名バ列伝『グレートエスケープ』【完結】   作:伊良部ビガロ

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なんやかんやで遅くなって許してください!
そして感想ありがとうございます!もっと頑張ります!




第28話 それでも手を伸ばす星の名は

『妥当サイレンススズカ!エアグルーヴ!』

「……書き間違えた」

 

 私は合宿所に来るやいなや、荷物を置くと一筆したためた。

 しかし漢字をうっかり間違えたのでもう一枚書き直す。

 できた半紙を乾かしてから、掲げた。

 

「打倒サイレンススズカ! エアグルーヴ!」

 

 声に出してから、自分の布団の枕の上に乗せた。

 トレセン学園の合宿所は広いとはいえ流石に全員に個室を与えることは不可能だ。トレセン学園の寮ですら相部屋なのだし。

 そういうわけで基本は大部屋に雑魚寝なのだが、意外と嫌いではなかったりする。

 新鮮な刺激というものは大切だ。

 私はこの合宿で万全に仕上げて天皇賞・秋へ臨みたいと思う。

 相棒と話したのは、徹底的な基礎トレーニング、フィジカルトレーニングを積むということ。

 相棒曰く、

 

 グレートエスケープは戦術や駆け引きが強いが、それを活かすには素の身体能力が高いことが必要となる。新たな作戦などではなく、純粋に基礎能力であるスピード、パワーを鍛えることを目標にしよう。

 

 とのことで。

 相棒との時間は身体能力に合わせたより効率のいいフォームの調整、それ以外は徹底的に基礎トレーニングという進め方になった。

 そして私は今、競泳水着を着て砂浜にいる。

 じりじり照りつける太陽、そして海から吹いてくる潮風がなんとも気持ちいい。

 

「というわけですが……本当にいいのか、ライアン。君もトレーニングがあるだろう」

「気にしないでエッちゃん。今日はみんな、筋肉を鍛えたい人が集まっているんだから」

 

 今回はメジロライアンに筋トレの協力を得ることにした。ただ、色んな意見も聞きたいと考え、パワー自慢のウマ娘を訪ねたところ、ほかのウマ娘からの協力も得られた。

 

「集団で筋力増強訓練を行うことで互いにフォームの確認や、セット量の増加も行うことができます。メリットがあるのですから、積極的に行うべきかと」

 

 淡々と語るのはミホノブルボン。

 

「当然、馴れ合いになっては意味がない。互いを切磋琢磨する関係でなくてはな。もちろん、筋力トレーニングにも理論は必要だ。効率よく行っていこう」

 

 理路整然と語るのがビワハヤヒデ。

 そして――

 

「私はあまり協力出来ないかもしれないが……いいのか? 言葉にするのは苦手だし……」

「構いませんよ、オグリ先輩。やはり、目標に足る人のトレーニングに付き合うのもいい刺激になるだろう。是非ともトレーニング姿を見せてもらえると嬉しい」

「それはそれで恥ずかしいが……努力しよう」

 

 ――芦毛の怪物、オグリキャップ。

 規格外な彼女はまさに最強の名に相応しいウマ娘だ。

 是非ともトレーニングを共にして、自らもその領域へ足を踏み入れたい。

 

「早速だけど、始めていこうか。みんなよろしく!」

 

 お互いによろしくお願いしますという声をかけ合う。

 仕切るのはライアンでも、ここでは先生も生徒もなく、筋トレ仲間だ。

 ライアンの指示に従い、まずは砂浜に膝をつく。

 

「筋肉体操第1パート。大切なのは脚だよね! まずは脚のトレーニングの王道、スクワットをするよ! スクワットは筋トレの王様、スクワットを制することはGIレースを制することにも繋がるから、頑張ろう!」

「そんなこと聞いたことないが、頼む」

 

 ライアンが見本を見せる。

 まずはフォームから、というわけで見様見真似で繰り返し行う。

 全員問題なくできるのを確認するとライアンは後ろから荷物を何かを引っ張り出した。

 

「まずは軽く、バーベル140kgを持ってスクワットを10×3セットから始めよう!」

「承知しました。ミッション、バーベルスクワット。開始します」

「いい負荷量だ。パワーがあれば加速能力も高くなる。下半身を鍛えていくとしよう」

「わかった……細かいことは分からないが、やっていこう」

「本当にこの重さから行くのかね? ……いや、何も言うまい。はぁっ……!」

 

