夏休みが明けて二学期が始まり少し経った9月。まだまだ残暑の厳しい中、俺は図書室で2学期初めての勉強会をするため、勉強をしながら武元が部活を終えるのを待っていた。夏休みの間も勉強会自体は図書館などで続けていたが学校でやると気分が違う。国体が終わるまでは武元に水泳に集中してもらうために中断していたけれど、今日から再開する予定だ。2学期の授業にもついていけるようにしっかりと武元に勉強を教えようと気合を入れて準備していると、急いできたのか息を切らせた武元がやってきた。
「はぁ、はぁ……ごめん成幸! 遅くなっちった!」
「武元、部活お疲れ様。そんな待ってないぞ。国体終わって部活も大変なんだろ?」
「まあこないだ終わったばっかだかんね。それに出てた三年の先輩たちが引退して、本格的に再始動みたいな感じになったから多少はね」
「まあそうだよな……なあ、国体終わるまで勉強会やってなかったけど、部活大変なら落ち着くまでもうちょっと中断しててもいいんだぞ? テストだってまだ先だしさ」
今日から勉強会を始めるつもりでいたけれど、武元の負担になってしまっては元も子もない。大変そうな武元の様子を見るととても勉強をしようとは言えなくて気遣うつもりでそう言ったのだが、それを聞いた武元はみるみる顔を曇らせて沈んだ声で返事をした。
「……も、もしかしてこうやってあたしに教えるの、成幸ケッコー面倒だったりする?」
「ち、違うって! 俺はいいけどお前が大変じゃないかと思ったんだよ。変なこと言って悪い」
「そ、そっか」
喜ばれると思って言ったことだったのに、反対に落ち込まれてしまったので慌てて否定する。落ち込んでいた武元がホッと安心した様子になるのを見て、俺も内心で汗を拭った。今更武元が勉強をやるのを嫌だとか思っているわけではないが、それでも勉強会を延期しようかというのを遠回しな拒否と思われるとは思わなかった。それくらい武元の中でやって当然なものになっているのは嬉しいけれど。
「あたしなら大丈夫! っていうか頼んでるのあたしだしね。ルーティンみたいな感じになってるからやんないとむしろ落ち着かないっていうか」
武元は笑顔になってそう言った。そう言われてしまえば俺としても断る理由はない。
「わかった。じゃあビシバシ教えるからな!」
「うん! ……あ、でもほどほどでいいかんね? あんまし厳しくされるのはちょっと……」
「さっきと言ってること違うじゃないか?」
「き、厳しくしてほしいとは言ってないしー」
武元の気合に応えて気合を入れて教えてやると言うと、なぜか武元は目をそらしてそんなに厳しくしなくていいと言い出した。確かに厳しくしてほしいとは言っていないがさっきまでの気合はどこへ行ったのか。不思議に思うがあんまり口を出してやる気を削いでしまっては元も子もないのでスルーした。
「あ、そうだ。始める前に」
「え、何?」
危ない。勉強を始める前に言わなければいけないことがあった。武元は何のことかと不思議そうに首を傾げているが構わず口を開いた。
「武元、国体優勝おめでとう」
「え? あ、ありがと。でもなんでまた? 優勝した日にも電話で言ってもらってなかったっけ?」
「まだ直接言えてなかったし、今日表彰されてたから改めてと思ってさ。武元みんなに囲まれてて言えなかったから」
「それで……ありがと成幸! あはは、改まって言われるとなんか照れんね」
武元はそう言って照れくさそうに頭をかいた。高校1年から3年まで日本全国の学生が参加する大会で、高校1年にして頂点に立ったにしては控えめな喜び方だと思うが、それも武元のいいところなのだろう。改めてちゃんと祝福できてよかったと思う。部活でこれだけ頑張っているやつだから、勉強がその足を引っ張ることがないように。全力でサポートしようと改めて決意した。
◆◆◆◆◆◆
