ファーストキスは罪の味   作:四枚琴

3 / 3
黒百合の咲く月下に

 今日はなんと間の悪い日なのだろう。櫛野さんに謝りに行こうとするたびに何かがやってくる。

 一限の後は本人がいなかったから仕方なかったものの、二限の後は一限にいなかったことを先生に聞かれ、三限の後は今度は生徒に聞かれ、昼休みには急な生徒会の打ち合わせを入れられて、五限の後はそのことについての追加質問に時間をとられ、結局この六限に至るまで謝罪できず終いという有様。今日は厄日かと普段思わないことさえ思ってしまったほどだ。

 ちらりと彼女の方を見る。わたしの席は後ろから二列目、窓から三列目。対して彼女の席はわたしから右と前にみっつずつずれた位置にある。クラスの中で髪を染めているのは彼女だけというのもあってわかりやすい。

 彼女はぼうっとした様子で授業を受けている。単に眠いのか、それとも授業に興味がないのか、シャープペンシルを逆さまになった振り子のように、ゆったりと揺らしながら黒板を眺めている。まさに上の空とはこのことだろうか、と言った具合だ。

 

 やがて終了の鐘が鳴った。恐らくわたしの人生でこれほど待ち望んだことはないと言えるほどに、それが聞こえるまで長く思えた。

 教科書もノートもしまわぬまま席を立ってすぐさま彼女の元へ向かう。決して遠くはないはずなのに、今日は何故だかとても遠く感じた彼女の元へ。数歩程度歩いて手を伸ばし、彼女に声をかけようと口を開いた。

「高木ごめぇーん!ちょっといいー?」

 そんなわたしの口から出るはずだった言葉は、わたしを呼ぶ声によって母音のみを短く発するだけで終わった。

「…なんでしょう」

 振り返る。そこにはA4程のプリントを持っている男子生徒がいた。

「いやさあ、この前頼まれた生徒会のアンケートあったじゃん。あれ出しそびれてたのさっき気づいてさ」

「そうですか。ではもらいます」

 わたしがその紙を取ろうとすると、男子生徒は距離を離すように持った側の腕の肘を曲げてみせた。

「ああいやそれが、ちょっとどう書けばいいかわかんないとこがあってさ、ここの…」

 そして何食わぬ顔で話を始めた。

 

 今日は本当に厄日だろうか。ただ一度の謝罪を、何度も何度も阻まれる。まるでこれがわたしが彼女に罪を押し付けた罰だと言うように。

 今すぐに追わねば機会は消える。それはよくわかっているけれど、目の前に助けを求める人間がいる。どちらも放ることはできないのに、どちらも取ることはできない。

 …実直に生きるとはどういうことか。わたしはこれまでどう生きてきたか。考えてみれば自然ととる行動は選択される。自らが不器用と知っているからこそ、道標にして縋るようにしていたそれを思い返す。

 だからわたしは…

 

「ごめんなさい。急いでるので」

 

 踵を返した。見れば櫛野さんはまだ教室を出たばかり。引き止めるのは容易だ。

「え、あ、ちょっと!」

「明日の昼までだからまだ大丈夫!」

 わたしを止めようとした言葉を軽くあしらって彼女の後を追う。

 他人の好むことをする。実直に生きるとはそういうことだ。助けて欲しい時に手を差し伸べてくれる人を他人は好むから、ずっと誰かが求めればこの手を差し出してきた。けれど今、わたしはそれに反いた。

 他人の好むこと()()をするのは、自分のすべきことを蔑ろにすること。それは当然のことだったのに、気づくのは幾分遅すぎた。

 

 教室を出れば金髪を携えた後ろ姿が見えた。隣には黒いボブカットの女生徒がいるみたいだけど、今のわたしには関係のないことだった。

 手を伸ばして彼女の名を叫ぶ。わたしが(つみ)を吹き込んだ、彼女の名を。

「櫛野さん!」

 呼ばれた彼女は足を止めて、ゆっくりと振り返った。隣の子も釣られて振り返る。目線が交わって一瞬精神の強張りを覚えたが、ぐっと堪えてわたしは切り出した。

「この後、時間あるかしら。話があるの」

「あー…」

 櫛野さんはちらりと隣の子に向けた視線をわたしに戻して答えた。

「私ちょっとこの子と一緒に先生に呼び出し食らってるからさ、その後でもいい?」

「ええ。屋上で待ってます」

 そう言うと彼女は頷いて、その子と一緒に行ってしまった。

 

