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聖蹄祭ッ! それは秋のファン大感謝祭とも呼ばれる催しで、トレセン学園のウマ娘が喫茶店やレストラン、屋台といったもので出店し、そこへファンやウマ娘の保護者が訪れるというトレセン学園でもトップレベルに大切なイベントなのである。
所謂、よその学校では学園祭とか文化祭と呼ばれるものだが国民的エンターテインメントを運営するURA、そしてそこに所属し、レースを走るウマ娘の総本山たるトレセン学園ともなればレースと並ぶほどの大規模なイベントになる。
大半のウマ娘はここに気合いを入れており、私も同じだったが――栗東寮の寮長、フジキセキから話をされたときは流石に後ずさりたい気持ちに駆られた。
「で、どうだいエッちゃん。王子喫茶への参加は」
なぜなら参加を要請されているのが王子喫茶だからである!
「……本当にやるのか? 無難にやるのが一番良いと思うのだが」
「おや、エッちゃんらしくない意見だね。でも無難といえば無難だよ? 去年は執事喫茶だったし、その上で大人気だったからね」
「それはそうだが、私に合うのか?」
「今年の春のファン感謝祭ではノリノリでライブをしていたじゃないか。王子様キャラは大反響だったらしいね」
「むぅ……」
春はスマートファルコン先輩に乗せられたというだけで。
去年は参加していないが、フジ寮長が仕切った出店は執事喫茶だった。
その教室の近くを通ったのだが、客の反応はすごいものだった。
「しかし、気絶者を出すのが無難か」
「そこは予想出来なかったからね……大丈夫、今回はすぐに搬送できるシステムを構築してあるから」
「気絶させることは前提なのか。ちなみにその王子喫茶、参加予定は誰がいるんだ?」
執事喫茶はフジキセキが仕切り、そこにエアグルーヴ、テイエムオペラオー、私は見ていなかったがルドルフ会長まで来たという。
錚々たるメンツで揃えた以上、今回は見劣りするように思われては残念だが、どうなのだろうか。
フジ寮長はよくぞ聞いてくれたね! と何も無いところからメニュー表を出した。
装丁されたそれは高級レストランのメニュー表を想像させるが、中身はお見合いのように写真が片方のページにあり、もう片方にはプロフィールが載っていた。
「まず私が出るよ。ちなみに王子喫茶なんだけど王子ごとにコンセプトを決めていたんだ。私は正統派王子様」
「正統派とは?」
「諸説あるよ。次のテイエムオペラオーはナルシスト系王子様」
「あれは素じゃないか」
「でも意外とノリノリでやってくれるよ。そして次はウオッカ。年下の生意気王子様、に見せかけて実は純情な王子様だ」
「1回捻りを入れてくるところにこだわりを感じるな。ウオッカが乗るのは意外だったが」
「かっこいいよって褒めたら案外やる気出してくれてたよ」
流石寮長、寮生の特性を理解している。
「それでこっちはナリタブライアン。不器用で俺様タイプな王子様」
「……ナリタブライアンがよくOK出したな」
「会長に打診したんだ。会長は忙しいからエアグルーヴかナリタブライアンを参加させてくれると思ったけどラッキーだったね」
やっぱりこの人はすごい。伊達に私の逃走経路を予測して逮捕してきたり、脱出不可能なように栗東寮地下牢に監禁したりと策士ぶりを見せつけているわけではないということか。
「そしてアウトロー系破滅願望王子様としてナカヤマフェスタ」
「ここだけ別の喫茶店にならない?」
「飴玉を賭けてポーカーもできるようにしたよ」
「本当に別コンセプトではないか」
紹介が終わって、フジ寮長は最後に写真のないパンフレットを見せてくれた。
「そこでエッちゃんには火遊び経験豊かな意地悪年上系王子様を頼むよ」
火遊びが多い王子様は俗に言う暗君ではないだろうか。
とはいえそういう話では無いのだから突っ込むだけ野暮というもの。
「……まだやるとは言っ」
「ちなみに売上ナンバーワンのグループにはお菓子一年分が副賞で贈られるよ」
「年上系とはいうがツンデレ成分を組み込んでみたらどうだろうか」
「それはいいね! 流石エッちゃん!」
やるからに目指すはナンバーワンだ。
賞品に釣られたわけでは決してない。だが手に入るなら欲しい。なんとしてでも。
「ちなみに商売方法はどんな形式にするつもりなんだ? 私としては流石にファンを楽しませるのを前提にしたいと考えているが」
「私を誰だと思ってるんだい、エッちゃん。もちろん抜かりはないよ。喫茶店だから飲み物と料理を提供するけど、そこに王子様の指名があるわけだよ。流石に何人も指名されてしまうと大変なので来店時に一人指名してもらう予定さ」
「永久指名制か」
「指名時に追加料金、その後適宜サービスによって料金が決まるよ。せっかくだから王子様の一番人気も決めたいね……名付けてプリンスダービーなんてどうだろう?」
「ノリノリなところ悪いが……これホス」
「違うよ、ただの喫茶店だよ。サービスが独特なだけで」
「……生徒会が怒らないか? いや、執事喫茶もやってたしそういうものか……待て待て待て。料金形態的になんかの法律に引っ掛かりはしないか? 生徒会が許すとは思えないが」
「料理と飲み物の料金は売上にさせてもらうけど、指名料やサービス料は児童養護施設とかに寄付させてもらうよ」
フジ寮長がポスターを見せた。
既に王子喫茶の宣伝は進んでいるようだが、しっかりと寄附に関することも記載されていた。
流石は寮長。聞けば聞くほど完璧だ。
「つまり……一番人気になればそれだけ多くの人達に貢献しているわけだな」
「そういうことだね。とはいえ脅迫とか強要はダメだよ?」
「当たり前だ。私は勝負に勝つためならなんでもするがあくまでルール内で、だ」
「そんなにいいポリシーがあるならもう少し寮の規則を守って欲しいなぁ……」
「代わりの王子を見つけるかね」
「冗談だよ。規則に関してはまた今度だ……でもエッちゃんはこういうものに詳しいだろう? 是非アドバイスして欲しいんだ」
「なんだ……独自に購買をしていたのがバレていたのか」
「えっ?」
「あっ」
薮蛇だったか。
その場は誤魔化して、私はフジ寮長に様々な意見を提出した。
もちろんすべてが受け入れられたわけではないが、いくつか受け入れられた。
そして迎えた聖蹄祭――決められた王子たちはまだ見ぬ姫と出会うため、自らを彩っていた。
私は王子に支給された制服をじっくり確認する。
「ウオッカ、これどう思う?」
「グレ先輩に似合ってかっこいいっすよ! でも、今日は負けねーっすから!」
「やる気だな……しかし、君がこうもやる気なのは意外だったな」
「そっすか? 一番かっけーやつを決める喫茶店でしょう? オレが出ないわけにはいかないじゃないすか!」
マヤではないが、わかってしまった。
これは多分、素の反応――意外と純情な彼女を演出するために細かいところ教えずにやらせているのだろう。
フジ寮長、表裏比興の者である。
そうこうしているうちにファン感謝祭の始まりがスピーカーから流れる会長の演説によって告げられた。
『では、簡易的ながら出店などを紹介しようかい……ふふ』
「ぶっふぉ!」
「……しまった、ここで入れてきたか……」
思わず吹き出して肩を震わせて笑いを堪える私と頭痛でも堪えるかのように額を抑えるナリタブライアン。
そんな一幕があったが、無事聖蹄祭は開幕した。
ちょうどそのときになって、フジ寮長がこっちにやってきた。
「お客さんが沢山来てくれたね。想像以上だ」
「去年の執事喫茶がウケたんだろう。整理券を用意していてよかった」
私が提案した第一の作戦。
それは整理券の配布だ。予め別のブースで整理券配布を行い、客入りを調整する。
質のいいサービスを常に提供できることを目標にした。
ちなみに、王子様役のウマ娘が接客するが、整理券配布や調理のウマ娘は特に王子様はやらず、基本的に裏方というわけだ。
そんなたくさんのファンの話をしていると、テイエムオペラオーがうずうずした様子で近づいてきた。
「去年同様、ボクの輝きを一目見たいがためにやってきたんだろう」
「……確かに、そうかもしれんな」
真面目に話す横で語るテイエムオペラオーは今日も調子が良さそうだ。
走りでは圧倒的な実力を見せつけ、普段の言動を傲岸不遜とも思わせぬ力の持ち主だが、その上でやはりこのウマ娘以上のナルシストはいないだろうと思う。
こんな感じできっちり接客してもらえるといいのではないだろうか。
「随分と多いな……今日の王子喫茶、誰がトップになるか賭けるかい? グレよ」
多数の客入りを見てナカヤマフェスタが肩を寄せた。
「……フジ寮長」
「意外と手堅いところにいくね。ちなみに、私はブライアンだ。当たったら何か奢ってもらおうか」
「ゴルシ焼きそばでいいか?」
「いいぞ。アンタとはもう少しひりつく場面でやりたかったが……今回はこれで我慢しよう」
「お互い多忙の身だ。打ち上げの時にやるのもいいかもしれないが」
「フッ……いいね。そこが本番か」
ナカヤマフェスタはざっくり言えば勝負師だ。
何かを賭けてギャンブルをし、ギリギリの勝負で特に燃えるというアウトローな気質のウマ娘。
彼女とはあまり接点はなかったが、たまたま話す機会があってから妙にウマが合った。
私も勝負事は好きだから、なにか通じ合うものがあったのかもしれない。
「さ、みんな準備して。お客様……いや、お姫様が城にやってくるよ」
「なんだそれは……」
「ブライアン先輩! これ王子になりきれってことっすよ!」
「……くっ、会長、エアグルーヴ……厄介事を押し付けたな……!」
教室の扉の前に王子様役のウマ娘が並ぶ。
お手伝い役のウマ娘が扉を開けると同時に全員で恭しく礼をした。
「お帰りなさい、お姫様」
聖蹄祭、開始ッ!
