名バ列伝『グレートエスケープ』【完結】   作:伊良部ビガロ

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第27話 指先が触れるには遠く

 天皇賞・春を終えた約1ヶ月後のこと。

 

『後ろからスペシャルウィーク! 間を割ってやってきた! スペシャルウィークとセイウンスカイ、あっという間に――並ばない! 並ばない! あっという間にかわした! あっという間にかわした! スペシャルウィーク! スペシャルウィーク! 夢を掴んだ滝カナタ! 夢をつかみましたスペシャルウィーク、滝カナタ!』

 

 1番人気で迎えた日本ダービーで、スペシャルウィークは2着に5馬身差をつける見事な勝利を挙げた。

 鞍上の滝カナタ騎手はこれが嬉しいダービー初制覇。トップジョッキーにして既にレジェンドの領域に片脚を突っ込んでいる彼はダービーは勝てないと言われてきたが、ついに勝ち星を挙げた。

 黒井厩舎はこれでダービーは俺以来2勝目。2つ目のダービーといえどやはり格別なものらしく、しばらく黒井厩舎はお祭り騒ぎだった。

 

「エスケープ先輩! 俺やりましたよ! ダービー勝ちました! これで世代ナンバーワンですね!」

 

 スペシャルウィークもやはり嬉しいのだろう、俺に対して喜びを見せつけてきた。

 最初こそは微笑ましくよかったなと受け止めていたのだが……少し様子がヘンだった。

 

「俺ってば最強ですね。もう何も怖いものはないというか……このまま世界を制する器というか……エスケープ先輩が今年の凱旋門賞を制して、俺は来年の凱旋門賞を制しますよ……」

 

「同世代にはライバルと思える馬はいない。エスケープ先輩にエアグルーヴさんくらいじゃないですかね」

 

「何かを持ってると言われましたけど、ダービーで何を持っているかわかりました。それは仲間」

 

「世界のトップジョッキー乗せてぇ。社来で種牡馬入りってヤバイですか? うわぁ頑張ろうビッグになろう」

 

 ダービーを制覇したことで調子に乗っているようだった。

 俺としてはよくないと思うが他人が言ってどうなるものでもないし、そもそも俺にだって宝塚記念がある。

 スペシャルウィークばかりを気にしていられないのも事実だった。

 

「もう……ご飯沢山食べても勝てるというか……夏の間はたくさん飯食って強くなります……俺、サラブレッドの星になる」

 

 バルバルと飼葉を食べるスペシャルウィークの相手をするのに少し疲れたのもあって、俺は馬房を抜け出した。

 

「おっす白村さんお疲れー」

「お疲れー……ん? あれ? 今グレ助が通らなかったか?」

「白村さん何言ってるんですか。いくら新人の俺を騙そうっても、そんなことはいくらなんでも信じませんよ!」

「そうか……そうだよな……! グレートエスケープが南京錠2個ついた扉を鍵も無しに開けられるわけないよな!」

「鍵があっても不可能ですよ」

 

 厩舎から出て事務所周りをうろちょろする。

 そこでは厩舎スタッフが色々と仕事をしていた。それを眺めながら、少しのんびりと過ごすことに決めた。

 初夏の暑さは馬の体には中々堪えるものだが、少しくらいは陽の光を浴びたいのが人情……馬情だ。

 スペシャルウィークのあれもそのうち治るだろう。

 あそこまで露骨ではなかったが、俺もダービーの後はあんな風に腑抜けていたときがあった。

 それを叩き直すのはやはり、ライバルというやつではないだろうか。

 

「いい天気だなぁ……おや?」

 

 厩舎の入口を掃き掃除している人物にやたら見覚えがあった。

 小柄ながら引き締まった体型、それにやんちゃそうな童顔とも取れる端正な顔立ち。

 久々にレース以外で見る、梶田健二騎手その人ではないか。

 

「おおっ、ケンちゃん! ケンちゃんじゃないか! なんで掃き掃除を!?」

「ん……? あ、グレ坊! お前また抜け出したのか……よしよし……久しぶりだな」

 

 ケンちゃんに駆け寄ると額を撫でられる。

 ここまで接近したのは本当に久々だ……再会に喜んでくるくるとケンちゃんのまわりを回っていると、厩務員の西京さんがやってきた。

 

「梶田騎手……久しぶり」

「えーと、お久しぶりっす……」

「なぜ掃き掃除を?」

「先生に会いに来て……そしたら『ちょっと掃除をしてこい』と」

「先生らしい。貴方ほどの騎手に掃除させるテキはいないでしょう。ではよろしくお願いします」

「えっ、あっ、はい」

 

 西京さんは表情をあまり変えないまま、その場を後にした。

 別にケンちゃんに掃除しなくていいよとか言うわけじゃないんだ……。

 ケンちゃんは気分を悪くしたふうな様子もなく、どこか気を抜いてすらいた。

 

「こんな風に接してもらえるだけありがたいんだけどな……グレ坊、俺もう1回お前に乗せてもらえるかなぁ……」

 

 えっ、乗ってくれるの!?

