Re:ゼロから苦しむ異世界生活 作:リゼロ良し
「――――ッ!!」
喉の奥から引き攣った呼吸が漏れ、ナツキ・スバルは弾かれたように上体を起こした。
肺が空気を求めて激しく収縮し、荒い呼吸が静まり返った室内に響き渡る。胸を押さえ、何度も息を吸い込むが、どうにも呼吸が整わない。額には玉のような汗が浮かび、背中に張り付いた衣服が不快な湿り気を伝えていた。
「はっ……はぁ……っ、ぐ……!」
咄嗟に腹部へ手を伸ばした。
指先が触れたのは、血に濡れた臓物でも、ぱっくりと開いた傷口でもない。衣服越しに伝わる、何の変哲もない自分の腹だった。
それでも、痛みの記憶だけは鮮明だった。
腹を横一文字に切り裂かれた瞬間の、焼けつくような激痛。身体の内側から何かが零れ落ちていく、あの吐き気を催す感覚。遠ざかっていく意識の中で、耳に届いた女の声。
──腸を可愛がってあげて。
そんな事を口にするのは一人しか知らない。
「……エル、ザ……?」
掠れた声が、誰もいない室内に落ちた。
そこでようやく、スバルは自分が寝台の上にいることに気づいた。
見覚えのある天井。見覚えのある壁。そして、身体を包む寝具の感触。少なくとも、つい先ほどまで自分がいたはずのロズワール邸ではない。つまり、致命傷だと思っていたが実は助かり、ロズワール邸の一室で目を覚ました……と言うわけではなさそうだ。
スバルはゆっくりと視線を巡らせる。
窓から差し込む光が室内を照らし、家具の配置も、寝台の位置も、記憶にあるものと寸分違わない。そこは聖域に到着してから寝泊まりしていた建物の一室だった。
「……なん、で……」
思考が乱れる。小賢しく考えることこそが唯一の武器、と自負していたのに働かない。
最後に覚えているのは屋敷にいたこと。
気付いたら倒れていた。夥しい血と焼けるような痛み、身体の外へと何かが出ていく感覚。そう、腹を裂かれたのだ。
あれほどの傷を負って、助かるはずがない。何より、暗く深く沈み逝く最後に感じたあの冷たさを、スバルは知っている。
【死】
紛れもなく、自分は死んだ。
「…………あ」
その事実を認めた途端、脳裏に一つの言葉が浮かび上がった。
【死に戻り】
この世界へ来た時、いきなり経験した最悪なもの。
幾度となく経験し、そのたびに絶望と苦痛を味わってきたスバルだけに与えられた異常な権能。嫉妬の魔女が齎した権能。
だが、あまりにも久しぶりだった。
幾多の困難を乗り越え、死なずに済む日々を重ねるうちに、いつしか遠ざかっていた感覚。二度と味わいたくないと願いながら、それでも決して忘れることのできなかったもの。
それが今、何の前触れもなく、再び牙を剥いた。
「……マジ、かよ……」
震える唇から、力のない声が零れた。
腹部を押さえる手に、知らず力が籠もる。傷などない。痛みもない。それなのに、ほんの少し目を閉じるだけで、あの刃の冷たさと、身体を切り開かれる感触が蘇ってくる。
夢ではない。悪夢などという生易しいものでもない。
自分は確かに殺された。
そして、再び生きている。
「……くそ、ったれ……」
俯いたスバルの額から、汗が一滴、寝具へと落ちた。
──何が起きた。どこまで戻った。誰が無事で、何が失われた。
確かめなければならないことは山ほどある。
だが、混乱した頭は思うように働かず、胸の奥では、とうに忘れたつもりでいた死への恐怖が、じわじわと息を吹き返し始めていた。
──まずは落ち着け。何が起きたのか、順を追って考えろ。
そう自分に言い聞かせながら、スバルは震える手を握り締めた。呼吸は依然として浅く、胸の奥には嫌な感覚が居座っている。それでも、ただ怯えているだけでは何も始まらない。自分が見聞きしたことを、一つずつ拾い上げていくしかなかった。
「(……そう。俺たちは、皆をつれて村に帰って)」
思い出すのは、アーラム村へ帰還したときの光景だった。
長らく聖域に留め置かれていた村人たちが、ようやく生まれ育った故郷へ帰ってきた。王都へ避難していた者たちは既に戻っており、離れ離れになっていた家族や知人との再会を喜ぶ声が、村のあちらこちらで上がっていた。
白鯨を討ち、魔女教大罪司教『怠惰』を退け、それでもなお叶わなかった、当たり前の日常への帰還。
聖域の試練を突破したわけではない。結界を解き放ったわけでもない。それでも、あの瞬間だけは確かに、一つの願いが叶ったのだ。エミリアの願い、そしてスバルの、皆の願いを。
誰もが安堵していた。スバル自身も、ようやく肩の荷が下りたような気がしていた。