――そこは、地獄だった。
亡者たちの絶叫が響き渡り、一人が倒れ、また別の者が倒れ、搬送されていく。
「フジ寮長、これ問題にならないかい? 絶叫めいた悲鳴はともかく、気絶者多数だが」
「どちらかというとエッちゃんのサービスが効果てきめんなんじゃないかな……」
早速ファンの相手をしたのだがあまりにもたくさんいらっしゃるもので、どんどんファンの回転が早くなっていく。
忙しさでてんてこまいだ。
「永久指名制はやらなくてよかったね……」
「そもそもホス……ああいうサービスの店は一人の客を長くいさせて、客単価を上げることで利益を得ている。利益をあげるのではなく、多くのファンに楽しんでもらうなら客の回転数を上げるのが得策だ」
「うーん期待はしてたけどまさかここまで本格的な意見が出るとは……私も珍しさにばかり目が向いてそこに気がつけなかったよ。ありがとうエッちゃん」
「とはいえ……本当に大丈夫か、これ。エアグルーヴが見たら卒倒しかねん勢いだと思うが」
『おい。今は接客中だ。少し大人しくしていろ』
『ギャアアアアア!! 不器用俺様系王子ムーブからの壁ドンマジ無理死んじゃううううう!!』
ばたり。
ナリタブライアン、撃墜数+1。倒したのは一般のファンらしく、決まり手は鋭い眼光と心配した言葉の内容か。
『は、はぁっ!? そ、そんな恥ずかしいこと言えるわけねーだろっ! う……わかった……みんなにバラすなよ……? こしょこしょ』
『ンヒイイイイ! 生意気年下系王子の恥じらい耳打ち頂きました意外と声が高くていい匂いがするのね!!』
ばたり。ああっ、ウマ娘生徒がやられた!
ウオッカ、撃墜数+1。ささやき戦術の内容はなんだろうか。
『僕という輝きに魅せられたんだ……であるならば、瞳の中に僕が映っている君は誰よりも美しいはずさ』
『マジムリイイイイ顔が良すぎてナルシストじゃなくてただの事実だああああああ!!』
ばたり。
テイエムオペラオーのグッズをたくさんつけたファンが倒れた。
テイエムオペラオー、撃墜数+1。
こんなことを言っているが手鏡にジョセフィーヌという名前をつけている。ガーガーチキンにファストと名付けた私とどう違うのか。
『BETしてもらうのは……アンタ自身、ってのはどうだ? ククク……ヒリついた勝負の末に手に入るのがアンタというのは、極上だ』
『イヤアアアアタマラネエエエゼェェェェ!! 来世はアウトロー系のナカヤマフェスタ王子様に目をつけられ勝負に負けたことで貰われてしまうお姫様でオナシャスッ!!!!』
ばたり。
また一人倒れた。ナカヤマフェスタ、撃墜数+1。
アウトロー系っ……! 確かに奴は栄光を掴んだ勝利者っ……! だが違う……まやかし! 他人の失敗は見えないもの……! 縋るなっ……! 他人の栄光に……! あいつも大概やらかしているっ……! 勝負での失敗……!
でもそんなところも含めて楽しんでいるから、彼女は面白いのかもしれない。
気づいたらフジ寮長も接客していた。
『やぁ、よく来たね、お姫様。どうか精一杯おもてなしをさせておくれ。君のような可憐な花を愛でることができて、光栄ですよ、姫』
『ンアアアアアッ!! 正統派、故に王道!! 王とは! 誰よりも鮮烈に生き、諸人を魅せる姿を指す言葉!! 然りっ! 然りっ! 然りっ!』
ウマ娘一人、絶叫を上げながら気絶。
フジ寮長撃墜数+1。倒れかかったウマ娘を優しく抱きとめて微笑む姿を見て他の客まで余波で撃墜している。
つよい。
「エスケープちゃん! 王子様人参ハンバーグとグレープジュースできたよ。8番さんによろしく!」
「了解した」
私も接客はしっかりしなくては。
8番テーブルに運んでそっと料理とジュースを置き、短いながらもトークの時間をとる。
『お腹が減っているのか、姫。あまり食べると太ってしまうぞ……ふふ、冗談だとも。拗ねた顔が見たくなってね……美味しそうに食べる君は可愛らしい……せっかくだ、こんな飲み物はどうかね? 少し大人な飲み物だが……大丈夫、教えるさ。じっくりと……ね』
『ひょわあああああ堕落させられるぅぅぅ悪いこと教えられてこのまま不良お姫様になりたいいいううううああああ!!』
やった、撃墜だ。
――こういう競い方じゃなかった気がする。
ともかく、開始30分程度なのにファンでごった返して忙しいったらありゃしない。
ちらほらウマ娘たちが混ざるように、ファンだけでなく生徒も出店に遊びに来たりしている。
そんな中で私の知り合いのウマ娘も何人か遊びに来ていた。
1.『桃色の風神』アイネスフウジン&『豪脚怒涛の大器』メジロライアン
テーブルについたのはアイネスフウジンとメジロライアンで、私を見かけると二人は手を振った。
「やぁ、アイネス姉さん、ライアン」
「エッちゃんは王子喫茶やってたの? すごい似合ってるの!」
「エッちゃんはかっこいい服も綺麗な服も似合うよね、すごいなぁ」
「ありがとう二人とも。二人も……いえ、姫たちならきっと、ドレスも似合うでしょう」
「わぁ、似合ってるの! エッちゃんかっこいい!」
「もう少し没入して欲しいなぁ、アイネス姉さん」
「あはは……でも私がよく読んでる少女漫画……いやっ、ドーベルに教えてもらった少女漫画みたいでいいなぁ〜」
ライアンはメニューを見るふりをしてサービスの欄をちらちらと見ている。
本人は隠しているつもりだが、少女漫画が好きだったりとこういう催しは結構好きなのだろう。
アイネス姉さんに尋ねてみた。
「ひょっとしてここに来たがってたのは……」
「そうなの。ライアンちゃんがそわそわしてたから……私もエッちゃんに会いたいから来たけど、ライアンちゃんはマジだったの」
「そうか……」
私はライアンの傍に寄るとそっとナプキンをかけた。
「では姫、飲み物をお持ちしましょう。君には少し大人な、キャロットカクテルがいいかな……?」
「あ……はい……お願いします……」
ライアンはうっとりとして頷いた。
完全に夢見心地だが、これだけ楽しんでくれているのは素直にうれしい。
アイネス姉さんにも同じように対応し、しばらく和気藹々とした雰囲気で過ごした。
2.『不屈の女帝』エアグルーヴ
生徒会としての見回りでやってきたのはエアグルーヴだった。他のファンもいるから手短にしようと言っていたが、どうせならしっかり味わってほしいというフジ寮長のお言葉で私が対応した。
「ようこそ、姫。こちらがメニュー表となっております」
「……そこまで熱心にやっている貴様を見ると勘ぐってしまうのは何故だ」
「おや、警戒心の強い姫様だ。ふふ、実際に確かめてみるかい?」
「ではこれとこれを……ちなみにこのサービスというのは?」
「サービスはこういうもので……事前に申告したものと同じはずだ。確認してくれ」
「……問題ないな。すまんな、わざわざ接客までさせてしまって」
「おや、副会長……いや、姫が謝るなど、珍しいことだ」
「茶化すな。私とて公私は弁えている」
エアグルーヴはあくまで仕事で来ている感じで、ちょっと固い雰囲気だった。
彼女の真面目さを考えれば当然であり、それだけこの聖蹄祭の規模を考えての行動だろう。とはいえ、フジ寮長もそうだが、来たからには楽しんでもらいたいというのがこちら側の思いだった。
「では姫、望みのことをしてあげよう」
「望み?」
「必ずサービスとして複数の種類からパフォーマンスをするんだ。こんな風に」
エアグルーヴの手を取り、甲にそっと口づけをした。
周囲のお客さんから歓声と悲鳴と気絶する音が聞こえた。
「な、なにをっ……! 貴様そんな不埒なことを……!」
「不埒なものかね。西洋では敬意や親愛を表すために手の甲にキスすることだってある。私もイギリスやフランスに行ったときは驚いたが」
かの大レースを走るために海外遠征を行ったが、距離が色々と近くて驚いたものだ。
慣れると意外と楽しいもので、私もそれに倣ってみたのだが。
流石の女帝エアグルーヴも慣れてはいないらしい。
顔を赤くして手を振りほどくと何かを言おうとして、結局飲食していた。
「照れ屋なお姫様だこと」
「……うるさい」
反論はか細いものだった。
3.『末脚自慢のけっぱりウマ娘』スペシャルウィーク&『影すら追いつけない稀代の逃げウマ』サイレンススズカ
スペシャルウィークの来店を認めた瞬間、予め伝えていた暗号を言った。
店員全員に緊張が走る――!