 是非是非乗って欲しい。

 確かにカナタさんは上手いけどやっぱり細かいところで息が合うのはデビューから乗ってくれていたケンちゃんだ。

 カナタさんだとこっちが少し気後れしてしまう。

 ノリさんは俺すら予想しないことをやらせるから心臓に悪い。次は最後方から競馬させられそうだ。

 次の宝塚記念ではエアグルーヴが出てくる。

 万全を期すならケンちゃん以外有り得ないだろう。

 

「おおっ、なんだめっちゃ近づいてくるじゃん……よしよし。掃除したところまた掃き直さなきゃいけなくなったけど……」

 

 しかしシルクジャスティスに乗るはずだったのになんで黒井厩舎に来たのだろう。

 その疑問に答えるかのように黒井先生がやってきた。

 黒井先生は大股で歩くとケンちゃんを無視して俺を撫でる。

 

「よしよし。どうしたグレ坊、こんなところで。次の宝塚記念は誰に乗ってもらおうか。洋介に乗ってもらうのもいいしな、岡谷騎手も空いてるし……いいジョッキーがいるからな」

「あの……先生……?」

「少なくとも調子悪い時期は乗らなくて調子が良くなったら乗せてもらおうとする騎手は乗せないから安心しろ、グレ坊」

 

 これは、もしや。

 

「く、黒井先生! おはようございます!」

「ふーん。なんや。なんの用や。グランプリホースの主戦騎手たる梶田健二くんが、寂しい厩舎になぜいらっしゃるんかな。掃除は終わったんか? 随分汚れとるで」

「す、すみません」

 

 黒井先生ひょっとして、拗ねてる?

 ケンちゃんはしどろもどろになりながら声をかけるもわざとらしく背を向けては俺を撫でる。

 かといってこの場を離れる素振りはまるで見せなかった。うーん、わざとらしい。

 

「健二、なにかゆうてみい」

「あの、その、えっと……」

 

 黒井先生は怖い人だから、何か言えと言われたら何も言えなくなってしまうだろう。

 ケンちゃんはホウキとチリトリを地面に置くと深深と、それはもう見事なまでに直角なお辞儀をしてみせた。

 

「黒井先生! 不義理を働いてしまい申し訳ありませんでした! 恥を忍んでお願いします! 次の宝塚記念でグレートエスケープに俺を乗せてください!」

 

 ケンちゃん……!

 黒井先生は小さく笑いながら、初めて彼に向き直った。

 それは、子の過ちを諭す父親のように厳しくも、暖かな声だった。

 

「健二」

「ッ、はい!」

「腹を斬れ」

「は……はい?」

「聞こえんかったか? 何度も言わすな。腹を斬れ」

 

 え、えぇーー!?

 改めて先生の表情を覗き込むが、確かに微笑んでいる。

 だが目が全く笑っていないどころか青筋すら額に浮かんでいる!

 いやいやいやダメダメダメダメ!

 俺は慌ててケンちゃんを背中に庇った。

 

「……冗談やグレ坊」

「いや……冗談に聞こえなかったッスけど」

「許されるなら腹は斬らせてたわ」

「ひぇ」

 

 とりあえず馬房の中へ戻ることになった。

 その間もケンちゃんを守るように、黒井先生との間に割って入っていたのは言うまでもない。

 

 ――結論から言うと、シルクジャスティスは乗り替わりになったため、宝塚記念の騎乗馬がいなくなったから厩舎に騎乗依頼を求めてきたという。

 

「貴様……乗る馬がいないからと頼んで乗せてもらえると……グレートエスケープをその程度の馬と見てるんやな……」

「ち、違います! ごめんなさい違います! そうとしか見えないですけど!」

 

 先生! 殿中でござるぞ!

