7月も中旬に入り夏休みが目前に迫っている。高校生活初めての夏休みということもあり、ここ最近はクラスにどこか緩んだ空気が漂っていたが、この日ばかりは悲喜こもごもの悲鳴がクラスのあちこちから上がっていた。
「うげー、成績下がった……」
「俺はなんとかキープできたよ。成ちゃんは?」
「俺は上がってた。上がらなかったらどうしようかと思ってたから良かったよ」
今日は最後の期末テストである英語が返却される日だった。全ての期末テストが返却されて成績の上がった喜びの声と成績が下がった嘆きの声があちらこちらで聞こえている。
俺も特別VIP推薦を得るために前以上の成績を取らなければならないというプレッシャーに晒されていて気が気じゃなかったが、最後の教科も中間より点数が上がっていてようやく人心地がつけた。
「お、成績上がったのか! すげえな唯我」
「さすが成ちゃん。ずっと勉強してたしね」
「まああれだけやって上がってなかったらシャレにならないしなあ」
ウチの家計的に塾にはとてもじゃないが行けないので必然的に自習するしかない。自分なりに出来る範囲で勉強していたのでこれで成績が上がらなかったら勉強のやり方を見直さなければならないところだ。高校の勉強にも今のやり方でついていけそうでよかった。
「よっしゃー! 補習回避ー!」
「お、うるか今度は赤点回避したか」
「2回連続にならなくてよかったねえ」
「いやーなんとかねー。成幸に教わったおかげだけどさ」
武元たちがテスト結果を話す声が聞こえてきた。この前の中間テストのときと同じく聞き耳を立てるまでもなく聞こえてくる。武元は他のテストは前より点数が上がっていたが、今日の英語がどうなるかを一番心配していた。どうやら赤点にはならなかったようだ。勉強を教えていた責任もあり、ずっと気になっていたけどようやく安心できた。
「唯我くんに感謝しなよ」
「もちろん! さんきう成幸!!」
「うん!?」
武元たちのほうに意識を向けていたところに急に名前を呼ばれたので思わず変な声が出てしまった。武元は笑顔でこちらへ向けて手を振っている。苦笑いをしながら手を振り返すと、武元は満足そうに微笑んだ。テストの結果が良くて喜んでいるからなのだろうけど、どうにも気恥ずかしい。
「唯我お前目の前でいちゃつくなよ!」
「い、いやそんなことしてないだろ!?」
「まああれだけ熱心に勉強教えてたんだし役得でしょ」
「そりゃそうだけどよー」
「役得でもないからな!?」
大森と小林にからかわれて武元から目線を外す。きっかけがなければいつ目線を外せばいいかわからなかったので助かった。案外そのために言ってくれたのではないかという気もするが、大森を見ると明らかに本気で言っている様子だったのでそんなことはないなと思い直す。
そのまま2人と他愛もない会話を続けていると、武元たちのほうから川瀬の「やるじゃん」という声が聞こえた。武元の親友の彼女らにとっても今回の成績は予想以上だったのだろう。ちゃんと教えるのは初めてだったし武元の努力があってこそだけど、少しは役に立てたのかなと、ひとり達成感を感じていた。
◆◆◆◆◆◆
「いやーでもほんと赤点カイヒできてよかったー! 成幸様々だよね!」
「別に大したことしてないって。武元が頑張ったからだよ」
放課後、夏休み前の休養日ということで部活が休みになった武元たちと一緒に帰っていた。分かれ道で小林たちと分かれて、今は武元と2人きりだ。
「ううん、教えてもらってなかったら絶対赤点だった自信あるし!」
「なんだよその自信」
「自分のジツリョクをキャッカンテキに見た結果かなー。他の教科も平均ちょい下くらいまで上がったんだよ!? 絶対あたしだけで勉強してちゃありえないから」
武元は冗談交じりにそう言って笑う。つられて俺も笑みをこぼした。おどけてはいるけれど以前の成績から比べれば大きな進歩だ。きっと俺が思っている以上に嬉しいのだろう。
「……だからさ、成幸のおかげ。ほんとにありがとね」
快活な笑顔から柔らかな笑顔に。不意に表情を変えた武元が覗き込むように俺を見つめて、一言一言噛みしめるようにささやいた。
