Re:ゼロから苦しむ異世界生活 作:リゼロ良し
スバルの絶叫が収まった後も、その場には何とも言えない空気が残っていた。
もっとも、当のスバル本人にしてみれば、叫んだところで何かが解決するわけではないし、現実逃避できるわけでもない。
本当の意味で自分の命をBETすることになった事実は変わらないのだから。
──それに、冷静になって考えてみれば頭を抱えたくもなるな……。
先ほどラムから告げられた衝撃の事実。
確かに最初は望むところ、と意気込んでみた。……が、そのあまりにもデッドゾーン、キルゾーンが多く、難易度の跳ね上がり方が酷い事極まりなくて一気に現実に引き戻された。
屋敷にはあのエルザ。
村には以前の比じゃないレベルの魔獣の数、つまりメィリィもいる。
誰一人として失わせるつもりはない、と意気込んでみたものの、ツカサ不在の中、唯一無二盤上を覆せる権能と言っていいスバル自身の死に戻りにとんでもない地雷が付いてきたのだから。
ツカサがいない途端にこれ。
如何に甘えてきたのかが分かるというものだ。
そしてツカサの代わりに、と言えば気合は入るのも間違いないが、その果てにあの地獄の体感が来るかもしれない、という可能性を考慮したら背中には冷たい汗しか出てこない。
考えれば考えるほど、今後の自分に待ち受けるかもしれないものの恐ろしさが増していくばかりだった。
あまりにも理不尽。死をなかったことにして時間が巻き戻る権能は凄まじいとは思うが、それだけだとただの地獄のループ
スバルに優しくない難易度の世界であり、それはツカサにも優しくない罰を用意された世界。
幾度となく死を経験し、その孤独をツカサが救ってくれたが、代わりに死よりも辛い代償を背負わせてる。
やり直せるという事実に救われたことがあるのも確かだがあまりにも酷い。
──世界よ。我々が何かしたというのか?
と、世を儚んでみたが意味はなかった。ラムの冷たい視線、侮蔑した視線がとんできただけ。
いろんな意味で胃の奥が冷たくなる。
「……ったく。何だって、こうも次から次へと……」
「文句を言っても何も始まらないわよ、バルス」
「分かってるっての。分かってるけど、ちょっとぐらい愚痴らせてくれよ……」
力なく肩を落とすスバルに、ラムはそれ以上の追及をしなかった。
今の彼に必要なのは、恐怖を忘れることではない。その恐怖を理解したうえで、無謀な選択をしないこと。
少なくとも、あの地獄を知っているラムには、それだけは譲れなかった。
「バルス」
「ん?」
「一応釘を刺しておくけど、安易な選択をしないように、とだけ伝えておくわ」
「……ああ、わかってる」
自分で望んで逝った訳では無い。突然腸見せろと斬られただけだ。何も悪くない、と言いたいのだが、心に留めておく、とスバルは頷いた。
「バルスが受ける
「いやだから!
