Re:ゼロから苦しむ異世界生活 作:リゼロ良し
背後から伸びる愛する人の手を、ラムは振り払った。自分の身を案じ、必死に止めようとする彼の手を。
そして、前へと手を伸ばす。
その先にいるのもまた、愛する人なのだから。
今この瞬間もその身を絶え間ない苦痛に苛まれながら、何度も崩れ、何度も形を取り戻している。声にならない声を上げて、絶望に染まるその顔を見ているだけで胸が締めつけられる。
その光景は、さながら地獄と呼ぶにふさわしいものだった。地獄というものが存在するのならば、まさしくこの場所がそうなのだろう。ラムは唇を固く引き結んだ。
そして、あれが自分たちを、ラムを救う為の代償であるとするならば、ラムは足を止めるわけにはいかない。
あの先に、あの空間に足を踏み入れれば、彼に触れれば、どうなるのか。
それは分からない。後ろにいるもう一人のツカサが、あれほど必死になって止めようとしたのだ。決して生易しいものではないのだろう。
それでも、ラムが止まることはなかった。
何が待ち受けていようと構わない。どれほどの苦痛を伴おうと、必ず乗り越えてみせる。その覚悟は、とうにできていた。
何より、ラムには分からないなりにも一つの確信があった。
ラムのその確信はスバルから来ている。
あのどうしようもなく情けなく、肝心なところでつまらない失敗を重ねる、頼りにならない男。ラムからすれば、褒めるところを探す方が難しいスバルではあるが、それでも数少ない感心すべき点がある。
かつてツカサが背負ってきた苦痛を、その身で経験して、帰ってきている。
無論、決して容易なことではなかったはずだろう。スバルが、死に戻りと言う魔女の呪いに近い権能を押し付けられた男であっても、死を何度も体感した男であっても、擦り切れそうになった。追い詰められたのだから。
だが、それでもスバルは戻ってきた。それこそが重要だった。
──あのバルスにできて、ラムにできない道理がどこにあるのか。
である。
角を失って以来、ラムもまた、苦痛とは無縁でいられない日々を送ってきた。身体を苛む不調も、耐え難い痛みも、今さら恐れるようなものではない。それらを表に出さず、平然と振る舞うことなど、とうの昔に身につけている。
恐れる理由にはならない。
だからラムは、進む。止まらない。
目の前のツカサを見つめる。決してそらさない。
どれほど苦しかったのだろう。どれほどの絶望を味わってきたのだろう。それでも彼は、ラムのもとへ帰ってきてくれた。
ならば今度は、自分の番だ。
その想いを胸に、ラムは迷うことなく、最後の距離を埋めた。
その指先が、ツカサに届こうとしていた。
背後から、何かを叫ぶ声が聞こえた。聞き慣れた、何よりも愛おしい声だった。けれど、ラムは振り返らない。振り返ってしまえば、彼がどんな顔をしているのか、見なくとも分かってしまうからだ。
きっと、泣きそうな顔をしている。
自分が傷つくことには頓着しないくせに、ラムがほんの少しでも傷つこうものなら、まるで世界の終わりでも訪れたかのように取り乱す。そんな、どうしようもなく甘く、何より優しい男。
そして、そんな男だからこそ、ラムは惚れた。愛した。
自分の身を顧みず、ラムを救ってくれた。レムを救ってくれた。幾度となく傷つき、血を流し、それでも何事もなかったかのように笑ってみせた。
その笑顔の裏に、どれほどの苦しみを隠していたのか。
今、目の前で繰り返されている光景こそが、その答えなのだろう。だとするならば、なおさら引き返せない。
ツカサがラムを想い、苦しみを背負ってくれたように、ラムもまた、彼を想っている。彼が自分を守ろうとするのなら、自分も彼を守りたい。それは、誰かに許しを求めるようなものではなく、ラム自身が選んだ願いだった。
だから、たとえ彼自身に止められようとも、譲るつもりはない。
──ラムを見くびらないで。
目の前のツカサが、また崩れた。
人の形を失い、次の瞬間には再び形作られる。その凄惨な光景に、ラムの胸が痛む。それでも、差し伸べた手は揺らがなかった。
怖くないわけではない。苦しくないはずがないことも分かっている。それでも、その向こう側にツカサがいるのなら、必ず、辿り着いてみせる。
救えるという確証など、どこにもなかった。そもそも、何をすれば救えるのかさえ分からない。それでも、何もしないまま見ていることだけは、どうしてもできなかった。