 問答無用とばかりに刀を抜きそうな勢いだが、既に馬房に入れられてしまった以上助けることは出来ない。

 しかし黒井先生は凄んだものの鉄拳制裁などは行わなかった。

 この前無理な騎乗をした若手騎手に闘魂注入していたので、ないともいえないのが怖いところだ。

 

「俺はシルクジャスティスが先約だったから優先しました。本来は依頼を受けて初めて乗るようにしていますが、グレートエスケープだけは違うんです。俺から頭を下げてでも乗せてもらいたい馬なんです」

「それだけの馬なのは確かや。せやけどな、少なくとも世間では調子が戻ったから乗せてもらえるよう頼んだとか、そういう穿った目で見てくるやつはたくさんおる。ファンだけではなく、テキやオーナーにもそう思うモンは出てくるやろなぁ。その意味はわかっとるな?」

「――はい。乗り替わりは騎手の常ではありますが、それに対する批判も切り離せないものだと覚悟しています。それでお手馬に乗れなくなっても、俺は後悔はしません」

「まぁお前に対しては批判じゃなくて正論になるがな」

「うぐ」

 

 ああっケンちゃんに言葉のナイフが! 相当根に持ってるんですね、先生。

 

「やるべきことはただ一つや。勝て。これからもグレートエスケープに……いや、ウチの馬に乗りたいんなら、次の宝塚記念は勝て。それしか認めん」

「そ、それって……つまり……!」

「本来、馬は騎手を嫌うものや。ムチ入れられるんやから、当然やな。だというのにグレ坊はお前に懐いてる。乗せんわけにはいかんやろ……橘オーナーに確認はとるが、橘オーナーは騎手に注文つける人ではないしな」

 

 や、やったー!

 久々にケンちゃんが手綱をとることが純粋に嬉しかった。

 元々宝塚記念は勝利した上で凱旋門賞へ行くプランが兼ねてより掲げられていた。

 世界最高峰の舞台へ至るのなら、1番俺を知っている騎手が最も勝率が高いはずだ。

 次の宝塚記念は滝カナタ騎手とエアグルーヴというこれまでを考えると最も難しい敵が相手になる。

 それでもケンちゃんと一緒なら必ず越えられると信じて、宝塚記念を迎えた――

 

 

 

 〇〇〇

 

 

 

 グレートエスケープの怪我はショックだったが、休養すれば治るものと聞いて、レースから数日後、自宅で俺は安心した。

 これまで乗ってきた競走馬で最も特別な存在がどうなるか不安で眠れなかった俺は、久々に安眠ができたほどに。

 サラブレッドに骨折は付き物だ。無論、最悪は予後不良で安楽死となるが、グレートエスケープはそれと比較したらだいぶ軽いものだった。

 天皇賞・春は決して勝てないレースではなかった。

 怪我させてしまったことより、勝たせてやれなかったことの方が申し訳なかったが、そのときは重大なことと捉えていなかった。

 だから、京都大賞典で当初の予定よりはやく復帰するのは正直想像できた。

 とはいえシルクジャスティスの騎乗依頼が先に来ていた以上はそちらを優先した。

 古馬と3歳馬というある程度路線が別れるのもあったし、京都大賞典はGII、グレートエスケープにはあくまで復帰後初戦の調整レースの側面の方が強いと思っていたからだ。

 菊花賞を控えたシルクジャスティスにはそれ以上に大切な時期でもあった。

 菊花賞を目指すためにも、俺はグレートエスケープの騎乗依頼を断ってもなお、彼に対する心配はなかった。

 そして京都大賞典を迎えて、俺は愕然とした。

 皐月賞の大敗は、慣れないレースをしたせいで実力の半分も出せていなかった。しかし今回はかつての力の片鱗すら感じさせない走りだった。

 道中は問題ないどころか、シルクジャスティスの収得賞金を加算できるかどうかすら危ぶんだ。

 怪我を乗り越えてまた強くなったのだと喜びもあった。

 だから直線に入ってから、ズルズル下がっていく姿を信じられなかった。

 グレートエスケープは苦しんでいる。

 あんなに走ることには一生懸命な馬が必死になりながら、後方に置いていかれる姿は何度も夢に出てきた。

 そして迎えた天皇賞・秋。

 道中の手応えで、きっとあの敗戦はなんでもなかったのだと自分を信じ込ませた。

 それほどに良かったのだ。

 しかし直線に入ると、ぱたりと勢いが止まってしまう。

 大敗した後、俺は怖くなってしまった。

 グレートエスケープがこのまま負け続けてしまったら? そのとき俺は、彼を勝利に引き上げることができるのか?

 あの馬は間違いなく名馬として数えられるに足る、素晴らしい馬だ。

 その馬を俺は、再び走れるようにできるのか?