 かくしてわたしは今屋上にいる。四方を金網のフェンスで囲まれたそのちょうど中央辺りに、重たい金属製のドアを背にして立って彼女を待っていた。

 空は依然青かった。けれどその端がやや黄色がかっていたのは、あの時と日の高さが変わっているからだ。浮かんでいる雲は、わたしが吐いた煙によって現れた幻影などではない。その全ては真だ。夕暮れの前の、最後の青を泳ぐ白だ。

 わたしは先の出来事を思い出す。思えば今日だけで身勝手を二度もした。これまでのわたしの人生から見れば異例も異例、なんならこの先にもこれ以上は無いだろうと思えるほど。

 他人の好むことだけをするのは、自分のすべきことを蔑ろにすること。では自分が好むことは、他人の何かを蔑ろにするのだろうか。己の欲とは、人を傷つけるものなのだろうか。

 …いえ、考えるまでもない。その答えは今朝にとっくに出ているじゃない。

 

 一度箍が外れれば桶は水を抑えられなくなって、もう一度締めるまでに流れ出たものは覆水のように戻ることはない。わたしから溢れる水は、あとどれだけなのだろう。締め直すまで、あとどれほど身勝手をするのだろう。思いたくもないことが頭の中を巡る。

 

 ふと彼女の顔を思い出す。あの時に差し込まれた西に傾きつつある陽光は、その一部を校舎の壁に遮られていた。彼女の顔の右側に斜めに影が入っていたのはそのせいだ。

 そしてその顔は一度も笑うことはなかった。わたしの方を向いた時、一瞬隣の子を見た時、わたしから去って行く時、その全てにおいて一度もだ。“話”だけできっと彼女はその内容を察したはずだ。だからこそ彼女は最後まで笑むことはなかったのだろう。

 そのことに安堵している自分がいた。そのまま突き放してくれればなんと良いことだろう。下手な許しよりもきっとそれは、優しいはずだから。

 

 お腹に手を当てて深呼吸をする。緊張がわたしの体にまとわりついているのを確かに感じる。だから取り除くために息を深く吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。解れたのはほんの僅かだが、それでも幾分かはマシだ。

 腕を脱力させると、制服をなぞった指がポケットの中に何かが入っているのを感じ取った。触れた感触としては決して大きくはない物体。

 確認のために取り出してみるとそれは、わたしがやめると誓った昼の幻影(タバコ)だった。

 …今朝ので最後と思っていたけど、まさかまだ一本残っていたとは。禁煙すると決めたからにはもう吸いはしないが、捨てるとしてもあまりに扱いに困る。そこらに捨てるわけにはいかないし、学校のゴミ箱に捨てて見つかれば大問題に発展しかねない。

 そんな思考の堂々巡りを遮ったのは、重たく軋む金属の音だった。

 

 突然耳に入り込んだそれはわたしの脊髄に反射を強制させて、手に持っていた白い筒を右のポケットに押し込ませた。

 振り返ってみれば、押し開けられたドアの向こうに件の人物がいた。陽の光を受け止めた金の髪は輝きを帯び、黒い瞳はわたしに真っ直ぐと視線を投げていた。先ほどと同じ目だ。

「ごめん、ちょっと遅くなった」

 ドアを後ろ手で閉めながら彼女は言った。

「いえ。わたしの方こそ、急にお呼び立てしてすみません」

「んにゃいいよ、特に予定もなかったし。それで話って?」

 言いつつ、わたしの前まで歩いてくる。距離にして凡そ二メートル弱程だ。

「…今朝のことです」

 それを聞いて彼女はピクリと反応を見せた。

「今朝…今朝、ね」

 小さく呟いていた。反芻するように。噛み締めるように。

 わたしは深く頭を下げた。誠心誠意の謝罪の意の表明だ。

「今朝はご迷惑をおかけいたしました」

 想像以上に震えた声だった。わたしの喉から発されたと疑ってしまうほどに。それでもわたしは続ける。

「全てはわたしの身勝手が招いた結果です…許してくださいなどと都合の良いことは申し上げません…ただの自己満足だと石を投げていただいても構いません…それでも貴女にお詫びをしたかったのです…」

