【完結】ハンターハンター世界で転生者が探偵()をする話   作:虫野律

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9話~13話まで連続投稿です。


いかあおいあお! いかあおいあお! [肆]

 コールタールのような微睡(まどろ)みの中、クリストファーがダブルベッドで寝返りを打つ。

 しかしもう寝付けない。仕方なく起きることにする。

 

 余分なスペースが目につく。

 

「……」

 

 ダブルベッドはもう必要ない。1人で使うには広すぎる。ただ邪魔なだけだ。分かっている。

 

 特に意味はないが、彼女がよくつけていた香水を見る。

 あの日の彼女も、天使の名が与えられたこの香りを纏っていた。

 彼女曰く、やや紫寄りのピンク色がかわいいから買ったのだそうだ。「香りはいいのか」と訊くと「それはおまけ」と返ってきたのを憶えている。今でも理解はできない。

 

 今では願っても叶わない。

 

 香水が置かれた、埃の積もった化粧台(ドレッサー)に近づく。

 

「……使ってみるか」

 

 小瓶を手に取り吹き掛けようとして──手が止まる。

 例の予感(・・・・)がしたわけではない。掛け方を知らないのだ。香水など使ったことがないため、作法も何もあったものではない。

 

「はは」

 

 くだらないことを気にする自分が可笑しくて可笑しくて──哀しくて。

 

 拘らず見様見真似で手首に噴射する。直後、それが脳髄を蹂躙した。

 

──ぁぁぁぃたいたすけドウしテくリスにくいにくニクニニクたニけてにくい憎い!!!

 

「! オータm」クリストファーの意識はかき消された。

 

 

 

▼▼▼

 

 

 

 ビニール床タイルが敷き詰められた長い通路を進む。先頭にチードル、次にサンビカ、そして殿に俺だ。

 かなり広いスペースが地下に造られていたようだ。神殿は地下への入り口にすぎなかったわけね。手が込んでるわ。

 

 前2人の傷が視界に入る。

 

 チードルはそれほどではないが、サンビカはかなり酷い。ジャケットでカバーしきれずに露出させられた肌は、健康的な人間の色からかけ離れている。ただ只管(ひたすら)に痛々しい。

 

「……」

 

 イザベラが無事な確率はどのくらいあるだろうか。

 サンビカを見ていると、感染の有無は抜きにしてもイザベラが人間扱いされているとは思えない。

 もっと形振(なりふ)り構わず行動すべきだったか?

 ……いや、それで警戒されたら本末転倒だ。これが最善。そう思っておく。

 

「あ(の)……」

 

「ん?」

 

「そんなに見られると恥ずかしいで(す)……」

 

「あ、はい。すみません」

 

 怒られてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 通路の先にあったのは両開きのスチール扉だった。鉄の冷たさがやけに鼻に付く。

 

「鍵が掛かってるわね」チードルがドアを確かめて言った。「どうする? 壊していいならやるわよ?」

 

 ゾバエ病の感染条件が体液の摂取である点、チードルの発により対策ができている点から大胆になっているのだろう。

 

「待て。円で探ってからにしよう。2人の円の範囲は?」

 

「私は半径100メートルくらいね」

 

 まずチードルが、次いでサンビカが答える。

 

「今の状態でも150メートル以上はいけると思いま(す)」

 

 え!? すご。俺は準備万端で無理しても半径35メートルが関の山だというのに……。

 

「……サンビカ、頼めるか?」

 

「分かりまし(た)」

 

 サンビカのオーラが辺りを包み込むも、すぐに顔を曇らせる。

 

「全てを覆うことはできませんでしたが、感知範囲内にクリストファーさんはいませ(ん)。けれど大勢のゾバエ病患者らしき方々が囚われていま(す)」

 

 不確定要素は多い。が、ここまで来たら進むべきだろう。

 

「……ありがと」

 

 サンビカに礼を言い、チードルへ顔を向ける。

 

「やってくれ」

 

「了解」 

 

 引き絞った拳にオーラが集められ、そして放たれた。

 耳をつんざく破壊音。流石の強化率だ。 

 

 キィィ……。ドアが開く。

 

 

 

 

 

 

 

「これは……」

 

 想像以上だ。ある程度は予想していたつもりだったが、目の前の光景はそれを上回っていた。

 

 一言で表すならば“地獄”だろうか。これがクリストファーが理想とした世界……。

 

