名バ列伝『グレートエスケープ』【完結】   作:伊良部ビガロ

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※誤字報告、感想、評価いつもありがとうございます!
※更新遅れてすまぬ……そして展開もあまり進まなくてすまぬ……天皇賞・春はもう少し待つんじゃ……


第25話 シューティングスター

 夏のうだるような暑さは冷房でかき消されているはずだったのに、グレートエスケープのトレーナーはじっとりとした汗を流していた。

 ナカヤマフェスタというウマ娘に誘われたグレートエスケープに呼ばれて、空き教室で行われる麻雀に参加することになったトレーナー。

 急ぎの用事もないから構わないだろう、半荘くらいであれば……と参加したのだが。

 

「くくく……立直だ。いいね……痺れる展開になってきたよ」

 

 対面、ナカヤマフェスタからの立直。

 トレーナーは視界が歪むのを感じ、目頭を揉んだ。

 一度冷静になるべきだろう――トレーナーは危険牌の整理も兼ねて一息ついた。

 場は既に南二局。自分は残り7000点でびりっけつ、子の満貫直撃でトぶほどの点数。

 立直をかけたのは対面のナカヤマフェスタ。現在は10000点で3位ながら親番で巻き返しを狙っている。

 下家には巻き込まれた割には恐ろしい手腕を見せつけるエイシンフラッシュ。堅実な打ち方で現在2位、33000点を保持している。

 そして上家のグレートエスケープが現在49000点でトップを走っている。

 本来なら、これはただの遊び。

 暇つぶしに付き合っているだけだというのに――!

 ナカヤマフェスタがくつくつと笑う。

 ギャンブル狂いと噂のナカヤマフェスタとグレートエスケープの仲がいいのは知っていたがまさか、ここまで過酷な勝負をしていたのは知らなかった。

 

「くくく……負けたら『なんでも言うことを聞く権利』ね……意外とグレのトレーナーがやられることになりそうだ」

 

 そう! 今回賭けられているのは己の尊厳なのだ!

 恐らく大した命令はされない、そう思ってはいるが、勝者が容赦してくれるとは限らない。

 上家のグレートエスケープは現物の三筒を切る。

 牌山からツモってきた牌を手牌の上に置いた。

 聴牌――純全(ジュンチャン)、三色、一盃口という勝負手。

 跳満は確定、立直をかけて裏が乗れば倍満まで伸びる手だ。

 親を迎える前に巻き返すためにも、ここは勝負したいところだが、ツモった牌は最悪と言っていいものだった。

 手の中にあるドラの發は一枚も切れていない初牌、つまり超危険牌……!

 どうする……!

 もうこれ以上は振り込めない……!

 ……。

 仕方がない。ここはオリて次の親番で巻き返そう。

 手を崩して現物を掴んだそのとき、隣から声が聞こえた。

 

「ふふ……相棒よ。グレートエスケープのトレーナーたるものが、そんな弱気な姿勢でどうする……! 慎重さは大切だが……時には必要だっ……! 勇気がっ……!」

 

 グレートエスケープの言葉に目が覚めた。

 そうだ……この手で勝負しなかったらどこで勝負するというんだ。

 ここは立直をかけて、一発逆転を狙うのみ!

 立直と宣言をしながら發を叩きつけた。

 

「「「ロン!!」」」

「四暗刻単騎です」

「大三元だ」

「国士無双だよ」

 

 〇〇〇

 

 というわけで、勝者たるグレートエスケープから命じられたのは一緒に出かけて食事を奢ることだった。

 待ち合わせの場所はトレセン学園の正門前。

 少し早く着きすぎてしまっただろうか。

 腕時計を確認したり、そわそわしていると、声をかけられた。

 グレートエスケープの声だ。

 振り返ってから、言葉を失った。

 

「どうだ、相棒。……似合っているか?」

 

 トレーナーがウマ娘を見る姿は基本的にジャージか制服、そして勝負服のどれかだ。

 しかし今日は、着飾った上でサングラスをかけており、まるでハリウッドにいるモデルやセレブのようだ。

 ウマ娘はヒトから見て容姿端麗な種族だが、グレートエスケープは背が高いのもあって美しさを際立たせていた。

 似合っている。

 そう伝えると、グレートエスケープは「そう」と小さく返した。

 サングラスの下の表情はわからない。

 

「今日は私の言うことを聞いて、一日自由にしてもいい……構わないな?」

 