なぜならスペシャルウィークはランクAに分類される……大食ウマ娘だからである!
「まずいぞッ! スズカはともかくスペはまずい!」
「エッちゃん、いますぐ食材を補充するよう買出し班に伝えたよ!」
「流石寮長! こういうときは……ナカヤマ!」
「フッ、ずいぶん分の悪い勝負をすることになっているようだね、グレ」
呼び出したのはアウトロー系王子様ナカヤマフェスタ。
あくまで王子喫茶店はエンターテインメントであり、それを楽しんでもらうのもコンセプトの一つだ。
ここはナカヤマフェスタにポーカーやブラックジャックといったトランプ勝負で楽しんでもらって時間稼ぎを――
「わぁ、美味しそうな匂いでいっぱい! 教室の中も綺麗ですし、いいですね〜!」
「ええ。エアグルーヴも美味しかったと言っていたし、楽しみね」
しまったエアグルーヴからの情報がスペシャルウィークに伝わってしまったか!
だが今日は聖蹄祭、屋台も沢山出ており、ここまで寄り道はしていたはず……!
「お腹しっかり減らせてきちゃったんですよね……朝ごはん以外まだ食べてないんですよ?」
「確かに……スペちゃん、大丈夫?」
「もう倒れちゃうかと思いました……しっかり腹ごしらえして、このあとのお祭りもたくさん楽しみましょうね、スズカさん!」
「終わりだ」
絶望して天を仰ぐ。
カードゲームを提案し、ご飯の後でと一蹴されるナカヤマを見ながら私は打ちひしがれた。
厨房担当の子が料理にこだわるタイプで間違いなく絶品だったが、かえって仇となってしまったか。
かといってまずく作れなんて言えるはずもなく。
「このまま負けてしまうのか……!?」
「注文制限をつければいいだろう」
ナリタブライアンがナポリタンを運びながら言った。
いいのか、それ。
私はブライアンに尋ねると呆れられた。
「当たり前だろうが……ファンが必要以上に購入しようとすることもある。それを予防するため、問題ない」
ハッとしながら、私はスペのもとへ接客しに行った。
「ようこそ、姫様方。まるで姉妹のようだ」
「エッチャンさん! すごい、かっこいいです〜!」
「エスケープ、よく似合ってるわよ」
「ありがとう、二人とも。ところでメニューは決まったかな? 悩んでる姿、もっと見てみたかったが……」
私が二人に語りかけると他の客がキャーキャー言っている。
もちろん他の王子様が喋る度に黄色い応援ならぬ黄色い悲鳴が上がっている。
私は幾つ頼むつもりなのか内心戦々恐々していると、スペは料理と飲み物をひとつずつ頼んだ。
それで注文はおしまいらしい。
思わず確認をとってしまうほどの異常な行動に、隣のスズカも焦っていた。
「スペちゃん、そんなに少なくて平気? このあと歩く体力残る?」
「調子が悪いのか……? いますぐ保健委員に連絡するか?」
「ちっ、違いますよぉ! ただ、このあとスズカさんと一緒に歩くのにご飯食べてたら時間が無くなっちゃうじゃないですか……」
「スペちゃん……!」
私は感動のあまり健気な後輩を抱きしめたい衝動に駆られたが、流石にそれはやめた。
このあとも少しの間、王子様として振る舞い二人を楽しませることに従事した。
4.『美しき日々の探求者』ファインモーション
「パターン青……姫です!」
整理券配布係のウマ娘が駆け込んでくると同時に、俄に緊張が走る。
「来たか……」
「来てしまったね……」
入口をチラと見やると圧倒的輝きが教室を照らす。
輝きだけではない、どこか香ってくる高貴な匂い……ピファニー(ブランド名)やショネル(ブランド名)の以上の匂いがプンプンする。こんなロイヤルには出会ったことがないほどに。環境で身につくものでは無い、これは生まれついての王族! そのオーラ!
「ここが王子喫茶? 日本の喫茶店はユニークなものがいっぱいだね。メイド喫茶も面白かったし……楽しみだなぁ」
やってきたのはファインモーション。
アイルランドからの留学生だが噂では王族に連なる一族の出身といわれている。それが真実だと受け入れられるほど彼女の振る舞いは洗練されていた。
それでいて嫌味なところはなく、親しみがあり、友人も多くいる。
だからこそ……彼女は最重要目標ウマ娘の一人なのである!
姫であるファインモーションを王子様としてもてなし、楽しませること! それを完遂して初めて王子喫茶の大成功といえるわけなのだ!
「というわけです。ではお好みの茶葉はございますか、姫」
「ありがとう! じゃあ(聞いたこともないが多分高級な茶葉の名前)で!」
「……なんて?」
「ないの? あ、メニュー表あったんだ……ごめんね」
てへへと笑うファインモーション。
既にファビュラスなオーラに私は圧され気味だった。
王族出身と噂される彼女からしたらこれは児戯に映るかもしれない。だから、これで満足させられなかったら恥になるだろう。
だが、満足させるおもてなしの心を忘れるのはそれ以下じゃないか!
「エッちゃんがやる気入ってる……」
「おお……グレ先輩、なんかすげー……」
「エアグルーヴが言っていたが結構熱くなるタイプらしいからな」
外野からなにか聞こえる。
しかし、向き合うべきなのは今のお客さん、いや、姫であるファインモーションただ一人。
「ではお姫様。私と甘い時間を過ごそうか……」
「わー、かっこいい! なんだか昔を思い出しちゃうなぁ……じゃあ、このキャロットジュースを飲みたいな!」
「すぐに持ってこさせよう。可愛いものが好きなんだね」
見ててくれ、私の全身全霊を!