 どこが軽くなのかさっぱりわからなかったが、バーベルを持ち上げる。

 トレーニングを続ける中で私は大腿四頭筋が真っ先に悲鳴を上げるのを確かに聞いた。

 

「筋肉が喜んでる! 筋肉が喜んでる証拠だよ! エッちゃん笑って! 筋肉も笑ってくれるから!」

 

 既に笑っている。痙攣という名の大爆笑だ。

 そんな反論をしようにも、トレーニングがきつくて言葉にできない。

 2セットが終わり、3セット目も終わりに差しかかるタイミング。

 

「エッちゃん声出てないよ! ほら! 大きな声で! お・お・き・な・こ・え・で!」

「ぐぐぐ……は、はちぃぃ………!」

「はちみー……?」

「オグリ先輩が突然ペースアップを!?」

「ほう、はちみーか……大したものだな。はちみーには様々な栄養素が含まれており、特にレモンのはちみつ漬けなどはトレーニングや競技のプレイ中にはとても効率のいい栄養補給になる」

「はちみーはレース中に摂取することでスタミナ回復が可能……三冠ウマ娘ミッション成功のためインプットしました」

 

 ツッコミ役がいない!?

 私は筋トレのような、コツコツ積み重ねることは決して嫌いではない。むしろ好きだとすらいえる。

 だがつらいものはつらい。

 筋肉が狂ったように笑っている、私も変な笑いが出てきそうだ。

 

「はい9!」

「きゅ、うぅぅぅぅ……!」

「もう1回9!」

「ふえっ!? な、なんでぇ!?」

「ほらまだ9回! レッツマッスル! 本物の筋肉は逆境を乗り越えないと育たないよエッちゃん!」

「う、ぐ……きゅうぅぅぅぅ……!」

「もう1回オマケに9!」

「ぎゅ、も、もうむりだよライアンっ! むり、やだ! もうげんかいっ……むりっ……だめぇ……」

「現象、キャラ崩壊を確認。素のグレートエスケープさんは俗にいう女の子、という性格の認識をしました」

「グレも可愛い声を出すんだな……なんだか意外だ」

「ふっ、あざとい、ともとれるかもしれんな」

 

 バーベルを持ちあげながら私は叫んだ。

 

「ちくしょう君たち覚えておけよあとで!!」

「忘れません。とても面白いものを見た、マスターに報告するので」

「ああ、忘れない。そんなグレも素敵だぞ」

「悪ぶっていても、ブライアンが時々昔のように振る舞うのと同じだ……懐かしさすら覚える」

 

 こいつら……!

 私は先輩であることすら忘れてバーベルを持ち上げる。

 怒りで少しだけパワーが湧いてきたかもしれない。

 このあとバーベルスクワットは、ライアンの「もう1回9だよ!」の声を7回聞いて、ようやく1つ目のトレーニングを終えた。

 

「準備運動は終わり! どうかなエッちゃん、大腿四頭筋の声を聞いてあげて?」

「……」

 

 私は太ももをそっと撫でた。

 

『艦長! この艦はもう限界です!』

『総員……脱出の準備をしろ』

『了解! 総員脱出用意、総員脱出用意! 艦長は……?』

『私はこの艦と……運命を、共にする……』

 

 筋肉が痙攣して今にも轟沈寸前だ。

 私は伏し目がちにライアンへ視線を向けてから、小さく首を振った。

 

「じゃあまだ足りてないね! 大丈夫、落ち込まないで!」

 

 肩を叩くライアンの笑顔は、それはそれは笑顔であった。

 筋トレを楽しむ人達はマゾヒストの気があるんじゃないかと常々思っていたが、この姿を見ているとサディストの気もあるのではないか。

 私はそう思いながらも、勝利を想い、筋トレ地獄に身を投げ出すのであった。

 そして合宿一日目の筋トレメニューを終えて――今度はビワハヤヒデとオグリキャップからの簡単な講義が始まる。

 

「夕食の前に大切なことを伝えておこう。筋肉はタンパク質から作られる。つまり、食事を疎かにしていてはいくらトレーニングをしたところで望んだ成果は得られないということだ。そしてタンパク質は筋トレをしてから1~2時間以内に摂取することで効率よく吸収される。つまり、大切なのは多少辛かろうが食べること!」