 構うから、流石に困ることは断らせてもらおう。

 とはいえ彼女も子供ではないから、決して無茶な命令はしてこないだろう。

 ご飯の奢りくらい、普段のレースやトレーニングの頑張りに対するご褒美だと思えば、むしろ足りないくらいだ。

 早速彼女が希望に出したショッピングモールへ向かう。

 到着するなり彼女はポケットから出したメモを盗み見ていた。

 

「えっと……最初は自然な会話で……」

 

 グレートエスケープはメモを仕舞うとぎこちない仕草をしながら、これまたぎこちない口調で話し始めた。

 

「さ、さっ、最初はスポーツ用品店とかどうかな! やはり欲しいアイテムはトレーナーにも見てもらいたくてな!」

 

 いつものクールさはない。

 違和感を激しく覚えるが、そこは指摘せず、彼女の求めるがまま付いていく。

 その後も同じような流れで色んな店を回った。

 

「ど、どう、だ……このシューズは!」

 

 少し重くないか?

 ――スポーツ用品店では普段トレーニングで使うアイテムを見たり。そこでは普段履かないようなタイプのシューズを提案された。

 

「このスコップ……上手く穴を掘れそうだ……この滑車も上手く使えば……」

 

 何を企んでるんだ?

 ――ショッピングモール内のホームセンターでは自分の世界にのめり込んでいき。

 

「キャロチ……コーラ……」

 

 ダメです。体重管理がダメになるでしょ。

 ――お菓子専門店ではじぃっとスナック菓子などを見つめていて。

 最後に映画を見終えると、ショッピングモール内でのレストランで昼食を摂ることにした。

 そこでグレートエスケープに尋ねられた。

 

「相棒……今日は、楽しい、か?」

 

 なんだか緊張しているらしい彼女は、落ち着かない様子だった。

 冷静沈着でいることが多い彼女を見ているから、新鮮で、楽しいよと答える。

 

「な、そんなに落ち着かないか? 普段と同じ自分を心掛けていたのだが」

 

 なぜ取り繕おうとするのだろうか。

 体調でも悪いのかと問いかければグレートエスケープは眉をひそめて「朴念仁め……」と呟いた。どういうことだろうか。

 間もなく、二人が注文した料理が運ばれてきた。

 グレートエスケープはリブロースステーキ、こっちはビーフカレーライス。

 とても美味しくてあっという間に食べ終えてしまった。

 

「御馳走様でした」

 

 会計を済ませてからトレセン学園へ戻る。

 その途中でまた色んな店に寄っては、グレートエスケープと話し込んだりしていた。

 寄り道しながらだったから、あっという間に夕方になってしまった。

 

「あっという間だったな……」

 

 楽しかったが名残惜しいと言うとグレートエスケープも頷いた。

 

「もう少しゆっくりしたかったかもしれない」

 

 トレセン学園の門限にはまだ余裕がある。

 公園で少し休んでいこうという提案にグレートエスケープは賛同した。

 夕方にもなると子供たちが遊んでいて、少し賑やかだった。

 噴水そばのベンチに腰掛けて、一息つく。

 

「……相棒。今日はすごく楽しかった。また相棒と2人で、デー……んんっ、出かけたいと思っている」

 

 何かを合図にするでもなく、彼女はぽつりぽつりと語り始めた。

 

「宝塚記念にはサイレンススズカもエアグルーヴも出るという。間違いなく強敵だ。それでも勝つのは私だと自分を信じているが……怖くもある。相棒、私は才能豊かなウマ娘と思うか?」

 

 初めて出会った時から磨けば光る素質はあったように思える。

 そして彼女は常に己を磨こうとしていたから、デビュー前の同期の大半は相手にならない強さを持っていただろう。

 先行して、自分のペースで逃げ切る姿はまさに横綱相撲と呼ばれるような王道の勝ち方で、決して弱いウマ娘ではなかった。

 ――ああ、そう思う。

 

「ありがとう。……それでも、ウマ娘――いや、ウマ娘に限らず、頂点を目指すということは過酷だ。才能と実力を築き上げてもなお届かない……私はサイレンススズカやエアグルーヴに、それを突きつけられるのが怖い」

 

 しかしグレートエスケープは笑みを浮かべている。

 

「だが、逆にこちらがその事実を突きつけることだって有り得る。……相棒。二人でなら、それができるよな」

 