「疲れたー……。ちょっとキューケーしない?」
「そうだな。一区切りついたし」
お互いに集中が切れ始めたところで休憩を取ることにした。テストが近いわけでもないし最初から根を詰めても仕方がない。勉強で凝った体を伸びをしてほぐしていると、武元が思い出したように話を振ってきた。
「そーいえば今日進路希望調査書かされたけど、成幸はなんて書いたん?」
「俺? 俺はVIP推薦志望ですってのとそれで行ける大学を書いたよ」
「あーそっか。VIP推薦って決まったとこにしか行けないんだっけ」
「そりゃそうだろ。学費免除するの大学側なんだから。武元はどこにしたんだ?」
「いくつか声かけてもらったんだけど、とりあえず第一希望は音羽にした。まだちゃんと他のとことか調べたわけじゃないから決定ってわけじゃないけど」
「ああ、武元は水泳で推薦狙いだったな……」
そういえばそうだった。国体で一位を取るような選手なのだから大学から声がかかって当然だ。武元はどこに行こうか選べる立場で、俺のように推薦を取ろうと必死になる必要はないのだ。
「お前みたいに凄い才能があるやつは正直羨ましいよ」
思わず口をついて出た言葉にハッとする。なんてことを言ってしまったのかと、胃の奥のほうが重くなるような嫌な気分が広がっていく。
気まずく思いながらも武元を見ると、目をパチクリとさせていた。怒っているようには見えなかったが、嫌な気持ちにさせてしまったと思うと、速く謝らなければいけないと後悔が募った。
「あ、わ、悪い! 武元がめちゃくちゃ努力してるのはちゃんとわかってるし、才能だけでとか思ってるわけじゃなくって……!」
「いや、そんな焦んなくっても。別に気にしないっていうか成幸が変なつもりで言ったわけじゃないってわかってるってば」
そう言って武元は呆れたようにクスクスと笑った。不快に思っているようにも気にしているようにも見えなかったが、それでも気を悪くさせてしまいかねない事を言ってしまったのは反省しないといけないと思う。
「そんな落ち込まないでほしいんだけど……。そうじゃなくってさ。成幸だってちゃんと才能あるのになって思ったの」
落ち込んでいる俺の様子を見た武元は戸惑うような仕草を見せた。気遣っているわけでもなさそうなので本当に気にしていないのだろう。だから後半の俺に才能があるという言葉のほうが気にかかった。
「俺に才能?」
「うん。成幸って人のいいとこ見つけるのは得意だけど、自分のいいとこ見つけるのは苦手だよね」
「いや、だって俺に才能なんて……」
自分が特別な人間ではないことなんて誰より自分がよくわかっている。武元は気をつかって言ってくれているのかもしれないが、才能があるなんて言われても困惑のほうが先立ってしまう。そんな俺を見ながらも武元は意に介さずに言葉を続けた。
「あたしは成幸のおかげで成績上がったんだから教える才能あるって! 前も言ったけどセンセーとか向いてると思うし、なったら絶対生徒に人気になるんじゃない?」
想像もしていない方向からの言葉で思わずフリーズしてしまった。武元から先生が向いていると言われたのはこれで2度目だ。武元がそう言ってくれることが嬉しくないと言えば嘘になるけど、それでも単に自分は武元の頼みに応えてがむしゃらにやっているだけだから、きっともっとうまく教えられる人がいるはずだと思う。
「成績が上がってるのはお前が頑張ったからだよ。自分なりに分かりやすく教えようとはしてるけど、それだって手探りでやってるだけだし、別に大したことしてないって」
「そんなことないって! あたしもこないだ成幸に水泳教えようとしたけど全然ダメだったじゃん。人に分かりやすく教えるのって結構ムズカシイよ。それができる成幸はやっぱ才能あると思う」
「……確かに武元に言われたのは全然わからなかったけど、だからって別に俺が教えるのが上手いわけじゃないよ」