何故ならラムは、ツカサのためにここにいるのだから。
その事実だけは、どれほど世界が理不尽であろうとも変わらない。
そして、ついにその世界へと足を踏み入れた。
その瞬間だった。世界が再び一変する。
ぐにゃり、と空間が捻れる。
硝子を砕いたかのような甲高い破壊音が響き渡り……そして一つの世界が生み出される。
『お待たせー』
『遅いわよ、ツカサ。………店巡りして楽しんできたみたいね』
『ツカサさん、お疲れ様です! 早速ですが聞いてくださいよ! ラムさんが酷いんです! こんな短期間で有力な情報なんて、普通に難しいって分かる筈なのに…………………え?』
そこに広がる世界。ラムは、その光景が何を意味するのかを察した。
ツカサとラムとオットーの三人が話している光景。
──ここから、始まる。
目の前にいるツカサが、これから何を経験するのか。それを知る術などなかったはずなのに、ラムには不思議と確信があった。
そして、その予感が現実のものとなるまで、さほど時間はかからなかった。
不意に、ツカサの動きが止まった。
何かを話そうとしていた口が半ば開いたまま、表情から色が失われる。つい先ほどまでオットーと何気ない会話を交わしていたツカサが、まるで時を止められたかのように硬直した。
次の瞬間。
──ッッ!?
音が聞こえたのか、それとも音という概念そのものが砕け散ったのか。判断する間もない。
視界を埋め尽くしていた景色が無数の亀裂に覆われ、砕けた硝子のように崩れ落ちる。そこにあったはずの建物も、大地も、空も、人の姿さえも、何一つとして形を保つことができない。
そして、その崩壊はラム自身にも及び、痛みが走る。
否。
痛みなどという生易しい言葉で表現できるものではない。
まるで全身を引き裂かれる。
まるで骨を砕かれる。
まるで内臓を抉られる。
そんな、肉体が存在していることを前提とした苦痛とは、根本から異なっていた。
皮膚が、肉が、骨が、マナが、オドが、……命そのものが。
それらを認識する意識ごと、何かに削り取られていく。世界の崩壊と自身の崩壊が繋がってるかのよう。
──な、に……………ギッ。
声を上げようとした。だが、声にならなかった。
喉が存在しているのかさえ分からない。息を吸おうにも、肺があるのか、そもそも呼吸という行為が許されているのか、それすら理解できなかった。
ただ、苦しい。
あまりにも、苦しい。
痛い。
あまりにも痛い。
どう言えば良いのか、どう考えれば良いのかが分からない。
何より、苦痛のあまり意識を失うことさえできない。意識そのものが砕かれているはずなのに、苦しみを感じ取る部分だけが、決して失われることなく残されている。
やがて、何もかもが消えた。
そう思った瞬間、再び形を取り戻す。
失われたはずの肉体が、意識が、存在が、何事もなかったかのように元へ戻っていく。
救われた。
そう認識することすら許されなかった。
再び、砕けた。
──ぁ……。
終わらない。
終わるという概念が、そこには存在しない。
砕かれ、削られ、引き裂かれ、消失し、そして再び形を与えられる。ほんのわずかな猶予もなく、同じことが繰り返される。
死という終着点にすら辿り着けない。
それが、どれほど恐ろしいことなのか。
この世にこれ程恐ろしいものが他にあるのか。
ラムは生まれて初めて
角を失ったあの日から、ラムは耐え難い苦痛と付き合ってきた。身体を苛む不調も、マナの欠乏による苦しみも、決して軽いものではなかった。常人であれば耐えられないような苦痛を、表情ひとつ変えずに受け流してきたという自負もある。
だからこそ、覚悟していた。
何が待ち受けていようとも、耐え抜いてみせると。
愛する人を救うためならば、いかなる苦痛にも屈しないと。
その決意に、偽りなどなかった。
だが、
あまりにも、違いすぎる。
覚悟が足りなかったのではない。恐怖に負けたのでもない。
覚悟というものが通用する苦痛しか、ラムは知らなかったのだ。
格が違う。
次元が違う。
どれほど強く歯を食いしばろうとも、そもそも噛み締める歯が存在しない。どれほど必死に意識を保とうとも、その意識そのものが容赦なく破壊される。
耐えるための手段が、一つとして存在しなかった。
──アガ……ギ、ギギ……ッ。
再び、崩壊する。
そして、再生する。