しかし、その喜びは長く続かなかった。
村の入り口付近から突如として響き渡った悲鳴。
続いて聞こえた獣の咆哮と、地面を蹴り立てる無数の足音。押し寄せてきたのは、数えるのも馬鹿らしくなるほどの魔獣の群れだった。
平穏だった村は、瞬く間に恐慌状態へと陥った。
レムは即座に迎撃へ回り、オットーは声を張り上げながら村人たちを避難させようと奔走した。戦う力を持たないスバルも、ただ突っ立っていたわけではない。自分にできることを探し、まだ魔獣の襲撃が及んでいないと思われるロズワール邸へ向かうことを決めたのだ。
屋敷にはペトラがいる。フレデリカも、ベアトリスもいるはずだった。
フレデリカの立場には不明な点が残っていたが、レムは彼女が悪事を働くとは考えられないと話していた。だからこそ、スバルも必要以上に疑うことはしなかった。
当然、レムは同行を申し出た。しかし、目の前では村人たちが魔獣に追われている。彼女が戦線を離れれば、それだけ多くの命が危険にさらされることになる。
適材適所、逃げ足を甘く見るな、とそんな軽口まで叩いて、スバルはレムを説得した。危なくなれば逃げればいい。屋敷の皆に危険を知らせ、できることなら安全な場所へ連れ出す。それだけのつもりだった。
「(……それで、屋敷に着いて……)」
スバルの眉間に皺が寄った。
妙だった。
ロズワール邸へ辿り着いたとき、屋敷の扉という扉が開け放たれていたのだ。何かがおかしい。そう思った記憶はある。だが、ペトラたちの安否を確かめなければという焦りが、それに勝っていた。
そして、屋敷の中へ足を踏み入れた。
次の瞬間には、腹を裂かれていた。
「……っ!」
反射的に腹部を押さえ、スバルは奥歯を噛み締めた。胃液が逆流してくる。気を抜けば吐き出しそうになるのを懸命に堪える。
刃が振るわれた瞬間さえ、まともに認識できなかった。気づけば床に倒れ込み、夥しい血が身体の下に広がっていた。視界に映ったのは、見覚えのある黒髪と、こちらを見下ろす女の姿。
【腸狩り、エルザ・グランヒルテ】
王都で初めて遭遇し、幾度となく自分を死へと追いやった、あの女だった。
彼女は笑っていた。恍惚とした笑みだった。
まるで恋人との再会を喜ぶかのように、以前交わした約束を覚えているかと問いかけながら。
「(……ふざ、けんな。あのクソ、サディストが……!)」
思い出すだけでも次から次へと吐き気が込み上げる。
だが、スバルは死の間際、ただ恐怖に呑まれていたわけではなかった。
もう助からない。それは理解していた。ならば、せめて何か一つでも情報を掴まなければならない。次があると信じたくなどなかったが、それでも、無意味に死ぬことだけは避けたかった。
そして、エルザは口にしたのを覚えている。今、魂に刻まれた記憶を揺り起こした。
『村の方は大丈夫なのかしらね? 怖がるメィリィを連れてくるのは一苦労だったのだけど』
「……メィリィ……?」
スバルの口から、あの少女の名前が零れた。
これは偶然ではない。
屋敷に現れたエルザと、村を襲った魔獣の群れ。その二つは、無関係に起きた災厄ではなかったのだ。
メィリィもまたロズワール邸を、アーラム村を襲撃してきた一人。
「(……あの魔獣どもも、仕組まれてたってのか……?)」
かつて経験した魔獣騒動が脳裏を過ぎる。
あのときの出来事と、今回の襲撃。そこにメィリィという名前が加わったことで、散らばっていた疑問が一つの線で繋がり始めていた。
誰が仕組んだのか。何のために村と屋敷を同時に襲わせたのか。まだ分からないことは多い。
それでも、一つだけ確かなことがある。
村人たちの帰還を祝うはずだったあの一日は、何者かの悪意によって、最初から血に染められるよう仕組まれていたのだ。襲撃タイミングが良すぎるから、狙いを定めた時間帯だったのか、或いはそれはたまたまだったのか……。
「……くそっ……!」
握り締めた拳が、寝具の上で小さく震えた。
せっかく帰れたのに。
ようやく皆が笑えたのに。
その光景を思い出すたびに、胸の奥が締めつけられる。
そして、スバルは改めて理解した。
あの幸福は、もうどこにもない。
自分が死に戻ったことで、村人たちが故郷へ帰り着いたという事実さえ、まだ起きていない出来事になってしまったのだから。
だが、失われたのはそれだけではない。
村人たちの笑顔も、ようやく取り戻した平穏も、あの瞬間に交わした言葉も。全てがなかったことになった。スバルだけが覚えている、誰にも証明できない過去となる。
