※メッセージにて「グレートエスケープのイラストを描いてもいいですか」という問いがありましたので報告させていただきますとオーケーです! むしろ描いてくださいお願いします!
常々考えることがある。
私はレースで勝つためにトレーニングをしている。
レースには真実がある。
どんなに引き離そうと、どんなに接戦だろうと、先にゴール板をかけ抜ければ勝利し、遅れれば敗北する。
清々しいまでの事実に対して、私はトレーニングを積んでいた。
最後の数cmで泣きたくないから。
一完歩のミスで泣きたくないから。
「ふぅー……」
200kgのバーベルを置いてベンチプレスを終える。
本日は筋力トレーニングがメインのメニューとなっているが、まだまだ余力はあり、追い込んでいきたい。
どんな作戦や戦法を選ぼうと最後に大切になるのは基礎能力だ。
少しでも上積みを増やすためにこうして筋トレメニューを黙々とこなしている。
「あと3セット……」
「グレートエスケープさんすごい……表情が真剣というか」
「やっぱりトレーニングもあれだけ集中してやっていかないとダメだよね……私達も!」
「うん、頑張ろう!」
周囲から私を見てひそひそと話す声が聞こえた。
注目されるのは苦痛ではないが、ダービーを勝った今や自分の振る舞いが周囲に大きく影響する。
そう考えるとトレーニングには真剣に打ち込み、勝たなければならないという思いが強くなった。
「次はバーベルスクワット……うん?」
そう思っていたところに賑やかな声が近づいてくる。
トレーニングジムの入口を見れば、青と緑を連想させる騒がしい2人組がやってきていた。
「ぶぶぶぶーん! トレ中にメンゴ! ちょい探しウマ娘で三千里って感じなんだけど、グレートエスケープってウマ娘ちゃんおらん? おりゅ?」
「グレートエスケープ先輩なら……あそこでトレーニングしてます。でも今は……話しかけない方がいいかも」
「え?なぜに?」
「そりゃあ集中してるからでしょ」
「なる〜! 流石パーマー!」
「でしょ?」
「うぇーい!」
「うぇーい!」
なんて言ってると、その青と緑の二人がバーベルスクワットを行う私の横にやってきた。
「オッスオッス! トレ中マジごめん! 今話良い? あ、私はダイタクヘリオス」
「私はメジロパーマーだよ」
鏡越しにそう言ったウマ娘を見る。
ダイタクヘリオスと名乗ったウマ娘は、黒い髪にところどころ青のメッシュが入り、イヤリングや髪飾りで着飾っている姿は快活さと可愛らしさを演出している。
もう一人は鋭い線のような流星が入った栗色の髪の優しそうなウマ娘がメジロパーマー。
私はトレーニング中だぞ、と言いたげに睨みつけた。つもりだったが……なんだか、あまり冷たく当たろうとする気が起きなかった。
「ああ、構わない。何か用かな」
「あのグレートエスケープ先輩がトレーニング中に……!」
「嘘、この前は素っ気なく後にしろと言われちゃったのに!」
「そんなこと言って貰えたの!? ずるい!」
外野がうるさい。
バーベルスクワットを続けながら私は続きを促した。
「ちょっと逃げウマ娘を集めて逃げの勉強会みたいな? ウチらトレーナーからアタシとパーマーの爆逃げだけじゃなくて色んな逃げがあるから学んでこいって言われてさぁ。ってなわけでここは仲良くなるためのパーリィして意見とLINE交換しちゃえば的な天才の発想をパーマーが打ち出したワケよ!」
「ライアンに聞いたら逃げウマ娘といえばグレートエスケープがいいって教えて貰えたからさ。是非教えてもらいたいんだよね」
「ライバルに自分の戦法を教えて得があるのか?」
「あちゃ……確かに。グレっちクレバーじゃん! 流石誘いの逃げ方もクール入ってんじゃん……」
「ヘリオス、それ少し煽り入ってない?」
「マ?」
私はバーベルを床に下ろした。
がしゃんと音が鳴り、二人は突然気をつけの姿勢に変わった。
「あ、いやいやいやヘリオスも悪気があって言ったんじゃなくてね!」
「ちょちょちょメンゴ! というかごめんなさい! バカにするつもりはなくて」
別にそういうつもりじゃないと、手で制した。
「……一つ頼みがある」
「頼み? いいよ、なんでも言って!」
