Re:ゼロから苦しむ異世界生活 作:リゼロ良し
「……いっ、てててて……!」
ラムの風魔法によって強制退場させられたスバルは、部屋から少し離れた廊下に仰向けとなり、全身に走る鈍い痛みに顔を顰めていた。
何が起きたのか、すぐには理解できない。ただ、寝台に縋りついていたはずの自分が、今は天井を見上げているという事実だけがあった。
そして、その視界に一つの影が差した。
「……少しは頭が冷えたかしら、バルス」
聞き慣れた声。
視線を向ければ、そこには腰に手を当て、冷ややかな眼差しでこちらを見下ろすラムの姿があった。
「……ラ、ム……?」
「ええ、ラムよ。そんな間抜けな顔をして、まだ自分がどこにいるのかも分からないの?」
辛辣な物言いは相変わらずだった。
だが、スバルの頭の中は依然として混乱していた。自分は死んだ。死に戻った。そして、ツカサは今も眠っている。あの地獄を再び味わわせてしまったのではないかという恐怖が、胸の奥で渦を巻いている。
それでも、目の前のラムが普段と何一つ変わらない態度を見せていることが、ほんの僅かにスバルを現実へ引き戻した。
「……いや、まあ……なんつーか……」
何か言わなければ。
そう思ったのは、気まずさを誤魔化すためだったのか。それとも、いつもの自分を取り戻そうとしたからなのか。
ともかく、スバルは引き攣った口元を無理やり持ち上げた。
「……ラムちー。そんな真上から見下ろしてっと、スカートの中が見えちまうぞ? いやぁ、朝っぱらから随分と大胆なサービスで……」
「――汚らわしい」
「ぐえっ!?」
言い終わるより早く、ラムの靴底、踵の尖り鋭利な部分がスバルの腹部へと押し当てられた。
容赦のない一踏み。
「いでででで! 血! 血ぃ出るやつそれ!!!」
「好きな女が他にいる身のくせに卑しくもラムの下着を覗こうだなんて。バルスの頭の中には、煩悩しか詰まっていないのかしら。穢らわしい」
「ちょっ、待て待て! 俺が覗こうとしたんじゃなくて、そっちが真上に立ってんだろ!?」
「言い訳まで見苦しいわね。確かにラムは可愛い。男ならば致し方ない。でも、このラムの下着を見るのも触れるのも、何もかも、権利があるのはこの世界でツカサだけよ。互いの全てを見せるのも、見るのも、ラムとツカサだけに許された特権と知りなさい」
「権利制だったの!? つーか、そんなこと堂々と言うなよ、大胆過ぎるぜ姉様!?」
反射的に飛び出したツッコミ。
それは、ほんの一瞬だけ、いつものナツキ・スバルの声だった。
ラムはそんなスバルを見下ろしたまま、僅かに目を細める。
「ハッ。ようやく、いつもの騒がしいバルスに戻ったようね」
その言葉に、スバルの口元から笑みが消えた。
ラムは足を退けると、改めてスバルを見据えた。
「さて。少しは落ち着いたのなら、話をしましょうか」
「……話、そうだ! 話さねーと!! ラム、聞いてくれ! 俺は……」
「その前に、間抜けなバルスに一つだけ忠告しておくわ」
何かを言いかけたスバルの言葉を、ラムは人差し指を立てて遮る。
その声音は先ほどまでと変わらない。だが、スバルを見下ろす瞳には、冗談の入り込む余地など微塵もなかった。
「これから話すことについて、バルスは慎重に言葉を選びなさい。勢い余ってバカなことを、何もかもを話しても構わない、なんて思わないことね」
「……は?」
「分からないのなら、もっと分かりやすく言ってあげるわ。……バルス。自分がどんな制約に縛られているのか、忘れたわけではないでしょうね? 禁忌を犯せばどうなるのか、身をもって知っているはずよ。知っていることと、口にしていいことは別。それとも、そんなことまで忘れてしまうほどの無能なのかしら?」
ラムの言葉にスバルは眉を寄せた。
一瞬、何を言われているのか理解できなかったが、ラムの真剣な眼差しを見つめるうちに、記憶が、記憶の扉が開き始めた。
禁忌を話すことで自分の身に起きたこと、そして言われたこと、忠告されたこと。