 その最後に、わたしは心の奥底から声を絞り出した。

 

「本当に…申し訳ございません…!」

 

 声だけでなく体まで小刻みに震えているのを感じる。汗が止めどなく滲み出る。彼女の顔が見えないからこそ恐ろしい。たとえ自己満足でしかなくても、と言う思いは嘘偽りない本心なのに、わたしの精神はひどく怯えている。傲慢もここまで極まれば、最早愚かと言う言葉さえおかしく思えるほどだ。

 場を支配する数秒の沈黙。時が止まったような錯覚をさせるそれを、彼女の声が切り裂いた。

「…あのさ、タバコってまだある?」

「えっ…?」

 予期していなかった言葉に、最敬礼まで下げていた頭は即座に上がった。

 そしてわたしの目に飛び込んだものは、先より数歩程近くにある彼女の姿。そしてそこにある落ちつつある陽光を吸い込んだ、曇りのない真剣な彼女の瞳。

 わたしは恐る恐るポケットの中から先の最後の一本を取り出す。すると彼女は短く、ん、と声を発して手のひらを空に向け差し出してきた。渡せと言う意味だ。わたしは吸口の方を彼女に向けて、その手のひらに置くように渡した。

 手に持ったそれを、彼女は人差し指と親指でつまみつつ、転がすように回しながらじいっと見つめ始めた。未見を視線で塗りつぶすように、隅の隅まで観察している。

 その間もわたしの心の震えは止むことを知らない。彼女の今の心情がわからないことに怖がっている自分勝手に、苛立ちすら覚えるほどに。

 すると突然、彼女はタバコに向けていた視線をこちらに向けて、

「そもそもさ、あんたいつからタバコ始めたの?」

 と問いを投げてきた。

「高校一年生の初め、四月の末の辺りから」

「ふうん…」

 彼女は一度タバコに視線を戻してから、改めてわたしを見て

「なんで始めたの?」

 と質問を続けた。それ自体は来るだろうとは思っていた質問だが、いざ聞かれるとどきりとする。

「…わたしは、ずっと他人の好むことだけをしてきました」

 わたしは大まかな経緯を話した。話している間、一度も彼女が視線を外すことはなかった。

「…そう」

 話し終えて聞こえたのは短い言葉だった。その声がわたしの背筋に怖気を走り抜けさせた。軽蔑の二文字がわたしの脳裏を過ぎる。覚悟はしていたというのに、その瞬間が訪れればここまで怖がってしまうだなんて思いもよらなかった。

「じゃあ差し詰め、今朝のあれはその口封じってわけね」

「それは…!」

 口から出かけた言葉を飲み込んだ。それはわたしにとっても、他の人から見ても否定のしようがないからだ。

「…いいえ、その通りです」

「…続けて」

「…えっ」

「続けてっつってんの。少なくともあんたの中では違うんでしょ」

 その瞬間だけ、彼女の眼差しが柔らかになった気がした。

 わたしは一度強く唇をつぐんでから、再度口を開いた。

「…口封じと言うのは否定のしようはありません。けれどそれは、とある思いが引き起こしたものなのです」

 区切るように一度目を閉じ、夕焼けに差し掛かりつつある空気を吸った。心の準備とも言い換えられる呼吸だった。

「わたしは…貴女に憧れていました」

 

 それは箍が一度外れたせいだろうか。それとも彼女の言葉に甘えた故だろうか。わたしの心に秘めた感情が、流水のように溢れ出る。

「先も申し上げましたが、わたしはずっと他人の好むことだけをして生きてきました。それは人として、つまらない自己のみを育てるだけの人生と同義です。

 だから貴女を、自由に生きる貴女の姿を見た時、その色鮮やかさに心を惹かれました。太陽のように明るく眩しかった。けれど見れば見るほど、そんな自由とは真逆のわたしが浮き彫りになっていくように思えました。わたしはそれを他でもない貴女にだけは、決して知られたくなかった。憧れたからこそ、見て欲しくなかったのです。だからわたしは…ええ、酷い言い方をすれば貴女を避けていました。

