名バ列伝『グレートエスケープ』【完結】   作:伊良部ビガロ

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※たくさんの感想ありがとうございます。賛否両論ありますがどちらも読ませていただいております。どちらの感想に貴賤なく、ぜひ感想を述べていただけると嬉しいです。そのうえでぜひ読んでいってください。


第10話 winning the soul

 誰もが焦がれて止まない夢がある。

 足掻いても、藻掻いても、届かない願いがある。

 ある者は言った。

 

「ダービー馬のオーナーになることは一国の宰相になるより難しい」

 

 ある騎手は言った。

 

「ダービーを勝てれば、やめてもいい」

 

 ルールによって出走できない馬の騎手は言った。

 

「枠順は大外でいい。ほかの馬の邪魔は一切しないし、賞金も要らない。この馬の能力を確かめるだけでいい」

 

 またある騎手は言った。

 

「ダービーを勝ちたい、なんて言葉は軽々しく口にできない。それくらい重いレース」

 

 ダービーを勝った馬は、ただ一言、『ダービー馬』とだけ呼ばれるようになる。

 その後にどんな大きなレースを勝とうと、その称号が塗り変わることはなく、その馬をいつまでも輝かせる二つ名となる。

 誰もが焦がれるから、燦然と眩いのか。

 眩い至高の座にあるからこそ、誰もが焦がれるのか。

 その答えを出せるのはただ一頭――ダービーを勝った馬と、そこに関わる人々だけなのかもしれない。

 

 灼熱のダービーへ、ようこそ。

 

 

 

 〇〇〇

 

 

 

 真夜中、誰かが厩舎へ来る音で目が覚めた。

 寝起き特有の不快な気分はなく、それでいてよく寝つけたという爽快感だけがある。

 馬房を開けたのは厩務員の西京さんだった。

 入ってくるなり、俺の体を隅々までチェックしていく。毎日細かく見てくれているけど、今日はいつも以上に目を光らせているように見えた。

 全身くまなく見てから、西京さんは一言、

 

「行くぞ」

 

 とだけ。

 彼に引かれると黒井先生がいた。先生も、俺を見るなりあちこちチェックする。

 

「状態は良さそうやな」

「はい」

「なら行くで」

 

 言葉少なに馬運車へ向かう。

 夜中故の言葉少なさというには、黒井先生と西京さんから感じる雰囲気は気合が入っている。

 俺は馬運車に乗ると、大人しく繋がれた。そんな俺を見て、黒井先生は緊張の面持ちを崩して、笑った。

 

「グレ坊はなんだかんだ、レース前に悪さをしないやつやったな。悪いことをしていいときとダメなとき、わかってやってるやろ」

 

 そりゃあそうだ。

 みんなが普段やってくれている世話を見たら、とてもじゃないがふざけて怪我をしてレースに出れませんでした……なんて真似はできない。

 ましてや、明日には最高峰の舞台へ向かうのだから。

 馬運車の扉が閉まる。

 走り出すと同時に、俺はレースのイメージトレーニングに励んだ。

 

 

 

『本日はダービーデー。東京競馬場には本当に多くのお客さんが集まっています。現時点で18万人を超えたそうです』

『いやぁ流石にこの日は違いますね……私もダービーの解説と言うだけで襟を直してしまいますよ』

『今の会話の中だけで4回直しましたからね。既にボルテージは最高潮、レースが始まればどうなってしまうのか、怖いくらいです。ここでパドックを見てみましょう』

 

 パドックを歩く俺にカメラが向く。一瞥するがすぐに視線を元に戻した。

 そういえば、東京競馬場は初めて走る場所だ。

 世界最大級の競馬場だけあって、中山競馬場や阪神競馬場より大きいような気がした。

 きっと、建物そのものの大きさ以上に、積み上げられてきた歴史が重くのしかかっているからこその場所なのかもしれない。

 何度も突っかかってきたサンデーサイレンス四天王マイナス1も、静かにパドックを歩いている。

 顔つきが普段以上に鬼気迫るもので、近づいたら噛みちぎるといわんばかりだ。

 無論、それは俺も同じ。

 

『5枠9番、グレートエスケープ。現在単勝オッズは8.7倍、4番人気です』

『踏み込みも強く、落ち着いてますね。前走はスタートで不運がありましたから、スタートを上手く決めれば充分実力を発揮できますよ』

『こうして見るとダンスインザダーク、ロイヤルタッチ、そして皐月賞馬のイシノサンデーとサンデーサイレンス産駒が上位人気を占めていますね』

『ダンスインザダークは熱発で皐月賞を回避こそしましたが、前走プリンシパルSを快勝。陣営も万全の状態とのことですし、期待できますね。やはりサンデーサイレンスは去年に続いて強いという流れが来ていますね』

 

 係員の掛け声で周回を止める。

 そして騎手と調教師、オーナーがそれぞれの馬へ向かって歩き出した。

 

「グレっち」

 

 橘ちゃんは、車椅子で来ていた。押しているのはよく似た女性で、姉妹なのだろうか。

 車椅子でもスーツでビシッと決めている。

 ダービーオーナーに相応しい格好だ。

 

「グレっち……おいで?」

 

 車椅子に乗った彼女にそっと頭を押し付けた。

 俺を撫でながら、橘ちゃんは言う。

 

「……無事に帰ってきてね」

 

 俺は頭を離すと宣言した。

 

「ウイニングランをするから、帰りは遅くなるよ」

 

 橘ちゃんは微笑んでいた。

 黒井先生がケンちゃんと俺に話をする。

 

「細かいことは言わん。1番強いレースをしてこい」

 

 無茶なことを、とは誰も思わなかった。ここまで来て、他の誰かが強いかどうかなんてビビってちゃ話にならない。

 1番は俺だ! 勝つのは俺だ!

