がんばって投稿しなきゃ
レース本番、スズカを送り出してしばらくたった後。
少しでも彼女の近くにいてやらねばと突然の使命感に駆られ、陽音は走り出した。
場内にファンファーレが鳴り響く。これから一分も経たないうちにスタートしてしまう。
今はただ無性に、スズカに近くで声を届けてやりたかった。
「見えない……スズカが……!」
陽音が観客席の最前列にたどり着く前にそのレースは始まってしまった。
早く前へと行かなくては、彼女が走る姿をこの目すらに映せなくなる。
一瞬でも長く見ていたい。そして声が届かないとしても応援をする。それがスズカのトレーナーとして出来ることだろう。
しかし人混みが陽音の行く手を阻む。こんな天気だというのに、なぜか今日は観客が席を埋め尽くしていた。
バ場に響く軽快な足音。ヒートアップしていく歓声。そんな周りとは裏腹に、陽音は焦燥感に飲まれる。
「スズカはどこ……!あの子は、どうなって!」
自分の身長の低さが恨めしい。周りに阻まれ何も見えない。
人の波をかき分け、必死に進んでいく。スズカのもとへ、一刻も早く。
そして陽音は息を吞んだ。
「──嘘でしょ」
墜ちていく。ゴールドシップだ。緋色の奇襲を皮切りに、まるで引きずり降ろされるかのように、サイレンススズカは着実にその順位を下げていた。
「ダメッ──ダメダメダメッ!スズカっ!」
陽音の悲痛な叫びも、無情にも周りの大歓声にかき消される。
スズカの速度が上がらない。このままでは入着もままならない。
せめて五着でも──。もはや陽音はほぼ諦めかかっていた。
「……スズカ」
彼女がゴールしたのは八番目だった。
自分が諦めたから、最後まで信じてあげられなかったから負けたんだ。悔しさに右手の力が入る。
ふとスズカの姿が目に入る。
あんな悲しそうな表情をするのは。あんなうつむいた顔をするのは。勝たせてあげられなかったのは自分の力が及ばなかったせいだ。
デビュー戦の満ち足りた表情とはかけ離れた暗い顔。きっとかなり落ち込んでいるのだろう。
どう声をかけてやればいいのか。心臓が潰されそうな感覚を味わいながら、陽音は彼女を迎えに行くのだった。
◆ ◆ ◆
あの日から、スズカの調子は良くなかった。
トレーニングに身が入らず、食欲もあまり湧かない。時々空を見上げては溜め息をつく。
一見すれば平気なようにふるまっているが、まだ彼女の中には深い傷が残っている。
以前のように色々な景色を見せてまわるのは効果が薄いかもしれない。彼女が好む晴れ空の下でさえ、ため息をついてばかりいるからだ。
トレーニングをしないわけではない。心は折れていないのか、はたまた義務感でやっているだけなのか。
どちらにせよ、なんとかやる気を出させてやらなければ。次もあのような負け方をしたのなら、本当に再起不能になってしまうかもしれない。
向き合ってやりたい、本心を聞きたい。彼女のトレーナーとしてもちろんそう思っていた。
「大丈夫です」
いついかなる時もスズカはそう言う。そんなはずがない。彼女はその度にどこか寂しそうな顔を見せる。
心の内に何かを秘めているはず。だがそれを無理に問おうものなら、いよいよ彼女の中で張りつめている糸が切れてしまうかもしれない。
だからどう接すればいいのか分からなかった。勇気がないとも言えよう。
せめて糸口さえ見つかれば──。だがそれは結局、現実逃避の一つに過ぎなかった。
「とりあえず、今日のところはこれで終わろっか」
「はい」
今日も何事もなくトレーニングを終える。いつもと変わり映えしない、いたって平凡なものだった。
灰色の空から、ぽつりぽつりと雨が降り注ぐ。少しずつ勢いも増していき、このままだと土砂降りになりそうだ。
「トレーナーさん、先に戻っていてもらえますか」
「先に?いいけど、風邪ひいちゃうよ?」
「大丈夫です。すぐに戻りますから」
それはあのレースで負けて以来の彼女からの要求だった。少しずつ気を取り直し始めたかな、と喜びながら、陽音は念を押しつつも了承した。
すぐに雨が強くなってくる。スズカは左からくるりと回り、その背中を見せた。
「なるべく早めに戻ってねーっ!」
スズカのほうを向きながら小走りでそう叫ぶ。彼女からの返事はない。
天を仰ぐように両手を広げ、雨を全身に浴びる。表情は伺えないが、あの様子ならきっと満ち足りた顔をしていることだろう。
いつの間に雨が好きになったのか。彼女の中の綺麗な景色の定義には、雨はなかったと陽音は記憶していた。