苦痛に慣れるということさえ許されない。何度繰り返されようとも、その一度一度が、初めて経験するかのような鮮烈さで襲いかかってくる。
どれほどの時間が経過したのか。
一瞬だったのか。
あるいは、既に気の遠くなるほどの時を過ごしてしまったのか。
何も分からない。別の世界を形成してたようだが、一切知覚できなかった。
ただ一つ、理解できることがあるとするならば。
──オワラナイ──
それだけだった。
何もかもを奪い去る苦痛の中で、ラムの意識は今にも消え去ろうとしていた。
否、消えることさえ許されない。
壊されるたびに、苦しむためだけに再び呼び戻される。
逃げ場など、どこにもなかった。
逃げたい。
終わりたい。
死にたい。
ただ、その一念だけが、何もかもを失いつつある意識の底に残されていた。
どこへ逃げるのか。何から逃げるのか。何をすれば終わるのか。
そんなことさえ、もはや分からない。ただ、これ以上は嫌だと、耐えられないと、存在することそのものを拒絶するかのように、必死に何かを求めていた。
けれど、何も変わらない。
また世界が砕ける。身体が砕ける。意識が砕ける────そして、元に戻る。
何度も、何度も、破壊と再生を繰り返す。
そのたびに、自分という存在を形作っていたものが少しずつ削ぎ落とされていくようだった。
誇りも、矜持も、積み重ねてきた経験も。自分が何者であるのかという、あまりにも当たり前だった認識さえ、もはや定かではない。
痛みを堪えるために歯を食いしばろうとしても、その歯がない。悲鳴を上げようとしても、声を発するための喉がない。涙を流そうとしても、涙を流すための目さえない。
それでも、苦痛だけは確かに存在していた。
──イ……ャ……。
初めてだった。
これほどまでに、何もかもを投げ出したいと思ったのは。
初めてだった。
魂まで折られたのは。
角を失ったときも、身体を苛む痛みに耐えてきたときも、自分自身を手放したことなどなかった。どれほど苦しくとも、鬼族としての誇りを失ったことはない。
だが、今は違う。
誇りを守ろうという考えさえ、苦痛の奔流に押し流されてしまう。
ただ、終わってほしかった。
それが叶うのならば、何を差し出しても構わないとさえ思った。
──モウ……。
再び、崩壊する。
意識が千々に引き裂かれ、思考の欠片が闇の中へ散らばっていく。
もう、考えたくない。
もう、感じたくない。
もう、何もかも。
──ヤメ…………。
それは、誰に向けた願いだったのだろう。
この世界を生み出した何者かか。それとも、ここへ足を踏み入れた自分自身に対してか。
分からない。
分からないまま、再び苦痛が襲いかかる。
そのあまりの凄惨さに、自分が何のためにここへ来たのかさえ見失う。
そもそも、なぜ自分はここにいるのだろう。
なぜ、こんな目に遭わなければならないのだろう。
誰かに命じられたのか。
誰かに連れてこられたのか。
それとも、自ら望んで。
──……?
そのときだった。
何もかもを奪い去る苦痛の中で、ほんのわずかな違和感が生まれた。
【自ら望んで】
その言葉だけが、不思議と意識の底に引っかかった。
そうだっただろうか。
自分は、望んでここへ来たのだろうか。
こんな苦痛を味わうために?
違う。
何かが違う。
考えようとした瞬間、また世界が砕けた。
せっかく浮かびかけた疑問も、思考も、何もかもが消し飛ばされる。再び形を取り戻したときには、何を考えていたのかさえ分からなくなっていた。
それでも。
──チガ……ウ……。
何が違うのか。
その答えは見つからない。
ただ、自分がこの場所にいることには、何か理由があったはずなのだ。
逃げたいと願うよりも前に。
終わってほしいと祈るよりも前に。
何かを、強く望んだはずだった。
その何かを思い出そうとするたび、容赦のない苦痛が襲いかかる。何度も意識を砕かれ、浮かびかけたものを奪われ、それでもなお、消えずに残るものがあった。
誰か。
誰かが、いた。
自分を呼ぶ声があった。
自分に向けて、笑いかけてくれる人がいた。
その顔も、名前も、まだ思い出せない。
けれど、その誰かを思い浮かべようとしたときだけ、何もないはずの胸の奥が、ひどく締めつけられるような気がした。
苦痛とは、違う。
この地獄の中で初めて覚えた、苦痛以外の感覚だった。
──ダレ……。
問いかけても、答えは返ってこない。
再び、世界が崩壊する。
もう、百は超えただろうか? 或いは千だろうか?