「理屈っぽいわりに精神論少し入ったな……だが言っている意味はわかる。確かにあまり脂物を食べるのは体に良くなさそうだ」

 

 脂物、大好きだけど。

 合宿の間は特に我慢しなければなるまい。

 

「そこで……炭酸抜きコーラだ」

「……ビワハヤヒデ。君、それがやりたいだけだろう……」

「否定はしない」

「読んだだろう。……刃〇」

「ふふふ……面白かった」

「〇牙理論で筋トレはできないだろう……それはともかく、栄養が大切というのはよくわかった。いわゆる低カロリー高タンパクの食品や、運動に充分な量の炭水化物を摂取する必要があるのだろう? ではなぜオグリキャップが出てくるのだ」

 

 ビワハヤヒデはメガネをクイッと持ち上げた。

 レンズに光が反射して瞳が見えなくなり、表情がわからなくなる。

 

「君にはオグリキャップと大食い競争をしてもらう」

「……今私に、とんでもない指令が下されたようだが……?」

「大食い競走だ。ただ食べるだけでは満腹になれば食べなくなる。だが、沢山食べるにはそれだけでは足りないのだ。限界を超えて栄養を摂取し、血肉に変えることこそが大切だ」

「……本当に、やるのかね?」

「できないなら無理にとは」

「やるに決まっているだろう、できるとも!」

「ではレッスン2……大盛り肉増し激辛カレー大食い対決、スタートだ!」

「うおおおお!」

「おいしい……」

 

 ウマ娘のレースは意地と意地のぶつかり合い。

 努力と才能を絞り尽くした先に初めて栄光を掴むことが出来る過酷な舞台。

 全てをぶつけるレースに勝ちたいのなら、大食いくらい相手に勝てなくては、どうすることもできまい。

 

「勝負だァァァァ!」

「おかわり……美味しいな、このカレーは!」

 

 オグリキャップなにするものぞ!

 一杯目を食べ終えて横をちら、と見るとオグリキャップはまだ半分しか食べ終えていない。

 この勝負――いける!

 

 

 

 私は合宿所の壁にもたれかかっていた。

 

「エッちゃん大丈夫……? 苦しくない?」

「平気ですナーさん……うぷ」

 

 傍で甲斐甲斐しくお世話してくれているのはナーさんことダンスパートナーさん。

 お腹が今にも爆発してしまいそうなほど苦しくて、すっかりグロッキーになってしまっていた。

 

「もうオグリキャップと大食い対決なんてしない……ああ……誰だ……川の向こうで……え……あれは、たちば」

「エッちゃん、目を開けて! そんなに食べたあとに寝たら牛になっちゃうよ! というか逆流性食道炎等によって癌になりやすくなっちゃうよ!」

 

 そう聞いてスっと目を覚ます。

 流石に大病にかかりたくはない。私はしばらく座りながら、ナーさんの傍でのんびり過ごすことにした。

 

「……やっぱりナーさんの隣は落ち着くな」

「そうかな? ありがとう」

 

 結局、夜までナーさんにもたれかかりながら、ゆっくり休んでいた。

 

 次の日からも筋トレ、食事、筋トレ、食事を繰り返し、そして週に一度はフォームを確認する作業を相棒と繰り返した。

 すべては天皇賞・秋で勝利するために。

 真夏の合宿所で、今日も私は砂浜を駆けるのだった。

 

 

 

 ×××

 

 

 

 宝塚記念は2着に終わり、放牧されるまで数日というある日のこと。

 馬房から少し離れた事務所で恵那ちゃんと黒井先生が話し合っている。

 俺は飼料を食べながら、その会話に耳を傾けていた。

 

「えっと……その、凱旋門賞っていう……世界一の馬を決める戦いにグレートエスケープを出す予定だったんですよね」

「ええ。今もそれは決まっていませんが……正直悩んでいます」

「なにか問題が……お金のことでしたら、グレートエスケープ自身が稼いだお金があるので大丈夫だと思うんですけど」

「私は宝塚記念を快勝して日本に敵はなし、前哨戦を使わず満を持して凱旋門賞へ! ……と考えていました。しかし、サイレンススズカという馬に負けてしまった。あの馬は間違いなく歴代でも最強に数えられるであろう馬です。その馬に負けたまま凱旋門賞へ行っていいのか。そこを考えています」