 そんなふうに無謀だろうと、虚勢だろうと、それを言い張れない奴は勝てない。

 厩務員の肩を借りてケンちゃんが上に乗ると、肌がぴりぴりと焼け付くような感覚を覚えた。

 本馬場へ入場するために地下馬道を抜けると、大歓声が俺を出迎える。

 皐月賞のときより明らかに大きく、でかく、熱気が渦巻いている。

 

(これが――日本ダービー……)

 

 体をぶるりと震わす。今ちょうど、俺の名前をアナウンサーが読み上げたのだろうか。歓声がさらにワッと上がった。

 

『5枠9番、グレートエスケープ。父にアイネスフウジン、母父にシンボリルドルフとこの府中2400mでは負けられない! 馬体重は512kgでマイナス5kg、皐月賞のリベンジを狙います。サンデーサイレンス旋風に立ち向かう日本代表です』

「グレートエスケープ頼むぞー!」

「かっこいいぃ〜!」

「サンデーに、御三家に負けるな!」

「今月も給料全部賭けてんだ、今度こそ負けるんじゃねーぞォ!」

 

 観客たちの歓声で心臓が脈打ち、全身が燃えるように熱い。

 まだ6月になったばかりで夏には程遠いはずの日なのに、じりじりと肌が焼けついている。

 きっと、橘ちゃんも馬主席から見ているはずだ。

 俺は見せつけるように立ち上がった。

 

「おいこら馬鹿!」

 

 ケンちゃんが慌ててしがみつくが、この程度で落ちるような騎手じゃないことはわかっている。

 立ち上がった俺に対してどよめきが上がったのを確認してから、駆け出した。

 

「このおバカ馬! なにやってるんだ! 俺危うく落ちるとこだったっしょ!」

 

 悪い悪い。

 俺は気にせず返し馬で待機所まで駆けていく。

 ケンちゃんは怒ったような声を出してから、大声で笑った。

 

「本当にお前は最高な馬だよ! ったく……勝つぞ、このレース」

 

 当たり前だと叫ぶように俺は嘶いた。

 事情を知らない観客には、俺が滅茶苦茶かかっているように見えただろう。

 だがこのレースに出るどの馬よりも、強いのは俺たちだ。

 日本中のホースマンが思い知るまで、ほんの少し。

 

 

 

 ゲートに収まると同時に、歓声は静まり返るどころかますます激しくなった。

 ここから待ったナシの一本勝負。泣こうが喚こうが、生きようが死のうが関係ない世代最強を決める戦いが始まる。

 大外枠の馬が収まれば、落ち着く間もなく係員の掛け声が響き渡った。

 観客たちにも欲望と夢を託した馬がいるだろう。

 ホースマンすべてに思いの丈があるだろう。

 数多の大舞台を制覇してもなお届かない最高峰のレースを狙う天才ジョッキーがいる。

 乾坤一擲に賭ける若武者ジョッキーがいる。

 勢いのまま押し切るべく波に乗るジョッキーがいる。

 悲願を携えたベテランジョッキーがいる。

 どんな生い立ちがあったか、どんな夢があったか俺にはわからないが――ここにいる全ての馬と、騎手と、厩舎、生産牧場、育成牧場のスタッフが願うものは『勝利』だけ。

 たった二文字の言葉を目指して、渇きと飢えすら覚えた精鋭たちが挑む。

 それでも俺は言い切ってみせる。

 

「勝つのは……俺だ!」

 

『すべてのホースマンが、ファンが、思いを託すは生涯一度の夢舞台! 栄光は彼方2400m! 第63回、東京優駿――日本ダービー、今スタートが切られました!』

 

「なっ!?」

「ばかな!」

「うそぉ!?」

「驚愕……!」

 

 俺以外の馬のほとんどが驚く。

 自分でも驚くくらい、完璧なスタートを切る事ができた。

 鞍上のケンちゃんは手綱をかなり長く持ち、ハミも緩ませっぱなし。ゴー!のサインに俺は4本の脚を全力で回転させた。

 ――今回のレース展開で一番気をつけるべき相手とは?

 皐月賞覇者のイシノサンデー?

 逆襲を狙うロイヤルタッチ?

 満を持してやってきたダンスインザダーク?

 関西の秘密兵器ことフサイチコンコルド?

 全頭違う。

 一番警戒すべきなのは、俺と同じ逃げ馬のサクラスピードオーだ。

 こいつと先行争いをやりあってハイペースになって前の馬は総崩れとなるのが一番怖い。

 その次にまずいのが、お互いに控えてスローペースになった場合。よーいドンの競馬をすれば先程あげた末脚自慢の差し馬たちとの瞬発力勝負となってしまう。そうなれば奴らに分がある。

 ある程度後ろを離した状態かつスローペースならば理想的だが、俺はなんだかんだほかの馬たちに標的にされている。

 曲がりなりにも皐月賞大本命に据えられていた馬だ。油断は誘えない。

 その上で黒井先生とケンちゃんは作戦を立てた。作戦のためにも必須なのがまず、第一コーナーでインコースかつ先頭をとること。

 サクラスピードオーを抑え込むには、これしかない。

 内側の埒へ向かって切り込んでいく。内側に後ろから来る馬はほとんどいない。すんなりインコースをとると、第1コーナーを曲がっていく。

 