あの悲劇も無かった事になった。そしてその対価として支払ったものは――自分自身の命。
「……っ、は……」
不意に、呼吸が乱れた。
また、何度目になるか、胸の奥から何かが込み上げてくる。息を吸おうとしても肺が上手く膨らまず、喉がひどく狭まったような錯覚に陥る。腹部に添えていた手が小刻みに震え始め、指先から少しずつ感覚が遠のいていった。
死んだ。
死んだ。
その事実が、ようやく実感を伴ってスバルの中へ落ちてきた。
「……冗談、じゃねえぞ……」
思わず零れた声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
久しく忘れていた。いや、忘れようとしていたのだ。死に戻りという権能が、どれほど理不尽で、どれほど残酷なものなのかを。
死ねばやり直せる。
言葉にすれば、たったそれだけのことだが、やり直しが利くと言うのは途轍もない程便利なもの。
だが、その言葉の裏側には、決して他人には理解できない苦痛がある。刃に肉を裂かれる痛みも、血が失われていく寒さも、意識が暗闇へ沈んでいく恐怖も、何一つとして省略されることはない。
そして何より、死ぬ瞬間まで、自分が本当に戻れるのかどうかさえ分からない。と言う不安は付きまとう。
「……くそ……くそっ……!」
両手で顔を覆った。
掌の内側で呼吸が跳ね、肩が震える。奥歯を噛み締めても、身体は言うことを聞かなかった。
怖い。
ただただ、怖い。
どれだけ強がろうと、どれだけ英雄と呼ばれようと、スバルは死を恐れるただの人間。痛いものは痛い。苦しいものは苦しい。痛いのも苦しいのも拒絶する。死にたくないという願いに、何の変わりもない。
それなのに、また戻ってきてしまった。
この先、同じ結末を避けられる保証などない。エルザは屋敷にいる。メィリィは魔獣を操っているかもしれない。村を守ろうとすれば屋敷が危険に晒され、屋敷を救おうとすれば村が襲われる。
どちらかを選ばなければならないのか。
また、誰かを見捨てなければならないのか。
そしてまた────死ぬ。
「……やめろ……やめ、ろ」
考えたくなかった。
再びあの女と向き合い、あの刃を突きつけられることを。腹を裂かれ、血溜まりの中で息絶えることを。自分の命が、何の抵抗もできずに奪われることを。
それでも、脳裏から消えてくれない。
震えが止まらない。
「……なんで、また……ッッ!?」
俯いたまま、目を閉じたままのその暗闇の中で、不意に別の記憶が浮かび上がった。
かつて、自分から望んだことがある。
一人の男が背負っているものを、少しでも分かち合いたいと。
何度も死に、何度もやり直し、そのたびに誰にも知られない苦しみを積み重ねてきた男の姿。自分のために傷つき、自分の知らないところで痛みを引き受け、それでも何食わぬ顔で隣に立っていた男。
何より、圧倒的な孤独。誰にも話すことも許されない孤独と言う名の地獄から救ってくれた男。
【ツカサ】
味わってきたものを知りたい。自分にも背負わせてほしい。
あの時、苦しみ倒れたあの時に、スバルは強く思った。
そして、願いが叶った先で何を味わったのかも。
「…………あ」
身体の震えが、一瞬だけ止まった。
思い出したのだ。
あれは、死ではなかった。
少なくとも、死という終わりを与えられる苦痛ではなかった。
逃げ場のない痛み。意識を手放すことさえ許されず、終わりを求めても終わらない苦しみ。どれだけ懇願しようと、どれだけ壊れようと、ただ耐え続けるしかなかった、あの無間地獄。
自ら望んだはずだった。
ツカサと同じものを背負いたいと、確かに願ったはずだった。
それなのに、いざその苦痛を味わったとき、スバルは何を思った。
助けてほしい。
もう嫌だ。
誰でもいいから、終わらせてくれ。
そんな願いしか、浮かばなかったではないか。
「……っ……!」
顔を覆っていた手が、ゆっくりと下りた。
血の気が引いていく。唇から色が失われ、見開かれた瞳は、何もない空間を映したまま動かなくなった。
あの地獄を、ツカサは知っている。
自分が一度味わっただけで、二度と御免だと思った苦しみを。
そして、今のツカサは――。
「(……待て)」
思考が途切れた。
「(……俺は、死んだんだ)」
死に戻った。
ならば。
「(……ツカサ?)」
その問いが浮かんだ瞬間、スバルの中から、エルザへの恐怖も、メィリィへの疑念も、村を襲った魔獣への怒りも、全てが遠ざかっていった。
今、あの男は眠っている。