「わ、私はその強さとかはわからないんですけど……勝てる確証がないということですか?」

「そこはどんなレースもそうです。ただ、やはりグレートエスケープには最強馬という称号で凱旋門賞へ行ってもらいたい気持ちがあるんです。そこで成績を残して、いい状態で種牡馬になってもらいたいんです。そこでなんですが……」

 

 黒井先生はそこまで俺のことを考えてくれていたのか。とても嬉しい。それと同時に、サイレンススズカに勝てなかったことが悔やまれる。

 もし凱旋門賞へ行けば秋の天皇賞には出られないだろう。

 そうなればジャパンカップ……とはいえ、スズカがジャパンカップに出るかどうかは距離適性の問題で少しわからない。

 再戦の機会はもうないかもしれない……それに、エアグルーヴとだってまだ決着がついたと思ってない。

 むむむ……なんだか自分の心の整理を上手く付けられないぞ。

 俺が悩んでいる間も、二人の話は進んでいく。

 

「札幌記念を走ってから決めたいと思います。そこで勝てば凱旋門賞へ行き、負けるようであれば天皇賞・秋に行きます」

「ええっと……札幌記念が、いいんですね?」

「芝が洋芝で欧州の競馬場に少し似ているんです。そして別定戦といって、GIを勝っているグレ坊の斤量は少し重くなります。欧州では斤量が多めに課されるので……」

「欧州の条件に近くなるということですか……」

「そして最後に……エアグルーヴが札幌記念に出走するからです」

「えっと、女の子なのに天皇賞・秋を勝ったすごい馬ですよね」

「ええ。エアグルーヴに勝てるのであれば、文句無しに凱旋門賞へ行けると思います。負けるようであれば……サイレンススズカやエアグルーヴと、秋と冬に国内で決着をつけます」

 

 つまり、今後を占う決戦の舞台は――札幌競馬場!

 

「……ところで、凱旋門賞の前に札幌記念を経由するのはよくあることなんですか?」

「10年もすれば当たり前になってくると思います」

 

 黒井先生が言うと本当に聞こえるから困る。

 

 

 

 札幌競馬場で行われる重賞レースで最も格式が高いのはGIIである札幌記念だ。

 去年GIIIからGIIに昇格し、夏競馬で唯一のGII競走となった。また、ハンデ戦から別定になることでより強い馬たちがタイトルを狙いにくるようになった。

 一昨年は後に宝塚記念を制したマーベラスサンデー、去年はいわずとしれたエアグルーヴと皐月賞馬のジェニュインが参戦するなど少しずつスーパーGIIの様相を呈してきている。

 まさに真夏の中距離最強馬決定戦とすらいえる戦いに、俺は臨むことになった。

 それより先にエアグルーヴ陣営が札幌記念参戦を表明しており、スポーツ新聞はエアグルーヴの札幌記念連覇を目指すことを報道。

 遅れて俺たちの陣営が札幌記念をステップに凱旋門賞へ挑むことを発表したものだから、競馬サークルは大騒ぎだった。

 

「『現役最強となったグレートエスケープが海外へ飛び立つのか、最強牝馬エアグルーヴが夢を砕くのか』ねぇ」

 

 新聞を読みながら俺は馬房の中で体を震わせた。

 サイレンススズカに勝ててない状態で最強もなにもあるのか、というのが本音だがマスコミは見出しを大切にする。

 それがあるから仕方ないのだろうが、やはり周りの評判は俺とエアグルーヴの実績ありきで語られていた。

 

「『札幌記念は別定のためエアグルーヴには58kg、グレートエスケープには59kgの斤量が課される』……凱旋門賞ではもっと背負うし、エアグルーヴも同じくらい背負ってるからな。言い訳にはならないな」

 

 既に札幌競馬場へ入厩しており、体勢は万全。

 凱旋門賞は確かにたどり着きたい栄光だ。しかし、それより前に挑むべき相手がいる。

 せめてエアグルーヴとだけでも決着をつけてから、世界へ飛び立ちたい。

 

「グレ……時間だ」

 

 西京さんが俺を呼ぶ。

 彼に引かれるがままパドックへ出ると、既にたくさんのお客さんがいて、俺を見るなり感嘆の声が上がった。

 俺は大外の8枠13番で最後尾。

 前の方にはエアグルーヴが見事な歩様で歩みを進めていた。

 エアグルーヴに俺は近づいた。

 