長らく死に戻りをすることが無かったからか、……それはつまり沢山迷惑をかけ、沢山守ってもらったからに他ならない。
「……マジ、ダセーな。喉元通り過ぎれば何とやら、かよ……。悪い
ラム。俺は……」
「それ以上は言わなくて結構よ。バルスがバカなのは予定調和だしね」
「ぁ〜〜、マジ返す言葉もねーよ。寧ろ良い気付けになってるよ!」
「なじられて気持ちよくなるなんて、とんでもないド変態ね」
「いやそこまで言ってねー!」
スバルはそう声を上げるが、内心ではかなり安堵していた。
知っていてくれる、という事実がここまで精神を軽くさせてくれる事を、改めて思い出せたからだ。
あの時は──ツカサが……。
「確かに知りたいことはある。でも、知る必要のないことまで聞くつもりはない。まして、バルスの軽率な一言で、ラム、ツカサやレムまで危険に晒されるなんて、冗談じゃないわ」
「……返す言葉もねー。いや、マジで気をつける。だから話をさせてくれ。大丈夫だから」
スバルは頬を思い切り挟み込む形で張った。
乾いた音が廊下に響き、頬に走った痛みが、残っていた混乱を幾分か追い払った。
スバルは大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。まだ胸の奥には冷たいものが居座っている。それでも、今度こそ言葉を選ばなければならない。
「……よし。ラム、聞いてくれ。かなりヤバいことになってる」
「前置きは良いわ。そもそもバルスの頭がおかしいのは今に始まったことじゃない。さっさと話しなさい」
「俺の頭の話じゃねーよ! ……いや、今はマジで冗談抜きで聞いてくれ」
いつもの調子で返しながらも、スバルの表情はすぐに引き締まった。
そして、語り始める。
この先、アーラム村で起きる惨劇と、ロズワール邸に潜んでいた脅威について。
ようやく聖域からの帰還を果たし、故郷へと戻った村人たち。久方ぶりの再会を喜び合う彼らを襲ったのは、突如として現れた魔獣の群れだった。
レムが迎撃に回り、オットーが村人たちの避難を引き受けたこと。そして、屋敷に残っているペトラやベアトリスたちを案じたスバルが、一人でロズワール邸へ向かったこと。
そこで待ち受けていたのが、かつて王都で刃を交えた【腸狩り】――エルザ・グランヒルテだった。
さらに、エルザが口にしたメィリィという少女の名前。それは以前、アーラム村を襲った魔獣使いの名でもあった。
村への魔獣の襲撃と、ロズワール邸に現れたエルザ。二つの事件が偶然同じ時期に起きたとは考えにくい。
スバルは自分がどのようにしてそれらを知ったのか、その経緯だけは伏せたまま、覚えている限りの情報をラムへ伝えた。
話を聞き終えたラムは、すぐには口を開かなかった。
ただ、その柳眉が僅かに寄せられる。
「……随分と、舐められたものね」
「……ラム?」
「メイザース家の領地に魔獣をけしかけて、屋敷にまで賊を送り込む。しかも、村と屋敷を同時に狙うなんて、随分と好き勝手してくれるじゃない。しかもロズワール様が留守の間を狙うなんて」
吐き捨てるような言葉とは裏腹に、その声音は静かだった。
しかし、スバルには分かる。
表情こそ普段と大差ない。しかし、スバルには分かる。こうして静かに言葉を紡ぐラムは、決して機嫌が良いわけではない。
むしろ、その逆だった。
ロズワールに仕え、メイザース家の使用人として日々を過ごしてきた彼女にとって、領民を襲い、屋敷を荒らそうとする者たちの存在は、到底看過できるものではない。
「しかも、相手はあの腸狩り。よりにもよって、面倒な女を寄越してくれたものね」
「……ああ。あいつはマジでヤバい。王都んときだって、兄弟、それにラインハルトがいなきゃどうなってたか……」
「あの時の魔獣使いが群れまで引き連れてくるとはね。領民を巻き込むなんて、随分と趣味の悪い連中……」
ラムは小さく息を吐くと、腕を組んだ。このやり口は魔女教と似た匂いを感じた。が、今はそれはどうでも良い事。
