折れた白百合を見た。
誰かに手折られたか、それとも己から頭を垂れたか。願わくば後者であれと思いつつ、私はそれを見下ろす。
初夏と言うには涼しくて、晩春と呼ぶには暑い日。私の目の前にある花は、ただ一輪だけで咲くものだから強く見えて、けれどその姿はどこか寂しそうでもある。
…ああ、似ている。
その在り方がどこかの過去に重なる。あれは昔の、ちょうど今日みたいに季節の境界に立っているような日のこと。
あの人が、私の全てを奪い去った日のこと。
その時の私はまだ高校生だった。当時の私はまだ青春したい盛りだったせいで、優等生かと聞かれたら答えを濁したくなるものだったが。染め上げた金髪は、今にして思えば派手極まるものだった。
そんな私と同じクラスに生徒会で書記を務めていた生徒がいた。名前を
見た目も然ることながら、彼女は在り方さえ美しかった。
彼女は常に真面目で、生徒会の仕事をしつつも成績は優秀そのものだったし、困ってる人がいたらいつも優しく手助けしていた。けれど友達らしき人と一緒にいる姿や、笑った顔…もっと言えば感情を表に出したところをまるで見なかった。口数も少ないけれど、いざ声を発すれば澄み切った音を響かせるから、かわいいや綺麗と言った言葉より、凛々しいがよく似合う。その姿に少なからず男女問わず周囲の人間が魅了されていたのは明らかだった。
だが正味言えば、最初は高木真矢のことは嫌いだった。だって、私と正反対にいたから。それは言ってしまえば醜い僻みだ。私がなれなかったその姿は、意識、無意識問わず私が選んでなれなかったのだから。決して彼女は悪くなどない、こんな私と触れ合って欲しくなどなかったから、私は勝手に嫌って勝手に距離をとっていた。
高嶺の花を見る下層の私。それは輝かしくて、眩しくて、けれど手に取るには遠すぎた。伸ばした手を見てみれば、泥がその手を彩っている。清廉を汚すのは許されないから、私はここで一人笑うのだ。それでいい。それがお似合いだ。
そう、ずっと思っていた。
初夏と言うには涼しくて、晩春と呼ぶには暑い日。その日私は家の都合、と言う名の朝寝坊で学校を遅刻していた。一限が間に合わないことはその時既に確信していたため、私は二限から行くことにしていた。
そのおかげかどこか余裕で通学路を歩いていた。内心焦りは少しはあるが、気にするには小さすぎた。むしろいつもより少し遅い時間に歩く見慣れた街並みは、しかしいつもと違って見えていた故にわくわくした感情を覚えるほどだった。
そうして歩いて行った先に、私の目指す校舎を見た。そこは終着点。見慣れない普通の終わり。その中に入れば日常が私を包みこむ。そう思うと軽い憂鬱を覚えるが、言っていたところで仕方のないことというのも理解しているから、私は校門をくぐるのだった。
だが、私に待っていたのは日常でも普通でもないものだった。
校門をくぐって左。体育館と本校舎の間の人気の無い空間に、彼女…高木真矢がいたのだ。
「…………」
彼女は無言のままだった。佇むその姿は触れれば崩れてしまいそうなほど綺麗で、瞳は光を取り込んでまるで硝子細工のようで、けれど真っ直ぐこちらを捉えている。華奢な足元には黒いスチール缶があった。
ただ、その手には優等生にあるまじきものがあった。
タバコだ。
細く、少し力を籠めたら簡単に折れてしまいそうな二本の指は、白の紙巻を挟んでいた。彼女の口に触れていたであろう部分は茶色く、ほんのり湿っていて、反対の先端からは白い煙が細く立ち上っていた。
いつもの彼女からはまるで想像もできないような姿に、私は電撃を受けたような衝撃に脳を穿たれた。
「あ…あんた、なんでいんの…?ってかなにやってんの…?」
まとまらない思考で私は問いかけた。だが彼女の表情はまるで変わらない。人形のように同じ顔のまま不動だった。
「優等生がそんなのやってていいの?チクったらどんな反応するかなぁ、先生…」