「よぅ、エアグルーヴ」

「……何の用だ。私に何か言うことでもあるのか?」

「あるに決まっているだろう。ライバルだと思ってるんだからな、俺は」

「……! なにが、ライバルだ……」

 

 そう吐き捨てるエアグルーヴには馬体の見事さほどの覇気を感じられなかった。

 俺をバカにしているというよりは、自嘲によるセリフらしかった。

 

「宝塚記念ではあれだけ大言壮語しておきながら、完敗した。サイレンススズカと貴様の戦いを遥か後方から見ているだけだった」

「……そうだったな」

「最初は……貴様のことは見下していた。ダービーを制したとはいえ、所詮は既に燃え尽きた馬だと。しかしジャパンカップでは敗北し、有馬記念でも競られ、そして春の天皇賞は貴様が勝利した。気づけば同等どころから私よりも格上だった。だというのに私は……まるで道化だ」

 

 しょんぼりと耳を垂らしながらエアグルーヴは落ち込んでいる。

 最初こそ心配だったが聞いてるうちに腹が立ってきた。

 こっちはエアグルーヴと全力で走ることを楽しみにしていたのに、彼女は勝手に走る前から折れてしまっている。

 

「エアグルーヴ」

 

 ずいっと詰め寄るとエアグルーヴの担当厩務員が慌て出すが、俺に暴れる気配がないとわかると慎重に引き離そうと手綱を引く。

 しかしエアグルーヴは動くことなく俺をじっと見つめていた。

 

「俺は去年の秋の天皇賞で惨敗した。バブルガムフェローと争うお前の姿は今も覚えている……その後のジャパンカップ、有馬記念、どれもそうだ」

 

 俺にとってライバルといえる競走馬は多くいた。

 ダンスインザダークに始まり、ロイヤルタッチやイシノサンデー、バブルガムフェローたち同期。シングスピールにエリシオ、ピルサドスキーといった海外馬たち。マヤノトップガン、サクラローレル、マーベラスサンデー……年上三強。

 イシノサンデーすら今年の安田記念後に屈腱炎を発症し、引退した今、いずれも再戦が叶わぬ猛者ばかりだ。

 そして今はサイレンススズカと……エアグルーヴと走って勝ちたいと思っている。

 今年で俺は5歳、サラブレッドであれば怪我がなくても引退することだってある年齢で競走馬としての時間はそう多くない。

 無駄なレースは一戦もないのだ。

 

「エアグルーヴ……お前はあの走りで俺の目を奪ったんだ。あれから俺はお前を追い続けてきた……追い続けてきたから、まだGIで勝敗を争い、GIIではスターホースとして迎えられているとすら思っている」

 

 最初は一言言ってやろう、くらいのつもりだったのに、段々と言葉が胸から溢れて止まらなくなってくる。

 自分でもこんな語るほどの想いがあったことに驚いていた。

 

「それなのに、今のお前はなんだ。惨敗したから道化のようだと? だからなんだというんだ……しかも掲示板にはきっちり入ってるだろ。その程度でウジウジしてるんじゃあない! 俺はお前の走りが好きだ! そしてそれを打ち負かしたいと思っている! もう一度俺に、あのときの走りを見せてみろよ!」

「ぐ……貴様……こちらが黙っていれば……勝手なことを……! 言うに事欠いて私が好きだと……?」

「うん? いや、俺は走りが……」

「貴様と違い、私には選び抜かれた優秀な父の精、母の血が流れている! 貴様のような何処の馬の骨とも知れない者など本来触れることすらできんのだ!」

「ちょ、ちょっと待ってくれ」

「そこまで私が欲しいというのなら……今日のレースで証明してみせろ! そこで力を見せたのならば……か、考えてやらんこともない……」

 

 それだけ言うとエアグルーヴは背を向けて俺から離れ、自らのテキやヤネの元へ向かった。

 担当厩務員が俺が絡んでいったことを言ったのだろう、エアグルーヴのテキからは鋭い目付きを向けられたのと、ヤネである滝さんから意外なものを見るような目を向けられた。

 

「グレートエスケープに絡まれてちょっとかかり気味か?」

 

 俺のせいじゃないし!