 もちろんだ。俺は、ウマ娘の頂点に立つのがグレートエスケープだと信じている。

 グレートエスケープは立ち上がると、笑顔を見せた。

 

「夢を達成出来たらまたこうして、出かけてくれないか? トレーナーとウマ娘、勝ったレースや負けたレースの思い出に浸りながら……」

 

 ああ、きっとまた来よう。勝つのは俺たちだ。

 グレートエスケープとの外出は、宝塚記念のモチベーションを高める一日になった。

 

 〇〇〇

 

「――で、麻雀してまで手に入れたデートの機会でなにもできず、か?」

「わかっている! ナカヤマに言われなくても自分でもわかっているとも……だがいざ2人きりになるとレースの話とか、そういうことばかりしか話せず……」

「話すことを予め決めておけばよいのではないですか? 内容も時間も決めておけば悩まなくて済むと思います」

「フラッシュ、そういうわけではないんだ……くっ……ナイスネイチャかカレンに聞いてみるか……」

「宝塚記念前に随分贅沢な悩みをしているな……」

「結局宝塚記念が気になってその話になってしまったからな。落ち着いてからまた試してみるか……」

 

 

 

×××

 

 

 

 ――天皇賞・春。

 京都芝3200mで行われる日本で最長のGⅠレースであり、数多の名馬が制覇してきた。

 昔は天皇賞こそが最大目標とされる時代もあり、ダービーが3歳馬の最高峰を決める戦いなら天皇賞は古馬最強を決める戦いでもあった。当時の制度、番組表の影響で優勝後、引退する馬も多くいた。

 しかし秋の天皇賞が2000mに短縮されるなど、徐々に長距離レースの価値は以前ほど高いものではなくなりつつある。

 だとしても、まだ天皇賞を優勝することは古馬最高峰の栄誉だという風潮は残っている。

 俺も、3200mという過酷な距離を勝つことは確かに最強の証だと思う。

 挑戦者としてレースに臨んだ去年はマヤノトップガン、サクラローレル、マーベラスサンデーといった名馬たちに迫りこそしたが、敗北。

 そして骨折までしてしまい、しばらく低迷が続き苦しんだ。

 そのせいでステイヤーではない、中距離向きの馬だという評価になってしまった。

 黒井先生は『長距離やタフなレースでこそ力を発揮する馬』だと言ってくれている。先生の相馬眼は正しかったと証明するためにも、今回の天皇賞・春は負けられない。

 去年の敗北は本当に悔しかったとみんなが言っていた。そのため、厩舎一丸となって俺をサポートしていこうという雰囲気で接してくれている。

 黒井先生も天皇賞の盾がやはり欲しいらしい。

 阪神大賞典後の追い切りでは黒い布のようなものを見せてきた。

 

「今日からこれをつけて走るんや」

「ブリンカーですか」

 

 今日俺に乗る調教助手のあんちゃんが呟く。

 ブリンカーとは、本来視野の広い馬の視界を遮ることでレースや調教で集中できるようにするための馬具。

 しかしなんで今更俺に。俺は真面目にレースを走っているというのに。

 

「いいかもしれませんね」

「せやろ」

 

 あれ? なんだか意外と好意的というか、装着することは当然みたいな反応だな。

 別に着けるのが嫌なわけではないのだけれど。

 まるで普段から集中して走れていないみたいなイメージを持たれてるのは心外だなぁというかなんというか、でもそういう意味じゃないんですよね。

 

「前走でもカナタさん言ってましたからね、レース中ほかの馬を気にしやすいって」

「レースを理解するだけの賢さがあるからな。そのせいやろ」

 

 集中して走れてない意味でした。

 えぇー。そんなふうに思ってたのぉ? もう2歳から数えて4年目になるというのに、衝撃の新事実だ。

 

「というわけで着けるで」

「イヤがりそうですね」

 

 イヤーッ!

 しかし暴れると先生や調教助手のあんちゃんが危ないので大人しく装着される。

 違和感はあるが邪魔な感触はない。

 黒鹿毛の馬体に黒いブリンカー。似合っているだろうか。

 

「……流石やな。イケメンや」

「ですね」

 

 ほんとにぃ〜?