その瞬間、また何もかもを忘れそうになった。
だが、今度は違った。
忘れてはならない。
何を忘れてはならないのかさえ分からないまま、それだけは強く思った。このまま、すべてを手放してはいけない、と目を見開いた。
まだ。
まだ、何かが。
──……マ、ダ……。
そのかすかな抵抗すら、次の崩壊に呑み込まれていく。
それでも、完全には消えなかった。
砕かれ、失われ、再び形を与えられるたびに、ほんのわずかに残るもの。
誰かを想う、その感覚だけが。
自分という存在の、最後の欠片を繋ぎ止めていた。
そして、額に――否、もはや額と呼べるものが存在するのかさえ定かではない、その場所に。
焼けつくような熱が宿った。
それが何なのか、分からなかった。そもそも、熱を感じるための身体が残されているのかさえ定かではない。幾度となく破壊され、再生され、存在そのものを削り取られてきた意識に、そんなことを考える余裕などなかった。
それでも、その熱だけは消えなかった。
世界が砕ける。再び形を取り戻す。そして、また砕ける。終わりの見えない苦痛が繰り返される中で、額に宿った熱だけが、まるで何かを訴えかけるように脈打っていた。
懐かしい感覚だった。
かつて、自分にもあったもの。失われて久しいもの。そして、もう一度だけ、その存在を確かに感じたことのあるもの。
──……ツノ……?
その言葉が浮かび上がった瞬間、再び意識が砕かれた。
だが、今度は違った。
砕け散る意識の中に、一つの光景が紛れ込んだ。
赤い色。
どこまでも広がる、赤。
それが何なのか理解するより早く、鼻を突くような鉄の臭いが蘇る。
血だった。
一面に広がる、血の海。
その中心に、誰かが倒れていた。
全身を赤黒く染め、傷だらけになりながら、それでもなお、自分に向かって手を伸ばしている。
その手が、ひどく震えていた。
『……よかった』
声が聞こえた。
弱々しく、今にも途切れてしまいそうな声だった。
それなのに、どこか安心したような響きがあった。
『
何を言っているのだろう。
そんな身体で、何を安心しているのだろう。
血を流しているのは、あなたなのに。
今にも命を落としてしまいそうなのは、あなたなのに。
どうして、自分のことではなく…………
──……あ。
再び、世界が砕ける。
血の海も、伸ばされた手も、何もかもが崩壊の奔流に呑み込まれていく。
だが、その声だけは消えなかった。
『ラム』
誰かが、自分を呼んでいる。
『ラム』
優しい声だった。
聞き慣れた声だった。
何度も、何度も、自分の名前を────
ラムを、呼んでくれた声だった。
『ラム』
心配そうに顔を覗き込む姿。
『ラム』
自分のことなど二の次。棚に上げて、そんなことを言う彼がいた。
『ラム』
笑っていた。
いつも、笑っていた。
どれほど傷ついても、どれほど苦しんでも、ラムの前では笑ってみせた。
その笑顔が、好きだった。
その声が、好きだった。
その手が、温かかった。
──……ツカ、サ……。
名前が、戻ってきた。
それは、失われかけていた意識の底から、ようやく掬い上げた一つの答えだった。
──ツカサ。
──ツカサ。
──ツカサ。
──ツカサ。
──ツカサ。
何度も、その名前を繰り返す。
すると、まるで堰を切ったかのように、記憶が溢れ出した。
ラムを救ってくれたこと。
レムを救ってくれたこと。
幾度となく危険に身を投じ、そのたびに傷つきながらも、必ず帰ってきてくれたこと。
そして、あの白い空間。
崩れ続ける彼を見て、背後から伸ばされた手を振り払った自分自身。
何が待ち受けていようとも構わないと、そう決めた。
必ず救うのだと。今度はラムが。
──……そう、よ……。
再び、崩壊する。
想像を絶する苦痛が、容赦なくラムを襲った。
思い出したからといって、何かが変わったわけではない。苦痛は少しも和らがず、意識は再び千々に引き裂かれる。
耐えられない。
今なお、そう思う。
逃げたい。
終わってほしい。
死にたい。
その願いが消えたわけでもなかった。
だが。
それでも。
──……ふざ、け、るな…………。
誰に向けた言葉だったのか。
この理不尽な世界にか。
ツカサを苦しめ続ける、得体の知れない何かにか。
それとも、あろうことか、愛する人を置いて逃げようとしていた自分自身にか。
恐らく、そのすべてだった。
全てを思い出した。
自分が何者であるのかを。
誰を愛しているのかを。
そして、何のために、この地獄へ足を踏み入れたのかを。
ツカサは、ここにいた。
ずっと、ここにいた。
何度も壊され、何度も形を取り戻し、死ぬことさえ許されないまま、ただひたすらに苦しみ続けていた。
それでも、彼は帰ってきた。
ラムのもとへ。
何も知らずに笑っていた、自分たちのもとへ。
ならば、ならば、どうして。
──この、ラムが……諦めて……どうするのよ……!