 まるで「うちの娘に何の用だ凡骨が」とでも言いたげだ。怪我させられたら困るのだから、その反応も当然だが。

 そうこうしているうちに、うちのテキとヤネがやってくる。

 黒井先生の傍らにいるのは――ケンちゃんだ。

 勝たなければ乗せないと言っていたのに、どうして札幌記念でケンちゃんが俺に乗るのか。

 それは宝塚記念後に記者から受けた黒井先生のインタビューが原因だった。

 

『黒井先生、グレートエスケープは惜しくも宝塚記念2着でした。鞍上が乗り替わりましたが、今後兼ねてより話に出ていた凱旋門賞は如何でしょうか』

『そこはまだ未定や。なんともいえん』

『鞍上は……そのままですか?』

『そのままや! なにか文句あるか?』

 

 と、黒井先生が記者の挑発めいた質問に乗ってしまった結果、続投となった。

 黒井先生はあの記者のせいだ、と言っていたが今後も梶田健二でいくと決めていたのは厩舎のみんなが実は知っていた。

 ケンちゃんが背中に跨り、札幌競馬場のパドックから本馬場へ向かう。

 札幌競馬場は洋芝でなんだかふわふわとしている。

 なんだか面白い感覚だ。

 返し馬ではケンちゃんと息を合わせるようにゆっくり歩いたり、スピードを出したり、少し曲がりながら試しながら走る。

 

「……調子よさそうだな」

 

 ケンちゃんが呟く。

 俺としても、悪くない。洋芝はパワーが必要だというが、確かにしっかり踏みしめてもきつい感じはない。

 

「その癖不良馬場は下手だけどな」

 

 走法の問題だから仕方ないんじゃ! ほっとけ!

 とはいえ洋芝が合うかもしれないというのは良い方向に働きそうだが、今回の俺は大外枠。

 はっきり言って結構不利だ。

 

「でも関係ないだろ?」

 

 そういう意味を込めて嘶くとケンちゃんは落ち着かせるように俺を撫でた。

 待機所にたどり着く。

 俺が脚を踏み入れた途端にエアグルーヴ以外の競走馬が俺を睨みつけた。

 闘争心だけではなく、畏れや警戒が入り交じる雰囲気。

 俺とエアグルーヴを除くと11頭が標的として俺を見ているようで――いや、1頭足りないぞ。返し馬は全頭終わっているはずだが……。

 

「――キミがグレートエスケープだね」

 

 ヒエッ!

 誰もいないはずの後ろから声をかけられてびくりとその場を離れる。

 距離はそれなりに離れていたのに耳元へ生暖かい息を吐きかけられながら囁かれたような感覚だった。

 

「そんなつれない反応しなくてもいいじゃないか……同期なんだぜ……? キミにとって僕は目立たない石ころみたいなものかもしれないけど」

「お前は……誰だ?」

「僕かい? 僕は……ふふ、そうだね……キミを捕まえる者さ。名前をサイレントハンター……」

 

 脳内で警報が鳴り響く。

 

『艦長! これは……この反応は間違いありません……ヤツです!』

『サンデーサイレンス産駒(あたまがおかしなやつら)か……!』

 

 おっと意識が混線した。

 改めてじっと見ると、確かに馬体は鍛え上げられており、雰囲気が変態めいただけではなく、間違いなく重賞級の馬だとわかる。

 

「僕の名前からもわかるように、僕の走りは狩人……石ころだと思って油断してくれていることのほうが、好都合なのさ。キミとエアグルーヴが見つめあって気が抜けているところを……僕が狩る……」

「俺をマークするってことか。油断する気はないが、そう簡単に俺を捉えられると思うなよ」

「それはこの後わかるさ……フフフ」

 

 変態ちっくな言動こそしているが、内容は割とマトモであいつらに慣れた今では「よろしくお願いします! 二度と立てないくらいボコボコにしてやります!」くらいの挨拶と同じだ。

 

「現役最強の名は軽くない……無礼(ナメ)るなよ、サイレントハンター」

 

 俺は彼を睨みつけてから踵、いや蹄を返す。

 ……今のちょっと強キャラっぽかったな。

 

「フフフ……ゾクゾクしちゃうねぇ……」

 

 あっ、なんか強キャラを目の前にした得体の知れない変態キャラっぽい言動だ。

 ちょっとかっこいいやりとりができたのとで、心の中でサイレントハンターに親指を立てるのだった。

 サラブレッドになってはや5年。未だに少年心は忘れられていなかった。

 

