夜のことだった。わたしは自宅であるマンションの五階の、あまり大きくはないベランダで星を見ていた。
いや、正確には星など見えてはいない。地上の光が明るすぎるから、空中の火はその眩しさに耐えられずに隠れてしまっている。
だからそこにあるのはひたすらな黒。見方によっては紫がかっていたり、青みを帯びていたりするのだろう。だが、わたしにはただただ黒く見えた。純粋で、ある種美しくもある。きっと皆が言う吸い込まれそうな、という言葉はこういう時に言うのだろう。
黒は向こう側まで伸びている。果ての果てまで隙間なく。塗りつぶされた、と言うにはそれは些か謙虚が過ぎたものだから、空さえ寝静まることもあるのか、とふと思ってしまった。
「…だから、今宵は月も起きないのね」
呟いた言葉の可笑しさに、わたしは乾いた笑いをこぼしてしまった。
「ありがとう」
柔らかく笑っていた。わたしはいえ、とだけ返した。人に優しくするのは、わたしの勝手でしかないから。
「流石だな」
明朗に褒めてくれた。わたしは恐縮です、とだけ返した。真面目に生きるのは、わたしの自己満でしかないから。
昔から実直に生きるのは得意だった。だって、ただ他人の好むことをすれば良かったから。手助けしてくれる人を他人は好む。良い成績を他人は好む。だったら、そう生きれば良いのだ。
でも、わたし自身は一度だってそれを好んだことはなかった。
ただ不器用だったのだ。裏を返せばそれ以外の生き方を知らなかった。気づけばどこかで他人とは一線を引いて接していた。深く関わるとわたしのつまらなさが知られてしまうと、無意識のうちに思ったのだろう。
己の無知を知ったわたしは、高校生になった時に非行に手を出した。
愛煙家だった父の部屋からタバコを一本くすねた。銘柄なんてよく知らないから、すぐ手の届く場所にあった金の円に囲まれた赤い丸に、二行の黒い英字が書かれているパッケージのものを選んだ。
先に火をつけると、焦げる葉の黒と真反対の真っ白な煙が立った。初めての経験にわたしの心は踊っていた。吸い口を咥えてみたら思っていた以上に煙が入り込んできたものだから、ひどく咽せてしまい喉を痛めるかと思った。あまりに苦味がきつかったというのもあったのだろう。
あんまりやり過ぎるとバレてしまうから間隔を空けつつ続けていた。四度目あたりでやっと慣れてきて、その頃には煙の苦味も美味しく感じていた。背徳がいいスパイスになっているのかもしれない。
けど、いつしかわたしの内には虚無が居着いていた。
当然だった。だって、それはあまりにも情けない自己満足でしかなかったから。悪ぶるとか、大人ぶるなんかよりももっともっと小さくて、子どもじみたものだから。わたしの中でわたしの意味を確立するためにやっている。反対にそれがなければわたしは何もない、人の形をしただけの中身のない器のみになるような気さえした。
時折、わたしは夜に囚われたままなのだと思う。
昏い夜に一人きり。音もない、光もない、あるのはただただ黒い色で、月明かりさえわたしを見ない。皆はいつも昼の中で楽しそうに笑っていて、それでもわたしだけがずっと静寂のこちら側。日々を謳歌する様を、暗闇の中で見つめるしかなかった。だから昼に憧れて、火を太陽に重ねて、雲の色の煙を燻らせる。細く細く揺らめくそれは、まさしく見るものが幻想であると表しているよう。
わたし一人だけが、独りの夜から離れられない…離れ方を知らない。
だから、陽光のような彼女に目を奪われたのかもしれない。
名前を
そして何より、わたしはその在り方をこそ羨んだ。
常に自由で、天真爛漫。感情豊かで、いつも周りに誰かいる。楽しいことがあれば明るく大笑いして、気に食わないことがあれば腹の底から怒り、上手くいかないことがあれば深く落ち込んで、しかしいつの間にかまた笑っている。多分皆が言う優等生という言葉に、彼女は当て嵌まることはないのだろう。だけどわたしにとって、彼女よりもその生き方に憧れた人間はいなかった。
明らかにわたしとは対極の人間だった。彼女はまさしく昼の象徴、けれどわたしは夜の囚人。生きる世界が違う、というものだ。だから彼女とは一際関わろうとしなかった。
昼を羨むことはあっても、望むことは許されない。昼と夜が近づけば日は頭を垂れて、逢魔時を連れてきて、そして良くないものが顔を出す。それはあってはならないことだ。
だから彼女はきっと…いや、決してわたしとは関わってはいけない人間なのだ。昼に生きれないわたしが、昼そのものの彼女に近づいていい道理はない。ただ時折陽を覗かせてくれればそれでいい。