「その……もう一度、グレっちと言ってもらってもいいか」
「ほへ?」
ダイタクヘリオスは一瞬困惑こそしたものの『あだ名呼んで親睦深めたい的な? キュンときちゃうじゃん! OKよ!』と心ゆくまで呼んでくれた。
彼女の話し方や声は不思議と私をリラックスさせた。
何故だろうか。答えは出なかったが上機嫌でジムのそばのベンチで話を聞くことにした。
「と、いうわけで! グレっちとの親睦深め合おうぜパーリィ始めちゃおうぜうぇーい!」
「うぇいうぇーい!」
「うぇいうぇーい!」
「うぇいうぇーい!」
「うぇ……私もやらないとダメか?」
「そこはノッてくれないと!」
「くっ、うぇいうぇーい……!」
話は逃げウマ娘たちを集めて逃げ講座、のはずだったが実際には既にパジャマパーティと化している。
集まったのは発案者のダイタクヘリオス、メジロパーマーの二人の他、暴走爆走そして逆噴射ことツインターボだった。そして何故か呼び出されたマチカネタンホイザがいた。
「これは一体……」
「教えるにもなにもやっぱまずは親睦深めないとでしょ! というわけで自己紹介シクヨロ! ウチはダイタクへリオスでぇーす!」
「メジロパーマーだよ。パーマーでいいからね」
「ターボはツインターボなのだ! 逃げならターボいっちばん得意なんだから!」
「マチカネタンホイザです! ……逃げウマ娘じゃないけどいいんですか?」
「……グレートエスケープ。私も逃げと言っていいのか微妙だが……」
「おけまる水産! とりまキャロチ開けてコーラでバイブス上げてまじ卍!」
「あの、私は? 逃げウマ娘じゃないよ? いいの? ノリが早くない!? グレートエスケープさん、なんとか言ってくださいよ!」
キャロットチップスとコーラか。
夜中に食べるジャンクフードの味は何故こうも罪深く、そして甘美なのだろうか。
私は一枚つまんでからコーラを喉に流し込んだ。
しゅわしゅわとした刺激がチップスの油を洗い流すようで、残った甘味を再びチップスの塩気で中和する。
うぉん夜中のキャロチとコーラはウマ娘の永久機関だ。
「全然聞いてないし! チップス好きなんだね……」
「ターボも好きだよ! ターボね、やっぱりキャロットチップスはのりしおだと思う」
「わかりみが深い! ウチはコンソメ派かな!」
「私はやっぱりうすしおかなぁ……マチタンは?」
「あたし? あたしは栄養良くないからあまり食べないけど……うすしおかなぁ」
わいわいとキャロットチップス談議は続いていく。
キャロットチップスが嫌いな年頃のウマ娘はほぼいないと思う。
いたら見てみたいものだ。そしてそのチップスを全部代わりに食べてやろう。
話がチップス、最近のファッション、トレセン学園の秘密話などなど話がうつり変わったところで、ようやく『逃げ』についての座談会ということになった。
話が脱線していたように思えたが、これまでの会話で仲も深まり、気安く話せるように場の空気が暖まっていた。
「じゃあ逃げならターボね! まずスタートしたら全力で走る!」
「うんうん。それで?」
マチカネタンホイザが熱心に聞いている。
メモまで出して、勉強熱心なことに感心した。
ツインターボは熱心に聞き耳を立てる周りに触発されて饒舌に語り出した。
「そのまま1着でゴールイン!」
「それだけ!?」
「先頭で逃げ切り最高にCOOLじゃんFoo!」
「WHOOO!」
「これでいいの!? グレートエスケープさん、これ収拾がつかないんですけど!」
でも今終わった。
タンホイザが悲鳴じみた声こそ上げたものの、私は密かに頷いていた。
スタートから先頭に立ち、後続に追いつかせないペースで走りそのまま1着でゴールイン。
スタミナとスピードで圧倒していれば相手より速い速度で終始走り続けてさえいればよいという戦い方はある意味理想だ。
ツインターボはその理想の走りを目指して戦い続けているというわけだ。
「……なるほど。素晴らしい戦法だ。それができれば苦労しないという理想だが、その理想を目指さなければたどり着くことは決してない。いつか完成した時は……ツインターボは最強の逃げウマ娘になるな」
「でしょー!? ターボは最強だから!」