『プペペポピー』

 

 札幌記念のファンファーレが生演奏され、ゲート前に出走馬が集まる。

 札幌記念は平坦かつ、小回りなコースを一周する芝2000mで行われるため、求められるのはコーナリングのスムーズさが最も重要だろう。

 直線は短く、後方から勝つにはコーナーからスパートをかけないと間に合わないからだ。

 裏を返せば逃げ、先行する俺は有利な反面、今回は大外枠を引いてしまったため、かなりスタートが良くないとハナに立てず、外を回されてかなりロスしてしまう。

 大切なのはスタートダッシュだ。

 最後にゲートに収まると、観客が歓声を上げた。札幌にGI馬が来るのは札幌記念くらいだろうか。

 そう思うと、今日の札幌競馬場の熱気はまさにGI級だった。

 俺が凱旋門賞へ飛び立てるのか、それともエアグルーヴが俺を倒すのか。

 泣いても笑っても決着の瞬間は2000m先に待っている。

 

『GIIになって2度目の開催となります札幌記念。グレートエスケープの世界へ向けた壮行レースになるのか。それともエアグルーヴが阻止し連覇を達成するのか。はたまた伏兵の台頭か。第34回札幌記念、今スタートです!』

 

 ゲートが開くなり、いつもの如く飛び出して先頭めがけて加速する。

 いいスタートだ。斜行にならないよう、ケンちゃんの指示に従いながらインへ切れ込んでいく。

 すんなりハナにつけたと思いきや、馬群の中から猛スピードで飛び出してくる馬がいた。

 

『グレートエスケープがハナに立とうとしますが……サイレントハンターです! サイレントハンター譲りません! ぐんぐんスピードをつけてハナを奪っていきます』

「あれぇ!? 狩りは!? ハンターは!?」

「イヤッホゥゥゥゥ! 最高だぜぇぇぇぇ!」

 

 サイレントハンターは俺を無視して勢いよくペースを上げると後続に差をつけて逃げていた。

 ランナーズハイってやつだろうか。

 全然名前とかさっきまでの振る舞い関係ないじゃないか。

 どうして――!

 

「どうしてサンデーサイレンス産駒は頭がおかしいやつばかりなんだッッッッ!!!!」

『ハナを奪ったのはサイレントハンター。マイネルブリッジもそれについていきます。グレートエスケープは離れた3番手、4番手といったところか。集団の外につけました。エアグルーヴは先団のインコース、6番手でレースを進めます』

 

 しかも思い描いていた中でも悪い展開になってしまった。

 ハイペースで飛ばすサイレントハンターに釣られて集団のペースも速くなっている。

 第1コーナー、第2コーナーではストライドの大きい俺ではさらに外に振られやすくなり、速いペースの集団から無理にハナを奪おうとすればいくらスタミナやパワーに自信があろうとエアグルーヴから逃げ切るのは不可能だ。

 どうするか迷ううちに向正面に入る。

 多少強引だがさらにペースを上げて――手綱をそっと引かれた。

 抑えるほど強くないが、何かを俺に伝えるかのように柔らかな力だった。

 

(俺と自分を信じろ、グレ坊)

 

 ケンちゃんの気配がどんな言葉よりも雄弁に物語っている。

 凱旋門賞は札幌記念よりもハードな戦いになるはずだ。外を回ってでも自分の走りをして、貫き、少し強引な競馬だろうと勝てなければ凱旋門賞を勝つなど夢のまた夢だろう。

 

(――よし、腹括っていくぞ……!)

 

 息を大きく入れ、息遣いが小刻みなものから少しずつ長いものに変わっていくのを感じ取る。

 既にレースは前半1000mを終えたところ。

 最初の第1、2コーナーはややペースが速かったが向こう正面に入ってからペースは緩んでいる。

 後続も俺も上がりの脚を使って勝負していける展開だ。

 ケンちゃんなら、ここで――!