俺が上手いというより武元が下手なだけじゃないかとはさすがに言えなかった。武元は納得がいかなそうに首を傾げていたが、そのうちに思いついたように話を続けた。
「そうかな? あ、それにさ。ずっと努力し続けられるってのも才能じゃない? 成幸って中一の頃からずっと勉強頑張ってたじゃん」
「それはお前のおかげだよ」
「あたし?」
武元が身に覚えがないというように不思議そうな顔をする。自分のことだと逆にわからないのかもしれない。説明をしようと口を開いて、自分の言おうとしていることはなかなか恥ずかしいことなのではないかということに気がついた。
家庭の問題で潰れそうなときにお前のおかげで救われた、なんて、いくらなんでもそのまま伝えるには重すぎる。とはいえ今更言わないというのもそれはそれで恥ずかしい。細かいところは抜きにして、なんでもないことのように言ってしまおう。
「えーっと……まあ細かいとこは省くけど、中学の頃武元が水泳の練習頑張ってるところ見て、俺も勉強頑張ろうって思ったことがあったんだよ。だから武元のおかげ」
「……それ言ったらあたしもなんだけどなあ」
武元は自分も同じだと苦笑する。武元も誰かに影響を受けたのかと変なところで感心してしまった。どんなやつが武元をポジティブにさせたのかと気になったが、詮索するのは野暮だろうと聞くのはやめて武元が話し出すのを待った。
「まあでも、あたしの場合は自分で言うのもだけど才能ある方だと思うからさ。結果が出なくて嫌になったこともあったけど、でもそのうちすぐに結果もついてくるようになったし」
過去を振り返るように遠い目をして、けれどなぜか俺のことを見ながら武元は言葉を紡いだ。
「自分が元々できるし好きなことを、結果が出るから頑張るのと、元々できないし好きでもないことを、なかなか結果が出なくても頑張れるのは全然違うと思う。だから成幸は努力する才能あるよ」
屈託のない笑顔で武元はそう言った。武元のセリフに完全に同意できるわけではなかったけれど、少なくとも武元はそう信じているのだということが伝わってくる。それを否定する気にはなれなかった。
「お前だって苦手な勉強頑張ってるじゃないか」
話を逸らすように頑張っているのは武元も同じだと言うと、武元は頬に指を当てて考え込むような仕草をした。何を言おうとしているのか、しばらく様子を伺っていると、やがてゆっくりと口を開いた。
「……それも好きだからかな」
「え? 勉強好きになったのか?」
「そーゆーわけじゃないけど」
「どういうわけなんだよ?」
「えへへ」
勉強が好きじゃないならどういうわけなのか、聞いてみたけれど笑ってごまかされてしまった。聞き返そうかとも思ったが、武元があまりに無邪気な様子で笑うので毒気が抜かれてしまった。
そのままなんとなしに武元のことを眺めていると、見られていることをどう解釈したのか、武元は少し焦ったような様子を見せて話題を変えた。
「まあ、あたしのことは置いといてさ。才能のあるなしは別にして成幸は将来何したいん?」
「将来か……なんか前も言った気がするけど、家族を楽にしたいかな」
「んー」
武元は困ったような顔をしている。何も隠していないのに何かを見透かされたようで、胸がドキリと跳ねた。
「そーじゃなくて。成幸は何したいんかなって。将来の夢っていうか」
誰かのためにではなく、自分は何をしたいのか。改めて問われると考えたことがなくて言葉に詰まる。いつも目の前のことで精一杯で、学生じゃなくなった先のことなんて意識したことはなかった。
「……考えたことなかった」
「そっかー。まーまだまだ先だしね」
何をしたいかと問われて一瞬だけ、先生になった自分の姿が浮かんだ。きっと武元から言われたせいだと思う。そんなあやふやなことを口に出せるはずもなく、単に考えたことがないとだけ答えたが、武元はそれを気にしている様子はなかった。きっと武元にとっては何気なくした質問だったのだと思うが、俺の心には棘が刺さったようなズキリとした感触を伴うものだった。