 見た目より大事なのは走っている時に効果があるかないか、そこだ。

 今日はレース明けの追い切りなので栗東のCWコースを馬なりで走る。

 タイムはもちろん問題なく、体のバランスもあまり崩れておらず阪神大賞典の疲労はほとんど残っていない。いい調子だ。

 しかしブリンカーの効果はわからなかった。

 音が少し聞こえづらくなり、視界も狭まったが自分だけで走る時はいつもと違う部分は何も無い。

 次の週も単走だったから効果はわからず、その次の週でようやく併走で調教を行うことになった。

 

「というわけでよろしくお願いします、エスケープ先輩!」

「よろしくな、スペシャル。というか……カナタさんが乗りに来てるのか。まだ1週前追い切りとはいえ」

 

 調教馬場まで歩きながらスペシャルと世間話に興じる。話す相手の上ではトップジョッキーの滝カナタさんがゆったりと乗って調教を待っていた。

 スペシャルは今回皐月賞の1週前追い切りを予定している。俺は皐月賞から2週間後に天皇賞・春だから、少し仕上がりは劣っているだろう。

 

「それにしても顔に付けてるやつかっこいいですね! ブレーカー!」

「ブリンカーな。似合うか?」

「ヒトが着けてるグリーングラスみたいでかっこいいです」

「多分サングラスだが、ありがとう。似合ってるかー……そうかぁ。ヨシッ、スペシャル! 今日は併走よろしくな!」

 

 仕上がりに差はあれどこっちは古馬GI馬、まだ若い3歳馬には負けられない。

 調教は栗東ウッドチップコースで併走。

 先を走る俺を後ろからスペシャルが追走し、追い抜くという形で行う予定だ。

 逃げ馬と差し馬でお互いにちょうどよく調整できるというわけだ。

 ダンスパートナーさんを思い出すなぁ。

 そして調教が始まる。

 いくらか後方をスペシャルが追走しているらしいが、ブリンカーのせいでそれを伺うことはできない。

 音でなんとなくの位置はわかっても、正確な位置はわからない。

 しばらく走ると、馬蹄の音が大きくなったと思えばすぐ隣にスペシャルウィークが並ぶ間もなく抜き去っていた。

 

(速い……! いや、それ以前にヤネの合図に反応しきれない……)

 

 スペシャルは俺を追い抜き、スピードを維持したままコースを走り終えた。

 流石に仕上がっているが、それ以上に自分の反応の悪さが際立った。

 実際にそれを感じたのもあるようで調教助手のあんちゃん、カナタさん、黒井先生が3人で話し合っている。

 ……ここまでの自分の戦績は間違いなく立派なものだろう。

 しかし生き物である以上、衰えは必ずやってくる。

 それに適応するためには変化が必要だ。

 

(よし……やってやるか)

 

 翌週、俺はスペシャルとは別の僚馬である『ラッキーストライク』(牡・4歳、500万円クラス)と併走することになった。

 

「よろしくお願いします!」

「よろしく」

 

 実はこの子、俺が2歳のときに世話になった先輩馬、ラッキーパンチ先輩の弟(半弟)なのだ。

 その縁もあって世話を焼いている。

 先輩の弟らしく、気弱で優しい性格なため、レースではイマイチ競り合いに弱いという欠点があったりするほか、ほかの馬にいじめられやすかった。

 そのため俺が周りの奴らを蹴散らしていたら、懐かれた経緯があった。

 だが先輩の弟だろうと調教になれば関係ない。

 坂路を駆け上がりながら、追走してくるラッキーストライクを待つ。

 

(走ることだけに集中……集中……集中……)

 

 俺がやるべきなのは合図にいち早く反応することだけ。

 ブリンカーで前しか見えない即ち前だけ見ていれば良いということ。

 馬蹄の音は聞かない。

 ただ鞭が俺に入るのを待つ。

 地面を蹴る度に小刻みに鳴る蹄の音。リズミカルに地面を叩きながら、無心になっていく。

 

(――今だ)

 

 騎手からの合図の声と共に鞭が振るわれ、肩が叩かれる。

 痛みには及ばない刺激だけで合図には充分だ。

 走りながらもため切った脚を爆発させるように、地面を蹴りあげた。

 

 この日の調教タイムは、競馬新聞の片隅に素晴らしい時計を記録したと載せられた。

 

 

 

「う゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!! ま゛け゛ま゛じ゛だ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛!!!!」

「おお、よしよし。俺の分の人参をお食べ」

「もっしゃもっしゃひぐっ、ひんっ、ひぃんっ……もぐもぐ」

 