 ジャパンカップと有馬記念でシルクジャスティスに乗ることをオーナーサイドに伝えた日が、答えだったのかもしれない。

 ジャパンカップでは俺よりも少し上手くて、俺より少しリーディングが上の、俺よりも少し年上の騎手がグレートエスケープに乗った。

 そして、あっさり勝ってしまった。

 思いもよらない戦法で、まんまとジャパンカップを勝利すると、次の有馬記念では良かったときのグレートエスケープの走りが垣間見えた。

 少しだけ、嫉妬した。

 しかし有馬記念でシルクジャスティスを勝たせたことで、その負の感情は消え去っていた。

 年を明けて、グレートエスケープの騎乗依頼は俺に来るものだと思っていた。

 実際にはトップジョッキーの滝カナタさんに依頼が行った。

 滝さんはすごい騎手だ。人間としても、騎手としても尊敬しているからこそ、彼が騎乗依頼を受けたのも仕方ないと思った。

 迎えた阪神大賞典では、シルクジャスティスと共に挑んだが、結果は完敗だった。

 良かった時のグレートエスケープではない。これまでで一番良い、見たことがない出来のグレートエスケープが圧勝してみせた。

 天皇賞・春でも、それは変わらず、圧勝。

 去年よりも一段と良くなったグレートエスケープを見て、俺は嬉しかった。それと同時に、滝カナタさんとの差がそこにあるのだと、突きつけられているようだった。

 競馬サークルも新たなスターの誕生に喜び、グレートエスケープへの注目が深まった。

 それを嬉しく思いながら、新聞や雑誌を見ていた。

 最初は「グレ坊のことわかってない」「真面目と言うよりは切り替えがはっきりしてるんだ」「あの馬の魅力はスタミナよりも苦しくなっても走り続ける勝負根性だろ」と笑いながら読んでいた。

 雑誌や新聞にはグレートエスケープが諦めなかった姿が綴られていて、それを読むうちに嘲笑は嗚咽に変わっていた。

 どうして俺はグレートエスケープに乗らなかったんだ。初めてダービーを勝ち、こいつは特別な馬だと自分で思ったのに。

 どうして……どうして、一番苦しい時に一緒にやらなかったんだ。一番わかってやれた騎手は俺のはずなのに……。

 いい歳こいて、俺は家で一人、泣き続けた。

 俺はグレートエスケープが大好きなはずだったのに。

 リーディング上位が故にGIでは選べるほど有力馬がいて、だからこそグレートエスケープから逃げてしまった。

 そんな俺だけど、もう一度、あいつに乗って、勝ちたい。

 一晩中、涙が枯れるまで泣いたら、翌朝には黒井先生へ連絡した。

 会ってください。ただそれだけの言葉で。

 黒井先生は何も言わず、「そうか」とだけ言って電話を切った。

 普通は乗せてくれと言って乗せてもらえるわけが無い。

 それでも、例えもう騎手生活を続けられないとしても、グレートエスケープに乗りたかった。

 俺は黒井先生に頭を下げた結果、腹を斬ることと厩舎の掃き掃除を免除される代わりに、厩舎スタッフみんなに飯を奢ることになり、そして宝塚記念でグレートエスケープと一緒に戦う権利も手に入れた。

 ごめん、グレートエスケープ。

 リーディング上位にいるからと胡座をかいていた梶田健二とかいうヘボジョッキーだけど、また乗らせてくれ。

 お前が天皇賞で現役最強を証明してみせたように、今度は俺が、お前に乗るに足るジョッキーだと証明してみせるから――

 

 

 

 〇〇〇

 

 

 

 宝塚記念のパドック――俺はエアグルーヴを見つけるとまず駆け寄った。

 

「久しぶりだな、エアグルーヴ」

「貴様か……随分と調子が良いらしいが、所詮は雑魚相手に稼いだ勝ち星だろう」

「そういう君は前走GIIで取りこぼしたらしいな? 愛嬌あっていいじゃないか」

 

 ふふふ、ははは、と目ん玉ギラギラ眼光を飛ばしあいながら軽くジャブを放つ。

 今日の1番人気と2番人気は俺とエアグルーヴで分け合っているはずだ。ファンたちも牡馬と牝馬のトップが激突するのを楽しみにしているはず――おや?

 電光掲示板には俺の単勝オッズが2.2倍で1番人気となっているが、2番人気にはエアグルーヴ、ではなくサイレンススズカという馬名が表示されていた。

 単勝オッズ3.0倍と俺とそう変わらないオッズだ。エアグルーヴは4.3倍で3番人気、4番人気はメジロブライトで5.2倍となっていた。

 

「サイレンススズカ……」

 

 そういえば、去年の天皇賞・秋で見事な大逃げをかましていた馬が彼だと思い出した。

 戦績こそわからないが、去年の走りはスピードにまかせて走っている典型的な逃げ馬という感じで、強さは感じなかった。

 そんなサイレンススズカが2番人気。

 今回のメンバーは豪華の一言。

 俺とエアグルーヴは当然、去年の有馬記念を制したシルクジャスティスにそのライバルたるメジロブライト、牝馬2冠のメジロドーベル、天皇賞・春では3着のステイゴールドなどなど、好メンバーが揃っている。