「嘘……これツッコミは私だけ?」
「はいはーい! 次はあたしとパーマーね!」
「本当にこれでいくの!?」
2番手はダイタクヘリオスとメジロパーマー。
逃げなのに二人なのかと首を傾げてしまうが、そこはこれから説明されるはず。
私は二人の言葉を待った。
「ウチらはまず逃げる!」
「そんで、逃げたらまずは爆走!」
「そしたらパーマーとウチで先頭を争って最後は」
「ゴールに向かってFOOOOO!」
「で、終わり」
「終わっちゃった!!」
ダイタクヘリオスとメジロパーマーはお互いに切磋琢磨し、常に最終直線と同じ緊張感で走り続けることでスピードを高め合っているというわけだ。
人間やウマ娘でも走る相手が自分より少しだけでも速いと自分のタイムも良くなるという科学的なデータがある。
つまり最初からスピードに上積みをさせることができる素晴らしい戦法だ。
「競い合う仲間がいることで速く走れる……綺麗事のように聞こえるがそれもまた事実。それを利用したクレバーな走りだ……」
「あっれぇそんなクレバーな話だったかなぁ!? 逃げウマ娘わかんない……」
マチカネタンホイザが悲鳴じみた声を上げるが気持ちは分かる。
偉大な敵の影がちらつくと心が弱音を吐いてしまう時もあるものだ。
それでも挫けずにトレーニングを繰り返すものにのみ、栄光はやってくる。
頑張れ、マチカネタンホイザ。
「そいじゃ、次はグレっちね!」
「私か……私の話は長くなるかもしれないが……いいかね」
全員が顔を近づけて注目してくる。
特にマチカネタンホイザの祈るような目線が印象的だった。あと、ツインターボはなんだか眠そうだ。
「逃げというものも一種類ではない。大きく後続を引き離す逃げ、ハイペースにするための高速逃げ、スローペースでゆったりと走るための逃げ……逃げ方にも種類がある。通常これは自分の適性に合わせて選ばれるものだが、私はこれを対戦相手によって変えている。展開を読んでいるともいえるな。スローでいくべきか、ハイペースにするべきか、大きくセーフティリードをとるべきか。私の逃げの特徴としては相手によって逃げ方を変えることか」
「ふむふむ……でもそれだと大変じゃないかな? 自分の武器を一本に絞れた方が強そうだし、それに相手だって一人じゃないよね。私みたいな特に武器がない普通のウマ娘だとどれが来ても大変なんだけど……」
「いい質問だ、タンホイザくん。正直、私も武器といえる才能は無かった。末脚もスピードも、パワーもなかったからな。だからこそ、他者に自分のレースをさせない、或いは自分の力を最大限発揮する展開を作り出すことがある意味武器なのかもしれないな」
「自分の力を発揮しやすい戦い方を……メモメモっと。あ、ごめん、私だけ質問しちゃって。みんなはもっと聞きたかったよね?」
マチカネタンホイザが振り返ると、三人はテレビに向かってスマブラをやっていた。
ちょうどダイタクヘリオスの操るソニックが二人をまとめて吹き飛ばしたところだった。
「全然話聞いてないし! あ、ああ、グレートエスケープさん怒っちゃうよぉ……以前生意気言ってきた後輩ウマ娘が次の日顔を見ただけで逃げちゃうようになったって噂もあるのに……!」
「え? まじ? なにそれすごウケる。グレっちもこっちやりながら語るっしょ! パリピはスマブラで会話する的な?」
「あ、あのグレートエスケープさん、これはその、あの子たちには少し話が難しかったといいますか」
マチカネタンホイザを制して私は三人を睨みつけた。
私は本気だ。本気で三人に言葉を放った。
「私はマリオ使いだ」
「エッ、エスケープさーーん!?」
このあと消灯過ぎてもスマブラに励み、仲良く寮長に叱られたのだった。
本音を言うと、貪欲に他者の話を吸収しようとするマチカネタンホイザは自分と似ている。
だからこそ、あまり情報を与えるのは不利になると考えたという打算もあったのだが、そこは黙っておくことにした。
その頃トレーナーは中々やってこないグレートエスケープを待ち続けていた。
体力が15上がった!
根性が5下がった……
やる気が減少した……
怠け癖になった……
×××
橘ちゃんの妹、恵奈ちゃんは妹ちゃんと呼ぶことにしたッ!