ただそれだけで、わたしは満足だった。
けれど、そんなわたしの思いを踏みにじったのは、他でもないわたし自身だった。
その日はどっちつかずのような日。夏でも春でもない。晩春からは出られても、初夏に入っているわけではない。けれどどちらでもあるような、そんな境界の間の曖昧さを思わせるような日。
わたしはタバコをふかしていた。飲み切ったコーヒーの缶を灰皿代わりにして、一人静かに煙を燻らせる。
だが、場所は中々に恐ろしいところだった。そこは学校の敷居内。それも校門をくぐってすぐ左の、本校舎と体育館の間の狭い空間だ。人気こそないものの、もし誰かがこの門を通ったら、と思えばぞっとしない。さらに一限の授業を抜け出しているのだから、見つかればただでは済むまい。
何故そんなリスクを背負ってまで学校でタバコを吸うのか。それは実に下らない理由だ。
どうせ最後なら、今までやったことないところでやってみたい。
最後、とは字義通りだ。これを以てもう禁煙する。こんなものに縋って己を満たした気になるのは、あまりにも醜いから。
最初に手を出した時に踊った心も、今となっては不動のそれだ。それは慣れか、それともこれで自身を慰めていた自分への自虐か、理解するにはわたしは若過ぎた。
見上げると、嫌味かと思うほどに青い空。さながら雲を見たければその煙を吐くがよい、と言っているかのよう。
今となってみれば酒に溺れる人だとか、薬に漬けられる人の気持ちがわかる気がする。実際に何かを拠り所にしてみて痛く知った。こういうものがないと自分で自分を保てないから、依存の片道切符を買ってしまうのか、と。同情こそしないが、同感だけはできてしまう。
だからそうなる前にわたしは手を引くことにした。多分始めて間もない頃は辛いんだろうが、回数を重ねてるわけでもなし、楽に断てるだろう。いや、断ってみせる。
…でも、ならわたしはどうやってわたしを確立すればいいんだ…?
一瞬脳裏に浮上した疑問は、唐突な来訪者によってかき消された。
足音に気づいた時には、もう遅かった。向けばそこには
一秒少々の膠着の後、彼女の中に衝撃が湧き出たようで、あっという間に表情を変えて大袈裟と思うほど驚き始めた。無理もない、一応“ユウトウセイ”らしいわたしの不道徳な面を見てしまったのだから。
けどわたしの心にはそういった驚きや戸惑い、焦りよりも先に別の感情が現れた。
…昼と夜が近づけば、逢魔時を連れてくる。そして良くないものが顔を出すから、わたしは彼女と関わろうとしなかったし、これからもそのつもりでいた。
けど間近まで来られて気づいてしまった。わたしの精神の脆弱のなんたることか。
ほんの少し目の前まで来られただけで、蛍光灯に惹かれる蛾のように、彼女に引き寄せられてしまった。
憧れのままで良かったのに、わたしの心は急加速的にそれ以上を求め始めてしまっていた。
突き動かしたのは、そんな見るに堪えない我欲だった。
わたしはタバコを咥えて、昼の虚像を吸い込みながら彼女に歩み寄る。たじろぐ彼女をよそに、歩数にして十歩もなく目と鼻の先まで近づいた。瞬間タバコを口から離し、反対の手を獲物を捕らえる蛇のように彼女の後頭部に回して、手繰り寄せるように顔を近づけた。
その刹那に夢想する。それはもしもの光景。最初からわたしも昼の側にいて、眼前の彼女と共に笑い合う。けど所詮それは幻想でしかないから、あり得ないと知っているから、
だからせめて、あなたの昼を分けて欲しかった。
「これで同罪ね」
同罪。同罪、か。
誰もいない廊下を歩きながら、口からついて出た言葉を噛み締めて、わたしはしでかした事の重大さを受け止める。同罪も何も、悪いのは巻き込んだわたしだけだと言うのに。一時の欲に身を任せて憧れの人を汚してしまうだなんて、理性のない獣と大差ない。
後悔がどっとのしかかる。罪悪感が胸を突き刺して、悔恨が首を絞めつける。わたしの心が擦り減っていくのを感じる。彼女の痛みは、きっとこれ以上だろうに。
…この後の休み時間に謝りに行こう。許して欲しいとは言わない。ただの自己満足でしかないけど、それがわたしに思いつくせめてもの贖いだから。
昏い夜に一人きり。音もない、光もない、あるのはただただ黒い色で、月明かりさえわたしを見ない。皆が生きる昼を、ただ眺めるだけしかできない。だから昼に憧れて、昼の幻想を見ようと火をつけたけど、それももうない。
元に戻っただけなのに、今日の夜は随分暗く感じる。