額が、焼けつくように熱くなった。
何もないはずの場所に、確かな感覚が生まれる。
黒い角。
かつて失ったものとは異なる、ツカサから与えられたマナによって現れた、もう一つの角。
それが、ラムの意志に呼応するかのように、存在を主張していた。
だが、角があろうとなかろうと、そんなことはどうでもよかった。
鬼族だから耐えられるのではない。
誇り高いラムだから、乗り越えられるのでもない。
ただ、愛しているのだ。
あの、どうしようもなく優しい男を。
誰よりも、何よりも。
愛している。
愛している。
愛している。
愛している。
愛している。
だからこそ、こんなところで終わるわけにはいかない。
再び、世界が砕けた。
皮膚が、肉が、骨が、マナが、オドが、存在そのものが、容赦なく削り取られていく。
痛い。
苦しい。
耐えられない。
そのすべてが、今なお真実だった。
それでも、ラムは。
──……この……。
失われたはずの唇を、噛み締める。
存在するはずのない足で、大地を踏みしめる。
砕け散ったはずの意識を、力ずくで繋ぎ止める。
そして、顔を上げた。
目の前には、果てしない崩壊の奔流が広がっていた。
何もかもを呑み込み、何もかもを奪い去る、終わりなき絶望。
その向こうに、ツカサがいる。
それだけで、十分だった。
ラムの額に宿る黒い角が、眩い輝きを放つ。
吹き荒れる崩壊の奔流を前に、ラムは一歩を踏み出した。
そして。
「この程度……」
声が、響いた。
つい先ほどまで、まともな言葉さえ紡げなかったはずの口から。
震えながらも、確かに。
「……ぬるいッ!!」
叫んだ。
あの絶望に比べれば。
愛する人の苦しみに比べれば。
その瞬間。
ラムを取り囲んでいた世界に、亀裂が走った。
先ほどまでとは違う。崩壊に巻き込まれるのではない。
ラム自身が、その絶望を振り払う。
砕け散る硝子のような音が響き渡り、視界を覆っていた闇が、無数の破片となって吹き飛んだ。
苦痛が消えたわけではない。
耐えられるようになったわけでもない。
それでも、もはやラムを縛りつけることはできなかった。
彼女の意識を支配していた絶望が、今、確かに打ち砕かれたのだ。
吹き飛んだ闇の向こうに、白い空間が広がる。
そして、その中心に。
何度も崩れ、何度も再生しながら、苦痛に悶え続ける彼がいた。手を伸ばせば届く場所に。
ツカサ。
愛する人。
ラムが、何を犠牲にしてでも救いたいと願った、ただ一人の男。
その姿を認めた瞬間、ラムは迷わなかった。
「ツカサ!」
叫びながら、駆け出す。
まだ身体の奥底には、あの苦痛が焼きついている。足が震え、意識が揺らぎ、今にも崩れ落ちそうになる。
それでも、止まらない。
今度こそ、その手を取るために。
今度こそ、一人で苦しませないために。
ラムは、愛する人を抱きしめた。