そういえば俺の兄弟姉妹は今どうしているのだろうか。
帰省(放牧)したときは母(馬)と会って色々話したものだが弟や妹もきっと尊敬していると言っていたからいるのだろうが、当然会う機会がほぼない。
2歳の夏前だから厩舎か育成牧場にいるだろうし、もう1人は1歳だから同じく育成牧場に行ってしまっている。
これから新馬戦の新聞を毎日見るべきだろうか……兄にダービー馬がいるんだから注目はされるだろう。
新聞を見れば全兄または半兄『グレートエスケープ』という名前が出ているはずだ。ちょっとワクワクする。
今は菊花賞に向けて調教を積んでいる最中だが、驚くことに妹ちゃんは毎週のように栗東トレセンへ足を運んできていた。
今も馬房のそばで本を読みながら、時折俺に視線を向けている。
「新しいオーナーさん、エッちゃんのことが大好きみたいだね。前のオーナーさんも大好きだったけど」
「どうでしょうねぇ……」
隣の馬房のダンスパートナーさんがそう言うが、好きでいるのかと言われると少し違うと思う。
当然、俺個人……人? 個馬? とにかく俺を嫌っている訳では無いと思う。わざわざ栗東トレセンに毎週やってくるくらいなのだから。
しかしあの目は……
「……監視しに来てるだけだと思うんです」
「監視? ちゃんとやってるかってこと? エッちゃんいっつも頑張ってるし、厩舎でも一番の努力家だよ!」
ダンスパートナーさんがぷんすこしている。
なにも俺がちゃんとやってるかどうかなんて見に来ている訳では無いと思う。
そもそも馬が主体的にトレーニングするわけではない。調教師に促されてトレーニングを積むものだ。
やれといわれたらやる、それがサラブレッドだ。
まさか調教を拒否する競走馬がいるわけでもなし……
俺が妹ちゃんをじっと見ていると顔を逸らされた。
彼女が読む本のタイトルは『サラブレッドの基礎』という初心者向けの本だ。
決して嫌っている訳ではない、はずだ。
「なんだか少し落ち着かないなぁ……エッちゃんは気にならないの?」
「俺は慣れました。お客さんからの声の方が俺は嫌いです」
「? 結構面白いと思うけどなー。『カネカエセー』って、面白い響きだし。意味はわからないけど」
「なんの言葉が通じて、何が通じないのかわからなくなってきますね……ダンスパートナーさんはそのままでいてください」
「どうして?」
「……可愛いので」
「……う、うん……ぅ……恥ずかし……」
今度は俺がじっと彼女を見ていると競走馬も恐れる厩舎という城の主といえる人物、黒井先生がやってきた。
「橘オーナー、グレ坊はどうですか」
「橘でいいです。……オーナーと呼ばれるほどの者ではありませんから」
「そか。で、橘さんの願いは叶ったんか?」
なんのことだろう。
俺は耳をピンと立てた。聞いてますよアピールをするが誰も気づいてくれなかった。とても悲しい。
「願いという程のものでは……相変わらず、わからないままです」
「『姉がどうしてアイツを大事にしたか』……別にええと思うけどな、好きな物は人それぞれやし」
「姉の大切なものを引き継ぐんです。ちゃんとその思いも理解したいんです。バカみたいですけど……たとえ、嫌いな競馬だろうと。姉の思いを、少しでも持ちたいんです」
「……すみません。軽率でしたわ」
「いえ、自分でもバカみたいだと思ってます。でも、性分なんです……バカが付くほど真面目だとか、正直とかよく言われてましたから」
妹ちゃんにとって橘ちゃんがどんな姉だったかは知らないが、こうして馬をわざわざ相続するくらいなのだから仲は良かったのだろう。
姉を亡くして、姉の思い出を少しでも受け止めようとする姿勢には尊敬の念を禁じ得ない。
彼女は競馬が嫌いらしい。
その上で愛そうとするなんて中々できることではない。結局俺が彼女にしてやれることは何も無いが……何がなんでも菊花賞で勝たなくては。
勝って、妹ちゃんに橘ちゃんが味わったであろう幸福感を教えてやるのだ。
「ところで……ゲートに縛るって調教方法があるらしいんですけど、まさかグレートエスケープにやりませんよね?」
「やるわけないわ。アイツ、ゲートは上手いからな」
「下手ならやるみたいな言い方ですね……」
「やるで? てか、やったで」
「え゛」
妹ちゃんはますます競馬に対してマイナス感情を抱いてしまいそうだ。
そもそもゲート訓練なんてビビらなきゃ問題ない。
最近忘れかけてきたが元人間の俺ができなかったら色々とコトだ。
「ゲート怖いゲート怖いゲート怖い……!」
気づいたらダンスパートナーさんがトラウマを発症してがたがたと震えていた。
そう彼女はオークス前にゲート難矯正のために縛り付けられていた。あれからゲート難は減ったようだが、ゲート嫌いはかえって加速しているようだ。
ダンスパートナーさんのオークスの頃は新馬戦を控えていた頃だったか……1年経つのが早くてびっくりだ。
今ではダービーを勝ち、菊花賞を控えている身。
あのときより俺は強くなった。そして、勝つことの意味、大切さ、俺の背中に乗るものの大きさも知ったつもりだ。
見ててくれよ妹ちゃん。俺が菊花賞を勝つところを……!