 

『グレートエスケープ3コーナー手前で動きます! あ、つれてエアグルーヴも早めに捕まえて行こうという構え! マイネルブリッジは少し苦しくなった!』

 

 俺のすぐ後ろでエアグルーヴがぴったりマークしている。

 並んだままコーナーを周り、第4コーナー直前でサイレントハンターを捉えた。

 ここからはエアグルーヴと一騎打ちだ。

 

『直線に入ってグレートエスケープ先頭、僅かにエアグルーヴが並んでいる! 札幌競馬場は大歓声です! 真夏のGIIで一昨年の年度代表馬と、去年の年度代表馬の一騎打ちだ! 外グレートエスケープ、内エアグルーヴ! びっしり並んでいる! どちらも譲らない!』

 

 ブリンカーをつけていてもわかるこのプレッシャー。

 腑抜けたことを言っていようと、やはりエアグルーヴは強く、勝つには一筋縄ではいかない。

 末脚を発揮してからの切れ味は凄まじいの一言で、すぐにでも置き去りにされてしまいそうだ。

 ――だとしても、負けたくない!

 

『グレートエスケープ! エアグルーヴ! グレートエスケープ、エアグルーヴ! 並んだ! 内外並んだまま! 連覇か、証明か、並んだまま今、ゴールイン!!』

 

 駆け抜けた感触は勝った、と思った。それと同時に、負けたかもしれないと思った。

 ターフビジョンへ目を向けると中々順位は表示されず、その後写真判定ということになった。

 

『札幌記念のレースタイムは1.58.8です! 1990年にグレートモンテが記録した1.58.9の基準タイムをコンマ1秒上回るレコードです! 1着は……ターフビジョンでも映像が映し出されていますが……まったくわかりません! 現在1着は写真判定中です。お手持ちの勝馬投票券は確定まで大切に保管してください』

 

 ケンちゃんが俺を撫でる。

 

「いい走りだったよ、グレ坊」

 

 だが勝ったかどうかはまるでわからない。

 促されるまま、検量室へ向かう途中でエアグルーヴと並んで歩いた。

 

「……勝ったと思うか?」

「正直なところ、わからん。だが……貴様に相応しい走りはしたぞ」

「俺も、エアグルーヴのライバルといえる走りをした」

「ならば、あとは結果を待つだけのことだろう」

「……だな」

 

 長い、長い写真判定だった。

 馬連を買っていた観客は暑いから早くしろとばかりに不満を述べ、単勝を買ったものは悩んでいたり、何かに祈るような仕草を見せている。

 俺とエアグルーヴの体つきや能力の傾向は違えど、実力は同等だ。

 最高速度を出し続けるスタミナは俺が。

 最高速度までの瞬発力はエアグルーヴが。

 総合力では同等――だった。

 

『まだ写真判定は続いています。GIIでありながら多くのファンがターフビジョンを見つめています。間もなく15分になるというところですが――ターフビジョンに馬番が表示されました!』

 

 もしも俺とエアグルーヴの勝敗を分かつものがあるとすれば、それは。

 競馬というどちらが速くゴールにたどり着くモノで、最高速度が勝っていたという点に尽きるのだろう――

 

『表示されたのは、4番――エアグルーヴです! レコード決着、そしてハナ差でグレートエスケープとなりました! まさに死闘でした。真夏の北海道で繰り広げられたGIIの戦いはエアグルーヴの連覇で幕を閉じました! しかし、これはナリタブライアンとマヤノトップガンの伝説の阪神大賞典に負けず劣らず伝説のレースとなるでしょう!』

 

 結果を聞いてから、俺の中ではじわじわと悔しさが湧いてきた。

 エアグルーヴにも、サイレンススズカにも負けた。

 卓越した加速力と速度の2頭に最後の最後で交わされ、追いつけず、速度を出せない自分の脚に怒りすら覚えた。

 

(いや――そもそも)

 

 確かに一瞬の切れ味鋭い脚は持っていなかったが、速度は決して足らないことはなかったはずだ。

 人間でもフルマラソン走れる体力があろうと速度を出せなかったら意味がない。

 それと同じこと。

 だとしたら――

 

(俺はまだ速くなるための努力をやりきれてないんじゃないのか?)

 

 黒井先生は当然、俺が強くなるために調教をかけているだろう。

 俺の持ち味を活かし、欠点を少なくするために調教を積ませるのが調教師なのだから。

 しかし俺は、周囲の声に引きずられて、自分を囲む檻を作っていやしないだろうか。

 

「限界を越える、か……」

 

 馬運車に揺られながら、俺はぼんやりと世界最高峰の舞台について考えていた。

 

 

 

 ――後日。

 スポーツ新聞には『グレートエスケープ、凱旋門賞を回避』という見出しが躍っていた。

 

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