「武元は何か夢あるのか? って水泳が得意なんだしそれだよな」
動揺を引きずって武元に気を使わせてしまわないように、努めて軽い口調で声をかける。武元も同じ様に軽い口調で返事をした。
「それもあるんだけどねー。夢っていうとまた別かな」
「……そうなのか? 水泳凄い頑張ってるし、オリンピックで金メダル取るとかだと思ってた」
「金メダルは取れたらいいなって思うけど、どっちかっていうと夢っていうより目標かなあ」
「それはどう違うんだ?」
オリンピックのメダルは夢じゃなくて目標。なんとなくアスリートっぽいセリフでカッコいいなと思うが、具体的にどう違うのか気になった。
「叶ったらいいなあっていうのが夢で、叶えるぞーっていうのが目標」
「なるほど?」
「頑張り方が分かってるかどうかみたいな感じ? まああたしの中でだけどね」
腑に落ちるような落ちないような。疑問形で話している辺り、武元の中でも明確に分かれているわけではないのかもしれない。勉強を教えているときも武元は感覚派だから、きっとこれも感覚に依る部分が大きくてきちんと言葉にできるわけではないのだろう。
「なんとなくわかるような……。ちなみに目標はなにかわかったけど、夢はなんなんだ?」
「んーとね……。ちょ、ちょっと恥ずかしいんだけど」
顔を赤くして武元が慌てる。言おうかどうか迷っているようだ。無理をしなくてもいいと言おうかと思ったが、武元の様子を見ているうちにどんな夢なのか聞いてみたいという気持ちが強くなってきたので、静かにしたまま武元が結論を出すのを待つことにした。
「その、笑わないで欲しいんだけど……あたし、昔お姫様に憧れてたんだ。ヒラヒラした綺麗な服とか着て、可愛い女の子になりたいなーって」
「へー。そうだったのか」
おずおずと口を開いた武元の夢は、女の子ならそれほど珍しい夢ではなかった。そこまで恥ずかしがるようなことではないと思うので少し拍子抜けしてしまった。
「笑わない?」
「小さい頃の夢笑うほど性格悪くないぞ。というか笑うようなもんでもないし」
「んふふ。そっか」
武元は満足したように穏やかな微笑みをする。最初の恥ずかしげな様子は微塵もなくなっていて、それを見ているとなんとなく安心させられた。
「じゃあ今もお姫様になるのが夢なのか?」
「まあさすがに今もお姫様ってことないけど」
「じゃあなんなんだよ?」
「んー……秘密」
「なんだよそれ」
ここまで引っ張って秘密と言われると流石に肩透かしをされたように感じてしまう。ジトッとした目で武元を睨むと、武元はいたずらが成功した子供のようにクスクスと笑った。
「……あ、じゃあさ」
「うん?」
「今度文化祭あるじゃん。成幸って予定決まってる?」
「予定? 決まってないけど、まあクラスのに出るとき以外は小林とか大森とかと回るんじゃないか。多分」
「そ、そっか。じ、実はあたしも決まってないんだよね。海っちも川っちも予定あるみたいでさ」
そこまで言うと武元は大きく深呼吸をして、けれど勢い任せではなく噛みしめるようにゆっくりと。
「だから、あたしと一緒に文化祭回ってくれたら教えたげる」
頬を赤くしながら笑顔でそう言った。非の打ち所がない笑みなのにどこか控えめな印象が感じられて、なぜだか目が離せない。元々断る理由なんてなかったけれど、それでも断るかどうかなんて考える間もなく、半ば無意識に「わかった」と返事をしていた。
放課後2人で帰ることは何度もあった。夏休みの間、勉強の前後に2人で遊ぶことも何度かあった。だから文化祭を2人で見て回るというだけで心臓が早鐘を打っているのはなぜなのか、自分でもよくわからなかった。