 スチール扉の先にはかなり広い空間があった。天井も高く、スペース的な観点で言えば学校の体育館の並列バージョンとか巨大な倉庫という感じだ。

 ただしそれらと大きく違うのは無数の檻──害獣が入れられるような立方体の檻を大きくしたもの──が並んでいることだ。

 

「酷いわね」

 

 チードルが険しい表情で言う。

 檻の中にはゾバエ病患者らしき黒い人間が、ぎゅうぎゅうに詰め込まれている。彼ら彼女らは確かに健常者とは一線を画す存在に見える。しかし人間であることに変わりはないはずだ。

 

「うぅ゛ぅ゛」

 

「ぁぁあ」

 

「──っ?」

 

 身動きがほとんど取れない状態で声を漏らしている。苦しんでいるのだろうか。

 

 まずはチードルに確認する。

 

「これがゾバエ病なのか?」

 

 実際に見るのは初めてだからな。

 

「だと思う。少なくとも私が知るゾバエ病の特徴と一致しているわ」

 

 サンビカも頷いている。

 この中からイザベラや結界の能力者を探すのは骨が折れそうだ。数が多すぎて、しらみ潰しだと効率が悪いよな。

 というわけでちょっと裏技を使う。嘘発見器(笑)発動。そして念じる。

 

──この場で「私が結界の能力者です」と宣言しない者は「私は結界の能力者ではありません」と宣言したものとみなす。

 

──嘘つきかも(・・)! 嘘つきかも(・・)

 

──嘘つきかも(・・)! 嘘つきかも(・・)

 

 嘘発見器(笑)の声が複数聞こえ、怪しい人物の頭上に俺にしか見えない矢印が出現する。

 

 このやり方では断定的な情報は得られない。「嘘つきかもしれない人物」が分かるだけだ。しかも矢印(怪しい人物)は最低でも20は出る。つまり通常の犯罪捜査では役に立たないということだ。

 しかし今回のようなケースではメリットがある。これだけ容疑者が多いと100以下に絞れるだけで十分ありがたい。

 後は対象者を凝で観察し、オーラの流れから発を使用中か否かを見極めていく。オーラを観察しても分からないこともあるが、今はこうするしかない。

 

 それはそれとして気になることが。

 

「それにしてもなぜ念に覚醒した後に感染させるんだろ?」

 

 感染後に操作して念に覚醒させた方が早くないか? 常に纏状態に操作するのが困難だから無意識で纏が可能な人間でないといけない、とか? それとも単純に制約? 念に覚醒していることが感染の条件だったり?  

 

 何か見落としていたらまずいし、不確定要素はなるべく消しておきたい。だから訊いてみたのだが、正直、明快な答えが返ってくるとは思っていなかった。だって暗黒大陸関係のことなんてほとんど分からないだろうし。

 だが──。

 

「あー、それはね、一定レベル以上の念能力者以外が感染すると基本的には死んじゃうからよ」

 

 チードルがサラっととんでもないこと言いやがった。

 

「ゾバエ病に感染すると精孔が完全に開いた状態になる。でも感染した時点で正常な思考能力はなくなってるから、呼吸と同じ感覚で纏ができる人しか生き残れないの」

 

「マジか」

 

「マジよ。というか本当に知らなかったのね」

 

「そりゃあ一般人だし」

 

「センスのない冗談ね」 

 

「……」

 

「じゃあ、ゾバエ病患者の凶暴性ランクが『C-1』と『A-2』の併記になってる理由も知らないわよね?」

 

「ああ」

 

 今度はなんだってんだ。

 

「まず前提だけど、ゾバエ病に感染すると潜在オーラと所謂メモリが増加すると考えられているわ。特にオーラ量については限りなく無限に近くなるみたいよ」

 

 えぇ……。

 

「それで凶暴性についてだけど、基本的にはそう大したことないわ」

 

 ゾバエ病患者を見る。

 

「ぁーー」「ぅーー」

 

 確かに暴れたりはしなそうな雰囲気だ。

 

「でも、彼らが自分に向けられた殺意や敵意を認識した途端、増加したオーラとメモリにより強化された発を、その殺意等がなくなり一定時間が経過するまで半永久的に乱射するわ。勿論、暴れながらね。発が攻撃性の高いものだったら地獄。強化系でも地獄。操作系でもその他でも地獄。……この防衛能力の高さもゾバエ病が不死と呼ばれる理由の1つよ」

