いてるんじゃない?」
「先生は……。俺には無理だよ」
「そんなことないと思うけどなー。まあでも、最初の英単語は丸暗記しろ! は結構キツかったけど」
「それはしょうがないだろ。接頭語とかある程度ルールがあるのはあるけど、基本単語は暗記だよ」
「成幸ケッコースパルタだよね。まあはっきりそう言われたからこっちも気合入って良かったけどさ」
「……なんか思い出みたいに言ってるけどまだ全然だからな。ほら、ここもスペル違ってるし。今日も書き取りしとく用の単語出すからな」
「うわ、成幸やっぱスパルター!」
課題を出されると知った武元が嘆きの声を上げる。図書委員に睨まれたけど、この暑さのせいで他の生徒がいないからか一瞥して見逃してくれた。小声で武元を注意すると武元はハッと口を抑えて謝罪のポーズをした。 図書委員からそれ以上のお咎めがないことに武元はホッとしていたが、俺は話がそれてくれたことに安堵していた。
先生といわれて想像するのは親父の姿だ。どれだけ大変な職業なのかよく理解しているし、自分があれほど立派に勤め上げるイメージも湧かない。細かく話しているとどうしても重い話題になりそうなので、話が続かなかったのはありがたかった。
「……話変わるんだけどさ。いつも勉強教えてくれてるから、そろそろお礼しようと思うんだけど」
「ああ、最初に言ってたやつか。自分のためにもなってるし別に気にしなくていいんだぞ?」
「教えてもらってるんだからそーゆーわけにはいかないってば。成幸こそ気にしないで」
「まあそういうことならお言葉に甘えて」
「うん! じゃあ明日はお昼ごちそうさせてね」
武元はそう言って俺を見つめた。暑さのせいか頬が少しだけ赤く火照っていて、見つめられるとドキリとする。動揺したのを悟られないように目を伏せて「楽しみにしてる」と返事をした。昼なら学食を頼めばそれほど高くもないしいいだろう。俺の返事を聞いた武元は声を弾ませて「任せて」と答えた。何を任せればいいのか疑問に思ったが、顔を上げると満面の笑みが目に入ったのでそれ以上聞くのはやめておこうと思った。
◆◆◆◆◆◆
スピーカーからチャイムが流れ、午前中最後の授業が終了した。昨日の約束があったので武元のほうを見るとすでにこちらに歩いてきていた。行動が早くて少し驚く。待ち構えていたのだろうか。武元は俺の前で立ち止まると、一度深呼吸して口を開いた。
「な、成幸。お昼食べよ」
「ああ。じゃあ学食行くか」
「え? なんで?」
「なんでって、昼食べるんだろ?」
揃って首を傾げる武元と俺。何かが噛み合っていない気がする。ふと武元の手元を見るとちょっとした大きさの手提げ袋が目に入った。なんだろうと思って見ていると、その不思議そうな視線に気づいた武元はハッとして声を上げた。
「あ! もしかして成幸、ごちそうするってあたしが奢るって意味だと思ってた!?」
「そ、そうだけど違うのか?」
「それで学食なんて言ってたんだ……。あたしがお弁当作ってごちそうするって意味で言ったの!」
不満げな目をした武元に睨まれる。ごちそうすると言われてつい奢られることを想像してしまったが、よく考えれば手料理を振る舞うこともごちそうするというものだ。ちゃんと確認すれば良かった。
「す、すまん。勘違いした……ってお前が弁当?」
「うん。こう見えてうるかちゃんは料理得意なんだからね!」
「へー……」
「あ、信じてない」
「い、いや。信じてないってわけでは」
嘘をついているとかいう程ではないけれど普段の武元を見ているとなかなか料理が得意なイメージとは結びつかなかった。とはいえそれをそのまま言うのも憚られる。なんと言うべきか迷っていると、その間に武元は俺の対面の椅子に座り、手提げ袋から弁当箱を取り出して机に広げ始めた。弁当箱の中には色とりどりのおかずが見る目にも美しく詰め込まれている。正直言えばどんなものが出てくるのかと戦々恐々としていたのだが、そんな不安は一瞬で吹き飛ばされた。
「どう? なかなかでしょ。……ほら、食べてみて」
「あ、ああ」
驚きに目を丸くしていると、武元がおずおずと箸を差し出して食べるよう促してきた。衝撃から立ち直れないまま箸を受け取り、鮮やかな橙色をした人参のグラッセをつまんで口に運んだ。
「うっま!!」
「ほ、ほんと!?」
「ああ、超うめぇ! これお前が作ったの!?」
「へっへー、凄いっしょ! 全部あたしのお手製だかんね」
あまりの美味しさに思わず叫んでしまった。驚いて武元を見ると嬉しそうに得意げな笑みを浮かべている。誇るのも当然の腕前だ。唐揚げも卵焼きも驚くほど美味しくて食べ進む箸が止まらない。
「いやほんとうまいな。お前こんなに料理できたのか」
「疑ってたの反省した?」
「反省した。すまん、悪かった」
謝罪を求めてこちらを見つめる武元に頭を下げる。武元が作ってくれた弁当は本当にうまかった。武元にこんな意外な一面があるとは知らなかった。普段のイメージと違うというだけで疑ってしまったことは反省しないといけない。
「えへへ、分かればよし! それに料理だけじゃないかんね。毎年成幸に……」
「毎年俺に?」
「う、ううん。なんでもない!」
「なんだよ、気になるだろ」
武元がなにか言いかけたが慌ててごまかす。気になって聞き返すが武元は顔を真っ赤にして首を振りながら「ダメダメダメ!」と連呼する。その必死な様子に余計に興味を惹かれてもう一度聞いてみようと武元に迫ったところで。
「唯我の野郎……!」
少し離れたところから怨念の籠もった呟きと視線を感じた。なにかと思って振り向くと、涙を流してこちらを睨む大森の姿が目に入った。大森のそばには小林、海原、川瀬の3人がいて、微笑ましそうに、あるいはニヤニヤとした顔でこちらを見ている。
「あんたのせいで気づかれちゃったじゃん」
「もうちょっと静かにしてなよ」
「だってあんなの見せつけられたらムカつくだろ!」
「あ、私達の方は気にしなくていいから。続けて続けて」
周りに見られていた。見られていたも何も教室なのだから当然なのだが、改めて意識すると恥ずかしさで顔が熱くなってくる。武元を見ると俺と同じ様に羞恥心で顔を赤く染めていた。今までのやり取りを思い出して、もっと周りを気にするべきだったと後悔する。武元が何を隠していたのかもこれ以上聞く気にはなれず、おとなしく席について弁当を食べることにした。
俺が弁当を食べるのを再開すると、武元も自分の弁当を広げて食べ始めた。当たり前だがおかずは俺と同じだ。女子が作ったお揃いの弁当を2人で食べていると思うとなんだか恋人みたいで緊張する。自然と意識するようになってしまい、何を喋ればいいのかわからなくなる。そうして黙って弁当を食べることに集中していると武元が話しかけてきた。
「な、成幸。これからベンキョー教えて貰う日はお弁当作ってくるからお昼用意しなくていいかんね」
「え、いいのか?」
「うん。お礼だから遠慮しないで」
そう言って武元は穏やかに笑った。お礼と言われると断る理由もないので「ありがとう」と言って受け入れる。それを聞いた武元は目を輝かせて「うん」と返事をした。なんでそんなに喜んでくれるのかわからなかったけれど、こんなに美味しい弁当を作ってくれるのだから今まで以上に力を入れて勉強を教えないといけないなと思いつつ弁当の残りに舌鼓を打った。