「楽しかったよ、ありがとう! またやってね!」
ファインモーションは手を振って教室を後にする。
決まったお礼を言いながら頭を下げていたが、私の心には不完全燃焼感があった。
「……普通に楽しんでいたな」
「当たり前だろ。学園祭だからな?」
「気合い入れてるエッちゃんは面白かったよ」
呆れるブライアンにくすくす笑う寮長。
ファインモーションは些細なことにも驚いたり、喜んだり、楽しそうに過ごしていた。
決して気合い入れて損をしたとは思わないが、二人からはよっぽどのことをしないと機嫌を損ねるわけがないと笑われた。
「……なぜだか気合いを入れないといけない気分になったんだ」
5.『名バはレース場を選ばず』アグネスデジタル
「コヒュッ……コヒュッ……!」
来店して1歩、アグネスデジタルは産まれたての小鹿のような足取りになっていた。
椅子に掴まり、よぼよぼと歩く彼女の呼吸は掠れ、額に玉のような汗を張り付かせており、まるで激戦のレースを走り終えた直後のような有様だった。
「危なかった……事前の広告ポスターに目を通していなかったら受けきれなかった……!」
「デジタル姫。どうしたのかね。そんな困った顔をしていると、意地悪したくなってしまう」
「アッ(『イケメンウマ娘による王子様コスに追加されたサドっ気溢れる年上意地悪王子様ロールとか勝てるわけないじゃんいや実質これ勝利だよもう死んでもいいというか死んだわサヨナラ!』という意味が込められた圧縮言語)」
「姫……甘い甘いキャロットジュースは如何かな? 甘いひと時には、さらに甘いものを……もっと甘い関係になってみるかね」
「アッアッアッ」
「ふむ、ナポリタンとキャロットジュースかい……?チェキも欲しいんだね? ……ちゃんと言ってごらん? 欲しいものは何がいいか……」
「アッアッ(サドっ気たっぷりなのに優しい口調とか解釈一致じゃん誰だよあたしを昇天させようとしてるのはグレ様に昇天させられたい)」
「……ね? 言えるだろう……?」
「ちぇ……チェキが……欲しい、です……」
「よく言えたね。偉いよ……ご褒美はなにがいいかな?」
「あ゛(囁きボイスだめだめ耳が溶けますよいいんですかダメです溶けました)」
なんて具合に、アグネスデジタルは面白い反応を返してくれるのでついついこちらも張り切って接客してしまう。
なぜかアグネスデジタルは挙動不審ウマ娘だと噂になることが時々あるが、私としては素直な良い娘だと思う。しょせんは噂だからなんともいえないが。
「……エッちゃんはよくデジちゃんを可愛がっているけど、何かあるのかな」
「さぁね……ただ、あいつも結構ヘンな奴ってことは確かだ」
フジ寮長とナカヤマが片付けながらつぶやいている。
私はデジタルとチェキツーショットを撮りつつ、なぜ私が変なウマ娘なのだと抗議したかったが、退店間際に彼女がふらふらになっていたのでその介抱をしていたらそれどころではなくなった。
アグネスデジタルが終わるころには人もだいぶ捌けてきていた。
「フジ寮長。そろそろじゃないか」
「そうだね……みんな、お疲れ様。最後に大本命が残っているよ、もう少し頑張ろうか!」
彼女の号令によって王子たちが店を出る。
これまでのお客さんと同じくらい、丁寧に接客し、夢のような時間を届けなくては。
6.『スペシャルサンクス』
トレセン学園の一画にある広場――普段は芝生が生えそろい、そこで生徒たちは昼寝をしたり、お昼ご飯を食べるのに利用する場所がある。
のんびりとした雰囲気の広場には多くの人たち――特に子供が多く集まっていた。
フジ寮長が子供たちを前に高らかに宣言をする。
「やぁみんな、よく来てくれたね。今日はウマ娘のお姉さんたちと一緒に遊ぼう!」
『わぁーい!!』
子供たちが一斉に王子に扮するウマ娘たちのもとへ走ってやってきた。
「元気だなぁお前たち! よっし、オレが肩車してやるよ。順番だからな、喧嘩するなよ?」
「トランプか。ブラックジャックなんてあるんだが……教えてやるさ。まずはな、飴玉をベットして――」
「はっはっはっ、無垢なる輝きはボクという至高の輝きに照らされ、さらに輝くのさ! ああ髪を引っ張るのはやめたまえ!」
「速くなる方法か。フン、ただ前を走る奴を抜く、その信念さえ持っていればいい」
子供たちがウオッカに、ナカヤマに、オペラオーに、ブライアンに群がり、それぞれが子供たちを相手に笑顔を振りまいている。
やはり未来のスターと、そして未来のファンたちもまた、大切にしなくてはならないだろう。
「でもエッちゃんがこういうことを言い出すのは意外だったなぁ」
「柄じゃないのは理解しているとも。だが、こういったイベントはなくてはならないものだと思うがね」
私が聖蹄祭前に提案した最後の一つ――それは子供たちとの触れ合いの機会だ。
トゥインクルシリーズは国民的エンターテインメントであり、聖蹄祭や春の感謝祭でも多数のファンが訪れてくれる。
しかし、ある程度自由に時間とお金を使える大人と違い、子供は保護者と一緒じゃないと来れないことも多い。特に養護施設の子供などは、レース以外でトレセン学園のウマ娘と触れ合うことは少ない。
だったらせめて――ということで提案したのが、今回の交流イベントである。
子供たちを同時に何人も体にぶら下げるのは中々大変だが、子供たちの無邪気な笑顔を見られると、自然と嬉しくなってくる。
「エッちゃんも変わったね」
「……私とてウマ娘、成長もするし、変化もするさ」
今までは自分が勝つためのことを考えていた。
それは決して間違いではないと思う。勝利は努力と才能だけでは辿りつけない世界にあるのは事実だ。
しかし、私の力だけで走っていたと思っていたことが実は色んな人の願いに後押しされていて、それに応えられる自分になりたいがために走ることが、さらなる高みに引き上げてくれる。
自分のために走り、応援してくれる誰かのためにも走る。
言葉にしてみたらなんてことはない、よくインタビューで『ファンの応援があるから頑張れました』と言われていただけの話だった。
ただ、それだけの事実が驚くほど力を与えてくれるものだった。
「そこに気がつくまで、随分と時間がかかったが……悪いことじゃないだろう」
「ウマ娘のお姉ちゃんどうしたのー? お姉ちゃん……王子様?」
「なんでもないさ。さぁ、もっと遊ぼう! こう見えて私は最強のウマ娘だからな。将来きっと自慢できるぞ」
――聖蹄祭に出店した王子喫茶はいろんなことがありつつも、大成功に終わったのだった。
×××
『第116回天皇賞・秋は予想外の展開となりました。第2コーナーを回って先頭は9番、3歳馬サイレンススズカ! 後続に10馬身近いリードをつけています。2番手は4番イナズマタカオー、そしてグレートエスケープは3番手! 13番グレートエスケープは3番手で今日は控えました。それをマークするように1番人気バブルガムフェローは早めの競馬。6番ヤシマソブリン、8番グルメフロンティアそして1番ジェニュインと2番ロイヤルタッチ、1枠の2頭はここ。その後ろにいるのがエアグルーヴです! 12番エアグルーヴは中団で折り合っています!』
大丈夫だ、大丈夫。大丈夫。問題はない。スタートで後手を踏んでしまったが問題なく前目でレースを進めることができている。
先頭を走るサイレンススズカと、すぐ目の前のイナズマタカオーはバテるだろう。
すぐそばをバブルガムフェローがいて、後方にはジェニュイン、ロイヤルタッチ、エアグルーヴ、シンカイウンが控えている。
こいつらより少し先にスパートをかけなければ1着は目指せないだろうが、幸い脚を溜められるペースで来ている。
第3コーナーで飛ばしに飛ばすサイレンススズカの脚色が鈍り始めた。そして後続がペースを上げるのがわかる。
俺もケンちゃんも、示し合わせたようにペースを上げて直線に入った。
今だ――ここでスパートすれば、ぎりぎり逃げ切れる。
だというのに――
『サイレンススズカが5馬身リードを保っている! 内からジェニュイン、バブルガムフェローが伸びてくる! グレートエスケープは沈んでいく! その外からエアグルーヴが上がってきた! エアグルーヴとバブルガムフェローの一騎打ちだ! 二頭の激しい叩き合いだ! 3番手にはジェニュインとロイヤルタッチが来ているが突き放されている! エアグルーヴかバブルガムフェローか、どっちだ、どっちだ!? バブルガムフェローを抑えてエアグルーヴ差し切ったかーッ!』
デッドヒートが繰り広げられたのは、俺が走る場所からはるか先の世界での出来事だった。
『天皇賞・秋を制したのはエアグルーヴ! 並み居る男馬を蹴散らして、見事に古馬混合GIを勝利! これは恐ろしい馬です! エアグルーヴ、天皇賞・秋を制覇! 1番人気のバブルガムフェローは惜しくも2着、離れた3番手にジェニュイン』
走り終えて、大歓声を浴びる1着をとったエアグルーヴ。
掲示板を見る気にもなれず、ケンちゃんの手綱に従って東京競馬場の地下馬道へ戻っていった。
後ろから声をかけられる。ロイヤルタッチと、バブルガムフェローだ。