 

 顔がひきつる。

 

「あー、ちょっと思ったんだけど、結界の能力者のオーラが乱れたり、意識がなくなるような攻撃や干渉をしたら完全にアウトだったりする?」

 

「当たり前でしょ?」

 

 思わず天を仰ぐ。

 チードルが呆れた顔を向け、ため息。

 

「結界の術者を叩くって言うから何か考えがあるのかと思ってたけど、まさか根本的に誤解があったなんて想定外よ」

 

「すまん」

 

 俺の計画では、最悪でもサンビカかチードルのうち、どちらかを里外に出し、ハンター協会に連絡を取ってもらうつもりだった。

 しかし結界を解除できないとなると計画は破綻する。

 

 ……クリストファーを倒すしかないのか。

 

 結界を解除するとすぐに気づかれるだろうから元々戦う予定ではあったが、援軍が期待できない状態ではな。

 ただまぁ、選択肢はない。

 

 決意を固めた時、サンビカが弾かれたように入口へ顔を向けた。

 

「!」

 

 その意味を俺とチードルもすぐに察する。クリストファーが来たのだ。

 

 顔を見合わせる。

 

──堅。

 

「……」

 

 静寂に、黒い人間の言葉にならない何かだけが──。

 

 

 

 

 

 

 

 リラックスした様子でクリストファーは現れた。黒い人間を2人連れている。

 つーか、左の黒い少女ってイザベラじゃねぇか。あー、やっぱそうだよな。くっそ。

 

「こんばんは」クリストファーが穏やかに言った。「理想の世界へようこそ」

 

「……理想ね。あえて否定はしないが、その少女は返してくれないか?」

 

「返す? 勘違いをしていますね。彼女は自らの意志でここにいるんですよ」

 

 なんとなくそうかも、とは思ってたけどよ。

 今度はチードルが口を開く。

 

「正常な判断力があったようには見えないわね」鋭く睨みつける。「いずれにしろあなたは拘束させてもらうから、解釈の違いはどうでもいいけれど」

 

 クリストファーが肩を竦める。

 

「あなた方に改心するつもりはないようですね」

 

 突然の圧。クリストファーが錬をしたんだ。

 サンビカが固唾を呑む。しかし堅に乱れはない。それは俺もチードルも同じだ。

 

「おいで、V4(ブイフォー)ちゃん」

 

 サンビカが念獣を具現化。ほぼ同時にクリストファーの右に控える黒い男が鏡を出現させる。

 

 流れ弾が患者に当たるといけない。デザートイーグルはやめておこう。

 左のレッグホルスターからいつぞやの短剣を取り出す。相変わらずえげつないオーラだ。

 

 さぁ、やろうか。やりたくはないけどな。

 

 

 

▼▼▼

 

 

 

 サンビカの能力『感染する愛玩(エゴ インフェクション)』は自らの体内に侵入したウィルスを基に念獣を具現化するものだ。その念獣のステータスと固有能力はウィルスの種類によってサンビカの意思に関係なく自動で決定される。

 当然、制約と誓約も幾つかある。

 代表的なものは、サンビカに対象のウィルスの知識があるか否かによって、ウィルスの無害化の成否と念獣の従順度が決まるというものだ。

 そして、一度無害化(テイム)に成功したウィルス及びその念獣は6種類までストックでき、ストックしている限りそのウィルスに害されることはなくなる。

 

 今回、サンビカが具現化したV4は、以前流星街で小規模な流行が起きた性感染症をベースとした念獣だ。V“4”と言っても4番目に強いということではない。4番目のケージにストックしているイメージのvirus(ウィルス)であるという、ただそれだけのことである。強さ等の序列とは完全に無関係だ。

 

 ゾバエ病患者が見守る、異様な雰囲気の中、V4がその赤い肢体を晒す。

 V4の外見は、簡単に言うと全身の皮膚が剥がれた裸の女性である。サンビカはかわいいと思ってる。

 

V4(ブイフォー)ちゃん、お願いしま(す)」

 

「ぁ、ぁ、ぁ、ぁ……」

 

 意味のある単語は話せない。が、意思疎通はできている。「任せてくださいまし」と言っている。サンビカには分かるのだ。

 

 V4(ブイフォー)ちゃんの固有能力ならばいけるは(ず)。

 