 けど今朝、貴女を間近で見た時にそれよりも、もっと大きな気持ちがわたしの中で生まれました。それまでの全てがどうでも良く思えてしまうような、そんな強烈な感情です。それは…えっと…何と言えばいいのでしょうね…その貴女を見た時に貴女が欲しいと…いえ、わたしも貴女と同じようになりたくて…は違いますね…」

 しどろもどろになる言葉を誤魔化すように、無意識のうちに両の手指を絡ませる。この感情に適した語が頭の中から探し出せない。

「何…でしょうか。貴女を求めたというのはええ、合っているようにも思えるのですが…それ以上と言いますか、また違うと言いますか…わたし自身でもよくわからないのです。何しろ初めての気持ちなもので…」

 言葉が詰まり、視線が泳ぐ。火照りのような感覚が顔に貼り付いている。この気持ちを言い表すものがわからないことに対する焦りのせいだろうか。

 けれど一つの事実に気づいた瞬間に、その何もかもは落ち着いた。

「…いえ、どのような感情であれ貴女に勝手をし、迷惑をかけたことには変わりありません。ああそうだ…思い出しました。これを我欲と言うのでしたね。高尚な理由など介在しない、単純な何かを求める情動を」

 いや、最初からわかっていた。それでもこの言葉が最後まで出てこなかったのは、きっとわたしの心がその卑しさを認めることを拒んでいたからだろう。

 本当に…どこまでも醜い。

「我欲と口封じ。結局はこの二つです。その結果のこの悪徳です。ええ、何も違うことはなかったですね」

 自嘲するように、わたしは微笑みを作った。

 

 ふと、彼女は先程と同様に何かを求めるように手を差し出してきた。

「ライターある?」

「それって…どういう…」

「いいから。はよ」

 すぐにわたしは内ポケットからライターを出した。青い色の使い捨てで安っぽい、発火部の蓋と着火ボタンが一つになったいわゆるスライド式の物だ。

 受け取った彼女はそれをしばし眺めると、手に持っていたタバコを口に咥えて

「よくアニメとかだとこうやって火つけてるよね」

 と言って彼女はライターを右手に持ち替えて点火し、左手で口元を覆ってその内側に運んだ。

「え…ちょっと…!?」

 驚愕がわたしを貫いた。目の前の出来事に脳が追いつかない。処理落ちした機械のように思考が固まっている。己の目をいくら疑えど、それが幻になりはしない。

 その行動の意味するところを、他でもないわたしは何度もやってきたから。

 間違いであれと願った。誤りであれと祈った。その全ては、わたしの早とちりであれと。

 

 けれど覆われた口元が露わになって、その思想は偶像に成り果てた。

 

 燃えて焦げた先端。そこから立ち上がる真っ白な煙。発する筒を挟むのは先程まで風除けの役目を果たしていた、彼女の左手の細い二本の指。そして咥えているのは無論、今朝奪ってしまったほんのり赤い唇。

 わたしの動揺をよそに先端の火は燃焼を進めた。何度も吸った身だからわかる。彼女は煙を吸い込んでいるのだと。

 手を伸ばそうとしたその途端に、彼女は口を離した。わたしの行動が原因ではない、脊髄反射のような動きだ。

「ぶあっ!げほっうぇえっほえほっ!」

 たたらを踏んでは苦しそうに腰を曲げて咳き込み、呻いて声にならない声をあげている。今朝初めて口にしたのだ。二度目でいきなり平気になるはずがない。

 それでももう一度咥えたものだから、ついに見ているだけでは堪えられなくなった。

「だ…大丈夫…?」

 歩み寄って彼女の背に触れようと右手を伸ばす。

 

 刹那、彼女の右手がわたしのうなじを包むように掴んだ。

 

 

       ◇

 

 

 ああ、腹が立つ。

 高木真矢(このおんな)は清廉だ。私なぞとは程遠いくらいに。ずっとわかっていたその事実が、より鮮明に脳髄に提示された。

 ああ、腹が立つ。

 この女はその清らかさ故に己自身が生んだ汚れを誰よりも許せないのだ。それが己が為の不浄だったとしても、それが人として当然の汚濁だったとしても、目に止まれば取り除かねば気が済まないのだ。