陽音はそれを見届けると、スズカが戻ってきたときのためにタオルや着替えを用意することにした。
走って屋内へと向かう。ついでに、逃げ遅れた他のウマ娘の分も持ってこようと決める。
「……また同じ場所に来てしまった」
そうして先を急いでいると、そんな声がどこからともなく聞こえてきた。
「このままでは空腹で倒れてしまう……っ、早くしなくては」
「あ……行っちゃった」
声の主を見つけるとともに、それは走り去っていってしまった。
十数秒後。
「またここか……」
ずぶ濡れになりながら、そのウマ娘はまた戻ってきた。
不安そうに辺りを見回している。ゴールドシップとはまた違う芦毛を揺らしながら、すぐにまた駆け出し──。
「くっ」
そして戻る。
「迷子……?」
陽音が見る限り、彼女はただ同じ場所をぐるぐると回り続けているだけなのだが、信じられないがそれは道に迷っているのだろう。
このままだと一生同じ場所を巡り続けていそうなので、次に行かれる前に引き留めることにした。
「大丈夫?どこか行きたいの?」
「おおっ、もしかしてここのトレーナーか……!寮に帰りたいんだが、迷子になってしまった。このままでは、夕食に間に合わなくなってしまう……!」
「雨じゃなくてそっちが心配なんだ……」
そんな食欲旺盛な彼女に呆れつつも、陽音は寮の方向を伝えた。
「それは本当か!ありがとう、あとでお礼をさせてくれ!」
「えっ、ちょっと待って、そっちじゃ──!」
陽音の制止する声も聞かず、芦毛のウマ娘は進む。
教えた方向とは微妙に違ったほうへと向かっていった。あのままではさらに迷子が深刻化するかもしれない。
今すぐ追って教えてあげるべきだろうか。いや、ウマ娘は人間とは比べ物にならないほど速い。いまさら行ったところでもう遅いだろう。
こうしている間にも雨は身体を濡らす。どうしたものかと悩んでいると、
「ほら、雨は身体によくないから早く寮に戻ったほうがいい」
「引っ張らないでくださいっ……って、トレーナーさん!?」
「スズカ!」
芦毛のウマ娘はスズカの手を引きながら現れた。
果たして道中で何があったのか、二人は全身ずぶ濡れの泥だらけだった。
「こんな雨だというのに、グラウンドで一人残って走っていたんだ。いくら頑張っても体調を崩しては意味がないから、こうやって連れてきた」
しょんぼりと垂れる尻尾とは対照的にスズカの目が揺れる。彼女の言った通りで間違いないようだ。
スズカはあの後、陽音に黙って一人で自主練習をしていたことになる。
いつものトレーニングメニューだけでは不満だったのだろうか、足りないのだろうか。だがそれを話してくれないのは、本当は信用されてないのでは──という考えが頭をよぎってしまうのも否めない。
「それって本当なの?スズカ」
「……はい」
彼女は申し訳なさそうにうつむく。
「ねえ、なんで走ったの?今日のメニュー、気に入らなかった?」
陽音にスズカを責めようという気持ちはない。ただ理由が聞きたいだけだ。しかし傍から見ればそれはどう見ても叱責に違いなかった。
スズカは激しく首を横に振る。
「そんな……そんなことないですっ!トレーナーさんのトレーニングはちゃんと考えられていて、理にかなっていて──」
「じゃあどうしてッ!」
一気にその場が静まる。
「どうして何も話してくれないの?どうして何も聞いてくれないの!?あの日レースで負けたとき、力不足を感じて本当に悔しかった。だからもっと頑張って助けになってあげたい……!なのにこうやって黙って練習なんてされたら、私なんか必要ないんじゃないかって思うから……、だから、気に入らないなら言ってよ!不満があるならぶつけてよっ!」
そこまで言って陽音はハッとした。彼女自身、こんなに叫ぶつもりはなかった。それなのに、感情の奔流に流されて、本能のままに言い放ってしまったのだ。
なんと愚かなのだろう。もしかしたらこれでスズカの心にとどめを刺してしまったかもしれない。そう思うだけで全身から血の気が引ける。
自分の弱さを一方的にぶつけるなんて、トレーナー失格だ。
「ごめんなさい」
「あ……」
スズカは深々と頭を下げる。それを陽音はポカンと見るしかなかった。
「トレーナーさんのメニューに悪いところはありません。私はただ走りたかったんです。レースとしてではなく、練習でもなく、ただただ“走りたかった”」
顔を上げたその表情は、いたって落ち着いたものだった。普段通りの柔らかい微笑み。
「今日こうやって雨が降って、突然あのレースのことを思い出したんです。──私もトレーナーさんと同じように、とても悔しい思いをしました」