「大丈夫です、スバルくん! スバルくんの…………そ、その、お、お下のせ、世話はレムが!!!」
「レムさん!!? お下とかそーいうこと照れながら言わないで! 無罪なのに恥ずか死する!!」
ひょっとしたら、身体の力を抜かせるための軽口なのかもしれない……いや、通常だろう。ラムだから。
一通り馬鹿なやり取りをした後に、頭が冷えたスバルは冷静に考える。
死ぬな、それを軽々しく約束できることではない。相手が相手だからだ。片鱗を見せられぬままに、即効で殺された。抗う間もなく、だ。だが、どれだけの難易度だったとしても、少なくとも今の自分に、死を選ぶつもりはない。
それは、あの地獄がくるかもしれない、という覚悟がない弱さかもしれない。
けれど、それでも死ぬことを恐れない人間がいるのだとしたら、正直会ってみたいと思う。
そして何より、今は立ち止まっている場合ではない。
屋敷には、帰りを待つペトラがいる。
フレデリカも、ベアトリスもいる。
前の世界で目にした惨状を思い出すだけで、胸の奥に焦りが込み上げてくる。
「……よし」
スバルは両頬を叩いた。
乾いた音が響き、スバルの両の頬は赤く染まる。
それを見たラムがわずかに眉をひそめる。
「何をしているの? 自暴自棄にでもなったのかしら?」
「ちげーよ! ただ、気合い入れ直しただけだ。怖いもんは怖い。でも、怖がってるだけじゃ何も変わんねえからな。腹くくった。ここで見せねえと男じゃねぇ」
そして、スバルは立ち上がる。
この後はエミリアと話、そしてロズワールの元へ行く。予定調和だ。アーラム村の事を鑑みても、最速で村へ帰る必要があるから。
その後、予定通りスバルはエミリアを伴い、ロズワールの元へ向かう。
スバルにとって二度目の行動。
当然ながら、エミリアにその記憶はない。ここは以前の道をなぞるだけ。
ツカサが帰ってきてくれた事をエミリアに伝え、安心と覚悟を宿したエミリアがしっかりと自分の足で立つ。墓所で傷ついた心と身体をおしてなお、歩みをとめる気はない。
その後は同じようにロズワールの容体を気遣い、聖域の現状について説明を求めていた。
ロズワールもまた、寝台に身を横たえたまま、いつもの芝居がかった口調で応じる。
聖域が結界によって閉ざされていること。エミリアが試練に挑む必要があること。そして、ロズワール自身が負傷し、思うように動けないこと。
語られる内容は、前の周回で耳にしたものと大きく変わらなかった。
スバルは、その説明を黙って聞いていた。
一度聞いた話を繰り返されることに苛立ちがないわけではない。だが、今はそれ以上に気になることがあった。
ロズワールの反応だ。
こちらが何を尋ねれば、どう答えるのか。
前の周回と同じ言葉を使えば、同じ答えが返ってくるのか。
そんなことを考えながら、スバルは道化の化粧に覆われた顔を注意深く観察していた。
しかし、ロズワールの表情から何かを読み取るのは難しい。
相変わらず、何を考えているのか分からない男だった。
やがて、ひと通りの説明が終わったところで、スバルは口を開いた。
「なあ、ロズワール。望外の結果っつーなら、一つお願いってのを聞いてもらってもいいか?」
「おーやおや? それはまた珍しいねーぇ。良いとも。何だい、スバルくん」
「屋敷に戻る。『人質を解放すること』それを、アーラム村に残ってる皆に伝えにいきたい」
ロズワールの片眉が、わずかに持ち上がった。
「ふむふむ、それはつまり先駆けて、君が先に村へ戻る、と言うことかーぁな。しかし、君の功績に対する褒美、とはならないと思うけどねーぇ。それに随分と気の早い話でもある。まだ聖域に来たばかりだというのに」
「こっちにも事情があんだよ。それに、エミリアたんが試練を受けるって話と、俺が屋敷に戻るって話は別だろ? 村の皆も心配しているはずだ」
「ふぅむ。確かに、君がここに留まらなければならない理由はない。そもそも結界が阻むのは『混じりもの』だけだ」