「おい! ダービー野郎! 俺はてめえみたいな弱い奴に負けた覚えはねえぞ!」
「無様な敗戦、全力で挑むのは冒険! お前は勝負から逃亡、全力を出さずに敗北!」
二人からの言葉に対して、俺は何も言えなかった。
実力差で負けたとすらいえない。
そもそも直線ではレースにすらなっていなかったのだから。あの二頭がそういうのも、当然だった。
直線に入ってなお、全力でスパートをかけられなかった。
あとはずるずる抜かれていき、終わってみれば二桁順位で入線。
見るも無残な結果という他なかった。
弁明もできず、二頭に背を向けたまま俺はその場を後にした。
天皇賞・秋 結果
1着 ⑫エアグルーヴ 2番人気
2着 ⑦バブルガムフェロー 1番人気
3着 ①ジェニュイン 4番人気
4着 ②ロイヤルタッチ 7番人気
5着 ⑧グルメフロンティア 15番人気
……
13着 ⑬グレートエスケープ 3番人気
「……怪我なんですかね」
後日、厩舎で俺にお湯をかけながら厩務員の西京さんが呟いた。
傍にいた黒井先生は唸る。
「最近は調教も悪くなってきとるからな……走ってはいるが乗り手と馬の呼吸がまるで合っとらん……放牧させてよくなるとも思えないしなぁ」
気持ちのいいシャワーの時間がどんよりとした時間に変わる。
今まで調教では走れていた。しかし最近はレースで結果が出ていない影響か、焦ってしまい調教でも上手くいかなくなっていた。
脚は痛くないはずなのに、最後の直線で力を入れることができないでいる。
自分でもわからないくらい心の奥底で、恐らく恐怖しているのだろうか。
「ジャパンカップ……ジョッキーはどうするんですか」
「ノリに依頼した。有馬記念も乗ってもらう。明日の追い切りから乗ってもらう予定や」
「館山騎手ですね。美浦の……」
「あれくらいの騎手になると美浦、栗東の関係なく馬が集まるがな」
館山典祐――美浦に所属する騎手で関東リーディングの1位、2位を毎年争う一流ジョッキーだ。ケンちゃんよりも年上で、この前乗ったトップジョッキーの滝さんの一つ年上の年齢的には中堅騎手。
だが、今の俺にはどんな一流騎手が来たところで、レースで勝てるビジョンがまるで思い浮かばなかった。
どうすればいいのだろう。俺は馬房に戻っても、食事が進まなかった。
「エスケープ先輩! 天皇賞どうしちゃったんですか! あんな負けるなんて信じられないですよ!」
ついでに言うと、隣の小僧にも辟易としていた。
既に空っぽになった桶から顔をあげたスペシャルウィークに、うんざりしながら俺は答える。
「負けるときは負ける。それだけだ」
「ええー、なんか違うでしょ! 負けたというより……走れてないんじゃないですか?」
「かもな」
「全然エスケープ先輩らしくないですよ! あの必死な走りはどこにいっちゃったんですか!?」
「……お前、見たことあるのか?」
「ないです」
思わずこけそうになった。
人間と違ってこけるだけでも大変なんだからやめろ、そういうボケは。
でも、とスペシャルは続けた。
「牧場の人は言ってました! 『お前もあんなすごい馬になるんだぞ』って。いつもグレートエスケープ先輩のことを話してましたよ! あの勝負根性に負けるなって」
牧場――確かに、スペシャルが牧場にいるであろう年のダービーを勝ったのは俺だ。
ダービーはホースマンの目標。自然とその話が出たのだろう。
しかし、今の俺にとってそのダービーは過去の栄光でしかなかった。
今じゃ怪我で終わった馬、血統には勝てない馬、早熟なだけだったといわれる始末。
「今の俺にそんな力はないよ」
「なんでそんなことがいえるんですか!」
「あのレースを見ただろ」
「見てません!」
「悪い。とにかく、俺は惨敗したんだ。2戦も続けてな。まぁ……失望させて悪かったな」
「知りません! そんなことは知りません! エスケープ先輩はきっと勝てるんです!」
何を言っているんだこいつは。
段々俺はイラついてきて、半ば八つ当たりだと思いながらも、大きく嘶いた。
「お前に何がわかる! レースに出たこともないような奴が知った風な口を聞くな!」
俺があまりに大きく嘶いたからだろう。
馬房から顔を覗かせていた僚馬が驚いたように視線を向けるだけなく、スタッフまでもが顔を見せてきた。
注目されたことで、自分が大人げないことをしてしまったことに気が付いて、かといって謝るのも恥ずかしくなり、馬房の奥へ引っ込んだ。
「言われなくても……わかってるんだ」
誰にも聞かれないように、思わず呟いていた。
夜になり、スペシャルウィークが寝静まったのを確認してから、隣のダンスパートナーさんに聞こえるように音をたてた。
ダンスパートナーさんは起きていたようで、話に応じてくれた。
朝の騒ぎのとき、ダンスパートナーさんは調教でいなかったから、つい大人げない態度をとってしまったことを愚痴った。
「明日謝らないといけないですね」
「そうだね……でもスペシャルくんはエッちゃんに本当よく懐いているね。私に対しては礼儀正しいけど、そっけないくらいなのに」
「なんででしょうね」
「……厩務員さんが言っていたけど、スペシャルくんのお母さんって生まれてすぐ亡くなってるんだって」
ぴくりと耳が反応する。
不意に橘ちゃんのことを思い出しながら、そうなんですね――とだけ返した。
「それで人に育てられたから人懐っこい馬なんだって」
「だから他の馬との距離が空いているのか」
それだとなんで俺が懐かれているのかわからないが、ダンスパートナーさんなどに少し素っ気ないのは理解した。
人間も馬も、近しい誰かを亡くすことは決して珍しいことじゃない。
ただ、その悲しみを考えると、とてもじゃないが気持ちはわかるとは言えなかった。
「あの明るさで気づかなかったが……泣きたくもなるだろうに」
「私は今、エッちゃんの方が心配だよ」
「え?」
「……一番泣きたいのはエッちゃんじゃないのかなって、私は思ってるの。だって、調教とか、レースを終えて帰ってくるときのエッちゃん、すごく苦しそうだよ」
隠していたつもりはない。
辛いときは辛そうな顔をしていたと思うし、弱音を見せないなんてやったつもりはない。
けど、いざそうやって言葉をかけられた途端に否定したい気持ちが湧いてくる。
違う、別にそんなんじゃないです――俺は反射的に言っていた。
「俺が走れないのは力が足りなかっただけで、それは今後鍛えていくしか――なくて……」
目頭(馬に目頭?)が熱くなり、これはダメだと思った時には涙がぼろぼろ溢れ出していた。
「――なのに、走れない……勝ちたいのに、走れないんだ……!」
もう一度あの勝利を味わいたい。
騎手に、調教師に、厩務員に、生産牧場のみんなに、育成牧場のみんなに、ファンに、妹ちゃんに、橘ちゃんに――また、勝利を届けたい。
「どうしたらいいんだ! レースに出ても走れない! 走ることすらできない俺が、どうやったら勝てるんだ……」
「エッちゃんは、どうして勝ちたいの?」
「え――そ、それは」
自分のためだ。自分が勝って――勝って、どうしたいんだったっけ。
「そういえば去年も、エリザベス女王杯の頃だったよね。エッちゃんが悩んでいたのは」
「……そうですね」
ダンスインザダークに負けて、何のために走ればいいのかと悩み、その答えの欠片をダンスパートナーさんは見せてくれた。
「エッちゃんには自分のために走るべきだと言われたし、私もそのために走るのが良いって言ったよ。でも、今は――一番最初の気持ちを思い出してみるのがいいんじゃないかな」
かつて俺はみんなのために勝ちたいと思っていて。
いつしか自分が勝ちたいと思うようになった。
今は――どうすればいいのだろうか。
翌日の調教からは予定されていた通り、館山騎手が跨ることになった。
みんなからはノリさんと呼ばれていて、関東の美浦に所属するジョッキーのはずなのに栗東の黒井厩舎でも人気している光景には驚いた。
俺の第一印象としては――「この人大丈夫?」という感想をまず抱いた。
「おはよー。眠いわー」
なんだかぼんやりしている雰囲気。
別の馬の調教では「良い馬だね。いいレースするよ」といっていたけど、さらに他の馬の調教でもまったく同じセリフを吐いていた。
適当というべきか、つかみどころがないというべきか。
しかしいざ跨られると、これが中々しっくりくる。
滝さん、ケンちゃんも一流ジョッキーであり、彼もまた同じだけの技量を持つ騎手なのだろう。
すごく柔らかい乗り方で、歩いているときから楽な感覚だった。
今日の調教馬場は栗東の坂路。最近調教でも上手く走れなくなりつつある中で、坂路が近付くにつれて身体が縮こまっていくような感覚を覚えた。
館山騎手は俺をぽんぽんと撫でる。
「ゆっくりいくからなー」
黒井先生からは強めに追ってくれと指示だったのだろうか。
俺は訝しみつつ、坂路を駆け上がった。
館山騎手はなんと。まったく手綱を動かさない。俺が走り出しても、押しもしなければ引きもしない。
どういうつもりかわからないが、とりあえず走るしかない。
「よしよし。良い走りするなオマエ」
結局、馬なりと呼ばれるような強度で走り終えてしまった。
