「凱旋門賞は出ないんですか……そうですか、残念です……」
「まぁ、仕方あらへん。馬はあくまで馬主のもの、無理させて怪我でもさせる方が問題や」
「あれだけ強い競馬をしたグレートエスケープには是非行って欲しかったですが……難しいものですね」
「馬も生き物やからな。しゃーないわ」
馬房の中から聞こえる会話に俺は思わず耳を垂らしてしまう。
凱旋門賞回避――競馬サークルには札幌記念の反動で疲労が抜けず、凱旋門賞まで態勢が整わないということで回避が発表される。
そのことを伝えるための取材の前に、黒井厩舎によく取材に来る記者が、黒井先生と話していたのだった。
「秋は天皇賞ですか?」
「そうなるやろな。国内路線には強い奴らがいるしファンはそれはそれで嬉しいんちゃうかな」
「そうですね。天皇賞には恐らくサイレンススズカが出てくるでしょう。ジャパンカップではサイレンススズカの他にエアグルーヴはもちろん、先生の管理馬のスペシャルウィークとのダービー馬対決や、マルゼンスキーの再来といわれたグラスワンダーの復帰など……確かに楽しみではありますね」
「このまま何も無ければ天皇賞は問題ないと思っとる。こうなったらグレ坊にはしっかりGIを獲ってもらわんとな」
「ちなみに……種牡馬入りの話はいかがです?」
「来まくっとるで。流石にオーナーと正式な話し合いはついてないが……いつになるかは完全に未定や」
「凱旋門賞で好走したらさらに種牡馬価値が高まっていたでしょうね。エアグルーヴを相手にあの斤量を背負い、大外を終始回りながらハナ差の2着。後続には5馬身ついていましたから、やはり隔絶した力を持っていましたね」
「……せやな。あ、次走とこれから話すことは記事にしてもええで」
「はい?」
「グレートエスケープはまだまだ伸びしろがある。そういうことや」
「……素晴らしい記事が書けそうです! 最強と言われていても未だ管理馬の力は頂には至っておらず、まだまだ強くなれるという信頼! そのためには己の身も犠牲にしてみせるという尊い志があってこそなんですね!」
「ちゃうで」
「ありがとうございました、すぐに記事にしなくては!」
「聞けや」
話しているうちに黒井先生は記者と別れて、俺の元までやってきた。
「あの乙名史って記者は時々いい方向に拡大解釈するからおもろいわ」
呆れてため息が出てますよ先生。
しかし、先程の話を聞いて本当に申し訳ない気持ちが強くなってくる。
「今更そんな顔をするなグレ坊。凱旋門賞がすべてではない。そもそも天皇賞、ジャパンカップや有馬記念が凱旋門賞に劣らないとホースマンが考えなければ、国の競馬の価値を落としてしまうんやから」
そうは言うけど、黒井先生も凱旋門賞に管理馬を出したいという思いはあったんじゃないだろうか。
数年前にはフランスへダンスパートナーさんを遠征させていたし、決して海外志向がない訳では無いと思う。
「ま……お前が凱旋門賞ではなく天皇賞に出たいというのなら……仕方ないわ。サイレンススズカに勝てないまま引退ってのも面白くないわな。それにしても驚いたわ……グレ坊が凱旋門賞を嫌がるなんてな。そんなにサイレンススズカと戦いたかったのか」
――そうです。
そこだけは誤魔化さず黒井先生の目を見つめた。
じっと見続けていると黒井先生は表情を緩めて、俺を撫でた。
「良い目をするようになったわ。精神的には競走馬としてお前は完成しつつある。だからこそ凱旋門賞も楽しみやったけど」
本当に申し訳ない。
今回の凱旋門賞回避は札幌記念後の反動が抜けないから、という理由になっているが、本当は俺がサイレンススズカともう一度戦いたいという思いばかりが強くなり、札幌記念後の調教をごねたのだ。
最初こそ調子が悪いフリ、いわゆる仮病を使ったが厩務員の西京さんは淡々と問題ないと報告し、変わらず凱旋門賞へ行くという話になった。
そこで俺は調教を拒否し、黒井先生に猛烈なアピールをすることで天皇賞・秋に方針を変えてもらった。
ナチュラルに話が通じているような気もするけど、それだけ俺を見てくれている証拠だった。
「走るからには勝ってもらうで、グレ坊」
もちろん。