あっさりと肯定されたことに、スバルは少しばかり拍子抜けした。
だが、それで話が終わるわけではない。
「だったら、今すぐにでも伝えに戻りたい。できれば、レムにも一緒に来てもらいたい」
「レムも、かい?」
「ロズワール様が御許可を下さればレムも同行したいと考えてます」
「んじゃあ、そこは褒美ってことにしてくれ。レムは連れて行く」
レムはスバルの一歩後ろで進み出て答える。
そして、スバルは、レムの肩を抱き寄せる形で側へ。レムは頬を赤く染めながら、堂々と佇んでいるスバルに微笑んだ。
ロズワールは二人を交互に見つめ、やがてゆっくりと視線を細めた。
「無論、それは問題ないさ。レムが付いていてくれるのなら、私としても安心だからねーぇ。……しぃかし、私の目には随分と焦っている様に見えるのだが、他に何か懸念点があるのかぁーな?」
「懸念も何もただ村や屋敷が心配なだけだよ」
「心配? 魔女教は撃退、怠惰を冠する一団を壊滅させた、と聞いたけーれど?」
「ああ、そいつは間違いじゃねぇ。身体治した後でクルシュさんにでも聞いてくれれば裏は簡単に取れるだろうよ。……でも、だからといって脅威が全て取れたとは言い難いだろ。屋敷にはペトラもいる。ベアトリスやフレデリカは大丈夫かもしれねぇが」
「それは、少々考えすぎではないかーぁな? このタイミングで事が起こるなど、それこそ作為が過ぎる。まるで最初から狙っていたかのようだよーぉ」
ロズワールは困ったように肩をすくめた。
その態度が、スバルには妙に癇に障った。
屋敷で何が起きるのか。
それを知らない人間の反応としては、ごく自然なのかもしれない。
だが、ラムに言われたことがある。
──すべてを疑いなさい。盲目なほど愚かなことはないわ、バルス。
その後に散々毒を吐かれたが、肝に銘じている。
つまり、目の前のロズワールであっても当てはまることだ。狂気さえ感じるその打算的な大怪我が今でも引っかかっているからだ。
「まあ、考えすぎなら、それでいいんだよ」
「ほう?」
「戻って、みんな無事でした。何にもありませんでした。だったら、俺が心配しすぎたって笑えばいい。それで済む話だろ? でも、もし何かあったら、笑い話じゃ済まねぇし」
スバルは言葉を切った。
前の周回で見た光景が、脳裏をよぎる。
屋敷にいたエルザ。
気づかぬ内に裂かれた腹。抜け出てしまう命、そしてその痛み。
自分が迎えた結末。
思い出すだけで呼吸が浅くなりそうだったが、スバルは何とか平静を保つ。
「(何が目的かは、わからねぇ。でもあのイカれた女がペトラたちに何もしないわけがねぇ)」
どうしても頭を過るのは自分が死んだことよりも、あの場で何が起きたか、起きていたのか、という想像。そして最悪の結末だ。
そしてフレデリカについても。
「君の懸念は他にもあるんじゃないかーぁな? たとえば────」
ロズワールは意味深な含み笑いをすると、スバルが考えていたことを正確に射抜くように口にした。
「屋敷にいるフレデリカのこと」
一方、その頃。
スバルたちがロズワールの元へ向かい、屋敷への帰還について話し合っていた頃、ラムはツカサの傍らにいた。
寝台に横たわるツカサは、相変わらず目を覚ます気配を見せない。規則正しい寝息が聞こえることだけが、今のラムにとって数少ない慰めでもある。無論、慰めだけではない。ラムは心配はしていない。……
ツカサとあの世界で交わし合った、心と身体と言葉で。
後はラム自身がしなければならない事をするだけなのだ。
その寝顔をしばらく見つめていたラムは、やがて視線を上げる。そこには、壁に背を預け、腕を組み、目を瞑っているガーフィールの姿があった。
「ガーフ」
「あァ? 何だよ、ラム」
「そろそろ出ていきなさい」
「……あァ?」
唐突な命令に、ガーフィールは思わず目を見開き、そして間の抜けた声を漏らす。
「惚れた女が、ラムの恋焦がれた男とようやく二人きりになれるのよ。その程度の気遣いもできないなんて、器の小ささが知れるわね、ガーフ」