こちらもどうするのか困惑しながらだったから、スピードも出せていない。
館山騎手は黒井先生の元まで行くと話し始めた。
「良い馬ですね。これだけ走れるならジャパンカップが楽しみです」
「……今日は全然力んでいなかったな。久々に綺麗なフォームで走っとった。このまま行ってみるか」
「ゆっくりタイムを出していきましょう」
何を言ってるんだろうこの二人は。
当然、説明されないからよくわからないまま、今週の追い切りを終えた。
馬房へ戻ると、スペシャルウィークも追い切りを終えたのか既に食事をむしゃむしゃと食べていた。
俺は仲直りも兼ねて、飼料とは別のもらえる林檎をスペシャルに上げた。
「やるよ」
「ええっ、ふぃふぃんれすか!」
「食べるか喋るかどちらかにしろ」
「もっしゃもっしゃもっしゃ」
「食べるのかよ」
食事が終わると、俺はスペシャルウィークに謝った。
スぺシャルウィークは気にしていないと言っていたが、謝られたら大抵そう答えるだろう。しかし繰り返し謝るのもかえってくどいので、受け入れられたことにした。
俺は、昨日のダンスパートナーさんから聞いたことを思い出し、スペシャルに尋ねた。
「スペシャル、お前はなんで俺をそんなに慕うんだ?」
「え? それは……牧場の人たちに似てるからです」
「……人に?」
「はい。俺が生まれたときにお母ちゃんは死んじゃったみたいで……牧場の人たちに育てられたんです。だから人ってなんだか身近な気がするんですよ。エスケープ先輩はなんだか……その人たちに近い、ような気がして」
最近すっかり忘れてしまっていたが、元々人間だったことがスペシャルにとっては親近感を覚える一因になっているのだろうか。
「それに――牧場の人からずっと聞かされてきたんです」
「何を?」
「エスケープ先輩のダービーのことです。いつも牧場の人が話していました。『グレートエスケープは闘病中のオーナーのために、ダービーを走り、勝利をささげたすごい馬だ』って。俺……お母ちゃんは死んじゃったけど、お母ちゃんや、牧場の人たちのためにもダービーを勝ちたいんです! エスケープ先輩みたいに、誰かのために勝ちたい! そんな夢を持ってます」
「誰かのために――」
俺も、ダービーのときは橘ちゃんのために走っていた。
今は……自分のために走っているのか、誰かのために走っているのか、何のために走っているのか、わからなかった。
週末、エリザベス女王杯が開催された。
ダンスパートナーさんは連覇を狙い出走した結果――惜しくも2着。最後の直線で勝ち馬と凄まじい叩き合いを披露したがあと少しというところで敗北してしまった。
厩舎に帰ってきたダンスパートナーさんは負けたには晴れ晴れとした表情で、悔しがりながらも落ち込んではいなかった。
「ねえ、エッちゃん。私のために代わりにジャパンカップを勝ってよ」
「え?」
珍しい物言いに、俺は驚いた。頷く間もなく、今度は反対側の馬房からスペシャルウィークも首を伸ばしてくる。
「俺もジャパンカップの後にデビュー戦があるんです! 応援するために勝ってください!」
「はぁ?」
2頭の聞きなれない言葉に困惑して、理由を聞いても何もそれ以上は答えてくれなかった。
――そして、ジャパンカップ前の最終追い切りの日。
今日も館山騎手――ノリさんが乗った。
「だいぶ調子が戻ってきましたね」
「グレ坊も元の感覚を取り戻せたんちゃうか。今日は残り2Fから追ってくれ」
「はい」
感覚? なんのことだ。
最近は走るもなにも馬なりってやつばかりで全然動いた感じがしなかった。
感覚もなにもないんじゃないか。
半信半疑になりながら坂路を駆け上がっていく。序盤は相変わらず俺の走りに任せきりで指示がまるでない。
残り2Fに差し掛かったところで、ここしばらくの調教で初めてノリさんは追い始めた。
(……なんだ? すごいスピードに乗れてる気がする)
脚が前に出る。窮屈な感覚がない。
ここしばらく忘れていた、全力で走ること――身体がようやく思い出したような反応だった。
調教を終えると、久々に黒井先生の笑顔を見た。
「いい追い切りだったで。栗東坂路で4F51.8秒、少し仕掛けてこれなら文句無しや」
「グレートエスケープは勝負根性がありすぎる馬でしたからね。最近の走りは気合が入りすぎていたんでしょう。ただ、レースになるとこんなに負けるのはちょっと不可解ですね。天皇賞でも手ごたえ見たら勝ち負けでしたよ」
「健二が言うには直線になると馬がレースをやめてしまってな。俺にしたら怪我による精神的なものもあると思うんやが」
「……じゃあ、ラストスパートはさせないようにしましょう」
「は?」
黒井先生だけでない。傍に立っていた俺ですら思わず聞き返したくなってしまった。
ラストスパートはさせないってどういうことだ?
ノリさんはその場で具体的な説明はせず、「まかせてみてよ」とだけ言って不敵な笑みを浮かべた。
〇〇〇
ジャパンカップ展望――
年内最後の東京開催を締めくくるGⅠレース、ジャパンカップ。世界の強豪が参戦する当レースだが、去年に劣らないメンバーが集結した。芝2400mのチャンピオンコースに相応しく、瞬発力やスピードだけでなく、スタミナも要求される。総合力が優れているからこそ、クラシックディスタンスを勝利できると考える。
それを踏まえて、今年は◎ピルサドスキーが本命となるだろう。
ファンには説明不要のチャンピオンホース。ここまでGⅠ5勝、凱旋門賞2着2回。実績は全出走馬でトップレベル。ジャパンカップが引退レースであり、この後は日本で種牡馬入りする予定。
既に日本で成功する血統だと予想されているのだろう。ダンジグ系のスピードは日本にもフィットする。
対抗馬は〇エアグルーヴ。天皇賞・秋を制覇したまさに女帝であり、オークスを制したこの舞台でも海外の強豪を迎え撃ってくれる。
▲グレートエスケープ。怪我明けの2戦は大敗しているが、最終追い切りでは久々にリラックスしたフォームで走れていた。変わり身があるならここ。去年の覇者であり、同舞台で復活の可能性あり。
△にはロイヤルタッチ、ローゼンカバリー、シルクジャスティス、バブルガムフェローを抑えたい。
……
レース前インタビュー
館山典佑騎手(グレートエスケープ)
Q.今回が初のコンビですが、どんな印象を受けましたか?
A.評判通り、真面目に走る馬だな、と。真面目過ぎて行き過ぎるところがあるんじゃないかなと思ってましたけど、調教では言うこと聞くし、利口ですね。
Q.前々走の京都大賞典、前走の天皇賞・秋では大敗していますが、今回はどうでしょうか。
A.前までは怪我明けで馬の方も本調子じゃなかったみたいですしね。今回も、最初はよくなかったみたいですけど、僕が乗らせてもらったくらいから状態も上がってきたんでね。去年のダービー、ジャパンカップを勝ってる馬ですから。復活できる力はあります。
Q.良い状態で最終追い切りは終えられましたか?
A.黒井先生(栗東・調教師)も前2走よりは良いと言ってたからね。馬もここしばらく感じていた力みも抜けていたし、いいんじゃないですか。
Q.枠は2枠2番と内枠をとれました。如何でしょう、これまで逃げ、先行で来ましたが有利な場所をとれましたか?
A.やっぱりあのコースは内枠のほうがいいですし、スタートはすごい上手な印象があるからね。包まれる心配もなし、良い枠をとれたと思います。
Q.当日のレース展開はいかがでしょう?
A.この馬のいつものレースをしますよ。いつものレースでいつもの力を発揮してくれれば、皆さんもご存知のように能力がありますから。ファンや関係者の皆さんに、強いところを見せたいと思います。
「インタビュー、ありがとうございました」
「はい、お疲れさん」
〇〇〇
当日のパドック、俺は早速2頭に絡まれていた。少しお馴染みの感すらある、ロイヤルタッチとバブルガムフェローだ。
「おうおうおうおう! テメー天皇賞では舐めた真似してくれたじゃねえか! なんだあのシャバい走りはよォ!」
「YO! YO! 物足りない走り、そんなんじゃお前は俺のパシリ、はやく行けよあっちに!」
うるさい……リベンジを期したのに不甲斐ない走りをしたのは申し訳ないがそんなまくしたてられても……といいたいところだ。
俺が反論しようとしたところで、別の声が届く。
「やかましいぞ、たわけども! パドックでは粛々と周回しろ」
凛とした声で言い放ったのは鹿毛の牝馬。
ほれぼれするほど引き締まった肩回りやトモは強者の証で――それもそのはず、1か月近く前の天皇賞・秋を制覇した牝馬、エアグルーヴなのだから。
エアグルーヴは苛烈な気性を窺わせる声音で続けた。
「パドックはファン、関係者が我々を見る場所だ。世間話をする井戸端ではない」
「チッ、天皇賞を勝ったからって良い気になりやがってあのアマ……!」
「いい気になってる牝馬が1頭、それを切り伏せるのは俺の一刀、だいたいいい子ぶっちゃって言ってるお前は不細工、勝てたのもどうせ小細工!」
「ふん、負け馬どもめ」
「ムキー!」
「ンガー!」
煽り耐性低くない?