 その中で2番人気として評価されるということはそれだけの実績を積み重ねてきたということ。

 

「エアグルーヴ。サイレンススズカを知っているか?」

「……先生から聞いているのは重賞を連勝して宝塚記念に挑んできたということくらいか」

 

 普段なら自分で競馬新聞を読むが、今回は調教に必死になるあまり、走ったことがない相手の情報は全然集めていなかった。

 だが重賞を連勝しただけで宝塚記念でここまで人気になるものだろうか。

 彼は緑のメンコをしていて、馬体を見ると迫力に欠けた小柄こそ目立つものの、確かに筋肉の付き方や歩き方には品があってスマートだ。

 

「……まぐれで勝ってきた馬ではないな」

「怖気付いたのか?」

「事実を言ったまでだ。まぐれじゃないのは俺も同じ。勝つさ。サイレンススズカにも、エアグルーヴにも」

 

 サイレンススズカは逃げ馬らしいが、同じ逃げ馬の筋肉質で大柄な俺と比べたら対照的で、パドックを見るファンたちも同じような感想を口にしている。

 

「グレートエスケープかサイレンススズカか、どっちかが勝つと思うぜ。逃げ馬の頂上決戦だ」

「王者グレートエスケープに挑むサイレンススズカって感じだな……結局何連勝してたんだっけ?」

「4連勝……重賞は中山記念、小倉大賞典、金鯱賞で3連勝中だ。前走は2着に大差をつけて勝ったし、これはわからないぞ」

 

 重賞3連勝か……俺は2連勝してるし、GI含んでるし、負けてないけど?

 といったふうに張り合いたい気持ちもあるが俺はあくまで年長にして王者。

 それに相応しい振る舞いをしなくては。

 俺はサイレンススズカに偵察がてら声をかけた。

 

「やぁ、サイレンススズカ。俺の名前はグレートエスケープ。今日はいいレースにしような」

「……」

「……」

「……」

 

 立ち止まっているから無視している訳では無いようだが、反応もない。

 しばらく待っていると彼は口をようやく開いた。

 

「それだけ……ですか」

「えっ? ああ、うん……」

「他の馬に興味ないので。それでは」

 

 ぽかんと口を開ける。

 俺は隣のエアグルーヴに向き直った。

 

「ひょっとして俺無視された!?」

「知るか、たわけ!」

 

 しかしあの目は――何も映していなかった。

 レースをするのではなく、走るのをただ待っているだけで戦う者の目ではない。

 ……いや、本来サラブレッドということを考えたらそれは当たり前のはずというか、おかしなことではないのだが。

 サイレンススズカは逃げで勝利してきたという。自分のレースさえすれば負けない、そして周囲の馬は関係ないのだろうか。

 

「ま、まぁ、俺は今や現役最強の王者だし? この程度のことで焦れ込む(キレる)俺じゃあないですから。焦れ込んで(キレて)ないっすよ。僕をキレさせたら大したもんですよ」

「誰に言っているんだお前は……」

 

 周回が終わり、騎手や馬主、調教師がそれぞれの馬の元へ向かう。

 パドックにいるファンたちも上半期を締めくくる宝塚記念の発走が近づくと馬券を買いに行く者、パドックでそのまま騎手や調教師を見る者に別れ始める。

 夏といって差し支えない気候で、今まさに灼熱のグランプリレースが始まろうとしていた。

 ケンちゃんと黒井先生がやってくる。厩務員の西京さんの肩を借りてケンちゃんが背中に乗ると、思わず笑みが零れた。

 やっぱりケンちゃんじゃなくっちゃあな。

 

「グレ坊。勝つぞ」

「健二、男になってこい」

「ウイッス! ……勝てば凱旋門賞ですか?」

「アホンダラ。お前はゴールまで必死に乗ってればええんや」

 

 競走馬たちに騎手が跨るとレース場の雰囲気がいよいよ盛り上がり始めた。

 ファンたちは口々に騎手に声援や野次を投げかけている。

 

「グレくん」

「恵那ちゃん……また来てくれたんだね」

 

 忙しいだろうに天皇賞に引き続き、来てくれてとても嬉しい。

 なんでも、色々勉強中とか準備中だとか。

 

「今……私もグレくんのために頑張ってるんだ。お姉ちゃ……姉さんのようにはできないかもしれないけど、私は私らしく頑張るから……グレくんも、勝って!」

「もちろんだぜ……」

 

 俺は彼女に答えるように頭を一度だけ上下させた。

 

「グレートエスケープ……頷いてるように見えるなぁ」

「賢いことで有名だし、本当にわかってるのかも」

「それにしても馬主の人……可憐だ……」

 

 一部の観客がこちらに気づいて、なにか反応しようか考えたが、それは俺の仕事ではない。

 彼らを一番楽しませるのは、俺が宝塚記念で勝つこと。

 それだけだ。

 返し馬にてスタート地点まで走る中で大歓声が俺を出迎えた。

 輪乗りしている中ではサイレンススズカもいたが、俺が近づいても特に気にした素振りは見せなかった。

 

「周りなんて眼中にないって感じだけど……随分自信があるらしいな」

「……」

「……」

「……」

「……」

 

 こいつの名前はこの大人しさから来ているのか?