 前回は負けてしまったけれど、サンビカもバカではない。初見でないなら策くらいは考える。

 そもそも今回は1人で戦った前回とは難易度が違う。いける、と思いたい。

 

 黒い男性の具現化した鏡が、V4へと変化していく。彼はコピー系能力者だ。

 

「行きま(す)!」

 

 V4が赤黒い体液を撒き散らしながら、コピー体へと急接近。一般的なプロハンターでは対応困難な蹴撃(しゅうげき)を仕掛けるが、やはりコピー体、当然のようにいなされる。

 一方、サンビカへは黒い男性が襲い掛かる。一撃、二撃と次々放たれるそれを確実にかわしていく。

 

 やっぱりこの方の体術レベルは高くな(い)。

 

 いや、むしろ低い。もっと言えば単調、まるで一昔前のビデオゲームのAIのようだ。

 

 おそらくクリストファーさんの操作能力の限界が理由でしょ(う)。複数を操作する能力にはありがちで(す)。

 

 問題なく回避できる。やろうと思えば手痛い一撃を加えることも容易い。しかしそれをするわけにはいかない。医者としての信念が、ある種の制約と誓約となってサンビカを縛りつけているのだ。

 けど、それは自ら望んだもの。

 

 この方もいずれ私が治してみせ(る)。

 

 サンビカにとって病人は倒すべき存在ではなく、治すべき患者だ。それは操作されていようとそうでなかろうと変わらない。

 だから攻撃はできない。傷つけられない。

 

 V4から意識は外していない。当たり前ではあるが、彼女らは真の意味で拮抗しているようだ。

 チードルとエヴァンへ感覚を伸ばす。あちらも2対2、チードル&エヴァンVSクリストファー&黒い少女(?)の構図になっている。どちらかに戦局が大きく傾くところまではまだ行っていないみたいだ。

 

 距離は……大丈夫そ(う)。

 

 位置取りは完璧。やるなら今だ。

 

V4(ブイフォー)!」

 

 呼び捨てが固有能力発動の合図。

 

「ぁぅ……!」

 

──『血の雨に眠れ(ブラディ ララバイ)』!

 

 V4の固有能力が実行に移された瞬間、彼女の身体が爆発。血肉が飛び散り、瞬く間に温い鉄の芳醇な香りが充満する。いい匂いだ。

 至近距離で爆発をぶつけられたコピー体は、当然、肉体をバラバラに吹き飛ばされる。もはや動くことはできないだろう。

 

「!? ……」

 

 そして、その効果はすぐに現れた。黒い男性が、ふらり、と倒れたのだ。

 

 よかった。上手くいっ(た)。

 

血の雨に眠れ(ブラディ ララバイ)』は、爆発したV4の血肉──一定以上の量が必要──を浴びた者を眠らせる能力だ。一度発動するとV4は消え、24時間以上経過しないと再度具現化することはできなくなるが、この上なく初見殺しの具現化系らしい能力と言える。

 

 そして、これは純粋な操作系能力ではない。1日23時間以上の睡眠状態を強制する、V4のベースとなったウィルスが大量に含まれた血液、人肉をぶつけることによる、通常通りの症状としての睡眠作用だ。ただ、具現化したウィルスではあるため、V4消滅後数時間程度で対象の体内からも消えることとなる。

 

 一方、難儀すぎる制約もある。眠らせることができる生物は、V4が性交をしたいと思える相手、要は好みの異性に限定されるらしいのだ。サンビカが見たところ、クリストファーはV4のストライクゾーンから外れているから、彼には多分効果がないだろう。

 しかし黒い男性はV4のお眼鏡にかなうと思われた。だから眠らせることができるはず。サンビカはそう予想した。そしてそれは現実のものとなった……のだが。

 

「そん(な)……!」

 

 想定外の光景がサンビカの目に飛び込んできた。黒い男性が、パリン、と砕けたのだ。それはコピー体も同様である。まるで鏡が割れるときのようなそれは、黒い男性がコピー体であることを如実に物語っていた。

 

「!」

 

 サンビカがおよそ60メートル先の檻の中から不審なオーラの動きを察知した。

 

 本体は初めか(ら)……!