それとバブルガムフェローはラップ調はわかりづらいからもう喋らないでくれ頼むから。
エアグルーヴはいきり立つ2頭を無視してこちらに視線を向けてきた。
「貴様もだ、グレートエスケープ」
「俺?」
「失望したぞ。あのダンスパートナーさんの同厩にして同じ世代のダービー馬だからと楽しみにしていたが、なんだあの走りは。覇気のない走りに、怒りすら覚えた……過去の栄光に縋って無暗に走るだけなら、大人しく控えていろ」
それだけ言うと女帝・エアグルーヴは顔を背けてしまった。
反論の余地すらない怒りっぷりに、こちらとしては呆れるばかりだった。
しかし、こうしてみると改めて感じる。
「――俺の背負ってるものは、随分大きくなっていたんだな」
しんみりと掲示板を見上げた。
そこには俺が5番人気と表示されており、あれだけの大敗を繰り返してもまだ評価され、応援されている証だった。
現在のところ、1番人気は――
「きっ、貴様ァッ! な、な、なに、なにを、なにをぶらさげ……粗末なものを見せるなッ!」
先ほどの絶対零度の冷気を思わせるものとは違う、少し上ずった声を上げるエアグルーヴ。何事かと思い、視線をやると俺は言葉を失った。
あのエアグルーヴが後退るほどの異様。
全身を包む筋肉にすらりと伸びた脚は数々の戦場たるレースを駆け抜けてきた戦士の証。
しかしそれ以上に目を引くのが、股の間からぶらさがる逸物。
そう、たった今、馬っ気をだしている――つまり勃起しているサラブレッドこそが現在の1番人気、ピルサドスキーである。
ピルサドスキーは動揺することなく、とても穏やかな声で言った。
「すまない。日本は初めてでね、つい緊張してしまったんだ。許してくれ、エアグルーヴ」
「あ、あ、ああ、う、うん? 牡馬なら仕方ない……のか?」
「だ、騙されるなエアグルーヴ! 普通やらないから!」
「ハッ! く……貴様、さっさと粗末なものを仕舞え!」
エアグルーヴの反応に対してピルサドスキーは気を悪くするこもなく、朗らかに笑った。
「日本で種牡馬生活を送るから気が逸ってしまったかな。いや、すまない。だが1番人気として、恥じないレースをしてみせよう」
「すまないと思っているなら早くしまえ!」
「というか今変わったぞ。変なもの見せるから」
少し離れたところでロイヤルタッチ、バブルガムフェローが悔しそうな顔をしている。
どうしたのか尋ねるとピルサドスキーに視線を向けた。
「勝てねえ……あれが世界の壁かよ……!」
「あれが凱旋門……いやエッフェル塔だ……」
「何の話をしているんだ」
というかお前たち父親は外国産馬だろうが。思いっきり世界レベルのはずだぞ。
俺は呆れつつもピルサドスキーを見て一言。
「ウマナミナノネ……」
サンデーサイレンス産駒は頭のおかしい奴ばかりだと思っていたが、世界は広い。
いつか俺は世界へ羽ばたいていけるか、少しだけ不安になった。
しまらないままパドックの周回が終わると、ノリさんに黒井先生、妹ちゃんがやってきた。
「レースは任せる。勝ってこい」
「わかりました」
相変わらずの怖い顔で黒井先生が言って、ノリさんは飄々と答える。
その中で妹ちゃんが俺をじっと眺めていることに気が付いた。
「あの……グレくんは……グレートエスケープは、まだ走らないとダメなんですか?」
妹ちゃんがそう、口にする。
西京さん、黒井先生、ノリさんが頭に疑問符を浮かべ、俺も同じように首を傾げた。
妹ちゃんはレース前に言う必要はないんですけど、我慢できなくて、と前置きをして、言葉を続ける。
「調べてみました。牡馬は種牡馬としての買い手がつかないと繫殖馬にはなれないって。でも、種牡馬にならなくても引退して牧場に預けることもできるんですよね……」
「橘オーナー……?」
「……グレくんは怪我をして、それでも回復して走ったのに、みんなから悪く言われて……それでも走る意味がわからなくなってきて……」
妹ちゃんは少し泣きそうな顔で言った。
「ごめんなさい。本当にレース前に言うことじゃないのに、グレくんを見ていたら……止めたい……ゆっくりと余生を過ごしてほしいです。でも……黒井先生や西京さんが一生懸命お世話をして、グレくんが一生懸命走っているのも見ているから。だから、お願いします……!」
妹ちゃんは震える手で俺をそっと抱くと、見上げる。
「――勝って!」
競馬が好きではないと言っていた妹ちゃん。それでも、俺のために馬主になってくれただけでなく、ずっと見守ってくれていた。
勝ったときも、負けたときも。
心優しい彼女にとって、怪我から復帰してもなお走らせることは、心苦しいものがあるのかもしれない。
けど、俺の中にはまだ――勝ちたいという意志がある。その意志を汲んで、送り出してくれるというのなら。
「勝ってみせるよ、妹ちゃん。いや――恵那ちゃん!」
新たな戦友を背に乗せて、地下馬道へ往く。
血液が冷え込んで、頭がクリアになっていく。聞こえてくる大歓声と、冬の訪れを感じさせる秋風は俺の身体を震わせた。
10万人以上の大観衆が叫んでいる。
返し馬をしながら、聞こえてくる声は俺を応援する声や、俺の負けを願う声、2着にさえ来てくれればという声、色んなものがある。
ここまで走ってきて、なんとなくわかったことがある。
誰かの想いや願いを背中に乗せて、それら全部を自分の勝ちたいという意志で包んで走るんだ。
きっと、それが競走馬『グレートエスケープ』がやるべきこと。
俺は、俺と、みんなのために、このジャパンカップを勝利してみせる!
《ジャパンカップ 単勝オッズ》
1番人気 ⑭バブルガムフェロー 3.7倍
2番人気 ⑨エアグルーヴ 4.2倍
3番人気 ④ピルサドスキー 4.8倍
4番人気 ①シルクジャスティス 7.7倍
5番人気 ②グレートエスケープ 11.4倍
『東京開催を締めくくる本日の第10R、国際招待競走ジャパンカップの発送時刻を間もなく迎えようとしています。実況は私、中井正継(ナカイ・マサツグ)、解説には競馬「ハチ」の梨田武(ナシダ・タケシ)さんをお迎えしています。梨田さん、今日はよろしくお願いします』
『よろしくお願いします』
『まず外国馬からお話をお願いします。梨田さんとしてはどうでしょう、今回の外国馬は』
『実績では断然ピルサドスキーですね。パドックでは少し良く見せてはいませんでしたが、今回のメンバーでは超一流といっていいんじゃないでしょうか。他には芝2400mのGⅠであるジョッキークラブ大賞を勝利してやってきたカイタノもいいですね。父の父はニジンスキー、日本でも走れると思います。アスタラバド、オスカーシンドラーなどですね』
『日本馬は如何でしょう。現在14番バブルガムフェローが1番人気、エアグルーヴが2番人気と外国馬を迎え撃つ形になっています』
『ヒシアマゾン、ファビラスラフインといった牝馬が2着、3着と来ていますがエアグルーヴはそれ以上に力を見せてくれると思います。バブルガムフェローは去年は大敗しましたが、鞍上の岡谷騎手は距離が合わなかったわけではないと言っていましたから。この2頭が大将格ですね』
『昨年の覇者グレートエスケープはどうでしょう』
『ここ2走は大敗していましたけどね、返し馬の状態はすごく良さそうでした。負けた2走は直線で不可解なほどの失速でしたからね、ここで復調すると考えると面白いですよ。他には菊花賞で惜しくも敗れた1番のシルクジャスティスですね』
『史上初の2連覇か、日本の牝馬か、それとも3歳馬か。スターターが台に立ち、ジャパンカップのファンファーレが鳴り響きます』
演奏隊の生演奏と観衆の手拍子が鳴り響く。
演奏を終えると同時に歓声が大きくなり、枠入りが始まる。
『枠入りが始まりました。梨田さん、展開はどうなるでしょうか』
『やっぱり2番のグレートエスケープがハナを切るでしょう。前走ではサイレンススズカに遮られて控えましたが、今回は逃げ馬は1頭ですからね。レースを作って得意の展開に持ち込めるかがカギでしょうね。ツクバシンフォニー、モンズが競りかけてくるかもしれませんが、グレートエスケープの出方がペースの鍵になるでしょう』
『枠入りがすんなり……おっと5番のモンズがゲート入りを嫌がっていますが……あ、入りました。少し時間がかかりましたが入りました。15番アスタラバドがゲートに入って態勢完了しました。第17回ジャパンカップ、今スタートです!』
ゲートが開いて飛び出すまさにその瞬間、激痛が走った。
「いたァーッ!?」
予想外だったぶん、一層痛みを強く感じて、まるで駆り立てられるように飛び出した。
ムチだ。ゲートを出た瞬間にノリさんが俺を鞭で叩いたのだ。
鞍上はそのまま手綱を緩めると、まるで最後の直線のような勢いで俺をぐいぐいと押した。
「えっ、えっ、行くのか!? いや行くけど! 大丈夫かこれ!」
促されるがままスピードを出す。
スタート直後から全力疾走で、コーナーに入ってからもストップのサインがかからなかった。
そんな俺の走りを見て暴走したと思ったのか、それも騎手が暴走させたと思ったのか、観客がどよめいた。
向こう正面に入るなり、斜め後ろの馬群が視界に入ったがおおよそ5馬身ほど差がついている。
「ま、マジかノリさん……ここで俺に大逃げをさせるのか!?」
『向こう正面に入りますがなんとこれはびっくり、2番グレートエスケープが逃げましたこれは大逃げです! 既に5馬身近い差をつけて悠々先頭です! 遅れてツクバシンフォニー、モンズが馬群の先頭を走ります。エアグルーヴは早め4番手、それをマークするようにバブルガムフェロー、バブルは5、6番手でレースを進めています』
大逃げなんて当然打ったことはない。
ダービーで行うか案が上がったくらいで、実際にそれをしないレースこそが俺の勝ちパターンでもあったからだ。
だから、先頭は誰もおらず、後方の馬群もすこし遠く感じる孤独感が、俺を焦らせる。
手綱が引かれた。
ゆっくりといけ、そんな声が聞こえてくるようだ。
再び歓声が上がる。驚きも混じったその歓声は、きっと俺に対して向けられているのだろう。
『2番グレートエスケープこれは思い切りました鞍上館山典佑! 後続には既に10馬身近い差をつけて前半1000mを通過、これは59秒台で通過しました! これだけリードを保って第3コーナーへ、バブルは、エアグルーヴは、ピルサドスキーは、逃亡者を捕まえられるのか!』
コーナーを回りながら、息が上がって苦しくなってきた。
そりゃあそうだ。今までは先頭を維持しつつも息を入れて、スタミナをキープしながら走ってきた。
それをこんな差をつけて逃げたら早々にバテるに決まっている。
ここからまだ800m残っていて、さらに坂もあるなんて信じられるか。信じたくねえ。
苦しい。
苦しい。
苦しい。
勝つために、こんな苦しまなきゃいけないものだったっけ。
でも、でも――
「はっ、はっ、は……はは……」
笑っちまうのはなんでだろうな。
最後の直線を俺だけが迎えて、坂を上り始める。
思い出した。
確かダービーのときも、こんな風に、苦しくて、諦めたくて、それでも、俺には目指さなくてはいけないものがあるのだから。
――ごめん、橘ちゃん。散々弱音を吐いて、ビビって、情けないところを見せて。
約束したもんな。
ダービーだけじゃない、たくさんGⅠをとって、すごい馬になってみせるって。
少しの間、それを忘れちゃったみたいけど、別に忘れたわけじゃないって言い訳をさせて欲しい。
ここで勝って、その約束を証明して見せるから――!