 サイレンススズカはしばらく沈黙を保ってからようやく言葉を返した。

 

「別に……誰が相手でも、やることは変わらないですから」

「確かに速いらしいが、GⅠレースはそんなに甘くないぞ。俺も負けるつもりはない」

「……」

「……」

「…………」

「いい加減何か言えよ」

 

 サイレンススズカは俺に一瞥をくれることなくあっさりと、それでいて鮮やかな切り返しを見せた。

 

「貴方には無理だと思う」

 

 ちょうど、輪乗りが終わりゲート入りが始まる。

 他の馬が先にゲートの前へ行く中、俺は立ち尽くしていた。

 サンデーサイレンス産駒に頭がおかしいやつはたくさんいたが……初めてだ。この俺をここまでコケにしたおバカさんは。

 ゲート入りは既に半分ほどが終わり、俺が大外の8枠14番ゲートへ誘導される。が、ゲートには入らない。

 

『おっと、大外14番グレートエスケープ、ちょっとゲート入りを嫌がっています。ちょっと珍しい光景ですね』

 

 ふー。ふーっ……。よし、精神統一完了!

 怒ってない。俺は怒ってない。王者の精神で粛々と、それでいて危なげなく勝利するだけのこと。

 

『収まりました14番グレートエスケープ……メジロブライトは先程ゲート内で立ち上がったため外枠発走となっています。貴方の夢、私の夢が走ります。大歓声を背に受けて宝塚記念――今スタートです』

 

 ゲートが開くと同時にいつも通りハナを目指して加速する。

 その一つ内側からサイレンススズカがそれ以上の加速で前へ走っていく。

 

「速いな……」

 

 ケンちゃんが手綱を抑え、俺はそれに従いサイレンススズカを見ながら内側へ進路をとる。

 

「お、男の馬……!」

「宝塚記念だもの、そりゃあそうだろう」

 

 インコースから先行したメジロドーベルに一言飛ばしながら2番手につける。

 正面スタンド前を通り、第2コーナーへ入る頃にはサイレンススズカは2馬身ほど前にいた。

 俺はその次につけて、集団グループの先頭でレースを進める。

 逃げるサイレンススズカは結構なペースで飛ばしており、馬群も徐々に縦長になっていく。

 最初の1000m地点を通過したのは当然サイレンススズカ、そのころには集団に対して5馬身以上離して逃げていた。

 

「58……俺たちは59秒台くらいか」

 

 ケンちゃんが呟く。

 わき目もふらず駆けつつも、視線の先には快調に飛ばしているサイレンススズカが映っている。

 1000mを58秒台――マイル、いや1800mのレースのペースだろうか。

 宝塚記念でそのペースは明らかに速い。

 あいつは直線前にバテるだろう。

 問題は後方にいるであろうエアグルーヴ、メジロブライト、シルクジャスティス、メジロドーベルといった有力馬たち。

 3コーナーへ差し掛かると同時に、ペースを上げる。

 後続馬たちも俺に合わせてペースをあげて、馬群が一塊になってサイレンススズカへと詰め寄った。

 徐々にサイレンススズカとの差が縮まる。

 当然だ。1800mのレースならともかく、そのペースで2200mを逃げ切れるわけがない。

 俺が第4コーナーでサイレンススズカの後ろにつけると歓声がドッと上がった。

 ――捉えた。

 ケンちゃんならここで鞭を入れるはず。俺は手前を変え、スパートするタイミングを併せようとしたそのとき、声が聞こえた。

 

「――一回、ペースを落として溜めるって……走りにくいな」

 

 そして次の瞬間には、元々小柄なサイレンススズカの馬体が、小さくなっていた。

 

「な……まだそんな余力が――!?」

 

 一瞬、鞭が入るのが遅れた。

 だが問題ない。ケンちゃんの指示に従い、スパートをかけてサイレンススズカに詰め寄る。

 第4コーナー手前から直線までの間に息を入れたというのか。

 だとしても、まだこの速度を叩きだせるはずがなかった。あの速度は明らかにオーバーペースで――

 サイレンススズカがじわりと俺を引き離していく。

 