〇〇〇
パドックから電光掲示板をチラチラと窺う。
俺は単勝1番人気、オッズは皐月賞以来の1倍代になる1.6倍と表示されていた。
馬体重は488kg(-9kg)、重すぎず、それでいてガレていないというすっきりとした気分。つまり今の俺は絶好調で文句なしの状態だ。
菊花賞はクラシックレースの最終レースであり、京都競馬場の3000mを舞台に争われる長距離レース。クラシックレースの中で『一番強い馬が勝つ』とされるこのレース、俺には負けたくないという思いが腹の中で燃え盛っていた。
血統では決してステイヤー血統ではないが、馬体から長距離に適性があると黒井先生に言ってもらえた俺にとっては負けられない一戦。
橘ちゃんはもちろん、妹ちゃんにだって勝利を届けると勝手ながら約束をさせてもらったから。
「よしっ……グレ坊、いったろうぜ」
ケンちゃんが俺に乗るとぽんぽんと頭を撫でた。
傍には黒井先生と妹ちゃん。
俺は頭を下げて立ち止まった。
「……?」
少し遅れて、慌てて頭を上げて何事もなかったように振る舞う。
つい、いつものクセでやってしまった。
もうあの手に撫でられることはないはずなのに。
辛気臭くなっちまった。
すぐに本馬場入場するため移動が促され、列に続いて歩き出した。
「久しいな、好敵手」
しんみりしながら本馬場へ歩みを進めると、ぱかぱかとダンスインザダークが近寄ってきた。
「神々の黄昏から幾星霜……我が血肉と魂は更なる高みへ上り詰めた。ただ渇望だけを秘めて。永き戦いの果ては、我が闇に染め上げて終幕を迎えるのだ」
相変わらず何言ってるかはわからなかったが……今の俺は誰にも負ける気はない。
「……まぁ、頑張ろうな」
「我が名を……呼ばぬか……逃亡者よ」
だがレースではほかの馬は気にしない。自分のペースで走り、1着をとれればそれでいい。
本馬場での返し馬でも走りは好感触だった。
長距離戦で大切なのは折り合いだ。どんな馬だろうと3000mを全力で走ることは不可能だ。
だからこそ、長距離レースの馬券は騎手で買えと言われる。
そういう意味ではレースというものを理解し、手前を自力で変えたりペース配分を理解出来る俺は明らかに有利になる。
そして自力をつけるために黒井先生からの容赦のない坂路調教をビシバシやってきたのだ。
死ぬかと思った。ダービーほどではないがかなり負荷をかけられたがスタミナは間違いなくついた。
レコードで走るスピードとスタミナ、そしてレースに対する判断力……すべてを兼ね備えた今、それを発揮することだけに集中する。
『第57回菊花賞の時間がやってまいりました。1番人気は前走を圧巻の走りで完勝したダービー馬グレートエスケープ。王者に挑むのはダンスインザダークか、フサイチコンコルドか、ロイヤルタッチか。はたまた伏兵か。現在、ゲート入りが行われている最中です』
快晴の空に、乾いて走りやすい芝。
体がでかいのに比例してストライドも広い俺にとって良馬場とコーナーの大きい京都競馬場は相性がいいコースだ。
『8枠18番、グレートエスケープがゲートに収まりました。第57回菊花賞、淀を舞台にダービー馬は逃げ切るのか。スタートしました』
大外枠からの出走となったが、無理にはいかない。
スタートを五分に決めると俺は先行しスッと前目の4番手につけた。
ローゼンカバリーが真ん中の枠から前に出ていくがそれを見るようにして追走する。
京都競馬場の名物、淀の坂を越えて、再び下っていく。