『ハナを切ったのはグレートエスケープ! このまま逃げ切るつもりか! サクラスピードオーは控えました2番手です!』

 

 後ろから競りかけてくる馬はいない。コーナーでスピードも出しづらいのもあり、鞍上からのサインに合わせて俺はペースを落とした。

 やや縦長の展開になり、レースは向正面へ差し掛かる。

 第2段階、開始だ。

 このままだらだら先頭を走っていても末脚自慢たちは捲ってくるだろう。直線の長い東京で脚を残した状態の後続馬に取り付かれたら勝ち目はグッと薄くなる。

 鞍上のサインが変わる。緩んだハミに合わせて、少しずつペースを上げていく。

 一気にはいかない。じわり、じわりと。

 

 ――グレ坊の持ち味はスタミナと勝負根性や。こいつの賢さも武器やが、ガリ勉にホームランは打てん。こいつには確かに走る能力があるんや!

 

 黒井先生の言葉を思い出す。

 レース前の作戦会議を、わざわざ俺の馬房の前でやるのは何故だとケンちゃんが言った。

 先生は『こいつも仲間だからや』と答えてくれた。

 正直、俺が愚痴ってる時に反応してくるし、この先生なら俺の言葉を理解していても不思議じゃないけど……仲間と答えてくれたのが嬉しかった。

 仲間のために走る――かっこいいじゃあないか。

 美人な馬主、信頼してくれる仲間、そして今も戦う戦友。

 彼らのために走ることが、気持ちよかった。

 

「……ペース、速くないか?」

「じゃあグレートエスケープくんを逃がすのか? あのまま逃がしたらそのまま勝たれちまうよ」

 

 後続の馬たちが呟く。その通り、ペースは少しずつ速くなっている。

 しかしそれは破滅的というには遅く、マイペースというには速い、絶妙なライン。逃げ馬の俺にとってほんの少し速いくらいだ、今こうして追走する後続の馬たちにとっても速く感じるだろう。23歳の若手だというのに冷静で、冷徹なまでのペース判断。流石ケンちゃんだ。

 このため、後ろの馬は選択を強いられている。俺を逃がせば、サクラスピードオーが競りかけなかった時点で悠々とセーフティリードをとられることになる。後続は俺を追わざるを得ない。

 いい流れだ。

 このままいけば、後続は脚を溜められず、俺は自分のペースで走りきることができる。

 目標は最初の1000mを60秒を僅かに切るペース。

 そこに収められたら……!

 

「上等だ、元からマトモに挑んで勝てるほど甘かねえよ! 勝負だグレートエスケープさんよォ!」

「我が闇の眼が捉えし逃亡者……否、闇から逃れし光などない!」

「スピードで負けるなんて有り得ません! サクラスピードオー、ハナとダービーを取りに行きます!」

 

 が、作戦は良くない方向へ転がる。

 俺のペースについていくでも、俺を無視するでもない。

 後続の馬たちが開き直り、俺からハナを奪おうと襲いかかってきやがった――!

 このままあっさりハナを譲ってしまえば、確実にレースは落ち着く。そうなれば、ほぼ同じ位置にいるであろうダンスインザダークの末脚とマトモに戦うことになる。

 それでは勝ち目はゼロだ。

 

「く、そ……! 気づきやがったか……! バカっぽいくせに!」

「告げたはずだ。覇を競う相手は我と。この†闇に舞い踊る閃光†そして、輝きに相応しい天稟のある同胞に敵うものは存在しない」

 

 前にいるほかの馬だけであれば譲っても良かった。

 まともにやりあっても心配のない力関係の相手が、俺より消耗するぶん問題ない。

 だがダンスインザダークがここまで前に来るのが邪魔だった。

 この位置にいられたら、俺は前に行かない限り勝ち目がない。ケンちゃんもそれを理解しているのか、歯噛みしていた。

 

「さすが天才ジョッキー、カナタさんだ……嫌なことをきっちりしてくるっすねぇ!」

 

 滝カナタ……若くして数多のGIを勝利した天才ジョッキー。今や常にリーディングを獲得しているジョッキー、いや競馬界のスーパースターだ。

 その名は伊達ではなかった。

 

「ちくしょう……ちくしょう……!」

 

 鞍上がハミを緩め、俺は脚に力を込めた。奇しくも、鞍上と言葉が被ったような気がした。

 

「なんて――言うと思ったか?」

 

 さらにペースを上げる。

 後ろの馬たちも俺を捕まえようとスピードを上げ始めた。

 

「まだ上がるのか……くそっ!」

「無理だこれは! だが……後続に飲まれたら結局勝てん!」

「行くしかねぇ……」

「上等だァ!」

「……それでこそ、我が好敵手!」

 

 ここからは作戦なんて微塵も存在しない、地獄へ至る暴走レースの始まりだ。

 俺のあげたペースに全頭がついてくる。

 日本ダービーはここから過酷なサバイバルレースと化すだろう。

 だが、それこそが俺の最終手段にして作戦だ。

 

「大人しくしてくれりゃこんな博打せずに……済んだのによ!」

 

 元々理想通りに行くと思うほど楽観的に見ちゃいなかった。

 後ろがペースを落とさないなど、もしもどうにもならないときに使うと決めていた作戦。それはスタミナと根性を盾に、全頭ハイペースのレースに引きずり込むというものだ。

 当然俺の消耗も激しく、ゴールまで足が持つか保証はない。

 だが、ここから勝つには全頭を俺の土俵に引きずり込むしかないのだ。そもそも100%勝てるレースなんて存在しない。だったら、勝ち目が高い選択をするだけのこと。

 