(まさか。まさか、そんな……)

 

 まだたっぷり余力があるサイレンススズカは涼しい顔をして走っている。

 オーバーペースだと思っていたがその姿を見て、今更になって俺が読み違えていたことに気が付いた。

 サイレンススズカにとって、前半1000mを58秒台で走ることはハイペースでもなんでもなく、あいつにとって普通の、ミドルペースだったのだと。

 スタミナがあるからではなく、純粋にサイレンススズカの脚が速いが故に。

 直線に入るより速く俺はスパートをかけて奴を追った。

 しかし追いつけない。

 仕掛けどころを誤ったという話ではなく、ただスピード能力がまるで違うのだと、絶望的なまでに理解させられた。

 

「まだだ、まだだぁぁぁぁっ!」

 

 約束したんだ。

 ケンちゃんと、恵那ちゃんと、みんなに、必ず勝つと。

 王者としての振る舞いなんてどうでもいい。というか、元からそんなキャラじゃなかったんだ。我武者羅に、必死に、勝利を求めて走るのが俺の走りで。

 そして勝つことが俺の誓いのはず。

 だというのに、そんな根性論を一笑に付すかのように、サイレンススズカは残酷なまでに速かった。

 何故だ。

 持って生まれた才能ってやつか。

 それとも、血脈に受け継がれてきた能力ってやつか。

 骨格や血統から生み出されるスピードの絶対値が俺には決して届かない、だとしても――諦める理由になりはしない!

 

「サイレンス――スズカぁーッ!」

 

 差が詰まる。

 阪神競馬場最後の坂に差し掛かったところで再び差が縮まり、サイレンススズカの影を捉えた。

 

「――!」

 

 緑のメンコで見えないが、サイレンススズカが驚きの素振りを露わにしたような気がした。

 初めて俺を見たな。

 いい気味だ。

 これまで何度も感じていたが、俺にスピードという才能はない。

 もちろん、スタミナやパワーは恵まれているだろうが、最後には一番前でゴールしなければいけない以上、スピードは絶対に必要だ。

 

「それでも俺は――勝つ! 才能があろうが、なかろうが、勝つのは俺だ!戦いに臨んだなら、それだけが正義だ!」

「だとしても――関係ない。もう、僕の前には誰も走らせない!」

 

 サイレンススズカから熱気のように、気迫が伝わってくる。

 カマトトぶっていようとこいつもまた競走馬であり、勝利に対する闘争心を備えていた。

 残り100mで半馬身にまで並ぶ。

 このままなら差し切れる、あと少しで――そう思った瞬間が、ゴールだった。

 乱れた息で走り切ったスピードを落としながら走る。

 入線後に俺は受け止めていた。紛れもない全力を出して追いすがり、負けたことを。

 差はクビ差か、半馬身差だったが、その差には言葉では言い表せないほど隔たりがあるように感じた。

 だというのに――身体が熱い。

 夏に行われるグランプリレースで、俺は負けてなお、心を燃やしていた。

 

「……グレートエスケープ、さん」

 

 俺より半馬身先にゴールしたサイレンススズカが歩み寄ってきた。

 どこかバツが悪そうにしながら、「あの、その……」と言い淀んでいる。

 息を整えながら、俺は悔しさを隠して「どうした?」と聞いた。

 

「グレートエスケープさんの走り……すごかったです。レース前に……なんか……変なこと言って……ごめんなさい」

 

 レース後で疲れている以外にも、ちょっとしょんぼりしているように見えた。

 高慢ちきな奴だとレース前は思いもしたが、大人しい姿を見るとどちらかというと世間知らずなおぼっちゃんのような気性にも感じた。

 悔しいし腹が立ったのは事実だが何も心の底から憎んだわけではない。

 俺は気にするな、と答えた。

 

「それにしても、スズカは速かったなぁ。いや……本当に、悔しい。けど……次は負けない」

「それは……僕だって、次も逃げ切ってみせます」

「ああ、楽しみにしている!」

 

 スズカは勝者が進むウイニングランへ、敗者たる俺は検量室へ歩みを進めた。

 エアグルーヴだけじゃない、サイレンススズカ――あいつもまた、俺のライバルに違いなかった。

 心には苦々しい敗北の味が広がっているが、不思議と爽やかな気分だった。

 常勝無敗というのも苦しいものだろうが、それ以上に気持ちのいいものだと思う。

 しかし勝って、負けて、そしてまた勝つ。

 それを繰り返していくのが俺らしいといえば俺らしいのだろう。

 