とはいえ、だ。このままただ調教を積んでも、サイレンススズカには勝てないだろう。
アイツはまだ未完成だ。まだまだ強くなる。
これは予想ではなく確信と、信頼だった。
黒井先生も同じことを考えているだろうし、サイレンススズカに勝つための調教を積んでいくことになるだろう。
サイレンススズカを倒すべきライバルだと意識する自分はまるで恋焦がれるようだった。
〇〇〇
調教スタンドから見えるグレートエスケープの追い切りに対して、記者たちは困惑や疑問を抱えるものがほとんどだった。
記者だけでなく、その他の栗東に厩舎を開業する調教師も怪訝な表情を浮かべていた。
「黒井先生……どうしたんだろうな」
「わからん。凱旋門賞行けなくなってヤケに……なんていう人ではないし」
「それでも異常だ。追い切りの本数、負荷量、タイム……どれ一つとっても、普段とまるで違う。今も、ヤネが一杯に押している。もう10月になったのに、札幌記念からずっと一杯に追っている」
記者たちはグレートエスケープが走る姿を双眼鏡で観察した。
500キロを超える雄大な馬体から繰り出される走りは迫力満点であり、現役最多タイのGI4勝の馬というに相応しい姿をしている。
だが――そこまで目いっぱいに追って馬が壊れやしないだろうか。
黒井調教師は調教師リーディング上位に食い込むまさにトップトレーナー。
そんなことを言えばプライドを傷つけるし、当然揉め事になることは馬券より予想が簡単だ。
記者たちの中の一人、駒場は黒井厩舎に取材のためよく出入りすることがあり、黒井調教師とは親交が深い人間でもあった。
なにか一言を聞き出したいという記者として、一競馬ファンとしての好奇心から、調教終わりに彼に尋ねた。
「黒井先生、おはようございます。グレートエスケープは調子が良さそうですね」
「おはようさん。まぁまぁのデキや。まだよくなる」
「まぁまぁですか。猛時計を連発しているのに……札幌記念の反動があると聞いて少し心配していましたが」
「結構疲労していたからな」
「その割には……グレートエスケープは元気そうに見えますね」
「特にどこも悪くないからな」
「……疲労が蓄積しているのでは?」
「は? ……あ。グレートエスケープには丁度いい調教ということや」
大丈夫か、本当に。
駒場は思わず突っ込みたくなってしまったが、ぐっと堪えた。
元々強かで測り知れないところがある方だから――駒場は彼には彼の、凱旋門賞を回避した理由があるのだと推察した。
「秋の天皇賞は楽しみにしておくんやな。きっと素晴らしい競馬をするで」
不敵に笑う黒井調教師に、駒場はごくりと喉を鳴らす。
もしかして、サイレンススズカに勝つためだけに凱旋門賞を蹴ったのではないだろうか――そんな考えが頭に浮かんだが、それだけではないだろうと考えを振り払った。
しかし、今年の天皇賞・秋は世紀の大レースになる。
半ば確信めいた予想が駒場にはあった。
〇〇〇
「うわぁぁぁぁぁ! うあああああん! まけましたぁぁぁぁぁ!」
馬房の隣で未だに泣いているのは今年のダービー馬、スペシャルウィーク。
ひと夏を越えて大きくなった馬体と態度を振りまきながら菊花賞に挑んだのが数日前。
そこで見事にセイウンスカイという皐月賞で逃げ切りをくらった相手に完膚なきまでに逃げ切られてしまった。
それからは俺を見る度にギャン泣きするのだ。
「……スペシャル、お前泣くなよ。自業自得だろ」
「だって俺は一番の馬だって、最強だって思ってたのに! 全然そんなこと無かった! 僕は所詮ただのおデブ競走馬なんだぁぁぁぁ」
厩務員や調教師がいるときは大人しくて従順なくせして、馬だけになると途端にワガママになりやがる。
あまりにもうるさいので少し静かにして貰いたいが故に、人参を咥えてスペシャルに放り投げた。
「人参やるからおとなしくしてろ」
「もぎゅもぎゅもぎゅうぇぇぇん、もぎゅもぎゅ」
「食いながらよく聞け。残念ながらお前は最強の馬ではない」
「そんなぁ! もぐもぐ、ごっくん。俺、ダービーを勝ったのに!? エスケープ先輩みたいになれたのに!」