『グレートエスケープが今1000m地点を通過し59秒で通過! 59秒台前半ですこれは速い! グレートエスケープ鞍上梶田健二、このペースはどうなのか! 速すぎやしないのか!?』

 

 遠く離れたスタンドからどよめきが再度上がる。

 後続は俺から離れることもなくぴったりと着いてきていた。

 第3コーナーへ差し掛かり、坂を登っていく。

 この坂もきついが直線にはさらに上り坂が控えている。

 段々脚と息が苦しくなってきた。

 少しずつスタンドから聞こえる声が大きくなってきている。

 第4コーナーを回ればすぐ目の前には壁のようとすら錯覚するほどの坂が、ダービー馬を目指す馬たちを弾き落とすかのようにそびえ立っている。

 

「グレートエスケープくんは体力がないはず……ここで捕まえて、ぼくの2冠を!」

「あの野郎を抑えてダービー馬になるのはこのロイヤルタッチ様だ、邪魔すんじゃねえッ!」

「スピードだけは負けられないのですッ! ゴールにたどり着くスピードだけは!」

「光の速さで駆け抜け、我が名を知らしめるためにッ……!」

 

 後ろの馬が迫ってくる。俺の体力はもう切れて直線で沈むと思ってのスパートだろう。

 確かに俺の体力はもうほとんど残っていない。あれだけのハイペースで飛ばし続けたんだ。

 だが……

 

「それについてきたお前たちにも、その脚はあるのかな?」

「……! しまった、ダメだ、力が入らない……!」

「わ、罠にかかってしまったのか……この僕が!?」

「チッ、あの野郎も限界のはず……! だっつうのに……クソがッ!」

 

 全頭スピードが落ちているならば、リードしている俺に分がある。

 事実、後続の馬たちはバラけて追い抜きにかかれていない。

 バチン、と鞭が俺のトモを叩いた。

 ゴーサインだ。ここまで来たら足がブッ壊れようと関係ない。全力でスパートをかけて1着をとるだけ。

 ここまでのエスコートは梶田健二という若く才能あふれるジョッキーのおかげ。

 ここからのスパートは……グレートエスケープという最も強い競走馬の仕事だ!

 

『グレートエスケープが先頭! グレートエスケープが先頭! グレートエスケープが粘っている! サクラスピードオーは落ちていく、外の方からダンスインザダークがやってきた!』

 

 何頭か、辛うじて体力が残った馬たちが追ってきている。

 ちくしょう、まだ粘るか!

 

「至高の座を巡る争い……死闘……だが勝者として舞い踊るのは、我が血に巡る煌めきである!」

「ダンスインザダーク……!」

 

 ダンスインザダークがすぐ後ろまで迫っている。かなり前で俺を追っていたはずなのに、まだ脚を残しているとは。恐らく、こいつが最大のライバルなのだろう。

 それでも脚を止める訳にはいかない。

 息を吐きながらも、血液に酸素を取り入れるべく必死に息を吸いながら脚をまわす。

 坂を登る途中で、段々と視界が白くなっていく。

 酸素が足りない。

 脚が前に出ない。

 音が消えていく。

 ゴール板はまだか、今のハロン棒は残り幾つを示していた?

 俺が走っているのは平地か? 坂道か?

 ただ一頭で走り続けているのは何故だ。

 何故俺はこんなに苦しんでいる。

 どうして苦しいことをしている。

 誰かの馬蹄の音がした。迫られているのか? 負けるのか? ……日本ダービーで2着になったら、それは栄光の証じゃないのか?

 

『グレっち』

 

 橘ちゃん……俺は。俺は……貴方が選ぶに相応しい馬だったか?

 でも誇れるかどうかは……勝たなきゃわからないよな……。

 

 ――バチン!

 

 電流が走ったみたいに視界が広がる。そうだ、俺はまだダービーを走っている。

 自分が鞭を打たれたことに、遅まきながら気がついた。

 残り何mかもわからないが、俺は思い切り叫ぶ。自分を奮い立たせるためだけに。

 実際には走っている最中にただ息継ぎをしていただけかもしれないが、それでも俺は魂から咆哮を上げていた。

 

「橘ちゃぁぁぁぁーーーーんッ!! アンタの選んだ馬は……最強の馬だぁぁぁぁーーッ!!」

 

『残り200を切りました! グレートエスケープ先頭、グレートエスケープ先頭! 外からダンス、外からダンスインザダーク! ダンスインザダークが迫っている、さらに外からフサイチ、フサイチコンコルドと内の方からメイショウジェニエ! しかしグレートエスケープだ、グレートエスケープだ! ダンスインザダークは届かない! サンデー旋風切り裂いて! 海外血統の檻から大脱出したのは、グレートエスケープだァァァァッ!』

 

 ゴールがどこかもわからないはずだったのに。

 ゴール板を駆け抜けた瞬間に、全身を爽やかな風が包み込んだ。

 誰よりも速く駆け抜けられたと感じられる、身体が浮き上がり、どこまでも行けてしまいそうな、一際違う感覚。

 苦しみでいっぱいだったはずの俺の心が蘇っていく。

 

『ダービーを制したのはグレートエスケープ! これが日本血統の底力! 偉大なる逃走者グレートエスケープです! 勝ち時計はなんと、なんと! 2分25秒0でレコード決着! レコードで駆け抜けましたグレートエスケープ! 父アイネスフウジンが記録したレコードを0.3秒更新しました!』

 

 ゴール板を駆け抜けても脚を緩めろというサインが出ていることにしばらく気が付かなかった。

 今、一瞬意識が飛んでいたかもしれない。

 ゆっくりと速度を緩めていくと、白くなっていた風景が少しずつ元の色彩を取り戻していった。

 

「ダービー……勝てたんだよな……」

 

 確かに一番最初に駆け抜けていたはず。

 俺はターフビジョンを確認した。

 そこには確かに、1着に俺の馬番である『9』が刻まれていた。

 クビ差で優勝――紛れもなく勝利したことを、ダービーを見るすべての人間へ知らせていた。

 

「やった……やったぞ……俺は……」

『ワアアアアアアアアアッ!!』

 

 うおっ!? びっくりした! 急に叫んで何事だよ!