「グレートエスケープ」

「おぉ、エアグルーヴ……今日はライバル対決とはいかなかったな」

「……そう、だな」

 

 エアグルーヴの歯切れが悪い。

 いつもこちらを怒るような、堅苦しい委員長気質な彼女とはかけ離れていた。

 

「どうした、エアグルーヴ」

「貴様は……直線では、何を考えていた?」

「……勝ちたい、としか」

「お前はそうだろうな。だが私は……くっ……また会おう……!」

 

 エアグルーヴは悔しさを滲ませながら競馬場を後にする。

 彼女が心配な反面、ライバルたるエアグルーヴに下手な慰めや声掛けは却って失礼な気がして、背中を見送った。

 

「はぁー……勝てなかったか」

 

 ケンちゃんがため息をつく。

 とてつもなく重いため息だったが、あくまで2着。次勝つしかないだろう、と言おうとしたところで気づいた。

 ――ケンちゃん、次も乗ってくれるのか……?

 

 

 

 ×××

 

 

 

 宝塚記念――最後の直線でグレートエスケープはサイレンススズカを捉えることができなかった。

 

「くそっ……!」

 

 膝に手をつき息を荒くする。

 サイレンススズカとエアグルーヴと1着を争ったが彼女は勝利することは出来なかった。

 

 グレートエスケープ……。

 

 声をかけると、彼女は滝のように流れる汗を拭って笑った。

 

「スズカも、エアグルーヴも速い。目を奪われるほどに鮮烈で……観客たちも、彼女らの走りに魅せられている」

 

 言葉とは裏腹に、グレートエスケープの笑顔は力強いものだった。

 

「相棒。私は負けたのに……楽しいんだ。負けたことは悔しい。今にも壁を殴りつけたいほどだ。だが、彼女たちの走りに魅せられもしたのだろう……共に走ることが楽しかった」

 

 敗北でここまで爽やかな表情をするグレートエスケープは初めて見た。

 今日の走りも決して悪いものではなかった。

 心身の状態は間違いなく良いのだろう。

 

 次は天皇賞・秋を走ろう。

 

「理由は?」

 

 エアグルーヴも、サイレンススズカも出てくる舞台だからだ。夏合宿で実力を高めて、全力で天皇賞に臨みたい。

 王道たる中距離で勝ち、彼女の目指す最強へ至るために。

 

「そうだな。ああ、それでこそ私だろう。ファンの夢、相棒の夢、そして私の夢。すべてをあの二人に、ライバルにぶつけたい」

 

 グレートエスケープは拳をパンと手のひらに叩きつけた。

 

「サイレンススズカもエアグルーヴも、心技体すべてを賭けなければ勝てない相手だが――相棒。ワクワクするだろう? 最強への道が、見えてきたのだから」

 

 その通りだ。

 グレートエスケープこそが最強のウマ娘になれると信じるからこそ、心躍り、昂る。

 次こそは天皇賞・秋で勝利しようと、グレートエスケープと誓い合った。

 

 目標達成!

 宝塚記念で3着以内

 

 Next

 天皇賞・秋で1着

 




〇競走馬ワールド
・グレートエスケープの血統表

【挿絵表示】


・グレートエスケープの出身、懇備弐牧場の歴史
XX50年頃 牛などの牧場を経営していた懇備弐牧場を継いだ天長(アマナガ)牧場長が若気の至りで馬産に手を出す。

XX60年頃 息子のコンビニアルバイトの伝手で引き取った牝馬シナダシに、とりあえず当時リーディングサイアーのライジングフレームを種付けする。そのため牧場全体の経営が傾く。産まれた牝馬ヤトワレはそれなりの価格でセリで売れる。

XX70年頃 ヤトワレの孫の牝馬に一攫千金を夢見て当時のリーディングサイアーのネヴァービートを種付けさせる。思ったよりセリで価格がつかず、牧場長の土下座により牛などを売り払うことになる。なぜ馬から手放さなかったのか、当座の天長牧場長は「ネヴァービートの子供、パートタイマーは良い子供を出すからまた稼げると思った」と。嫁と子供に逃げられる。

XX80年後半 シンボリルドルフのシンジケートを手に入れ、パートタイマーにシンボリルドルフを付ける。これでダメなら牧場は終わりだと宣言したところ、セリではそれなりに売れてシルバーパートもそれなりに長く走って賞金を稼いだ。しかしプラスマイナスゼロになった程度であり、火の車は継続中

XX93年 シルバーパートの93誕生。後のグレートエスケープである。新規馬主の橘馬奈氏が一目惚れして購入。高めに取引を持ちかけたら1.5倍で購入される。それ以来、懇備弐牧場で橘オーナーは聖母マリアの如く敬われている。

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