「ペトラもベアトリス様も屋敷にいるのよね。フレデリカもいるとはいえ、楽観できる状況ではないわ」
「……ああ。だから、何とかしねーと。村の連中も、ペトラたちも、絶対に助けなきゃならねえ。つーか、レムにも言われたが、フレデリカが連中の仲間の可能性は無しで良いのか?」
スバルの、問に対してラムは短く頷いた。
「フレデリカが何かを隠している可能性までは否定しない。でも、腐ってもメイザース家の使用人よ。少なくとも、ペトラや領民を平然と見殺しにするような外道ではないわね」
「……つまり、ラムもレム同様の意見、最低限の信用はしていいってことか?」
「人の話を聞きなさい、バルス。信用できることと、何も疑わなくていいことは別よ」
呆れたように手を振るラムに、スバルは考えを改めた。確かに、何もかもを信用するか、何もかもを疑うか。そんなゼロか百かの話ではないのだ。
「分かってるって。……レムも同じこと言ってたし、少なくとも、フレデリカがペトラたちを見捨てるような真似はしねえってことだけは頭に入れとく」
「そういうことよ。フレデリカにも事情はあるでしょうけれど、それと屋敷の人間を危険に晒すことは別問題だわ」
「……そっか。なら、ひとまずそこは信じるしかねえな」
スバルは小さく頷いた。
フレデリカへの疑念が完全に晴れたわけではない。だが、彼女をよく知るレムとラムが揃って一定の信頼を寄せているのなら、少なくとも今は、その判断を尊重すべきだろう。
何より、疑っているだけでは何も変わらない。村を襲う魔獣も、屋敷に現れる腸狩りも、現実に迫っている脅威なのだ。
「……ったく、次から次へと厄介事ばっかりだぜ。村も屋敷も、絶対に何とかしねえと……」
そう呟きながら、スバルは拳を握り締めた。
そして、話題を変える。
村人たちも、ペトラも、ベアトリスも、レムも、オットーも。誰一人として失いたくない。その思いに偽りはない。
だが、胸の奥には、先ほどからどうしても振り払えない恐怖が居座っていた。これを聞かなければ、確認しなければ本当の意味で先には進めないのだ。
「……ラム。もう一つ、どうしても聞かなきゃならねえことがある」
「何かしら」
「……ツカサのことだ」
その名前が出た瞬間、ラムの柳眉が僅かに動いた。
「ツカサが、どうかしたの?」
「……お前、分かってんだろ? 俺が何を心配してるのか。と言うか、ラム自身が俺に釘を刺したじゃねぇか。俺のせいで、また……」
言いかけて、スバルは唇を噛んだ。
先ほどラムに忠告されたばかりの禁忌。その存在を思い出し、喉元まで出かかった言葉を辛うじて飲み込む。
しかし、言葉を選ぶことと、恐怖を抑え込むことは別だった。
「なあ、ラム! 頼む、教えてくれ! ツカサは大丈夫なんだよな!? だから悠長に俺と話してんだよな!?」
気づけば、スバルはラムへと詰め寄っていた。
「――近いわ」
「ぐほっ!?」
次の瞬間、腹部に鋭い衝撃が走った。
ラムの前蹴りが、迫ってきたスバルを容赦なく押し戻したのだ。
「い、いってぇ!? おまっ、今はそういう場合じゃねえだろ!? 重要中の重要事項だぞ!」
「そういう場合だから言っているのよ。ラムにそんなに顔を近づけて、バルスは何をするつもりなのかしら。いやらしい」
「いやらしい要素どこにあった!? こっちは真剣に聞いてんだよ!!」
「真剣な顔をして迫れば、何をしても許されるとでも? とんだ勘違い男ね。ラムに近づいていいのはツカサだけよ」
「また権利制かよ!? つーか、だから今はそんな話じゃねえって!」
腹を押さえながら抗議するスバルに、ラムは呆れたような溜息を吐いた。
「……まったく。少し落ち着いたと思えば、すぐにこれね。バルスの頭は鳥並みなのかしら」
「悪かったな! けど、俺は……!」
「分かっているわ」
その一言で、スバルは口を閉じた。
先ほどまでの辛辣な声音とは違う、静かな声だった。
「バルスが何を心配しているのかくらい、ラムにも分かるわ。ツカサのことだもの。余計な真似をしたら死なない程度に殺るって約束したものね」