 観客の声に思わず振り向いた途端、全身に鳥肌が立った。馬が鳥肌になるのかは知らないが、間違いなく全身が震えるような感覚があった。

 18万人以上の観客が俺と、鞍上のケンちゃんに祝福の歓声を上げていた。

 地鳴りのように轟き渡る歓声に胸が熱くなる。

 

(なんだ……これ……すげえ全身が熱い。脚が震える……!)

 

 ケンちゃんはいつまでもコースを歩かせるばかりで、検量室に戻ろうとはしなかった。

 いいのか? こんなところにいて……と思ったが、GIレースを勝てばウイニングランがあることを思い出した。

 

(俺……そういえばGI勝つの初めてだった)

 

 望んでも勝てないレースが最高峰のグレードであるGIレースだ。それを勝利するどころか、一生に一度しか走れないダービーを制することができた。

 その重みは、この大歓声が何より示しているように感じた。

 ケンちゃんが観客に向けてガッツポーズを向ける。

 その姿にますます歓声が大きくなった。

 繰り返し俺を撫でながら「ありがとう、ありがとう」と口にする彼を見て、俺は嬉しくなった。

 

 こちらこそ、ありがとう。ケンちゃんがいなければ、ここまできっと来られなかった。

 

 スタンド前を通り過ぎて少しすれば、口取り式が始まる。競走馬、騎手、調教師、厩務員、生産者、そして馬主が表彰されることになる。

 

「グレ坊。ようやった。お前はいい馬や……」

 

 黒井先生がこれまでにないくらい俺を撫でる。

 厩務員の西京さんは黙って俺を撫でているが、少し微笑んでいた。

 

「グレっち……おめでとう」

 

 車椅子で押されながら涙ぐんだ橘ちゃんがやってくる。ターフの上だからガタガタして大変そうだ。それでもこの口取り式だけは是非とも出て欲しい。

 勝った俺が誰の馬なのか、みんなに披露するために。

 

「よい……しょ……」

 

 橘ちゃんは車椅子からゆっくりと立ち上がった。

 恐らく癌によって筋力は落ち、骨にまで転移しているのかもしれない。

 歩き方はおぼつかないものの、恐る恐るといったふうに、ふらふらとターフを歩いている。

 俺は顔を押し付けると、橘ちゃんは二本足で立ったまま、俺を抱きしめた。

 

「ありがとう……貴方のオーナーになれて、本当に幸せだったよ……ありがとう……!」

 

 ……彼女は遠からず、二度と会えなくなってしまうだろう。

 けど、彼女の命の輝きは決して損なわれることはない。

 こんな素敵な人なんだもの。

 多くの人が別れを悲しみ、いつまでも思い出してくれる人がきっといる。

 その輝きに、彩りを添えられるよう、ダービーオーナーの称号を彼女に渡せてよかった。

 俺はその喜びを噛みしめるように、橘ちゃんといつまでも、いつまでも抱き合っていた。

 

 ……馬だからこっちは抱きしめられないんだった。

 

 

 

 ――日本ダービーの死闘から1ヶ月。

 俺は生まれ故郷の墾備弐牧場に放牧に出されていた。陣営が気にしたのは日本ダービーをレコードタイムで駆け抜けたことによる反動だ。

 骨折などの怪我がないことがわかると、秋まで休養することがすぐに決まった。

 黒井先生が言うにはダービーを勝ったことで凱旋門賞に出走するプランもあったそうだが、流石に疲労が抜けきらないということで見送った。

 もっと余裕で勝てればよかったんだけど、強い奴ばかりダービーに出ていたから、そう簡単にはいかなかった。

 

「お、クロスケはなんだか嬉しそうだな」

 

 牧場スタッフが俺の馬房を開けた。

 当然だ。今日は大切なお客さんがやってくる日だ。

 それを待ち望んで日々牧場でぱかぱか歩き回っていたのだから。

 早く来てほしいがために、トラブルを起こさないよう脱走を我慢していたんだぞ。

 俺は馬房から出されると放牧地へ放たれた。

 ココ最近はのんびりダラダラと過ごし、食っては寝て食っては寝てを繰り返している。

 レース後数日は飯が喉を通らないこともあったが、しばらくすれば疲労が抜けて食事も摂れるようになっていた。青草がウマァイ。

 

「今日の見学の依頼は一件だけだから楽だよ。最近すごかったもんなぁ」

 

 スタッフのあんちゃんが愚痴を吐く。

 確かに、放牧されてから俺を見に来る観光客がとても多くいた。観光牧場でもないのに、連日大人数で観光客が押し寄せてくる。

 それもそのはず、ダービーを勝ってから俺の人気は爆発的に上昇した。

 雑誌や新聞で闘病中のオーナーとの絆や外国産種牡馬に立ち向かうヒーロー、イケメンホース、皐月賞で敗北し涙を流す写真などが報道され、人気沸騰。

 それ以来、この牧場に見学に来る人々もとても多くなり、連日観光客のカメラに向けてポーズをとるなどサービスしていた。

 幸いなことにストレスにならず、むしろいい息抜きになっていた。

 だが今日は、VIPが来るので観光客の受け入れは休止。

 ファンになってくれるのは本当にありがたいことだけれど、今回ばかりは流石に邪魔される訳にはいかない。

 噂をすれば、3年前に聞いた車のエンジン音が耳に届いた。

 

「来たみたいだな。今開けてやるから……」

 

 橘ちゃんが来た!