「そもそもお前、ダービーの前に俺が含蓄ある言葉を言っただろう。それにダービーを勝ったから最強になるわけじゃない。俺だって、最強というには程遠い。現役最強とは言われているけどな」
「えぇ……じゃあ最強と呼ばれるにはどうしたらいいんですか!」
「いいかスペシャルウィーク。最強ってのは、勝ったやつに言われるんだ。いくら勝とうが、負けようが、次のレースで勝たなければ最強とは呼ばれない」
説教が自然と自分に言い聞かせるようなものに変わっていく。
現役最強と呼んでもらえるようになったのは嬉しい。
橘ちゃん、懇備弐牧場のみんな、育成牧場のスタッフたち、黒井先生、西京さん、黒井厩舎のみんな、ケンちゃんにカナタさんにノリさん、恵那ちゃん。
みんなのおかげでそれだけの評価を得るに至ったし、関わった全ての人が評価されているわけだから、素晴らしいことだと思う。
だとしても、次の天皇賞・秋でサイレンススズカに負ければ、その称号は奪われてしまうだろう。
最強の証明は常に次のレースだ。
「スペシャル、俺は俺のために――次の天皇賞・秋で証明してみせる。前に言ったことと同じだ。負けても、次は勝つ。それしかないんだ。俺の走りを見て……もう一度考えてみろ」
自分の走りを見ろ、か。
思えば、俺も同じような時期にダンスパートナーさんの走りを見て悩みを吹っ切ったりもしたが今ではこうして同じ厩舎の後輩に走りを見せようとしている。
気づけば5歳、引退してもおかしくはない年齢だ。
走れるレースも恐らくあとわずか。
一戦ずつ、全力を出し尽くしたいものだ。
「エスケープ先輩……俺、レースは見られませんよ」
「あれぇ?」
『第118回天皇賞・秋、返し馬を終えて間もなくゲート入りです。本日の実況はキタテレビアナウンサー佐藤常夫(サトウ・ツネオ)解説は競馬新聞ハチの梨田武さん、元騎手で競馬評論家の西晋助さんを迎えています。お二方、今日はよろしくお願いします』
『よろしくお願いします』
『よろしくお願いします』
『天皇賞・秋、去年は牝馬が秋の盾を見事つかみ取りました。その牝馬を導いた名手、滝カナタはサイレンススズカに騎乗しています。サイレンススズカはここまで重賞6連勝、奇しくも滝カナタも重賞6週連続勝利中と人馬ともに絶好調です。今日勝てばまさにラッキーセブンです。全13頭で争われる天皇賞・秋が間もなくスタートします。まずは梨田さん。注目はやはりサイレンススズカとグレートエスケープ』
『はい、そうですね。タイプが全然違う逃げ馬ですが、この2頭がレースを引っ張るのは間違いないでしょうね。両馬共に調教は抜群で返し馬もとても落ち着いていました。もう1頭、サイレントハンターがどこまで突っかかるかですけど、これだけ逃げ馬がいると前が総崩れもあるかもしれません』
『つまり波乱の結果になるかもしれないということですね。現在1番人気はサイレンススズカですが、天皇賞・秋はミスターシービー以来、1番人気は連敗を重ねているジンクスもあります。またも波乱となるのか、ジンクスを打ち破るのか。梨田さんの本命はメジロブライトです。さて、西さん。元ジョッキーとして、今日のレースは如何ですか?』
『滝カナタ騎手と梶田健二騎手は当然本命対抗の2頭ですから、緊張していると思いますよ。返し馬のときもお互いの馬をよく見ていましたから。1番と2番でサイレンスとエスケープが入りましたけど、サイレンスが逃げてエスケープは2番手につけるんじゃないでしょうか』
『他のジョッキー心理としては、どうでしょう』
『シルクジャスティスやメジロブライトがいますけど、前を野放しにはできませんからね。かといって早く捕まえようと動くのも難しいと思います。そこで明暗が別れるところになるんじゃないですか』
『そうですか。西さんの本命はグレートエスケープということです。スタート地点には塩川アナウンサーがいます。塩川さん』
『はい。返し馬はサイレンススズカは外ラチをゆっくりと歩いてきました。ダッシュはつけず、とても落ち着いている様子です。滝騎手は返し馬中は笑顔を浮かべていましたけど、その後にグレートエスケープが本馬場に来てからは時々視線を向けていました。笑顔はなく、緊張感あふれる表情でした』