 

 また鏡が現れ、今度はサンビカが鏡に映る。

 

 しまっ……。

 

 すぐに跳ぶが一歩分遅い。鏡がサンビカへと一瞬で変化し、かわされてしまう。

 変化しきる前に叩き割ろうとしたが、能わなかった。嫌な汗が伝う。

 

「……」

 

 斯くしてサンビカ2人が相対するという事態が発生してしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 コピー系の能力者との戦いではしばしばあることらしいが、実際に体験するとその厄介さがよく分かる。

 

 まさに千日手(て)。これではいずれオーラが枯渇してしま(う)。

 

 サンビカはそれほど潜在オーラが多いほうではない。しかも今は拷問から回復しきってもいない。ゾバエ病患者の無尽蔵のスタミナを考えると絶望してしまう。底無しの絶望とはよく言ったものだ。痛感する。

 

 実を言うと勝つ手段がなくはない。しかしそれはサンビカにとってはありえない。

 則ち、檻の中の本体を破壊するという一手。

 本来のゾバエ病患者であれば、チードルがエヴァンに説明したように害意を感知すると危険な状態──一部の医療関係者は狂化と呼んでいるがサンビカがこう呼ぶことはない──になるが、クリストファーによる操作がなされている現状ならばそうはならないようだ。サンビカが黒い男性と立ち合ってもその兆候が見られなかったことから、妥当な推察だろう。

 

 自らに課した重しが敗因になることも念能力者にはしばしばあることだ。サンビカもそれがいかにバカバカしいか、また、仲間を危険に晒す我が儘かは理解している。

 

 しかし、それでも認められない。そんなことをすればサンビカの世界は崩壊してしまう。

 

 しかししかし……。

 

 仮に私が負けた場合、鏡の術者はクリストファーの加勢に向かうは(ず)。そんなことになった(ら)……。

 

 なんとか互角を保っている状態が容易く破壊されるだろう。その先に待っているのは、死か、拷問か、人形としての生か。

 

 ぎりり、と歯を食い縛る。

 エヴァンが貸してくれたジャケットが、チードルが掛けてくれた十字架がサンビカの心を(くすぐ)る。

 

 瞬間、痛みがサンビカを襲う。

 

 集中力を欠いてしまい、目の前のコピー体の拳がきれいに入ったのだ。吹き飛ばされ、檻に強かに身を打ちつけ──られることはなく、温かい感触。

 

「おわっ! いきなり飛んでくるのは勘弁してくれ!」

 

「?」何が起きたか一瞬分からなかったがすぐに理解した。「! ごめんなさ(い)」

 

 どうやらエヴァンが受け止めてくれたようだ。しかしすぐに降ろされる。状況が状況だけに仕方ない。

 

「鏡どっかにないか? あれば面白いかもよ」エヴァンが言う。「じゃあ俺は戻るから」

 

 どういう意味か訊く前にチードルの加勢に行ってしまった。

 

「鏡(み)……?」

 

 な(ぜ)?

 

 疑問に思うも、明晰なサンビカの頭脳は数秒でエヴァンの言う面白いことに辿り着く。

 

「ふ(ふ)」

 

 私にとっては貴方のほうが“面白い”です(よ)。エヴァンさ(ん)。

 

 サンビカが本体のいる方へ走り出す。迷いはない。

 

 

 

 

 

 

 

 あっ(た)……!

 

 いつも携帯しているバックパックを見つけたのだ。前回、クリストファーと戦闘になった際に紛失していたが、そのまま回収されずに残されていたようだ。

 

 拾い上げ、走りながら目的の物を探す。医療用アイテムが内容の大半を占めるため、なかなか辿り着かない。

 

 あ(れ)? 入れたよ(ね)? 忘れたっ(け)?

 

 整理整頓が苦手で部屋も散らかりがちな自覚はある。まさかこの土壇場でその癖が出たのだろうか。そういうのやめてほしい。お願いだから、と祈る。

 

 大量の檻、つまりは障害物があるおかげで逃げ易い。だから時間は稼げるが、いつまでも鬼ごっこで遊んではいられない。

 

「あ。そういえ(ば)」

 

 思い出した。

 バックパックのメインの収納スペースばかりを見ていたけれど、目的の品──鏡付き化粧用具(コンパクト)は横の小さなポケットに詰め込んでいたのだった。焦りすぎて勘違いしていた。

 

 あー、も(う)! 何やってんだ(ろ)。

 

 ファスナーを開けるとワインレッドのケースがしっかりと入れられていた。

 

「来て、V2(ブイツー)く(ん)」

 