 俺はいてもたってもいられなくなり、奥義・大脱走日本ダービー拳にて入口の鍵を粉砕する。

 

「ああ、もう、うん、お前めちゃくちゃすぎて驚かねえよ……」

 

 安心してくれ。これは橘ちゃんに会う時のみ発動する鍵破壊拳だ。一子相伝の技なのでほかの馬に広まることはあるまい……。

 俺はあんちゃんを置いて車の方へ駆け出した。

 事務所のそばに着くと、丁度橘ちゃんが降りていたところだった。杖こそ突いてこそいるものの、自分の足で歩いている。

 酸素ボンベも装着していない。

 遅れてやってきたあんちゃんが挨拶をした。

 

「橘オーナー、お久しぶりです。お体の具合は……」

「最近は調子いいんです。それに、大切な愛馬に会うのに車椅子になんて乗ってられないっしょ!」

 

 いえーい、とテンション高めの振る舞いを見せる橘ちゃん。

 以前よりは体調は良好らしい。

 仕事も今はやめて、ゆっくりと一日を過ごせているようだった。

 

「でも本当におけまる? ウチみたいな素人がダービー馬の背中に乗りたい……ってノリでお願いしちゃったけど……」

「いいんですよ。むしろクロスケ……グレートエスケープが聞いてからずっと橘オーナーのことを待ってるみたいですし。すごい馬ですよ、本当に」

「ウチを元気づけてくれたダービー馬だもの、当ゼンの利休!」

 

 今日は橘ちゃんの乗馬体験の日だ。

 祝勝会の際にケンちゃんと橘ちゃんが話したときにグレートエスケープに乗ってみたい、と橘ちゃんが呟いた。ダービーを勝ったことで有頂天の生産牧場の天長牧場長が「せっかくだしいいよ!」とOKを出す。

 黒井先生も「ちゃんと休めるなら」と後押しした結果、橘ちゃん乗馬体験プロジェクトが始まった。

 ネックは橘ちゃんの体調だけだったが、治療のおかげで酸素ボンベを一時的に外すくらいは可能になった。もちろん、体力を考えたらゆっくり歩く程度だが。

 レース用の鞍ではなく、乗馬用の鞍がとりつけられる。少し重たいが、橘ちゃんも今は痩せているぶん、騎手が乗るのと余り変わらないくらいの重さだ。

 

「じゃあ、お願いします」

 

 あんちゃんが俺を引いて、ゆったりと歩き出す。

 本来こんな事はありえないのだが、色んな人たちの厚意や願いがあってこそのもの。

 もちろんこの話を聞いてから牧場スタッフが難渋することもあったが、それを知った俺は懇願代わりに脱走を我慢をすることによって願いを受け取ってくれたらしい。

 ゆったりと揺れる度に橘ちゃんは「わ……」「あっ」「きゃ」と声を上げていた。声が可愛くて困らせたくなるが彼女は闘病中の身。むしろ揺らさないように気をつけて歩いた。

 

「グレートエスケープの上から見ると、すごく高いですね」

「こいつは馬格がいいですからね。秋に、そして古馬になってもまだスケールアップすると思います」

「そっかぁ……秋……菊花賞かな。それとも、いつか有馬記念とか勝ってくれるかな。うーん……見たいなぁ」

 

 静かに乗馬時間は過ぎ去っていく。放牧地を一周するだけの乗馬だったが、この時間が永遠になればいいのにと願うほど濃密な時間だった。

 ……もうちょっと、一緒にいたい。

 俺はあんちゃんの周りをゆっくりと回った。

 俺を引いている縄をぐるぐるっとあんちゃんに巻き付けると縄を噛みきった。

 

「え? なにしてんのクロスケ。え? いや、ちょ、嘘だろ? そんなことできるの? 馬じゃねえよそれはもう!」

 

 悪い、あんちゃん。もう少しだけ時間をくれ。

 俺はあんちゃんを縛り上げるとゆっくりと放牧地のとある柵の前まで移動した。

 

「グレっち?」

 

 橘ちゃんは少し不安そうにしている。大丈夫だよ、と言うと俺の上で頷いた気がした。

 牧場の柵を脚でよけると簡単に開く。壊れたところを隠している、俺専用の隠し扉だ。

 そこから林を抜けていくと、だだっ広い草原に出た。

 

「……綺麗」

 

 もし叶うなら、橘ちゃんを背に乗せてこの平原を思い切り駆け抜けてみたかった。

 彼女と過ごしていると、まだまだ一緒にいたいという思いでいっぱいになる。

 後悔はないが、限りない願いが溢れて止まらないのだ。

 

「グレっち……。ありがとう」

 

 俺のたてがみに顔を埋める橘ちゃん。

 彼女は体を震わせ、泣いている。

 誰だって死は怖いはずだ。

 俺だって一度は死んだはずなのに、また死ぬと思うと怖い。

 橘ちゃんは若く、やり残したこともたくさんあるはずなのに。

 それでも、苦しみを彼女は受け入れようとしている。

 こうして悲しみを俺に吐き出してくれている。

 こんなふうに、彼女の心を慰めることができるのであれば、少しでも良かったと思えた。

 

「橘ちゃん……初めての馬に俺を選んで、よかったかい?」

 

 橘ちゃんは顔を上げて、涙声混じりに言った。

 

「……何度も言ってるじゃん? 最高の馬だって」

「よかった……本当に」

 

 ……ん?