 ああ、腹が立つ。

 それでもその汚れが自分自身に意味を持つ為だったから、それを寄る辺にするしか自分自身に意義を見出せなかったから、必死に隠して涼しい顔を作って過ごしていた。

 

 ああ、腹が立つ。腹が立つ腹が立つ腹が立つ。

 その息苦しさに気づかず一方的に嫌って、あまつさえ愚かしく僻みまでした私自身(このおんな)に心底腹が立つ。

 

 私は咳と苦味に苦しむ中で、高木真矢の後頭部を押さえる為に右手を回した。今朝の彼女のに比べれば多少乱暴が過ぎ、押さえたところも実際はやや下のうなじの辺りだったが、そんなことはどうだっていい。

 動揺の渦中にいる彼女の顔に、いつもの澄ました表情はなかった。いや、そんなものはこの屋上に来た時から、もっと言えば放課後に声をかけてきたあの時からずっとなかった。真面目で不器用な彼女だったから、余裕など持ちようがなかったのだろう。きっと今も罪の意識が彼女を苛んでいるのだろう。

 私からすればそんなもの、芽生えなくて良いと言うに。

 

 彼女の顔を引き寄せる。糸を手繰り寄せるように。掴んだ手に力を込める。決して逃さないと告げるかのように。

 そしてそれは今朝の意趣返しのように、けれどそこに憎悪などは一片もなく、

 

 この夕焼けに、彼女の唇を奪い去った。

 

 今朝とよく似た状況、しかし今の私は煙を流す側だ。

 触れ合う唇から朝より断然熱い彼女の体温が、押し付けられた胸から急くように打つ脈拍が伝わる。掴んだ手の中の黒絹のような髪は、事実それに勝るとも劣らない滑らかな手触りを有していた。

「んっ…んん…!」

 驚きが作ったであろう上擦った声が彼女の口から響いた。それは微かに私の口にも波及して、心地よい振動を受け取った。

 時間にして凡そ二、三秒のキス。だけどその終わりは、今朝と同じ結末だった。

「…うっ…ぶっは!」

 私は彼女から顔を離して、再び咳き込み呻き始める。それが私の口から出ているとは信じ難い、獣のような声が咳の合間合間を埋めるように吐き出される。いや、最早それを声と呼ぶことさえ違和感を抱く。

 …よくこんなとんでもない味で吸えるな。私絶対無理だわこれ。

「ああっ…えっ…と…これは…」

 途切れ途切れになった彼女の声が聞こえた。紅潮した顔は夕日の逆光に晒されていてもわかる程だ。思考が追いついていないというやつか、それとも唐突な出来事に感情が掻き回されたような心の内か。

 どっちにせよ知っているとも。こっちは今朝あんたから同じものを頂いたばかりだからね。

「へっ、ざまあみやがれ…」

 私は咽せ返って曲げられた身を起こす。息は上がり、喉も痛んで仕方がない。それでも彼女に向き直り見せつけるように笑って、

 

「これで、同罪ね…!」

 

 今朝この女に言われた言葉を、そっくりそのまま送り返してやった。

「えあ、あのっ…同罪って…」

「ったくさっきから聞いてりゃ…いい子ちゃんぶってんじゃねえぞこんちくしょうめ!」

 私の叫びに彼女は一瞬体を大きく振るわせた。止まることを知らない感情のアクセルが、私の内に溜まった思いを吐き出させる。

 一度火がつけば、もう止めどなどありはしない。

「気づいてないかもしんないけどさ、あんたは十分身勝手だよ!さっきだってあんた一人で答え出して満足した表情しやがって、こっちゃがっつり置いてけぼり食らってんだよ!何が何も違うことはありませんでしたねだこんにゃろ!」

 枯れ気味の声を張り上げて詰め寄る。彼女は逃げるように後退るが、それでも私は止まってなどやらない。

「けどさ、それでいいんだよ!だからこそ人間なんだよ!欲がある、何かを求める、いいじゃんかその我欲!私にだってあるんだからそれは!確かにあんたのやったことは普通考えりゃ良いことじゃないだろうけど、その元の欲求そのものは悪なんかじゃないだろ!?」