『グレートエスケープはどうですか』
『元々返し馬では激しく動くタイプでしたが今日はとても落ち着いていました。サイレンススズカと同じように、芝生を歩いていました。梶田騎手も手綱は持ったままで馬に任せている様子です。元気がないというよりは、冷静といった雰囲気を感じました』
『塩川さんありがとうございます。さぁ、スターターが位置につきました。…………秋を知らせる自衛隊のファンファーレが府中に響き渡ります。東京競馬場に詰めかけた13万人の観衆の手拍子に送られて、各馬ゲートインしていきます。恐らく大半の人が気にしているのは、サイレンススズカとグレートエスケープの頂上決戦ですね、梨田さん』
『まさに世紀の逃げ馬が2頭ぶつかりあいますからね。グレートエスケープが凱旋門賞を回避したのは残念ですけどね、エアグルーヴとの名勝負のあと万全の状態に仕上がったと陣営は自信満々ですから。そしてサイレンススズカも毎日王冠でエルコンドルパサー、グラスワンダーを破りましたし、競馬ファン誰もが注目しているでしょうね』
『勝てば世界に、という話が両陣営から示唆されています。異次元の逃亡者は王者に変わるのか。偉大なる逃走者がねじ伏せるのか。塩川さん、ゲート入りはどうでしょうか』
『サイレンススズカは順調にゲートに入っています。全馬歓声があってもテンションはあがらず、次々とゲートインしていきます』
『現在単勝オッズはサイレンススズカが1.7倍、グレートエスケープが2.4倍、3番人気はシルクジャスティスで12.2倍と2強状態です。グレートエスケープが今2番ゲートに収まります。隣り合うライバル同士、何を思うのか。モヤの向こうでグルメフロンティアが最後に収まります。スピードとスピードのぶつかりあい、何かが起こるぞ第118回天皇賞・秋――スタートしました!』
パドックも、本馬場入場も、返し馬も。
誰とも会話をすることなくゲート入りを迎えた。
血液が沸騰して筋肉が躍動したがっているが、頭脳は冷ややかに東京競馬場の芝コースを見てはレースのプラン――というよりは、サイレンススズカが走るであろう姿を思い描いている。
ゲート入り直前、サイレンススズカと一瞬目が合ったが、言葉は交わさなかった。
語りたい言葉はある。
だが、それより先に見せるべきは走りだけだろう。レースが終わってサイレンススズカにこう言ってみせるのだ。
『俺の方が速い』『俺の勝ちだ』と。
ブリンカーで視界は遮っていようと、ひと際大きくなる歓声がスタートまで間もないことを教えてくれる。
これまでの俺は、周囲の評判を受け止めて無意識のうちに、スピードよりスタミナや勝負根性で勝負すべきとばかり考えていた。
もちろん、血統ってやつを見ればそれは当然かもしれない。
だが俺にはまだスピードを上げるための努力をし尽くしていなかったし、努力を許されてもいた。
札幌記念が終わってから黒井先生はそれはもうすごい負荷量の調教をしてくれたもので、2ヵ月とは体つきがガラリと変わったように感じる。
だから今回は、スピードでお前を上回ってみせるからな――いくぜ。
ゲートが開いた途端に前脚は地面をかき込み、後脚は土塊を蹴り飛ばした。
大歓声が上がる。
スピードの乗りがこれまでとはまるで違う。
間違いなく俺は速くなった。
だが――サイレンススズカが俺の前を走っている。
(また速くなった……アイツも!)
鞍上も、先生も、今回はペースとか位置取りなんて考えていない。
サイレンススズカに全力で競りかけ、スピードとスタミナ勝負に持ち込むという競馬というものを無視した走りをしている。
グリーンのメンコをつけたスズカの半馬身後ろをぴったりとマークして追走しているが、これは明らかにオーバーペースだ。
スピードを徹底的に鍛えているというのに、すぐに千切られそうになる。
時折スタンドから大歓声が上がるが、俺の目の前をサイレンススズカが走っていることくらいしかレース展開はわからない。
視界の隅で残り1000mを表すハロン棒が通り過ぎたのがわかった。
(スズカも決して楽に走ってはいない……馬鹿みたいに速いが! 隙を見せるまで絶対に食らいついてやるッ……!)