 皐月賞の翌日、俺はスペシャルウィークに泣きつかれた。

 1番人気で臨んだ皐月賞だったが前を走るセイウンスカイ、キングヘイローを捉えきれず3着。それが悔しくて馬房に戻ってくるなり俺にひんひんと泣いて訴えるのだ。

 気持ちはわかるだけに突き放しづらい。

 かといって「仇はとってやる」と言うのは違う。そもそも対戦できない。

 

「悔しかったなー、そうだよなぁ」

「ううっ、うっ、ぶほっ、もぐ、ひぃ、ぴぃぃ……ぼふっ、ぶもっ……」

 

 食いながら泣いてるせいでまるで豚さんだがそこは黙っておいた。

 しかしスペシャルはなぜ負けたのだろうか。

 はっきり言ってスペシャルウィークはクラシックを走っていた頃の俺よりも優れていると思う。

 瞬発力や切れ味は父サンデーサイレンスの持ち味を受け継いでいるし、新聞では久々にサンデーサイレンス産駒の大物が出たと評判だ。

 

「こういうときは……アレしかないな。最近やってなかったからみんな待ちわびているだろうし」

「ぶふぇ……? なにするんですか……?」

「スペシャルまで連れ出すのバレたら怒られるからな。夜になるまで待て」

 

 そして夜になった。

 みんなが寝静まった(スタッフ何人かは起きていると思うが)夜更けになればあとはもう俺たちの自由時間だ。

 

「脱走をする」

「えぇっ、いいんですかそんなことをして」

「ダメに決まってるだろう」

「そ、そうですよね、普通やんないっすよね」

「ダメだからやらないとは言ってないぞ。今回脱走方法はこちら」

 

 まず厩務員からくすねた馬房の鍵を用意する。

 この鍵を使って馬房を開ける。

 スペシャルの分も開ける。

 

「以上が脱走方法です。簡単だな」

「で、出ちゃった……本当にいいんですか……?」

「ダメだからさっさと出てさっさと帰る」

 

 厩舎から出る途中にスポーツ新聞が置かれていた。

 皐月賞でスペシャルウィークが敗北し、セイウンスカイが勝利した記事がでかでかと乗せられている。

 どうやら大外枠かつグリーンベルトと呼ばれる内側有利の馬場状態のために前を捉えきれずに負けたらしい。

 それも競馬とはいえ負けは負け、悔しいだろう。

 

「それでエスケープ先輩……外に出てどうするんですか?」

「なにもしない」

「えぇーっ!? なんかこう……次のダービーで勝つための特訓とか、作戦とか……心構えとか!」

「俺と脚質も能力も相手も騎手も違うのに言えないだろう……言うことなんてない。ただ、こうやってのんびり過ごす。そして、敗北の辛さを噛み締めながら……何のために走るか、次どうするのか考える」

 

 手が届きそうもないほど遠くに、無数の星が煌めく空を見ながら、地面に横たわる。

 俺から言えるのはそんなことくらいで、俺だって負けてのたうち回るくらい悔しくなったり、悩んだりしてきた。

 あの星々に負けない輝きを放つライバルたちがいて、きっとこれからも増えていく。

 

「勝てない相手が出てくるかもしれない。逆に、勝てるはずだと思っていたのに負けることもあるだろう。そんな勝負の世界に俺たちは生きてるんだ。負けたあとはまずは心をすっきりさせて、どうやったら勝つか。それを考えるしかないんだ」

 

 俺はそれに気づくのに時間がかかったし、気づいた今でも負けたら悔しくて喚くだろう。

 でも、そんな自分が競走馬『グレートエスケープ』たる所以なのかもしれない。

 

「スペシャル……日本ダービー勝ったらすごいぜ。モテモテだ」

「そ、そうなんですか。オレ、あんまり興味ないすけど」

「ちやほやはされるしな。故郷の牧場の人達にも誇れるだろうな」

「へー! エスケープ先輩はどうだったんですか?」

「聞きたいか? 俺はまず橘ちゃんっていうそれはもう美人な馬主がいてだな――」

 

 慰めがてら、自分の身の上話をしながら夜を過ごす。

 スペシャルウィークには是非ともダービーをとって欲しいと思うのが親心ならぬ、先輩心というものだ。

 気づかれないうちに馬房へ戻るまで、スペシャルに色んなことを話していた。

 2週間後には天皇賞・春が控えている。

 少しずつ見えてきた最強の称号へ、あと少しだ。




・ウマ娘グレートエスケープがつけるサングラスは、競走馬として黒いブリンカーをつけていたことがモチーフとされている……という裏設定

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