 遂に彼女の背はフェンスにぶつかった。その様は追い詰められた鼠のよう。

「よしわかった…!許して欲しいとは言わねえってんならいいよ、お望み通りにしてやるよ!」

 私は眼前まで詰め、荒々しく右手を伸ばす。それは彼女の顔の横を過ぎて、その後ろの金網を掴んだ。字義通り目と鼻の先にある彼女の顔がよく見える。

 

 高嶺の黒百合はその実、自らがそうあれかしと課した清廉の呪いに縛られて、真っ白でありたいと願ったが故に、当然な自己の欲求すら切り捨てんとした。

 私には堪え難いものだった。その生き方は喉を焼くような苦しさだから。

 

 清廉を汚すことは許されない。けれど、清廉が清廉であるためにその自傷に等しい行為に及ぶのは()()()()

 だから、

「私は一生あんたを許さない!だから!」

 

 貴女のその汚れを私のせいにしていいから、

 

「私のファーストキス(こころ)を奪った責任、取ってもらうからな…!」

 

 

 

 

 

「それ、ほぼプロポーズじゃないですか?」

「ははは、確かにそう思いますよね」

 グラスの中の酒を転がしながら、冗談めかした言葉に私は苦笑で返した。

 薄暗い店内、残っている客は私とこの女性だけだった。ウェーブのかかった茶髪と濃紺のワンピースは、黒でないからこそこの仄明るい闇に溶け行くようだ。

 あと誰かいるとするならばこのカウンターを挟んだ先の、黒髪を短く切ったボーイッシュなバーテンダーだけだった。そう言えばこういう人のことをバーメイドと呼ぶんだっけ。

「じゃあその方とはまだ仲睦まじく?」

 質問の答えに私は小さく横に首を振った。

「一緒に行こうって言ってた大学があったんです。自分なりに全力出したんですけど、結果は向こうだけ受かって私は滑り止め。笑っちゃいますよね、啖呵切っといてそんなんじゃ」

 転がす酒を眺めながら、独白のように続ける。自分の過去をグラスの中に投影するように。

「だから高校を卒業してそれっきり。家も近くなかったし、当時は今みたいにSNSとか無かったですから、もうすっかり疎遠になっちゃいました」

「それは…悲しいですね」

 彼女の相槌を聞きつつ一口飲む。ほろりと酔いの味が染み渡る。

「始まりを考えれば、ある種当然と言えば当然ですけどね。未成年のタバコっていう不道徳が引き寄せたんですから、引き裂かれるのは因果応報だ、って…」

 そこで一度グラスを置いた。テーブルとぶつかった小さくて無機質な音を、からん、という氷の軽い音が追いかけた。

「お強い人ですね」

「納得するための詭弁ですよ」

「十分ですよ。飲み込もうと思っているだけで、あなたは十分強い人です。ちなみにその件のおタバコは、今は?」

「まあたまに。あまり吸いませんが」

「おや、その人の影響ですか?」

 またも冗談めかして質問してきた。意地の悪そうな笑みも添えられている。

「ふふ、そうと言えばそうですね。ええ…この味が忘れられなかったんでしょうね、きっと」

「…素敵ですね、それ」

 今度もまた笑みがついた言葉だった。けれどその笑みには意地悪さは微塵もない、無垢な微笑みだった。

 

「すいません、なんか長々と」

「いえ、良いんですよ。こっちから振った話でしたし」

 帰る支度をする彼女に、私は軽く謝辞を述べた。

「それに売文業を相手にしてる身ですから、むしろ良い話のネタが手に入ったので儲けものです」

「もしかして私、利用されました?」

「ええ、それはそれはバッチリと」

「ひどい人ですね、泣いちゃいそうです」

「あははっ、ジョークですよ、ジョーク。あなたもそうでしょう?」

「あれ、バレてた」

 と言うと彼女はふふっ、とまた笑った。

「でもあなたの話、本当に素敵でしたよ。もし機会があればまたお話聞かせてください」

「ええ、もちろん。話のネタになるかはわかりませんけどね」

「ご心配なくです」

 そう言って笑顔と共に彼女は退店して行った。

 かくして私はとうとう唯一の客となった。最初は十分か二十分程で帰ろうと思っていたが、随分長くいてしまったものだ。

 