「……物騒な話だが、返す言葉もねえよ」
ラムは、スバルの言葉を聞くと、ほんの一瞬だけ、背後にある部屋の扉へと目を向けた。
その向こうでは、愛しい人が今も眠っている。
「バルスは、ツカサが無事かどうかをラムに尋ねたわね」
「あ、ああ……」
「それなら、ラムの答えは一つよ。ツカサは今もあの部屋で眠っている。呼吸も、脈も、何も変わっていないわ」
「……そ、そうか……」
スバルの肩から、僅かに力が抜けた。
しかし、ラムはそこで言葉を止めなかった。
「けれど、それだけがバルスの聞きたい答えではないことも、分かっている」
「…………!」
「バルスが知りたいのは、ツカサが今、どうしているかではなく――」
ラムはそこで一度、言葉を区切った。
そして、スバルの目を真っ直ぐに見据える。
「……ツカサが、
「……ッッ!!」
スバルは、ラムの言葉を聞いて身体を震わせた。
ラムの様相から、多分ツカサは────と、悪いほうへと思考が支配される。思わず目をつむる。耳も塞ぎたい気持ちでいっぱいだった。
だが、その思考は次の衝撃で掻き消される。
「馬鹿な妄想に酔うのは止めなさい、バルス」
「ぐへぁ!???」
ラムの前蹴りである。
しかも、靴の踵がめり込んで非常に痛い。流石に抗議。
「ちょっ、おまっ! さっきから蹴りすぎだろ!? ツッコミみたいなノリで、終わるとか最悪だぞ!」
「ええ。勝手に悲劇の主人公を気取るバルスには、少々腹が立ったものだから仕方ないことだわ」
「ひ、悲劇の主人公……?」
「そうよ。何も聞かず、何も確かめず、勝手に最悪の結末を想像して、自分のせいだと嘆く。随分と安っぽい悲劇ね。そんなものに酔いしれる暇があるのなら、少しは人の話を聞いたらどうかしら」
嘲るように告げるラム。いつも通りな容赦のないラムだが、この言い方にはある種の希望が見える、と言うものだった。
痛いのは嫌だが。
「バルスの事情なんて、今はどうでもいいの。でも、馬鹿な真似をして、暴走するのは面倒だからラムが止めてあげたのよ。感謝なさい」
「……ってことは」
あまりにも容赦のない物言いだが、やはり希望を感じたのは気の所為でも無かった。
ラムは構わず続ける。
「ツカサは無事よ。ラムの愛の前では、世界の果て、例え次元が違う世界だったとしても隔たりにはならないわ」
自信満々に告げるラム。
その目はスバルは知らない。
先程の周回、つまり死に戻る前の世界では見なかった目だった。
ツカサに寄り添い、共に寝具の中で、というなかなか強烈なシーンだったので、スバルも覚えていたのだが……この目は、あの時のそれとはまた段階が違う。
「特別に教えてあげるわ。馬鹿な真似をしないように」
「────ったく、ただの惚気になるんじゃねえよな? 姉様」
スバルも思わず笑ってみせた。
心から安堵したからだ。
だが、ラムの説明で────また違う意味で絶望する事になる。
時は、僅かに遡る。
もっとも、それはナツキ・スバルが【死に戻り】を果たしたことで、既に失われたはずの時間。
本来ならば、誰の記憶にも残らないはずの世界。
既に失われ、誰の記憶にも残らないはずの時間軸。
アーラム村では魔獣の群れが人々を襲い、ロズワール邸では、腸狩りの凶刃にスバルが倒れようとしていた時間軸。
だが、その惨劇を知る由もない聖域では、変わらぬ時間が流れていた。
「……まったく。いつまでラムを待たせるつもりなのかしら」
寝台の傍らに腰を下ろしたラムは、眠り続けるツカサの額へ、そっと手を添えた。
銀色の髪が指先に触れる。規則正しい呼吸に、穏やかな寝顔。こうして見ている限り、ただ深い眠りについているだけのように思える。
黒髪もまた魅力があるが、銀髪も悪くはない。ツカサであるのならば何でも似合う。
ラムが褒める事など滅多にない故に、感涙し、感謝し、目を覚ましても良い、と言えるのだが、現状ツカサはどれほど呼びかけても、その紫の瞳が開かれることはなかった。