速度を出しすぎるとコーナーが膨れてロスをしてしまう他、スタンド前直線で速度を上げてしまうと馬が勘違いしてかかってしまうこともあり、このあたりから菊花賞はペースが落ち着く。
「だからこそ、行く。だろ、先生、ケンちゃん」
それを心配しなくてもいいのが俺の強みだ。
スタンド前正面の歓声を聞きながらローゼンカバリーより前に行き、ハナを奪う。
「お先に」
「な……待て! くそ、なんでいかせてくれない! 置いていかれるぞ!」
俺が追い抜いたことで先頭集団の何頭かが少し落ち着かなくなり、かかりはじめる。
理想通りの展開だ。
あとは俺のペースで逃げるだけのこと。
『スタンド前直線でダービー馬がハナを奪いました。やはり逃亡者グレートエスケープ、菊の舞台でも逃げ切るのか。最初の1000mは1分2秒から3秒で通過、平均ペースです。レコードの出たダービーとは違うぞグレートエスケープ』
向正面に入っても展開は変わらず。
3000mを走った経験のある馬は1頭もいない。
ここが初めての長距離レースとなる以上、騎手も探りつつという思いもあるのだろう。
とはいえ、GIレースに出る騎手たちはいずれも百戦錬磨の強者たち。
それを織り込んだ上でレースに乗っている。
どこからでも来いとばかりに後方に注意を払う。
『第3コーナー前、2度目の淀の坂越えです。先頭は依然グレートエスケープ、後続がぐっと距離を詰めてきた。ロイヤルタッチ、フサイチコンコルド、ローゼンカバリーが前を狙っているぞ! ダンスインザダークは馬混みでもがいている!』
坂の下りから徐々にペースが上がってきた。
俺の脚にはまだまだ余裕がある。
もちろん、決して楽ではないが充分に足を溜めた上で直線を迎えることができた。
「ケンちゃん、あれをやるわ! ええ、よくってよ!」
一人芝居を打ちながら、仕掛け所で手前を変える。
最初こそ遠慮していたがダービー以降、どこが仕掛けどころなのか、ケンちゃんがどこで仕掛けたいのがわかってきたからこそできる息のあった芸当。
それを行える自分の中には、心地いい全能感すら溢れていた。
辛く厳しい調教を積んで、自分の力を充分に活かせる最高のレース展開で走ることが出来ている。
「橘ちゃん、妹ちゃん、見ててくれよ!」
第4コーナーを抜けると内回りと合流地点である草原のような直線が広がっていた。
まるで最期に語り合った場所のような景色。
疲れきった脚は自然と軽くなり、どこまでも走れそうな気持ちになる。
『先頭はグレートエスケープ、突き放す! それを追うロイヤルタッチ、フサイチコンコルド! もう言葉は要らないのか!』
後ろから迫る馬がいる。
だが、今の俺に勝てる馬はいない。
ケンちゃんが鞭を揮い、走れ走れと駆り立てる。
ゴールまで残り200mのハロン棒を通り過ぎ、ゴール板が見えてくると同時に観客の大歓声が響き渡った。
「え――」
まさに一瞬の光景だった。
俺のすぐ外を真っ黒な流星が走り抜ける。
何故? どうして?
今の俺は余力をたっぷり残し、後続が追い付けない末脚を発揮できる状態で、実際に発揮して直線を駆けている。
完璧なレースをしたはずだ。
したはずなのに――なぜ、俺の前に馬がいる?
『おおっとここでダンスきたダンスきた! ものすごい脚だダンスインザダーク! グレートエスケープかダンスインザダークか、ダンス躱した!』
(橘ちゃんと……妹ちゃんのために……勝たなくちゃいけないのに……!)