「…………まて」
目を覚まさないまま、何も語れないまま、ただ寝台に横たわっている。
そんなツカサが、もしも。自分が死んだことで、再びあの地獄に突き落とされていたとしたら。
「…………まて、まてまてまてまて!!」
スバルは、息をすることさえ忘れて、飛び起きた。
縺れる足をどうにかしつつ、部屋を飛び出す。
そして覚束ない足取りのまま駆け抜けた。
焦る気持ちに身体が追いつかず、何度も足を縺れさせ、そのたびに壁へ手を突いて体勢を立て直した。転びそうになろうが、肩をぶつけようが、構ってなどいられなかった。かつての世界の、無くなった世界の記憶を頼りに。
やがて、見覚えのある扉が視界に飛び込んでくる。
スバルは勢いを殺すことも忘れ、ほとんど身体ごとぶつかるようにして、その扉を押し開けた。
「ツカサぁッ!??」
扉が勢いよく開かれ、室内にいた三人の視線が一斉にそちらへ向けられた。
レムは目を丸くし、ガーフィールは突然の騒音に顔を顰める。そして、寝台の上にいたラムだけが、さしたる驚きも見せずに扉の向こうを見据えていた。
息も絶え絶えのスバルは、ただ一点だけをみている。
肩で荒く呼吸し、額には汗が滲み、顔色はひどく悪い。何かに追われてきたかのような形相。
「スバル君──?」
レムが心配そうに声をかけた。ツカサが戻っきてくれて良かったのだろう、とレムは考えていたのだが、スバルのその様子は何かが違う、と思ったからだ。
しかし、レムの声はスバルの耳には届かなかった。
視線の先にいるのは、ただ一人。
寝台の上で、静かに目を閉じている男だった。
銀色の髪。見慣れた顔立ち。そして、微かに上下する胸。
その隣ではラムが同じ寝具に身を収め、彼の胸元へ頬を寄せている。本来のスバルは、朝から何をしているのかと大騒ぎしていただろう。
だが、今は……
「……ツカ、サ……」
掠れた声が漏れた。
次の瞬間、スバルは寝台へ駆け寄っていた。そして、手を伸ばす。
「ツカサッ!! おい、ツカサ!!」
スバルは寝台の縁へ膝をついた。
震える手がツカサの肩に触れる。確かめるように顔を覗き込み、胸が上下していることを見て、ようやく呼吸しているのだと理解した。
だが、それだけだった。
目は開かない。
呼びかけても、返事はない。
「……おい、頼むって……。なあ……!」
肩に置いた手に力が籠もる。
眠っているだけなのか。それとも、また何かが起きてしまったのか。スバルには分からない。
分からないからこそ、恐ろしかった。
「…………俺、俺、おれ、ま、また……!」
言葉が喉に詰まった。言葉がうまく出てこない。
胸の奥から込み上げるものを抑えきれず、スバルはツカサの寝具を掴んだ。縋りつくように身を屈め、顔を伏せる。
「ごめん……ごめん……! 俺のせいで……また、お前に……っ!」
声が震え、目元から涙が零れ落ちた。
【自分が死んだ】
その事実が、眠り続けるツカサに何をもたらしたのか。確かめる術はない。それでも、あの無間地獄を知っているからこそ、最悪の可能性ばかりが脳裏を駆け巡っていた。
「……スバル、君?」
レムが戸惑いながら歩み寄ろうとする。
彼女には、スバルがこれほど取り乱す理由が分からなかった。ツカサが帰ってきたことを知り、嬉しさのあまり感情が溢れたのだろうか。そう思いながらも、その尋常ではない様子に胸が騒ぐ。
「オイオイ、何だァ? いきなり飛び込んできやがって、今度ァ泣き出すたァ……」
ガーフィールも呆気に取られていた。
しかし、その二人とは対照的に、ラムは静かだった。
「……俺が、俺がまた……! だから、お前が……!」
「――フーラ」
短い詠唱とともに、風が爆ぜた。
「――――ッ!?」
突如として生じた突風が、寝台に縋りついていたスバルの身体だけを掬い上げる。
「ぁぁぁぁぁああああッッ!?」
何が起きたのか理解する間もなく、スバルは凄まじい勢いで後方へ吹き飛ばされた。
開け放たれた扉を抜け、廊下の向こうへと一直線。
「ラムとツカサのひと時を邪魔するなんていい度胸ね、バルス」
鋭い目付きのラムがゆっくりとした動作でベットから出てくる。
ガーフィールもそのラムの殺気には思わず身震いする程だ。
ただ、心情を共感覚で理解できるレムだけは別。
「レム。バルスを仕置きにいくからそれまでの間、ツカサをお願いね」
「はい、姉様」
「ガーフ。草でも食べてなさい」
「俺様ァ扱い雑過ぎッだろうが!」
ラムはそう言うと吹き飛ばされた方へと歩き出す。
──ある事実を伝える為。