「──そろそろ起きなさい、ツカサ。ラムをこれだけ待たせておいて、何のお咎めもなしで済むと思ったら大間違いよ」
返事はない。
当然だと分かっていても、少しばかり腹立たしい。
ラムは指先で銀髪を梳き、額から頬へと手を滑らせた。
「……まあ、いいわ。今は特別に許してあげる。働き者には休養が必要だから。ラムのように」
その言葉に、ラムは小さく息を吐いた。
自分にも、果たさなければならないことがある。
いつまでも愛しい人の寝顔を眺め、ただ目覚めを待ち続けるわけにはいかない。自分も成すべきことを成さなければならない。本懐を遂げたその先に、きっと、間違いなく……。
「だから、ラムも頑張ってあげるわ。……本当に、これほどラムを働かせるなんて、随分と贅沢な男ね」
口ではそう言いながらも、頬を撫でる手つきはどこまでも優しかった。
そのまま、ラムはツカサの額に自分の額をそっと寄せる。
「……早く、戻ってきなさい」
小さな囁きが、静かな室内に溶けていった。
――その時だった。
「…………?」
ラムの指先が、ぴくりと震えた。
──何かが、おかしい。
最初は、ほんの僅かな違和感だった。風が吹いたわけでも、魔力が乱れたわけでもない。それなのに、今いる場所そのものが、ほんの一瞬だけ揺らいだような感覚があった。
ラムは顔を上げ、室内を見渡した。
何も変わっていない。
壁も、窓も、寝台も。目に映るものは全て、先ほどまでと同じ場所にある。
しかし、違和感は消えなかった。
むしろ、次の瞬間には、それが確信へと変わっていた。
「……何?」
世界が、軋んだ。
音が聞こえたわけではない。目に見える亀裂が走ったわけでもない。ただ、世界を形作る何かが、無理やり捻じ曲げられている。
そんな、言葉にし難い感覚。
ラムは反射的にツカサへ視線を戻した。
そして、気づく。
自分が触れている彼の身体から、何かが伝わってくることに。
「……ツカサ?」
呼びかける。
返事はない。だが、離そうとした手が止まった。
【違う。これは離してはいけない。決して離してはいけない】
理由など分からない。何が起きているのかも、理解できない。それでも、ラムの中にある何かが、強く訴えていた。
この手だけは、決して離してはならないと。
「……冗談じゃないわ」
ラムはツカサの手を握った。
指を絡め、逃がさないように、しっかりと。
嫌な予感が全身を巡るその次の瞬間。
世界が、白く染まった。
「――――ッ!?」
眩しさに目を閉じた覚えはない。
それなのに、気づいたときには、ラムの周囲からあらゆるものが消えていた。
足元には確かな感触があるというのに、床らしきものは見当たらず、見上げても天井は存在しない。
ただ、果てしない白だけが広がっている。
「……ここ、は」
ラムは周囲を見渡した。
見覚えがあるようで、ない。
かつてツカサの力によって触れた、あの白い世界。過去へ遡行する時に誘われるあの場所、それに似ている。
しかし、違う。
あの場所には、確かに何かを待つための静けさがあった。何かが始まるまでの、ほんの僅かな空白。
だが、ここは違った。
何もないはずの空間に、何かが満ちている。
それは、息苦しさにも似た、得体の知れない圧迫感だった。
「……ツカサ?」
思わず名前を呼ぶ。
その直後だった。
『――――ッ、ぁああああああああああああッ!!』
耳を劈くような絶叫が、響いた。
「…………!」
ラムは弾かれたように振り返った。
そこにいた。
白い空間の中で、まるでぽっかり空間に穴が空いた場所で、一人の少年が苦しんでいたのを。
目を凝らす。
ラムは目を見開く。
あの空間の穴の先にある光景、見覚えがあった。
何故なら、そこにラム自身もいるからだ。そして、その隣にはオットーもいる。この場所は……ルグニカ王国の城下町の一角。
覚えている、が、それ以上考えることを止めた。あまりにも痛ましく絶叫を続ける彼の姿が、目に焼き付いたからだ。
身体が、崩れている。
足元から。