先頭に立っていたのは俺ではなく――ラジオたんぱ2歳S、弥生賞、そして日本ダービーと悉く勝ってきたきたはずの、ダンスインザダークだった。
100mという6秒で駆け抜けられる距離で、ダンスインザダークは俺に漆黒の馬体を見せつけている。
全力で走っても、追い付けない、かわせない。
たった半馬身の差が、絶望すら覚えるほど遠くに感じたのは、初めてのことだった。
『ダンスインザダークだ! ダンスインザダークだ! ダービーの無念を晴らしたー! ダンスインザダーク1着、2着はグレートエスケープ!』
ゴール版を先に駆け抜けたのは、ダンスインザダーク。
完璧なレースをしたはずの俺を追い抜いて、菊の舞台で咲き誇った。
あれだけ軽かった身体が、レースを終えた途端、嘘みたいに重くなり、息が乱れる。
先に駆け抜けたダンスインザダークがゆっくりと歩み寄ってきた。
「……偉大なる逃亡者よ」
「……おめでとう。俺の負けだ」
祝福を一言、俺は彼に背を向けた。
橘ちゃんにも、妹ちゃんにも、先生やケンちゃん、厩務員の西京さんだって。
みんなに申し訳ない思いで一杯だ。
一番得意なはずの長距離レースで力負けだなんて、なんて思われるだろうか。
「……僕を見ろッ、グレートエスケープ!」
雷鳴のような声が俺を貫いた。
一瞬、誰の声かわからなかったが、射殺さんばかりに俺を睨みつけるダンスインザダークを見て、俺は驚いた。
「僕は、君に負けてからずっと勝ちたいと思って、君だけを見ていた。君は……どこを向いているんだ!」
言われなくても、俺が見ているのは勝利だけに決まっている。
負けた俺に対する挑発のつもりなのかと怒りそうになったが、ダンスインザダークの剣幕を見てそういうことではないらしかった。
というか、普通に喋れるじゃねえか。
突っ込もうかと思った俺を置いて、ダンスインザダークは言葉を続ける。
「僕は、僕のために走っている。君は何のために走っているんだ!」
何のために――?
それは当然、俺に関わる全ての人のために走っている。
それの何がおかしいというのか。
立ち尽くす俺を置いて歩き出すダンスインザダークの背中を見送ることしかできなかった。
「相変わらず……お前の言ってることはわからねえよ……」
クラシック最終戦の菊花賞で俺は2着という結果に終わった。
決して悪い成績ではなかったが、3度破ったはずの相手に完敗したという苦い経験が俺に刻まれた。
レース後、ケンちゃんが報道陣に対してレースを回顧する。
負けたのもあって、言葉は少なかったが表情は決して暗くはなかった。
『やりたい競馬はできました。操縦性が相変わらず高い馬なので、長距離はやっぱり合っていると思います。直線の手ごたえも抜群でしたが、勝ち馬が強かったです。次は古馬とのレースになると思うので、この馬の持ち味を次も活かしたいと思います』
菊花賞から数日後、ジャパンカップに出走するべく俺は厩舎で過ごして調整することとなった俺は、日課になりつつあるスポーツ新聞を読んでいた。
「松尾秀喜とリュウイチローが今季のMVPかぁ。巨人が強くて嬉しい」
「グレ坊、せめてお前競馬の方を読めよ……」
厩舎スタッフのいつものあんちゃん――白村(ハクムラ)という苗字である――が呆れたように言う。
最近じゃ厩舎の人間は俺が新聞を読んでいても誰も驚かなくなってきた。
時々調教で乗りに来る若い騎手が俺を見てギョッとしている光景は見られるが。
だが白村くん。馬になってから俺は競馬以外のスポーツにほとんど触れられていないのだ。新聞くらい別にいいだろう。
なんて、言っても当然聞いてもらえないが。
本音を言うと、少しだけ競馬のニュースや話題から離れたい気持ちがあった。
――何のために走っている。
不意にダンスインザダークの言葉を思い出す。
俺はこれまでずっと、誰かのために走ってきたつもりだ。
こうして俺が生きていられるのは、牧場や厩舎のスタッフがいてこそ。
人間の時以上に誰かの手を借りなければ生きていけないことを理解しているからこそ、恩返しとして勝利を目指している。
それが間違いだとでもいうのだろうか。
また、心がもやもやとしてきて、逃げるように新聞をめくった。
「え……」
飛び込んできた新聞の文字に思考が停止する。
気づいた時には馬房を飛び出して、雨の中一目散に走り出していた。
俺が落として広がった新聞には『ダンスインザダーク、引退』の見出しが大きく報じられていた――
〇ウマ娘ワールド
・アニメ、アプリ、うまよんなどなどノリをそれぞれイメージして書いています。
〇競走馬ワールド
・世間ではダンスインザダークがついに雪辱を晴らしたという受け止められ方。あと直前の秋華賞(本来は天皇賞秋のほうが菊花賞より先にしていた)でも〇外の馬が勝ち、風潮としてはやはり外国産種牡馬、外国産馬優勢状態