『グレートエスケープが残り200mに差し掛かって後続が襲い掛かってくる、しかし坂を上るがグレートエスケープが粘っている! エアグルーヴ、ピルサドスキーが上がってきた! バブルも伸びる! 後方からはシルクジャスティスが追い込んできているが、グレートエスケープだ! グレートエスケープだ! これは逃げ切る逃げ切る! 復活の逃亡者、グレートエスケープ! 栄光の舞台に返り咲いたのは逃亡者グレートエスケープだーッ! 後続を完封です!」
ゴールを走り終えて、手綱が引かれる。
頭が真っ白になりそうなほど必死に走ったが、これは勝っただろうと確信するほどの手ごたえ。久々の勝利の味に、喜びが爆発しそうになるが、それを表現するには疲労が大きすぎた。
『ジャパンカップ、勝ったのは2番グレートエスケープ! 後続に6馬身差をつけてまんまと逃走成功! 見事でした鞍上館山典佑!』
少しずつ冷静さを取り戻す脳が思考を巡らせる。
ラストスパートをかけさせないレースと言ったノリさんの意図。それはこの大逃げだ。
きっと調教ではスピードが出せていたのに直線で走れないのを、精神的なものと読み取って彼は敢えて前半に飛ばさせて、後半はスパートすらかけず粘り込みを図る作戦だったのだろう。
ここ2走で大敗していたことで油断を誘い、後続馬同士で牽制し合ったことも有利に働いたようだ。
観客が大歓声を上げて俺を出迎えている。その中には、馬券を外した恨み言も混じっていて、少しだけ笑ってしまう。
『グレートエスケープは史上初のジャパンカップ連覇! やはりこの舞台では負けられない!』
俺を称える実況。そして鞍上ではノリさんがガッツポーズを繰り返し観客に見せつける。
ウイニングランをする前、ロイヤルタッチとバブルガムフェローがやってきた。
「てめー姑息なマネしやがってよぉ!」
「本当の復活、それはまだまだ本物じゃねえ、でも引っかかった俺たちは迂闊!」
なんて言うが、どこか嬉しそうな二人。
勝ちは勝ちだが、今回は決して実力だけで勝ったと自信を以って言うことはできなかった。
だが、ようやく何かが吹っ切れたような気がする。
俺は自信たっぷりに二人へ言い放った。
「次も負けないからな!」
「ケッ、言ってろ! 本気のてめえをぶっ潰してやるからよ!」
「次代の挑戦は既に始まってんだ調子乗ってんとすぐに終戦、俺がお前を昇天!」
二人はそう言うと一足先に地下馬道へ向かう。
その途中でエアグルーヴとすれ違った。
「……フン、次は勝つ。貴様の名前、覚えておくぞ」
「ああ。次も絶対に勝ってみせる」
「そうでなくてはな。では、な」
まだ戦いは終わらない。
復活したなら、次は王座を守り抜かなくては。
けど、今は――久々の勝利と、支えてくれたみんな、そして勝利に導いてくれたノリさんに感謝しよう。
恵那ちゃんには安心させられただろうか。ダンスパートナーさんや、スペシャルは喜んでくれるだろうか。
「……次は有馬記念だな!」
ジャパンカップだけでは完全復活とは言えない。
次の有馬記念を勝利して、文句なしに現役最強馬だと証明してみせる!
口取り式では、恵那ちゃんは泣いていた。
俺を撫でながら、繰り返し涙を拭ってはまた溢れ出していた。
「グレくんすごいね。あんなにボロボロだったのに、復活して。すごいよ……本当に感動したよ」
そう思ってもらえたのなら、よかった。
確かに勝てないときは苦しくて、目の前が真っ暗になった。
それでも、俺はまだまだ走って、勝ちたい。
勝って、歓声を浴びたいし、頂点まで上り詰めて、橘ちゃんや恵那ちゃん、そして黒井先生や西京さんのこともみんなに知ってほしいと思う。
だから――これからも、ずっと見守っていて。
俺は恵那ちゃんに、そんな思いを込めながら額をそっと押し付けた。
勝利ジョッキーインタビュー 館山典佑騎手(グレートエスケープ)
「今のお気持ちをお願いします」
「ジャパンカップという大きいレースを、なおかつ2連覇を達成できて嬉しいです。最高の気分です」
「グレートエスケープは思い切った大逃げとなりましたが、作戦通りですか」
「そうですね。最後の直線で伸びないレースが続いていたので、依頼を頂いてからはこういうレースがしたいなぁと思っていました」
「最後の直線、グレートエスケープは見事に粘り切りました。追っている最中、どんな気持ちでしたか?」
「いや、もう、粘ってくれ、頑張れって応援していました。根性ある馬で、苦しくなっても走り切れる良い馬です」
「この勝利でジャパンカップは史上初の連覇となりました。館山騎手も初めてのジャパンカップ勝利です。どんなお気持ちですか?」
「海外で一流の結果を残している馬がいる中で、日本内国産馬の血統が勝利したわけですから、心強いですね。海外の相手とも戦える、強い馬だと思います。とにかくうれしいです」
「インタビュー、ありがとうございます。勝利ジョッキー、館山典佑ジョッキーでした!」
写真:口取り式後にグレートエスケープからジャンプして降りる館山典佑騎手
〇ウマ娘ワールド
・聖蹄祭
ウオ「この祭り……つまり愛も要らねえし、引かねえし、媚びねえし、省みねえんだな!」
スカ「媚びるとまではいわないけど愛想は振りまくわよ」
ちなみにモチーフはうまよんの聖蹄祭回より。早く書籍化して♡なんでもするから♡
〇競走馬ワールド
・天皇賞・秋
本当はサイレンススズカとの下りも入れたかったけど残念ながら尺、テンポの都合デカット。覚醒前だからちょっと待ってもらう
・館山典佑(美浦・騎手)
関東リーディングを争うトップジョッキーの一人。
騎乗技術ももちろんだが思わぬ戦法でレースをかき乱すトリックスターでもあり、ファンから良い意味でも悪い意味でもやらかしてくれると信頼されている。
・ピルサドスキー
没ネタ
「ピルサドスキー……あれが海外馬の力ってことか……!」
「……フッ!」
「グレートエスケープ!? ……! な、なんてパワーだ……ピルサドスキーにも負けていねえ! がんばれグレートエスケープ。お前がナンバーワンだ」
「君が日本代表か……いいモノを持っているね」
「日本をあまり無礼るなよ?」
エアグル「オマワリサン!!!!!!オマワリサン!!!!」
当初の予定では秋天で復活してJCはギャグ回の予定でした。