でも、再生する。砕けたところから、再生する。足先から胸元まで、そして足先が再生し、頭部までは至らない。
次には指先から、腕から、足から。輪郭を保っていたはずの肉体が、何かに削り取られるように崩壊し、次の瞬間には元の形へと戻っていく。
そして、戻ったそばから、再び崩れる。
終わらない。
終わる気配すらない。
破壊と再生を繰り返している。
それは、死ぬことさえ許されない苦痛だった。
「……ツ、カサ……?」
ラムの唇から、掠れた声が零れた。
見間違えるはずがない。寧ろ直ぐに気付けなかったのは落ち度以外の何物でもない。
どれほど姿が歪もうと、どれほど苦痛に顔を引き攣らせようと、そこにいるのはツカサだった。
「ツカサッ!!」
考えるより早く、ラムの身体が動いた。
駆け寄ろうとする。
あの苦しみから救い出さなければならない。抱き締めなければならない。あんな場所に、あんな状態で、愛する人を一人にしておけるはずがない。
だが。
「――駄目だ、ラム!」
「……ッ!?」
不意に、肩を掴まれた。
強い力で引き止められ、ラムは思わず足を止める。
振り返った先にいたのは――
「……ツカサ?」
またしても、ツカサだった。
先ほどまで寝台で眠っていた彼と同じ、銀色の髪。
そして、ラムが何よりも愛する紫の瞳。
目の前で苦しみ続けるツカサとは違い、こちらのツカサは確かな姿を保ち、ラムの肩を掴んでいた。
「……行っちゃ駄目だ。あれに触れたら、たぶん、ラムまで……!」
その声には、隠しようのない焦りがあった。震えもあった。
ツカサ自身にも、何が起きるのか正確には分かっていないのだろう。
それでも、あの苦痛に触れてはならない。
触れれば、取り返しのつかないことになる。
そう、本能が警告している。
だからこそ、ラムを止めた。
恐らく、アレに触れるとかつてのスバルのように、体感する事になるだろう。
それを、愛する人に、ラムに、あんな苦しみを味わわせたくなかったから。
しかし。
「……ツカサ」
ラムは、自分の肩を掴む手にそっと触れた。
「ラムを見くびらないでちょうだい」
「……ラム?」
「あなたが何を心配しているのかくらい、分かる」
ツカサは答えなかった。
答えられなかった。
それだけで十分だった。
ラムは小さく息を吐くと、再び苦しみ続けるもう一人のツカサへと視線を向けた。
「でもね、ツカサ。あそこにいるのも、あなたなのでしょう?」
「…………!」
「今、ラムの肩を掴んでいるあなたも、あそこで苦しんでいるあなたも、同じツカサ。だったら、見捨てるなんて選択肢は、最初から存在しないわ。届くのに、届かないのはもう嫌。ラムは許さない」
静かな声だった。
しかし、その言葉には、僅かな迷いもなかった。
だからこそ、ツカサの手に、僅かに力が込められた。行かせたくない、と。
それでも、ラムは怯まない。
むしろ、どこか楽しげに口元を緩める。
「……ふふっ。考えてみれば、悪い話ではないわね。愛する人が増えた程度、どうということはないわ。離れていた時間の分、ちょうどいいというものよ」
「ラム、今はそんなことを言ってる場合じゃ……!」
「そんなこと?」
ラムは片眉を上げた。
「随分な言い草ね、ツカサ。ラムにとっては、何よりも大切なことなのだけれど」
そう告げると、ラムは自分の肩を掴むツカサの手を、両手で包み込んだ。優しく、けれど確かな意思を込めて。
「……大丈夫よ、ツカサ」
そして、微笑む。
「ラムは、あなたを愛しているもの」
次の瞬間、ラムはその手を強引に振りほどいた。
「――だ、だめだラムッ!!」
背後から、愛しい人の声が響く。
しかし、ラムは振り返らない。
目指す先には、もう一人のツカサがいる。
崩れ、戻り、また崩れ。
終わることのない苦痛の中で、ただひたすらに絶叫を上げ続ける、愛しい人が。
「……待っていなさい」
ラムの周囲に暴風が迸る。その決意の強さを象るように。
「ツカサ!」
その苦しみへと手を伸ばした。
ラムの額には、鬼族の象徴である光り輝く角が具現化されていた。