 具現化されたのは、頭が2つある少年型念獣。頭が2つあるといっても結合双生児のように首から上が2つに分かれているわけではない。

 2つ目の頭はお尻から生えた鎖の先にある。使い方は視界の拡張、(しっぽ)の長さを変えられる点を活かし振り回す武器にする、そして──。

 

 V2にコンパクトを渡し、とあるお願いをする。

 

「「ワン!」」

 

 V2は人形(ヒトガタ)念獣だが、人間の言葉は話せない。というか犬みたいな鳴き声しか出せない。しかしサンビカには具体的に何を言っているか分かるから問題もない。

 V2の基になった感染症に罹患すると、意識が混濁し、また、睡眠が取れなくなる。さらになぜか様々な場所を徘徊し、至る所にマーキング(・・・・・)をする。通称、犬化病。社会的ダメージも受ける奇病である。

 

 閑話休題。

 

 V2がしっぽを振りつつ走り去っていく、2つ目の頭が笑顔で涎を撒き散らしながら。勿論サンビカはかわいいと思ってる。

 

 頑張って、V2(ブイツー)く(ん)。

 

 くるり、と向き直る。サンビカはサンビカで自らのコピー体を引き付けておかなければならない。こちらも頑張らないと。

 

 来(た)!

 

 感知能力もサンビカと同等であるのだろう。サンビカが止まるとすぐに追いつかれてしまった。

 

 コピー体がV4を具現化する。発もコピーする範囲に含まれているため、こうなるのは必然。

 オーラの質すら同じに見える自分自身と視線をぶつけ合う。

 

「少し休戦にしません(か)?」

 

 自分であるなら話が通じるかもしれない。

 

「──」

 

 しかし返ってきたのは完全な無言。そして、今度は2対1という不利な戦いが始ま──。

 

──ぱりんっ。

 

 唐突にコピー体が割れ、次いで主の消滅に引きずられV4も崩壊する。

 

「上手くいったみたいです(ね)」サンビカが床から生えた顔──V2だ──に向かって言葉を贈る。「お疲れ様で(す)、V2(ブイツー)くん」

 

「わん! わん!」

 

 これがV2の固有能力。床や地面に(しっぽ)の顔を突き刺し、その顔を遠隔地に出現させる、通信・情報収集系の能力だ。

 V2は「バッチリっす!」と言っている。褒めてほしそうである。

 

 先程サンビカがV2にしたお願いは「本体を襲うように見せかけて鏡の具現化を誘ってくださ(い)。その時にこの(コンパクト)で合わせ鏡を作ってくださ(い)」といったものだ。

 

 狙いは、合わせ鏡による処理落ち。

 

 これがサンビカの妥協点だった。

 前提として患者に傷を負わせられないという広義の制約と誓約がある。これをギリギリ抜けることができるのが、情報過多によるオーラの過剰消費(枯渇)及び気絶だ。

 

 鏡によるコピー体生成は①鏡に映した対象を②分析し③生成する、という過程を踏むとサンビカは推測した。この②分析し、の部分が隙だと読んだのだ。コピー体を作るにはその内容を“理解する”もしくは最低でも“把握する”必要があると考えるのが自然。同じ具現化系だから分かる。具現化するには対象の知識と理解が要求されるのだ。それはコピー体であろうと変わらないはず。

 

 そこで合わせ鏡。エヴァンにヒントを教えられ気づくことができた。

 合わせ鏡とは鏡と鏡を互いに映す行為、状態を指す。するとどうなるかというと、無限と錯覚してしまうほどの量の鏡が映し出されるのだ。確かに完全な無限ではないが、具現化するための分析対象数としてはありえない量になる。

 いくらゾバエ病患者のオーラ量が無限に近いと言っても、近いだけで実際に底無しなわけではない。結果、オーラを爆発的に消費し、また、脳へも尋常ではない負荷が掛かる。こうなると気絶は避けられないだろう。

 

「はぁー」

 

 キツイ戦いだった。

 だがなんとかなった。少しだけ気を緩め、すぐに引き締める。チードルたちの援軍に行かなくては。

 

 そう思った時、それは起こった。

 

「!?」

 

 サンビカがいる位置より80メートルは離れた、要するにチードルたちが戦っている場所で、凄惨な、あまりにも苛烈なオーラが発生したのだ。

 

 何が起きている(の)。

 

 不安に駆られ、足を動かす。床の冷たさが不快。

 

 


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