「待て待て待てッ! テメェ、さっきまで俺様にここにいろッつってたじゃねェか! 草でも食ってろだの何だの、散々好き勝手抜かしやがッて!」
丁度、スバルを吹き飛ばした後のことだ。ラムはスバルの元へ向かう際にガーフィールに指示を出したのだ。全く意味ない指示だが、それはツカサのそばにいろ、と言う意味だとガーフィールは解釈していたが。
「だから?」
「だからじゃねェだろォが! 都合のいいときばッか俺様を使いやがって、テメェッて女はよォ!」
「騒がしいわね。ツカサが目を覚ましてしまうでしょう」
「起きてくれりゃ万々歳じゃねェかよッ!?」
至極もっともなガーフィールの反論だったが、ラムは涼しい顔で受け流す。万々歳、と言うのは互いにとってそうでしょう? と言わんばかりに。そして、顎をしゃくり上げて、ラムは告げる。
「それで、いつまでいるの?」
「……ッたく! どこまでも勝手な女だぜ、オイ……!」
ガーフィールは盛大に舌打ちすると、壁から背を離した。
もっとも、ラムに言われたからという理由だけで、素直に引き下がるつもりになったわけではない。
ガーフィールの脳裏をよぎっているのは、ラムでもなければ、ラムが恋焦がれる……英雄と呼ぶに相応しい男、ツカサのことでも無い。
今、ガーフィールの中に渦巻いているのはスバルのことだ。
「……おい、ラム」
「何かしら」
「その野郎、目ェ覚ますといいな」
思いがけない言葉に、ラムの指が一瞬だけ止まった。
だが、振り返ったときには、いつもの澄ました表情に戻っている。ガーフィールもまた、起きることを願っているのだろう。ただ、その理由はラムのそれとは真逆だろうが。
「当然よ。ツカサは働き者。いつまでもラムに仕事を任せきりで寝続けるなんて有り得ないわ」
「……ケッ。そうッかよ」
それだけ言い残し、ガーフィールは部屋を後にした。
扉が閉まり、ようやく二人きりになった室内に静寂が戻る。
ラムはその音を確かめるように少しだけ耳を澄ませると、再びツカサへ視線を落とした。
「……ようやく静かになったわね」
返事はない。
それでもラムは、握った手を離そうとはしない。
あれだけ、かの世界で愛し合った。
世界が終わるまで身体を重ねた。
初めて同士だというのに、どこまでも燃え上がり、ラムはその精を吸い付くし、ツカサもラムの肢体を余すことなく堪能した。
──にも関わらず、ラムは足りない。まるで足りない。
この飢えと渇きを満たせるのは、やはりツカサしかいないのだ。
きっと、ツカサ自身もアレだけで満足しているとは到底思えないから。
だが、そんな満たされない想いに身を委ねていられるほど、今のラムは悠長な立場にはなかった。
寝台に横たわるツカサの手を握ったまま、ラムは静かに思考を巡らせる。
屋敷に迫る脅威。
腸狩りエルザ・グランヒルテ。
魔獣使いメィリィ・ポートルート。
エルザもそうだが、以前とは比較にならない数の魔獣だったというメィリィの方も極めて厄介。スバルから聞かされた情報が正しければ、以前の襲撃の比ではないだろう。
対して、屋敷にいるのはフレデリカとベアトリス、それに幼いペトラ。
そこへ向かうのがスバルとレム。
戦力として言えるのは、フレデリカとレム。
ベアトリスが動いてくれるかどうかは未知数。
それを考えると、安心できるとは程遠い。
相手があまりにも悪いからだ。
最高戦力のツカサが眠りについている。そういう意味でも陣営の戦力はかなり落ちている。
スバルに至っては、あの地獄を代わりに引き受けることになったばかり。
仮に死に戻りが発動したとして、以前のように、同じように立ち上がれる保証など、どこにもないのだ。
あの苦痛に心を壊されれば、やり直すという選択肢そのものが失われかねないのだから。
そして、レムがいる。
ラムにとって、たった一人の妹。あの子が自ら望んでスバルに付き添うことを選んだ以上、その決意を否定するつもりはない。だが、それと危険を承知で送り出すこととは、また別の話だった。