 

「……会話通じてない?」

「本当だ。なんでだろうね……不思議と、わかる気がするんだ」

「……そっか」

「そうなんだよ」

 

 しばらく、風に揺れる草木を見つめていた。

 人の営みと喧騒からかけ離れた、隔絶された世界で二人きりになったみたいだった。

 

「またいつか……グレっちと一緒に走れたらいいな」

「……走れるさ。きっと」

 

 それからも俺と橘ちゃんで色んな話をした。

 生まれてからのこと、調教のこと、ほかの馬のこと、競走のこと……橘ちゃんからも色んな話を聞いた。

 スタッフのあんちゃんが関節を外し、縄抜けして追いかけてくるまで、ずっと、ずっと。

 爽やかな風が吹き抜ける、北海道の夏のとある一日のことだった。

 

 

 

 約一ヶ月後、橘ちゃんは永い眠りについた。

 それを聞いてから俺は一日だけ、馬房の中にこもり切って、泣き続けた。

 

 それでも、きっといつか。

 一緒に走ろうという願いを胸に。俺はこれからも、競走馬として走り続けてみせる。

 

「ダービーだけじゃない……たくさんのGⅠを勝ってみせる。それで、橘ちゃんが誇れるような競走馬になってみせる……だから、見ていてくれ。橘ちゃん……」

 

 北海道の空はどこまでも青く、限りなく広がっていた。

 

 

 

 ×××

 

 

 苦しい。胸が痛い。頭が痛い。視界がチカチカする。まだ直線が残っているなんてどんな悪夢だ。

 ダービーを走る私に向けて、僅かに届く声がある。

 応援する声だ。

 負けるな、頑張れ、最強のウマ娘はお前だと。

 喉が張り裂けんばかりに叫ぶ誰かが、一人ではなく、たくさんの誰かがいた。

 

 

 

 ――私は才能という言葉とは程遠いウマ娘だった。

 

「エッちゃんおそーい!」

「ウマ娘なのに、頑張れば俺でも追いつけそうだなぁ」

 

 小学生のころは男の子にも負けそうなことすらあった。

 

「こら、ウマ娘だって走るのが得意な子、苦手な子がいるんです。エスケープちゃんを馬鹿にしちゃいけません!」

 

 学校の先生が庇ってしまうほど、足が遅いウマ娘が、幼いころの私だ。

 ある時、母親に言った。母はレースを走っていたウマ娘ではなかったが、パパよりも力持ちで脚がずっと速かった。

 夜、何故かパパにのしかかっている姿を見たこともある。

 なのに私は速く走れない。

 運動会の徒競走で負けた日、私は泣きながら母に叫んだことがあった。

 

「なのになんでママみたいに脚が速くないの? 私だって速く走りたい!」

 

 母は困ったように笑いつつも、頷いた。

 

「グレっちは速く走りたいん? よっしゃ、バイブスあげて鍛えるってその精神にキュンでぇす! やる気だしたならグレっちしか勝たん」

「でも……どうやったら速く走れるようになるの?」

 

 それから父と母はインターネットでトレーニング方法や走るための技術を調べてきては、教えてくれた。最初は練習もよくわからなくて、本当に速くなれるか自信も持てなかったからイヤになるときがあった。

 けど、両親が毎日、本気で教えてくれているのを信じて私はトレーニングに励んだ。

 結果――

 

『1着はグレートエスケープちゃん! 見事な走りでした』

 

 運動会の徒競走だったけど、他のウマ娘の子に勝つことができた。

 一番にゴールした瞬間の歓声と、前には誰もいない景色が気持ちよくて、私はそれからもっと速くなるために鍛えるようになった。

 速くなるにつれて、今度はフォームや呼吸の仕方、鍛えるべき筋肉を学ぶようになって――次第にレースを走るウマ娘育成機関の最高峰、トレセン学園を目指すようになった。

 トレセン学園の試験直前に、母は言った。

 

「グレっちは才能がないなんていうけど、諦めずトレーニングし続けた根性が一番の才能なんだよ」

 

 そう言って私を撫でる母の手が、大好きだった。

 

 ――そうだ。私は、走ることが好きで、それ以上に、勝つことが大好きだったんだ。

 

 

 

『日本ダービー最後の直線、先頭はグレートエスケープ! グレートエスケープ! 粘っているグレートエスケープ!』

 

 いつからか、頂点を目指すように変わっていっても、根っこに眠る渇望に変わりはない。

 ただ目の前のレースを勝ちたい!