彼女は左腕を抑えると、どこか遠くを見るように視線を投げた。
「その時のことを思い出して、胸が苦しくなって……。発散したかったんです。忘れたかったんでしょう。だから走って、風と雨を浴びたかったんです」
「スズカ……」
「走るのは、景色を見ることの次に好きですから。……それに、最近は雨模様も悪くないなって」
ふとスズカの顔を見ると、多くの雨粒が滴るとともに、それとはうっすら違う一筋の線があった。
「トレーナーさん。なんで私が走っているのか、覚えていますか?」
「それは、先頭の景色を見たいから……」
スズカは首肯した。
「でも私はそれだけなんです。他のウマ娘は違う。勝ちたい、三冠を取りたい、家族に頑張っているところを見せたい、とか。それに比べたら、私の意義はあまりにも薄っぺらすぎる」
「そんなことは……」
「だって、だってですよ?例えばあのデビュー戦、私が勝ったことによって、夢が狂い始めた娘もいるかもしれない。逆に言えば、やってやろうと奮起する娘もいるかもしれない」
どうしようもなさそうに、ただ笑うことしかできないから──。そんな風にスズカは笑った。
「“景色を見る”だなんて、どこでだってできるんです。先頭の景色っていう特別なものを見たい、そんなわがままを除けば。だから、何となく惨めで」
「惨めなんかじゃないよ」
ふと気が付けば、陽音の口からはそんな言葉が漏れ出ていた。
「夢に価値も大きさも関係ない。叶えたいから夢はあるの。人によっては“おなか一杯食べたい”も立派な夢だし、“応援してくれる人が欲しい”とかでも夢だし。それに──」
無意識のうちに、彼女の顔はほころんでいた。
「スズカの夢はすごいよ。だって、先頭の景色を見たいってのは、何回だって叶えられる夢なんだから!」
「何回だって──」
意表を突かれたように、スズカは固まった。
「ふふっ、あははっ……。私、なんで雨が好きなのか、わかった気がします」
スズカは両手で顔をぬぐい、彼女の顔に満面の笑みが浮かんだ。
「だって、いくら泣いたって、誰も分からないんですから」
その瞬間、まるであふれ出すようにスズカの瞳から涙がこぼれた。
彼女は彼女なりに悩んでいたのだろう。たった一人で思いを抱えて、コントロールする。それに言えだのぶつけろだのはおこがましいことだ。
陽音はスズカのことを何も知らなかったのだと実感する。だって彼女はこんなにも強いのだから。
「本当は私、トレーナーさんに黙って何回も走ってたんです。知られたらきっと心配されると思って──。本当に、その通りでした」
「いいの、いいんだよ。突然怒ってごめんね、スズカの気持ちも考えずに」
スズカにも考えはあるのだ。それを、陽音は自分だけの物差しで測り、言ってしまえば自分の価値観で決めつけていた。きっとスズカはこう思っているだろう──と。
それは彼女を否定しているのと同義だ。結局陽音は、一人では解決しようがない悩みとずっと無駄な戦いを繰り広げていただけだった。
酔いしれていたのだ、トレーナーという立場に。
ウマ娘とトレーナー、二人が心を合わせてこそ勝利により近づける。できないことを助け合い、できることを喜び合う。その関係性であってこそ一人前のトレーナーなのだ。
「トレーナーさん。今、私が大逃げをできているのはトレーナーさんのおかげです。だから──だからこれからも、私に先頭を走らせてくれますか?私に、先頭の景色を見せてくれませんか?」
陽音の言葉はもう決まっていた。
「うん──うんっ!今度こそ勝とう。一緒に頑張ろうね!」
スズカの言葉を遮ることもなく、陽音は手を取った。迷いはなかった。
「仲直りはできたみたいだな」
ふと芦毛のウマ娘がそう言う。そうだった、スズカを連れてきてくれたのは彼女だ。
「その……ありがとうね。今度、一緒にごはんでも食べない?」
「い、いいのか……!?ぜひ頼む!」
彼女の飽くなき食欲に、思わず笑みがこぼれる。スズカも同じようだ。
そういえば、この舞台を立ててくれた彼女の名前を陽音は知らない。
「名前聞いてなかったね。なんて言うの?」
「私か?オグリキャップだ」
「じゃあオグリでいい?よろしくね」
オグリはうなずく。
そのあとすぐ、三人はずぶ濡れのまま帰路を辿った。そして三人して風邪を引くのはその翌日だった。
サイレンススズカのやる気が上がった
先頭の景色は譲らない……!のスキルレベルが上がった
次回はトレーナーの財布破滅編!