「(……戦力、足りてるとは言えない)」
単純に考えれば、ガーフィールを同行させるのが最も手っ取り早い。
長い付き合いだ。だからこそ実力はラムもよく知っている。
少なくとも、エルザだろうと、魔獣の群れを相手にするのであれば、これほど心強い戦力もそうはいない。
しかし、現実的ではない。
ガーフィールは聖域の守護者、最強の盾を自称し、外へ出ることを頑なに拒んでいる。惚れた弱みにつけ込み、ラムが命じたところで、素直に従うような性格でもない。
まして、スバルに対しては明らかな警戒心を抱いていた。
そんな相手に付き添って屋敷へ向かえと言ったところで、まともに取り合うとは思えなかった。
──ならば、自分が行くか。
そこまで考えたところで、ラムはわずかに眉を寄せる。
行けないわけではない。
ツカサのそばから離れたくない、という理由もあるが、それで大局を見誤るほど、色狂いというわけではない。すべてを失ってからでは遅いから。
だが、問題は今の自分がどれほどの戦力になるのか、にある。
ラムは空いている手をそっと自身の額へ運んだ。
具現化し、そこにあったもの。
鬼族としての力の象徴であり、ラムの力の根源でもあった角。幼少期に折られ、何年ぶりなのか、愛と奇跡を前に具現化した角。
それは、もうない。
正確には、あの世界で失われた結果が、時間を遡った今も引き継がれている。どれほど過去へ戻ろうと、壊れた角が元に戻ることはないのだろう。
以前ならば、多少の無理を押してでも戦えたかもしれない。だが、今のラムにそれを期待するのは無謀というものだ。
そして何より、ラムには果たさなければならない本懐がある。
そのためにも、今ここで無用な消耗を重ねるわけにはいかない。
「(……困ったものね)」
答えは簡単には出なかった。
レムたちを信じることと、危険を見過ごすことは同じではない。だからといって、今のラムにできることが無限にあるわけでもなかった。
握った手に、ほんの少しだけ力がこもる。
ラムは寝台の上で眠り続けるツカサを見つめた。
かつてなら、こういうときは彼がいた。
無茶をして、無理をして、それでも最後にはどうにかしてしまう男。ラムが叱りつけても、困ったように笑って、結局は誰かのために身体を張ってしまう男。
その姿を思い出すと、腹立たしさと愛おしさが同時に込み上げてくる。
「……ねえ、ツカサ」
返事はない。
ラムはそのことを承知のうえで、静かに言葉を続けた。
「ラムは、どうすればいいと思う?」
初めて出た弱気に近い言葉。
ラム自身も少なからず驚いている。どんな時も、例え赤子の時でも、例え死が迫っていても、口に出すことは憚れる。
でも、ツカサ相手だから言えたのかもしれない。
自分の全てを曝け出した初めての相手なのだから。
「バカね。感傷に浸る余裕は……無いのに」
自虐の言葉を浮かべながら、ラムはツカサの頬を撫でる。
ラムだけの話であればここまでには至らなかったかもしれない。本懐を遂げる、何としても。この聖域という舞台はお誂向きだと言えるから。
まず間違いなく、
でも、だからといってそれ以外が終わってしまっては意味がない。
村も屋敷も聖域もラムも。
全て乗り越えなければならない。
嫌になる程の難しさだ。
「愛には障害がつきもの。その障害は随分優しくない仕様のようだけど」
そう言うとラムは自身の唇をツカサの額にそっとつけて、離したその時だ。
ツカサの身体が淡く光を放ったのは。
スバルたちは、ロズワールとの話し合いを終え、部屋を後にした。
屋敷への帰還については、ひとまず了承を得られた。あとは必要な準備を整え、アーラム村へ向かうだけだ。
もっとも、帰ることが許されたからといって、すぐに出発できるわけではない。道中の足を確保する必要もあれば、聖域を離れるにあたって済ませておくべきこともある。確かに早く戻らなければならないが、準備を疎かにするのは愚行も良いところ。