 一輪だけで咲く折れた白百合を見た。その様があんまりにも高木真矢(あのひと)に重なってしまったものだから、なんとなくセンチメンタルになってしまったのか、普段なら来ないようなバーに来て一人懐かしさに酔いしれようとした。そんな折にあの女性に話を聞かれたものだから、気づけば昔語りを始めていた。全て酔いのせいにして。

 改めて話して再度分かった。最初は嫌いだった。けれど最初から憧れていた。自分とは生きる世界が違うと思っていた。けど本当はそうではなくて、彼女と私に隔たりなど一つもなかった。どっちも相手を羨んで、どっちも相手とは釣り合わないと思っていた。対極の人間であるように見えて、その実よく似た者同士だった。気づくまで随分時間がかかったのが悔やまれるけど。

 しかし昔話をするほど歳を食った覚えはなかったけど、存外そうでもなかったようだ。そっか、あれももう十五年ちょっと前か。気づけば結構昔になったな。

 

 私はタバコをポケットから出してその一本を抜き取った。この回想の幕引きをするために、発端の煙を燻らせたかった。昔は無理だなんだと思っていたけど、(これ)と同じで慣れれば案外良いものだと思えてしまう。

 咥えてポケットからライターを取り出す。安っぽい使い捨てのものだ。先端に火をつけて、そのままその手の中にライターを握って煙を吸う。口の中に広がる粗い苦味は、当時は咽せて喉を痛めさせたあの時と同じもの。それなりに銘柄にも明るくなった今でもこの味を選ぶということは、やはりあの時の味が忘れられないからなのだろう。

 吐き出した薄灰は薄明かりに溶けて消えた。いつもの光景なのに何か物足りないのは、過去を思い出したが故に寂しさと言う穴が空いたからだろうか。

「灰皿失礼します」

 バーテンダーの声。なんとも澄んだ声だ。

 私がもう一度吸い込み始めた辺りで、陶器製の灰皿が渡された。そういえばもらうのを忘れていたことに気づいて、お礼を述べるために途中で止めて口からタバコを離し、顔を上げた。

 

 その途端の事。灰皿に触れていたバーテンダーの手が私の頬に添えられ、優しいキスが私に贈られた。

 

 その口付けはあまりにも静かだった。包み込んだ無音は、けれど静寂と言うよりも静謐だった。触れ合った唇の感触が不思議なほどに心地良かったのもあるのだろう。ふわりと温かくも、潤いのある柔らかさ。

 数秒程して顔は離された。見えた顔は宝物のように美しい瞳を持っていた。眼鏡がないからこそ、その吸い込まれそうな眼がより鮮明に見える。そして白い肌と対比するように、頭髪は黒絹のように艶やかだ。

「ラッキーストライク…か。懐かしい味…」

 

 そしてその表情は、私を奪い去ったあの時と同じ笑顔をしていた。

 

「まだわたしを許さないでいてくれてる…?」

 

 悩ましい程に魅惑的なその笑みは、黒百合のように綺麗だった。




 ー よくわかれ人物紹介 ー
・櫛野一実
拗らせの金髪。タバコは大学卒業して二年したくらいから始めた。最初「田淵」って苗字にしようと思ったけど高木となんか発音似てるからやめた。こういうキャラは個人的に四白眼のイメージがある。

・高木真矢
拗らせの黒髪。一応本当に禁煙はした。めっちゃかっこよく陰キャと陽キャを表現できる知能を持つ。筆者は途中何度もこいつが眼鏡かけてることを忘れた。ラッキーストライクにいきなり手を出した猛者。

・売文業相手にしてる隣の客
なんかよくわかんない茶髪。

・放課後櫛野の隣にいたボブカット生徒
迫真の振り返りをかました黒髪。

・アンケート出してない男子生徒
誰。

・筆者
タバコを吸った経験も酒を飲んだ経験もないから作中のその辺の描写は全部想像。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。