教室で離れた席から見られただけでも気恥ずかしかったのに、今度は目の前。声のトーンも相まって、心臓がドキリと跳ねた。顔が熱くなるのを感じて思わず顔を背ける。俺の様子を見た武元は自分も恥ずかしくなったのか、顔を前に向けると話題を変えた。
「とりあえず補習なんなくてよかった! ケッコードキドキしてたんだよね」
「そ、そんなにキツかったのか?」
「補習自体がっていうより周りがやってないのに一人だけやってるっていうのがちょっちキツくって。成幸は補習とかしたことないだろーけどさ」
「……」
「……え? あんの?」
武元に補習をしたことないだろうと言われ、さっきまでとは全然違う意味で心臓がドキリと跳ねる。武元は黙り込んだ俺を今度は驚いたような表情をして見つめた。
「あ、そっか。成幸って中学の最初の頃あんまセーセキよくなかったから」
「いや、さすがにそこまでじゃなかった」
「じゃあ何で?」
「…………体育がな」
「あー」
沈んだ声で体育がダメだったと言うと、武元は納得したような声を上げた。自分が運動オンチだということは自覚しているが、ここまであからさまに納得されてしまうのは気になるところがないわけではない。
「あれ、でも中学のころ補習で体育とかやってたっけ?」
「……いや、これから」
「え?」
「夏休み中に水泳の補習があるんだよ」
「え、そうなん!?」
夏休み中に補習があるのだと聞いた武元が驚いて叫んだ。隠していたわけではないけれど、自分から言うようなことでもないので友人にもまだ言っていない。やっぱり言うとこうやって驚かれるよなあと思いながら、乾いた笑いで返事をした。
「なんだ、成幸も補習受けるんだ」
「しょうがないだろ。泳ぐのはダメなんだよ」
「苦手なのはわかってたけどねー。でも水泳なら今度はあたしが教えてあげよっか」
「……補習の日が水泳部の練習と被ってたらな」
「ん。楽しみにしてんね!」
自分が教える立場になれることが嬉しいのか、武元は少し声を弾ませていた。補習が被っていたらとは答えたが、場所の問題もあるし水泳部の練習と補習が被るということはないだろう。それを思うと罪悪感で少し胸が痛んだが、友人とはいえ女子に水泳を教わるというのは色々な意味で緊張してしまいそうなので、その胸の痛みは積極的に無視することにした。
「そーいえば補習じゃなくって勉強なんだけどさ。夏休み、成幸スマホ持ってないから連絡できないね」
「勉強会のことか?」
「うん。ガッコー来るわけじゃないから今までみたいに放課後でとか出来ないし、部活も大会前後でスケジュール全然変わっちゃうし。まあ、もちろん成幸がやってくれればなんだけどさ」
武元は連絡の取りようがないことに悩んでいたが、俺は武元が夏休み中も勉強会を続ける気だということに面を食らっていた。ここまでやる気があったとはさすがに思わなかった。よほど補習が堪えたのだろうか。
「……まあ連絡出来ないことはないだろ。武元の番号教えてくれれば電話できるし、武元がウチの電話にかけてもいいし」
「友達の家の電話にかけるのってなんかキンチョーしない? 相手の親が出たらどうしようとか」
「昔は携帯なんてなかったんだからみんなそうだったんだぞ」
「うわ、あたしたちの親の世代が言いそうなセリフじゃん。同級生から聞くとは思わなかった」
「悪かったな!」
武元の憎まれ口に言い返すと武元はクスクスと笑った。からかうような表情から笑顔へ。ころころと変わる表情は見ていて楽しくて、しばらく見ていると武元はまた表情を変えた。
「でさ、そう言ってくれるってことは夏休みの間も教えてくれる気があるんだよね」
「……まあ俺の復習にもなるしな」
「そっか。あたしもまた補習になったら困るし、課題も結構多かったし」
武元はそこで言葉を区切ると、一呼吸置いて口を開いた。
「成幸が大丈夫ならお願いしようかな」
軽い気持ちで言っているかのようなセリフとは裏腹に、武元は緊張した面持ちで俺の返事を待っていた。今さら断られるわけもないのに何をそんなに緊張しているのだろうか。武元の気持ちがわからなくて、それがなぜだか寂しく感じた。
ともあれ俺の答えは決まっている。「お前が嫌じゃなければやろうか」と返事をして。武元は今日一番の笑顔でそれに応えた。