 日本ダービーの直線、泥がまとわりついてくるような重みを足に感じながら走り続ける。

 

「う、お、おおおおおおッ!」

 

 ダービーに出走できるウマ娘は毎年数多くの入学者がやってくる中で、たったの18人。

 ふるい落とし続けて残った18人の誰もが勝ちたいと願っている。

 たくさんのライバルがいた。

 どの子も私に負けないくらいスピードがあり、スタミナがあり、パワーがあり、クレバーさがあった。

 それでも負けるわけにはいかない。

 勝利への執念と渇望だけは、誰にも負けてはならないのだ。

 

「根性だけは……負けられないんだ……!」

 

 すぐ後ろに迫ってきても抜かせない。

 体力が完全に切れていようと、私は足を前に踏み出し続けた。

 そしてすべてを踏破した先に――日本ダービーの栄光が待っていた。

 

『今、グレートエスケープが先頭でゴールイン! やりましたグレートエスケープ! これがグレートエスケープの底力! 偉大なる逃走者、グレートエスケープです!』

 

 1着で駆け抜けて広がる視界。

 これが頂点の景色――私は観客席に拳を突き上げた。

 

「うおおおおおッ!」

 

 普段のキャラ作りとか、そんなものは関係ない。

 ただ、心の奥底から絞り出された、勝利に対する咆哮だった。

 それに合わせて、観客が大歓声で応える。

 ターフを踏みしめながら、手を振り返すと観客から口々に祝福の声が上がった。

 

「ありがとうグレートエスケープ!」

「すげえ走りだったぞグレートエスケープ! 今月の給料でグッズ全部買ったからな!」

「流石グレートエスケープだ……直線の長い東京レース場で逃げ切るのは一般的に極めて困難とされている。それでも果敢にハナを切って勝ってみせた。間違いはなかった。俺たちがあの日見たのは、誰もが無謀と思う中でも最強を目指し走った、未来のダービーウマ娘だったんだ」

「どうした急に……ぐすっ」

 

 大歓声を一身に受けながら地下バ道へ戻っていく。

 通路にはトレーナーが待ち構えていた。

 

「いいレースだった!」

 

 トレーナーは満面の笑みを浮かべてそういうと、親指を立ててみせた。

 

『いいレースは勝ったレースだけだ』

 

 出会ったばかりの頃、彼に言ったセリフが脳裏を過ぎる。

 あのときはきっと、苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てていただろう。

 でも、今なら言える。

 ずっと言いたかった、あの言葉を。

 

「ああ……良いレースだっただろう、相棒!」

 

 満面の笑みを浮かべながら、私が宣言する。

 だが、ここがゴールではない。ゴールは最強の座ただひとつ。

 シニア級に所属する先輩たちもいれば、いずれジュニア級の後輩たちが上がってくる。

 ライバルはまだまだ多い。

 私がたどり着く頂は遥かに高く、果てしないが――今は、私の名をトゥインクルシリーズを見るファンたちに宣言してこよう。

 これから最強へ至るウマ娘の名前は――『グレートエスケープ』だと。

 

「相棒。ウイニングライブも、最高のライブにしてみせるよ」

 

 ――ダービーデーの終わりを迎える夜。

 ダービーで勝利した者だけが立てる、ウイニングライブのセンターの位置に、私はいた。

 ギターの旋律が奏でられ、踵を鳴らしてリズムを取った。軽快にして、熱い滾りを抑えられないほど張り詰めたイントロ。

 ずっと私が歌いたかった、クラシックを制覇したウマ娘だけが歌える曲。

 ここまで努力を積み重ね、自らの才能をかき集めていたのは、この歌にふさわしいウマ娘になりたいがためだったのかもしれない。

 

(すべてのライバルたちに聞かせよう。これは……『グレートエスケープ』の始まり。そして、この胸で熱く燃える『winning the soul』を!)

 

 ――私は勝利、頂点、最強、あらゆる渇望を込めて、観客の心臓を撃ち抜くつもりで歌うのだった。

 

 

 

 

 ――名バ列伝『グレートエスケープ』 第一部、完――




〇競走馬ワールド
・本日の被害馬「フサイチコンコルド」
 史実であればこの日本ダービーを僅か3戦目で制覇し、和製ラムタラと呼ばれるようになる馬。本命とされていたダンスインザダークを最後に抜き去る姿は音速の末脚とアナウンサーは評した。この作品では名前が少し出てくる程度に。
いや待って言い訳させてください! 如何せん作品にすると突然ダービーに出てきて突然勝ったという扱いになってしまう。このあと活躍するならともかく、インブリード血統のせいか体質が弱く、菊花賞後引退してしまう。つまり彗星の如く現れ、勝利をかっさらい、消えていくという扱いづらい立ち位置にいる。そのせいで彼には涙を飲んでもらいました。しゃーないやん、私にそれを扱う技量はないんじゃ……!というわけでフサイチコンコルドのウマ娘化、待っています。

・日本ダービーレコード
 1990年の日本ダービーでアイネスフウジンが2.25.3のレコードを記録。それ以降2004年にキングカメハメハが更新するまで破られていなかった(1999年アドマイヤベガがタイ記録を達成)。東京競馬場が改修されるまでの間、レコードを保ち続けたことになる。レコードを塗り替えてしまったが、子が親のレコードを塗り替えるのはドゥラメントがやりましたし、いいよね!ウマムスキー粒子のせいだから仕方ない!

・63回日本ダービー
 実際のレースでは比較的落ち着いた流れになって、先行していたダンスインザダークが抜け出すも中団にいたフサイチコンコルドがそれを捉えて勝利している。拙作ではハイペースとなったため、順位に違いが出ている。

・グレートエスケープの戦績 7戦5勝
新馬戦3着
未勝利戦1着
OP特別1着
ラジオたんぱ2歳S1着
弥生賞1着
皐月賞10着
東京優駿1着

〇ウマ娘ワールド
・親愛度ランク3
耳のこと 関係のない話も意外と聞いている
尻尾のこと 自由に動かすのが下手っぴ

・特殊実況
日本ダービーで1着
「これがグレートエスケープの底力! 偉大なる逃走者、グレートエスケープです!」

・目標
メイクデビューに出走

ホープフルSで5着以内

皐月賞で5着以内

日本ダービーで5着以内(Clear‼)

・ED
「winning the soul」
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