エミリアに何も告げずに出ていくわけにはいかなかった。今試練のために懸命に頑張っているのだ。これ以上の負担をかけるわけにはいかないから。
「……ったく。それにしてもやることが多過ぎだな」
「スバルくん、大丈夫ですか?」
「ん? ああ、大丈夫大丈夫。ちょっと頭ん中で段取り組んでただけだよ」
隣を歩くレムに笑ってみせると、レムは安心したように微笑んだ。その顔は虚勢でもなんでもない。やれること、やることは全てやる。最善以上を尽くす。レムがよく知る、レムだけの英雄の顔だ。
そして、そんなレムの表情を見たスバルも、わずかではあるが肩の力を抜くことができた。
屋敷で待ち受ける惨劇を知らなかったこともあるが、今は逆に、知っているからこその焦りがある。
それでも、隣にはレムがいる。今のスバルにとって何よりも心強かった。
「パトラッシュだと往復で1日。いろいろ考えないとだし、時間は有限! 大変だけど手伝ってくれるか? レム」
「勿論です、スバルくん!」
そんなやり取りを交わしながら歩いていた二人だったが、建物の角を曲がったところで、その足が止まった。
行く手に、ひとり……ガーフィールが立っていたからだ。
金色の髪に鋭い眼光。小柄ながらも、全身から獣じみた威圧感を漂わせるその姿に軽口をいつも飛ばしていたスバルも思わず閉口する。
「……おい、レム」
「何でしょうか、ガーフ?」
「ちっと面ァ貸せや。話があんだよ」
挨拶もそこそこに、ガーフィールは顎をしゃくって告げた。
その声音には、普段のような軽口がない。
スバルは思わず眉をひそめる。
「……おいおい。いきなり何だよ、その物騒な誘い方は」
「テメェにゃ聞いてねェよ、三下。俺様ァ、レムに話があんだ」
反射的に言い返しかけたスバルだったが、そこで違和感を覚えた。
ガーフィールの様子が明らかにおかしい。
いや、正確には、前の周回で見た彼とはまるで違っている。
あのときは、少なくともここまで敵意を剥き出しにされてはいなかった。聖域を出る際には、何かあればフレデリカに輝石を見せろ、と言い渡してくれたのだ。
それが今はどうだ。
こちらを見る眼差しは鋭く、まるで何かを見定めようとしているかのようだった。敵意もその眼光に見られた。幾度となく向けられたことがあるスバルだからこそわかった。
「(……何だ? 俺、こいつに何かしたか?)」
心当たりがないわけではない。
死に戻りによって、前の周回とは異なる行動を取っている。自分にとっては些細な違いでも、それが誰かの態度を変えることは十分にあり得る。
だが、ガーフィールの変化には、それだけでは説明できない何かがあるように思えた。
「おい、ガーフィール。レムに何の用が――」
「スバルくん」
問い詰めようとしたスバルの言葉を、レムが静かに遮った。
振り向くと、レムは困ったように、そしてどこか申し訳なさそうに微笑んでいた。
「すみません、スバルくん。少しだけ、ガーフとお話ししてきてもいいでしょうか?」
「……レム?」
「大丈夫です。すぐに戻りますから」
そう告げるレムの声は、いつもと変わらず穏やかだった。
しかし、その眼差しには、はっきりとした意思が宿っている。
スバルはレムとガーフィールを交互に見た。
ガーフィールは相変わらず不機嫌そうな顔をしている。一方のレムは、そんな少年の態度に腹を立てている様子も、怯えている様子もない。
むしろ、何を話そうとしているのか、ある程度見当がついているようにさえ見えた。
「わかった。じゃあ俺はオットーんトコに行ってくる。終わったらそっちに来てくれ」
「はい。ありがとうございます、スバルくん」
レムが小さく笑ったことで、それ以上は続かなかった。
どうやら、自分がここに残っていても話が進まないらしい。
それに、レムが自分から話したいと言っている以上、無理に引き留める理由もなかった。
──ただ、ガーフィールの眼光は依然として鋭く、その身から放たれる威圧感は増すばかりだった。