ペースを緩めた瞬間でも、コース取りにロスがあるとか、なんでもいい。
一瞬でもスピードが上回って前に出られれば、ずっと逃げてレースを進めてきたスズカに俺を差し返すための再加速をする力は恐らくないはず。
俺はサイレンススズカの走りを見続けた。
息が上がり、ペースを緩めそうになるたびに脚を前へ前へと出していく。
そして、第3コーナーと第4コーナーの丁度中間に差し掛かった瞬間に俺の競争本能が反応し全身の細胞に電気信号が行き渡る。
「いまだぁぁぁぁッ!」
「……ッ!? い、いけ、いけ! グレ坊! いくんだッ!」
サイレンススズカが少しだけ外にヨレた。
コーナーで外に振られれば距離のロスはもちろん、当然減速する。
大チャンスに見逃しはあり得なかった。
減速した隙に息を思い切り吸い込むと同時に、内ラチとサイレンススズカの間に身を滑り込ませる。
ケンちゃんの怒号めいた声に後押しされながら残り約600mの最後の直線へ飛び込んだ。
「ハッ、ハッ、はぁっ……ハッ……ははは……!」
もう限界だ。脚は棒のようだし、まっすぐ走るのも難しくて、外にヨレながら進んでいる。
ケンちゃんが右のトモを鞭で叩いて教えてくれた。
まっすぐ走る!
まっすぐ走る!
まっすぐ前だけを見て走る!
大歓声の中、一面に広がるターフを切り裂いて駆け抜けていく。
あのときのダービーのように!
俺は天皇賞・秋を最速で駆け抜けた。
「ぶはぁーっ……はぁっ……はぁ……!」
疲れた。苦しい。ちょっとした酸欠状態だ。もう走れない。
2000mだから耐えられたが2400mだったらこんなのスタミナが持つわけがない。
もし次のジャパンカップでサイレンススズカが出てきたらどうやって勝てばいいのだろうか。
「はぁ、はぁ、はぁ……でも、でも、勝てた」
嬉しい。身体がぶるぶると震えて、嘶いて後ろ脚で立ち上がったままスタンド前まで歩いていきたいくらいだ。
今それをやったらひっくり返るだろうが。
「勝ったぞサイレンススズカ! まだ、お前に最強の座は譲らな――い……?」
振り返った先に、サイレンススズカはいなかった。
俺より後に入線した馬はたくさんいる。
オフサイドトラップ、ステイゴールド、ブライトやジャスティス、サイレントハンターも、走り終えた疲労感で一杯になりながらもちゃんと、いる。
だというのに、俺が勝ち誇ってみせたい相手だけが、どこにもいなかった。
「――ッ!?」
電光掲示板に表示される5着までの馬番にも『1』がない。
観客の喜びの中にあるどよめき混じりの声で、首に死神の鎌をかけられたような寒気が背筋を走り抜けた。
ここから1分もかからないような場所に、彼は、いた。
「どうして……」
俺の脚なら、スズカの脚なら、あっという間に届く場所だというのに、スズカは快速も見せずに止まっている。
「どうしてお前が……ここにいないんだ……」
サイレンススズカと俺の、600mにも満たない距離は――闇の静寂に瞬く星のように、遥か遠く、離れてしまっていた。
第29話 Silent Star 完
名バ列伝「グレートエスケープ」第3部完
「俺はエスケープ先輩と走りたい! エスケープ先輩も言ってくれたじゃないですか! なのにどうして!」
「お前はお前の使命を果たせ。それしかないだろう」
「グレ坊。世界を獲りに行くで」
「俺はお前に会えて……ジョッキーをやっていてよかった」
「サイレンススズカのような馬にまた出会ってみたい。そのためにトップで居続けなければならないんだ」
「俺はお前に勝たないと、あの幻影に負けたままなんだよ」
「田舎モノが俺に勝とうなどと――!」
「グレくんは……どうしたいの?」
「これが、最期になってもいいから――勝ちたい。違う、勝つんだ!」
次回より最終章、始動――