驚きが収まらない中で、私は啖呵を切ってみた。実に情けない切り方だが、これは確実に相手の弱みであることは目に見えていた。本当はチクろうだなどとは思っておらず、ただちょっといつもの涼しい顔を崩したかっただけなのだが。
それでも、彼女はその表情を崩さない。崩さぬまま、一瞬だけ目線を外して彼女はタバコの吸い口を咥えた。
途端に先端の火が赤さを増す。シガレットペーパーが焦げ、中の葉が燃えていく。呼応するように煙もまた、この空間の中を上へ、上へと登っていく。
同時に彼女は私に近づいてきた。ずんずんと進む足は一切の迷いがなく、目は私を見つめて離さない。
「な、なんだよ…」
その姿に私はたじろぎ、たたらを踏んだ。それによって肩にかけていたカバンがずり落ちたが、この状況に釘付けにされているせいで見向きも起きない。
心臓が強く拍動する。脂汗が滲み出る。何が起こるのか、何をしてくるのか、何故近づいてくるのか、その一切がわからない。
そして、私の目の前まで彼女が来た瞬間、その女は口に咥えていたタバコを離し、反対の手を私の後頭部に回してきた。一瞬の出来事に、私は避けることも躱すこともできなかった。
だがその一瞬は、それで終わらなかった。
手繰られるように、彼女の顔がぐんと近づいてきた。回された手に押さえられて逃れることはできず、ただ彼女の言いなりであるかのように受け入れるしかなくて、そして…
「なっ…っ…」
私のファーストキスは奪われた。
「ん…」
時間にしてわずか二、三秒。その間に柔らかな唇の感触が、ほんのりと温かい彼女の熱が伝わってきた。それに当てられて、驚きと戸惑いとがぐちゃぐちゃに混ぜられた感情が私を支配する。胸の鼓動が一段と早くなる。その動きを容易に感じ取れるほどに。けどそれと同時に、私の口の中でこれまで感じたことのない苦味が広がった。ほろ苦いなどとは違う、なんとも粗い苦味。
「…うっ…ぶっは!」
勢いよく顔を離す。後ろの手は案外すんなり私を解放した。
私は酷くせき込んだ。肺さえ満たすこの苦さを吐き出さんと、何度も何度も。体を曲げて、最後の一欠片まで出し切らんと、何回も何回も。
それがようやく落ち着いた時、徐に顔を上げた。整わない呼吸で、こんな状態にした犯人を見た。その女はいつものようにいたって平静な顔をしていた。
こんな時でさえこいつは表情を変えないのか。そう思った時だった。
「これで同罪ね」
私は初めて彼女の笑った顔を見た。それは小悪魔のような微笑。嘲りなどではない、本当に純粋に楽しそうな、嬉しそうな、そんな笑み。いじらしくて、けれど無垢で愛おしい笑顔。
直後に彼女は私に背を向けた。煙は追従するように尾を引いた。身をかがめてスチール缶を拾い上げると、彼女はタバコの火をもみ消して中に放り込んだ。
そしてもう一度こちらの方を向いて、
「じゃあね」
と一言だけ、唄うように告げて校舎の中へ消えていった。
一人残された私は、豆鉄砲を食らった鳩のような顔で呆然としていた。頭の中はぐちゃぐちゃで、心の中もめちゃくちゃ。思考も感情も無理矢理に掻き回されたみたいにまるでまとまらなかった。
心臓は未だ早く打ちつけて、顔は驚くほど熱かった。きっと熟れた林檎のように赤くなっていたことだろう。
そっと、自分の唇に触れてみた。あの女の熱がまだ残ってるように感じた。嫌いなやつのはずなのに、何故かそれが薄れていくことに心のどこかで切なさのような痛みを覚えた。口の中に残る苦みを噛みしめながら、私は一人呟いた。
「なん…なの…この気持ち…」
零れ落ちるような独白は、響くこともなく消失した。
高嶺の花を見る下層の私。手を伸ばせど届かなかったその花に、ただただ憧れを抱いた汚れた私。輝かしくて、眩しくて、けど触れることは許されない。清廉を汚してはならないから。けれどそんなある日に、夢見た花は一枚の花弁を落とした。
夜のように黒い、百合の花弁だった。